春……桜の下……。
あなたが、笑っている姿が見える……。それはこことは、すごく遠い場所だけど。
あなたの幸福が私には判る、だから、もう怖くない。
あなたと、いつか別れる日が来ることが。

エピローグ 〜東京
1
「これはまた」
開け放った扉の向こうで、風間潤は、少し驚いたような顔になった。
「随分、狭いところへ引越しされたんですね」
「今までが広すぎたんですよ」
神埼志津子は、汗を拭いながら振り返った。
もう十月も終わりだと言うのに、ひどく暑い午後だった。ただ、からりと乾いた空気のせいか、汗をかいても心地よい。
2DKの賃貸マンション。その狭い一室に、5LDKの邸宅から運びこまれた荷物の山が、梱包も解かれないままに積み上げられている。
「……で、僕は何を」
うずたかく積まれたダンボールの山を見ながら、風間は、気おされたように呟いた。スポーツウェアを着ている彼は、スーツ姿の時より、格段に若く見える。
「じゃあ、そこのダンボール、とりあえず潰してください」
「……はぁ」
少し戸惑ったように部屋に上がると、生真面目な男は、ダンボールひとつひとつを馬鹿丁寧に潰し始める。
志津子は少し可笑しくなった。どうしても手伝いたいというから来てもらったが、この分ではあまり、あてになりそうもない。
本当にこの人は、いい意味でも悪い意味でも見かけ倒しだ。驚くほど背丈があって、一見豪胆に見えるのに、性格は繊細で几帳面。仕事も固いし、浮気はされてもしなさそうだし そうだな、これで、もう少し彼が若かったらあさとの婿に……。
「お嬢さんは?」
背中を向けたままの風間の声に、志津子は慌てて手元の作業を再開させた。
あさとの婿? ってことは私の息子? いや……それは、ちょっと微妙かな。
「今日は、自動車学校に行かせました。あれだけインターバルがあったわけですから、一応、練習させておこうと思って」
その娘の衣装が入った荷を紐解きながら、志津子は続けた。
「先月から、大学にも復学して……やっと、元通りになったという感じです」
少しずつ、日常が我が手に戻りつつある。その確かな感触が、俗に言う幸せというものなのかもしれない。 今、志津子は心からそれを噛み締めていた。
あれは、本当に奇跡だった。
瀬名あさとと真行琥珀。ほぼ十ヶ月の間眠り続けていた二人が、共に目覚めたのは、夏の初めのことだった。
二人は、まるで示し合わせたように、同じ日の同時刻に眼を覚ました。
昏睡に陥った原因もわからなければ、目醒めた原因もわからない。 結局、本人も、周りも、何が起きたのか正確に理解できないまま、長い、悪夢のような時は、唐突に終わりを告げたのだった。
二人はそれぞれ別の病院でリハビリを重ね、結局は、何の後遺症も残らないままに退院した。本当に 今考えても夢のような結末だった。
「……真行君は、任意同行されたみたいですね、一応」
風間は潰したダンボールを重ねながら言った。眉をひそめて志津子は頷く。その顛末なら、一応耳に入っている。そして、ずっと気にかかっていた。
「結局、警察は、逮捕も起訴も見送ったと聞きました。……風間さん、彼の容疑は晴れたんでしょうか」
「…………」
黙った風間は、かすかな嘆息を唇から漏らした。
「というより、もともと警察は、真行君をホン星とは見ていなかったんじゃないかと思いますよ。まず、凶器が存在しない。あれだけの惨劇なのに、彼の衣服からは一切の血液反応がでていない。さらには須藤悠里のものらしい叫び声が聞こえたのが午後六時半、その直後に、真行が公園に向かって駆けていくのを見たという中学生の目撃証言もある」
「…………」
「それでも、真行琥珀は事件の真相に一番近いところにいる。 警察はそう踏んだんじゃないでしょうか。そして、それは正解だったと思います」
志津子は黙っていた。結局、彼は黙秘を貫き、逮捕には至らず解放された。
丁度、港区で起きた通り魔事件が世間を騒がすだけ騒がしていた時期であり マスコミが興味を示さなかったのも幸いした。そうでなければ、警察も引くに引けなかったろう。
気鬱な溜息を吐いて、風間は続けた。
「もっと内情を言えば、このまま起訴したとしても、公判を維持できないと判断されたんじゃないでしょうか。 ゴリラ以上の力を持つ者にしかなしえない犯行です。首と胴が引きちぎられていたんですよ? 誰がどうやって、誰の罪を立証するのか……ご遺族にはお気の毒ですが、現代の日本では、まず起こりえない事件だったんです」
「……そうですね」
志津子はわずかに視線を落とした。
結局、真行琥珀は、最後まで門倉雅を護ったのだ。彼は黙秘することで、ある意味全ての罪と疑いを自身で受けてしまったのだ 。
彼はこれからどうするのだろう。今までどおりの生活に戻れないことだけは間違いない。
おそらく生涯、未解決事件の容疑者としての汚名を背負ったまま、彼は生きて行くことになる。……
「彼は、頭がいい青年です」
風間は太い息を吐いた。
