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「小田切は、もう刑事じゃないよ」
 永瀬の背後で、ダンボールを重ねていた風間が、低い声でそう言った。
「奴はこの春で警察を辞職した。……今、研修医に戻って、また医者をやっている」
     小田切君……。
 志津子もその顛末は知っていた。
 入院中、彼とは沢山の話をした。
 彼が、過去のトラウマを乗り越えつつあるのは知っていたが、医者に戻ったというのは退院してから人づてに聞かされた。
 何度聞いても安堵する。志津子は彼に、もう一度医師を志して欲しかった。人を疑い、追い詰める仕事ではなく、癒し、助けることが、彼の本質に合っているような気がしたからだ。
(退院したら、一度、……札幌に帰ってみようと思っています。)
 彼の実母は、今、札幌の病院に入院している。    男の頑なだった何かが変わったことを、志津子は不思議な気持で受け止めていた。彼は……あの夢の中で、いったい何を経験したのだろうか。
「小田切君の担当医に聞いたけれど、彼も……夢のことは、結局何も話さなかったそうよ」
「本当ですか?」
 永瀬は心底ほっとしたように肩を落とした。
「よかったぁ……あんなおっかない人に、夢なんかのことで恨まれたら、どうしようかと思ってましたよ。マジな話」
 彼は、ダンボールの中から医学書を取り出しながら続けた。
「俺、夢の中で、アシュラルもラッセルも見たんですけどね。……確かにどっちも琥珀みたいな嫌な顔してましたけど、どっちかといえば、琥珀がラッセルだったと思うんです。いや、間違いなく、そうだったと思います」
 志津子は黙って聞いている。
「だからきっと、小田切って人がアシュラルだったと思うんですよ。でも、だとしたら、現実の繋がりがどうなのかなぁって。門倉雅にしてみたら、あの刑事さんは見知らぬ他人みたいなものじゃないですか」
「……そうね」
 風間の横顔が静かに笑んでいる。二人は顔を見合わせて、微笑した。
     永瀬は知らない、あのクリスマスの夜の奇跡を。
 父親の腕から下ろされた雅は、小田切が載せられたカートの前に、脚をひきずるようにして近づいた。
 看護師らが、意を察してか覆いを外す。青ざめた男の顔には、それでもまだ、生の匂いが残っていた。
 雅は小田切の枕元に、すがるようにして身体を預けた。
 そして    彼の動かない手をそっと握り、そのまま、しばらく見つめていた。
 彼女の唇から、まるで風のような声が漏れた。それが、覚醒した彼女が発した、最初で最後の声になった。
     ナ、オ、ト……。
 志津子は自身の耳を疑った。
 何故、門倉雅が、彼をそのような呼び方で呼ぶのか。彼らの接点をどう掘り起こしてもあり得ない、考えられない。   
 空耳かと思った時、雅の双眸から涙が溢れ、雫となって自分の手に落ち、繋がった小田切の指に伝った。
 彼女は、動かない彼の手をそっと自身の頬にあて、目を閉じる。
 志津子には    その横顔は、もう門倉雅には見えなかった。それを錯覚というのなら、幻といっていいのなら、今    彼女の中(・・・・)にいるのは…………。
「僕の……負けだ」
 低い、呻き声がした。
 それが、あの取り澄ました男のものだと、志津子にはしばらく判らなかった。
 しばらく男は、口を片手で覆うようにして、目を背けて泣いていた。
「静那には不思議な力がある。……幼少時の悲惨な体験が原因なのか、彼女は、ある種の人格障害を持っていて、そのせいか、自分の未来を見ることができたんです。……それも、恐ろしいほど正確な」
 その目が、震えるように、仰臥した小田切に向けられた。
「彼女は、最初から……君と結婚する随分前から、あの夜、自分が死ぬことが判っていた。判っていたから、……君から逃げた」
 賀沢修二が、はっと息を飲み、唇を震わせるのが判った。
「君を愛していたから、とても大切にしていたから、……彼女は君を一人遺すことも、一人で逝くこともできなくなった。……彼女は…………」
「…………」
「自分では、君を救えないことも……君がいずれ、他の人を愛することになることも……全部……」
 歯を食いしばるようにして樋口は無言で慟哭した。
 やがて男は、怒りとも愛情ともつかぬ感情を迸らせ、小田切の傍に歩み寄った。
「君の子供だ」
 彼は言った。
「君は生きろ、生きなくてはいけない。今死ぬことは絶対に許さない! 生きて   
 握った拳に、涙が落ちた。
「僕に一生、君を憎ませてくれ……」
 看護師の一人が、その時、上ずった声で何かを叫んだ。
 あり得ないことが起きたのだと、志津子にも判った。医師が急いで駆け戻ってきて、小田切の身体は再びICUに閉じ込められた。
 そして………。
 それから一時間後、小田切は心肺機能だけでなく、意識も完全に取り戻したのだ。風間は男泣きに泣き、まだ残っていた高崎守莉も、賀沢修二も泣いていた。
 門倉雅は、その場に残ることはできなかった。騒動の間、彼女はずっと夢でも見ているような茫洋とした眼差しをしていたが、やがて眠るように意識を失い、すぐに父親に連れられ、元の病院に戻っていった。
 樋口は、いつの間にか姿を消していた。
 賀沢修二から、小田切あてに手紙が届いたと聞いたのは、年も明けて一月のことである。そこには、彼の犯行の動機があますところなく記されていた。
 志津子も、小田切の許可を得て手紙を読んだが、その内容は自身の予測を大きく外れたものだった。
 小田切静那は    当時、新宿界隈を拠点に覚醒剤を中高生に売りさばいていた闇の組織を、警察に告発しようとしていたのである。
 彼女がその内情を知るに至ったきっかけが、担任をしていた生徒である賀沢修二ことクロであり、静那は、なんとかしてクロを組織から抜けさせるために、門倉雅とも接触を図っていたらしい。
 むろん、報復ともいえる恐ろしい脅迫が静那を待っていた。
 それが、あの夜の事件の真相である。
 盗んだナイフを餌に、現場に静那をおびき寄せた賀沢とホセの目的は、あの場で彼女をレイプすることだった。
 が、静那は全く怖がらなかったばかりか、静かな眼差しで二人を見つめ    その落ち着き様が怖くなった賀沢がナイフを取り出した。彼は、なんとしても、この冷徹な担任教師の泣き顔が見たかったのだ。
 慌てて止めようとしたホセと、逆上した賀沢が争いになり、……止めに入った静那が刺された。それが、あの夜起きた事の真実だった。
(ただ、マリアは俺を止めた。理由は知らないけど、先生とは昔からの知り合いみたいで、俺に、あの先生を巻き込んではいけないと何度も言った。それが、まるで俺にはできないと言われてるみたいで、俺は余計に絶対やってやるという気持になった)
 ついでのように書かれたその一文が、どれだけ小田切の心を救ったか……。
 組織を追う過程で辿りついた門倉雅に、彼はいったい、どのような感情を抱いたのだろうか。
 それが憎しみだけではなかったことは、風間もすでに指摘している。
 門倉雅は静那に似ている。その生い立ちや、不思議な性癖や、表情の印象が。彼は自分が追う相手が、時に最も愛した人に思える瞬間をきっと何度も感じたはずだ。そして、その度に懊悩と自責の念に苦しんだ……それが、小田切の真実だったのではないだろうか。
 が、そう考えると、夢との繋がりが志津子には今一つ判らなくなる。
 静那とは、では    あの夢の世界で、どういう役回りだったのだろうか……。
 それとも全ては繋がっているようで、全く関係なかったのだろうか。
 志津子に判ったのは、ひとつだけだった。
 鍵   
 鍵が、ようやく解けたのだ。
 あの夜、一度は死亡宣告された小田切の周囲で何が起きたのか、誰も正確には判らない。樋口は語らないだろうし、おそらく、当の門倉雅も理解してはいないだろう。
 が、あの瞬間、幾重にも絡んでいた鎖は確かに解けたのだ。全てが    美しい形に浄化して解けた。きっと、もう、跡形もなく。
 もしかするとあの夜から、あさとと琥珀がいずれ覚醒することも、すでに定められていたのかもしれない。
 当夜、小田切と同様、心拍に異常をきたしていた真行琥珀は、三日間危険な状況が続いたが、危篤にまでは至らなかった。    多分。
 志津子は思った。
 あの三人の中で、真行琥珀が、一番強い精神を持っているのだろうと。
 
 
 
                  4
 
 
「瀬名さん」
 呼びとめられて、瀬名あさとは足を止めた。
 大学のキャンパス。
 夕方、帰宅する学生たちが駐車場に向う通路に溢れていた。
 振り返ると、同じゼミになった女の子たちが手を振っている。
 冬の最中、まだ四時を少し過ぎたばかりだというのに、灰色の曇天のせいか、すでに周囲は薄暗かった。
「今夜、江夏ゼミとの合コン、どうしますー?」
「みんな、瀬名さんが来るのを楽しみにしてますけど」
 一年近く休学していたため、一学年下の彼女たちと、あさとは同じゼミをとることになった。
 復学して四ヶ月。大分慣れてきたものの、やはり、多少の居心地の悪さは残る。それに、悪気はないだろうが、一年前の事件のことをあれこれ聞かれるのにも    いい加減辟易していた。
「今日は用事があるから、パスしとく、また誘ってね」
 あさとは笑顔で言って、一人、背を向けて歩き始めた。
 まだ    誰にも話したくはない。
 まだ、この思い出を、壊されたくない。
 用事があるというのは本当だった。今日から、あさとは、剣道部に復帰することになっている。何度か道場にも通ってみたが、一年以上のブランクは、思いのほか深刻で、まずは体力づくりから始めないと、下級生にも負けてしまいそうだった。
 まだ早い時間なのか、誰もいない部室からは、ひんやりと冷たい空気が漏れていた。
(お前に、名前で呼ばれると緊張するよ)
 琥珀との思い出が一時に溢れて、あさとはぐっと唇を噛みしめていた。
     琥珀、……何してる……?
 彼はもう、東京には戻らないだろう。
 そんな気がしたし、今、彼に会う自信もまた、あさとにはなかった。
     あれは……本当に、雅の心が作った仮想世界だったんだろうか。……それとも、私たちの前世だったんだろうか。
 覚醒した最初、おぼろだった記憶は、何故か日が経つにつれ鮮明に、いっそう色鮮やかに思い出されるようになっていた。
 特に、瀬名あさととして意識を持つようになった後のことは、今でもはっきりと記憶に残っている。
 あれだけ長い時間クシュリナとして生きてきたのに、眠っていたのは十ヶ月たらずだった。二十三歳で、結婚して子供まで産んだのに、現実のあさとはようやく二十一歳になったばかりで、まだ、まともに男性とつきあったことさえない。
 夢の記憶が鮮明になればなるほどに、そのギャップが、あさとを戸惑わせ、迷わせた。
     クシュリナは、私であって私じゃない。なのに………あの経験は全て私のものなんだ。
 確かに愛して、愛された記憶が、まだ……痛いほど強く残っている。
 そして、その相手は今、二人とも、形を変えてこの世界に存在しているのだ。
 小田切直人と、真行琥珀。
 少なくとも琥珀は、確かにあの世界で自分の意思を持って存在していた。
 一体何時の時点で、彼が琥珀として覚醒していたのか……、あさとには判らないし、正直に言えば考えたくない。
 最後に聞いた、彼の言葉。
(これが、あいつの遺言だ)
 あれは……どういう意味だったのだろう。
 それ以上想像するのが怖くなり、あさとは未練を断ち切るように急いで稽古着に着替え始めた。
 ひとつだけ、判っていることがある。   
 前世の宿命が現世に続いていているというのなら、琥珀の運命もまた、雅に向かっているのだろう。
 ラッセルは    夢の中の「雅」を愛していると、はっきりと口にした。あの時の彼の意識は、どちらに支配されていたのだろうか。
 いずれにしても、それは、受け入れるには悲しすぎる現実だった。
 
 
              5
 
 
「………?」
 階段を上がると、誰もいないはずの道場から、激しい音が聞こえてきた。剣を打ち合う凄まじい音が、静けさを裂くように響いている。
     誰か、いるんだ。
 あさとは、出入り口の扉から、そっと顔だけを覗かせた。
 誰だろう、これだけ凄い剣気を持つ人が、うちみたいな部にいただろうか。
 道場の中央では、防具を着けた二人が、裂帛の気合で打ち合いをしていた。
 正面打ち、突き、小手、払い面、払い小手、抜いて面を打ち、すりあげて小手を打つ、面を抜いて胴、胴を抜いて小手。
 その凄まじさに、あさとは息を飲んでいる。
     かかり稽古……。
 一つ一つの技、しかけ技、出ばな技などを、短時間に脇目もふらず出し続け、打ちかかっていく激しい稽古である。
 通常はもとだちを上級者がつとめ、初級者がそれに打ちかかっていく。
 けれど今、あさとの前で打ち合う二人の気迫、足さばき、打ちこみの鋭さは、明らかにそれとは逆の組み合わせのような気がした。
     ………。
 というより、打ちこんでいる男の体格、そして剣の癖に、忘れようとしても忘れられない面影が滲んでいる。
    ―た、たんまっ、待ってください!」
 たまらず悲鳴を上げて、腰をついたのは剣を受けていた<もとだち>だった。
 彼は竹刀を取り落とすと、面紐を解いて面を外した。
「やっぱり無理です。冗談でしょ、本当に一年ぶりなんですか、先輩」
 打ちこんでいた男は、自分の剣をようやく下げた。
 左足をわずかに引き、右膝を折る。両膝を少し開け、背筋をすっとのばして腰骨の上に正しく据えると、そのまま彼は静かな所作で面を外した。
「先輩じゃない」
 真行琥珀は不機嫌そうな声で言った。
 頭部をしっかりと巻き締めている手ぬぐいの下に、汗の雫が滲んでいる。
「もう、お前と同じ学年だ」
     琥珀……。
 あさとは、胸が締め付けられるように苦しくなっていくのを感じた。
 最後にその声を聞いたのはいつだったのだろう。もう……もう、何年も前のことのように思える。
 琥珀の顔が、ふとこちらに向けられた。彼は、初めて入り口の気配に気がついたようだった。
 正面から視線が合い、あさとは自分の感情を隠すことができないまま、呆けたように琥珀の顔を見つめていた。
 最後に彼を見たのが、二人が目覚めた瞬間だった。目覚めて数日はベッドから起き上がることもできなかったし、すぐに転院してしまった琥珀と会う機会はこれまでなかった。
    瀬名……」
 彼の唇が、そう呟いたような気がした。
 琥珀はすっかり、元の容姿と体格をとりもどしていた。
 頬から顎にかけての輪郭に、以前よりはきついものがある。けれど、見つめる眼差しや引き締まった唇は、一年前と同じ彼のものだ。
     琥珀、……本当に、琥珀なんだ。
 懐かしさと同時に、言い様のない苦しさで息が詰まる。
 あさとは、中に入ることも、出て行くことも出来ないまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「あー……、俺ちょっとジュースでも買ってくるから」
 琥珀と打ち合っていたのは、元々あさとと同学年だった男子学生である。
「色々言われてるけど、気にすんなよ。俺は真行さん信じてっから」
 彼は、すれ違いざまに囁くと、そのまま、駆け足で階段を降りていった。
 道場内に、そのまま二人は取り残される。
 琥珀は礼法どおりに立ち上がると、道場の隅に下がって防具を取り、垂と小手を外した。手ぬぐいを解くと、汗に濡れた髪が零れ落ちる。そして、ようやく彼はあさとに向き直った。
「元気だったか」
「………」
 うん、と言葉が出ないままに頷いた。
 心臓が痛いくらい、鼓動を早めている。こちらに向って歩み寄ってくる琥珀を、まともに見ることさえできない
 琥珀は、稽古着に袴を締めている。伸びた背筋と、きれいに引き締まった腰周り。懐かしい姿が目の前に立った時、あさとはようやく    彼と再会できたことを実感した。
「……戻ってきてたんだね」
 うつむいたまま、あさとは言った。
「ああ、こっちで色々やることが残ってるから」
「大学、……辞めるの?」
「………」
 琥珀はそれには答えなかった。そのまま、あさとの傍をすり抜けるようにして歩き出す。
 あさとは、彼の後を追った。
「稽古につきあってもらった。礼を言っておいてくれ」
「すぐに戻ってくると思うよ」
「……俺がここにいると、みんなが怯える。荷物を取るだけのつもりで寄ったんだ。……誰も来ない内に、帰るよ」
「…………」
 それが、彼の出した結論なのだとあさとは思った。
 部もやめて大学もやめる    最後のつもりで、彼は今日、東京に戻ってきたのだろう。
    ―雅は元気?」
 階段の途中で、あさとは訊いた。
 脚を止めた男の顔が、初めてわずかに和んだ気がした。
「ああ、雅はすごいよ。あんなにハンディキャップがあるのに、向こうで大学を受けなおして、今福祉関係の勉強をしてる。    俺も手話を教わったよ、あいつ、まだ口が聞けないから」
「そうなんだ……」
     雅、頑張ってるんだ。
 ずっと雅の近況が気がかりだっただけに、それには素直な嬉しさがこみあげる。
 琥珀は、それきりしばらく黙り、あさともまた、言葉を繋ぐ事ができなくなった。
 今日で、最後。
 もう……会えない。
 多分、一生。
 波のように押し寄せる激情と未練に、あさとは必死で耐え続けた。
 私たちは、確かに最後に結ばれた    確かな絆で、確かな心で。
 それはラッセルとクシュリナであり、同時に琥珀とあさとだった。
 でも    その想いは、現実には決して引きずってはいけない感情なんだ。………
「……何年も一緒にいたのに」
 やがて、呟くように琥珀が言った。
「今の雅は、俺にとっては初めて会う女みたいだ。お前もきっと、驚くと思う」
「うん……」
 いつか雅と、前のように話せる時が来るのだろうか。今はまだ、会っても辛いばかりのような気がする。琥珀がいるからではなく、……まだ、雅に本当の意味で許されているのかどうか、あさとには自信がない。  
 琥珀はまた、黙ってしまった。
 乾いた風が吹き、二人の髪を音もなく揺らした。
 あさとは、足元に滲む彼の影だけを見つめていた。
 聞きたいことは沢山あった。
 けれど    聞いてしまえば、終わりのような気もした。
 琥珀は夢の記憶を取り戻したのだろうか、それとも……完全に忘れてしまったのだろうか。
 どちらにしても、もう    彼は、自分の手の届かないところへ行ってしまった。いや、行こうとしているのだ。
「お前には沢山、謝らないといけないな」
「…………」
「……俺には最初から……お前の手を取る資格なんて、なかったんだ」
「…………」
 それきり、琥珀は何も言わなかった。
 頷いた眼から、涙が零れた。うん、琥珀わかってる。全部言わなくても、判ってるよ。
 卑怯でずるい、最低の男。琥珀は私も、同時に雅も好きだったんだ。
 でも……もし運命が本当にあるのなら、私は最初から負けていたんだね。夢の世界のダーラと同じで、クシュリナとラッセルの運命を変えることはできなかった……。
「結婚するんだ、俺」
 なんでもないことのように、琥珀は言った。
 どこかで、覚悟していた言葉だったのかもしれない。ひどく冷静な気持で、あさとは訊いた。
「いつ……?」
「来年……春かな。三月の雅の誕生日に」
「おめでとう」
 自分が笑っているのが不思議だった。
 琥珀もまた、静かな微笑を浮かべていた。再び歩き出しながら、彼は言った。
「今夜、八時に世田谷の道場に来れないか」
「……私?」
 誘われていると判っても、今、琥珀がそんなことを言う真意が判らない。
 あさとは戸惑って琥珀を見上げた。
「最後に、あの人と会う約束をしている。お前も、話したいことがあるんじゃないかと思う」
「………」
     あの人……?
    琥珀」
「じゃあな」
 そのまま、琥珀は男子更衣室に消えてしまった。
 あさとはしばらく動けなかった。
     もしかして。
 その疑念が手足を縛り、顔すら上げることができなくなった。
     琥珀も、……琥珀も、覚えているんだ。
 当然といえば、当然だった。あさとがそうである以上、琥珀もむろん夢の世界を記憶しているに違いない。    ラッセルの中の琥珀が、いつの時点で覚醒したかは判らないけれど。
 琥珀は、はっきりと記憶している。
 あの世界で、あさとが誰を愛し、愛されていたのか。
 あの十ヶ月の、夢の記憶の中で。   

 
 

   
 
 
 

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