「あるいは弁護士と相談したのかもしれませんが、ある意味、一番ベターな対応だったと思いますよ。いったい誰が須藤悠里を殺害したのか、どのような方法だったのか 仮に真実があったとして、それが門倉雅の妄想が現実になったものだと どう説明すればいいんでしょう。門倉雅も真行琥珀も、まず精神鑑定の対象にされていたでしょう」
それは よく判っている。
「むしろ私は……」
志津子は小さく口にした。
「法律で裁きようのない罪を背負ってしまった、雅ちゃんが哀れでならないんです。元々頭のいい子ですから、いつか彼女自身、事件の裏にあった真実に気がつくかもしれない。でも、 償いようがないんですから」
「…………」
あの惨劇を、どうやって二十歳の女性が起こしえたのか、それは誰にも判らなし説明できない。
ただ、彼女の感応力が 一種のテレパシーにも似た力が、ああいった形で爆発した可能性は十分にある。仮説ではあるが、ひとつの世界を構築し、三人もの人の心を引きずりこむほどの、凄まじい力だったのだ。
が、あたかも、それが天から下された罰のように、覚醒した門倉雅は、その美しい声と、音を聴きとる力を失った。
それは、彼女が生きる限り続く障害になるであろうとのことだった。
志津子は続けた。
「門倉家からは、須藤さんの遺族に多額の見舞金が支払われたそうです。……もちろん、そんなもので、人の命は購えませんが」
「命に購う罰など、ないんですよ」
うつむいたままで、風間は言った。
「それが、殺した人間の命だというなら法律なんていらないんです。……法で人を裁くしかない以上、……命に購う罰などない。後は神の領域です」
「…………」
「センチメンタルですが、僕はそう思っている」
神の……領域……。
神は、いると思いますか。
そう訊こうとして、志津子はふっと苦笑していた。
それぞれの人の心の中にしかないその答えを、きっと<彼>はもう見つけている 。
「門倉家は東京を離れられたと聞きましたが、今は信州のほうでしたね」
気を取り直したように風間が話題を変える。志津子は頷いた。
「ええ、東京での仕事は全て手放されて、結局は家族で、引越しされることを決めたみたいです」
( 環境を変えて、一から出直してみようと思います。)
門倉夫妻があいさつに訪れてくれたのは、今年の春のことだった。
まだ、琥珀は目覚めてはいなかった。転院させるつもりだという篤志に、志津子はこのまま 彼を病院に残すよう懇願した。
あさとと一緒の方が、目覚める可能性が高い 何故か、そう思ったのだ。むろん、何の根拠があったわけでもない。説得力はなかった。けれど、結局篤志は、志津子の意向を汲んでくれた。
その後、覚醒した琥珀は、門倉家の引越し先である、信州の病院に転院した。順調にリハビリを重ね、あさとより、一か月も早く退院したという。
以来、志津子は真行琥珀に会っていない。あさとの話では、大学はまだ、休学扱いになっているらしく、この先どうするつもりなのか、門倉家でも話し合いをしているのだろう。
多分、東京には戻らないだろう。
志津子は漠然と予感していた。彼の性格からして、いや、これまでの経緯からして、門倉雅の傍から離れられるはずがない。門倉家でも 言い方は悪いが、これからますます琥珀を必要とするだろう。もしかすると、結婚の時期も早くなるのかもしれない。
退院して以来、あさとが彼のことを何一つ聞こうとしないのが、かえって志津子には痛々しかった。
「うわっ、何すか、これ、全然片付いてないじゃないですか」
不意に背後から、軽快な声がした。
志津子は振り返った。
開け放たれた玄関に、背の高い男が立っている。黒のタートルネックにジーンズ。日本人離れした長い脚。永瀬悔斗だった。
「驚いた、……どうしたの?」
志津子は本当に驚いて立ちあがった。彼には、まだ引越し先まで教えてはいない。
「いや、風間のおっさんに手伝うように言われたんで。いいっすか、上がっても」
その永瀬の背後から、目鼻立ちのくっきりした、華やかな容姿の女性が顔をのぞかせている。
「こんにちは」
笑うと、ますます美貌が際立つ。まだ、大学生くらいだろうが、相当な美人の部類だ。
どこかで見たような……
志津子は戸惑いながら頭を下げる。 ん、もしかして朝のニュース番組の。
「あ、こいつ、俺の友達なんすけど。なんか、女手もいるかなって思って」
「やだ、違うんです。近くまでご一緒したから、ちょっと寄ってみただけで」
困惑したように手を振った女は、にこっと笑うと永瀬を見上げて促した。美人だが、気の強そうな横顔だった。
「なんだよ、お前がついてくるって言うから、連れてきたのに」
「だって本当に引っ越しの手伝いとは思わなかったんだもん。帰る、今夜泊まりにいくから」
「くんな! つか、ほんと勝手な女だな、お前は」
扉の向こうからひそひそ声が漏れてくる。
志津子と風間は、顔を見合わせて笑っていた。
「なんだ、彼女か? 随分振り回されてるみたいだな」
戻ってきた永瀬に、苦笑しながら風間が声をかける。永瀬は少し肩をすくめた。
「勝手につきまとわれてるだけですよ。ストーカーみたいなもんですから」
「じゃ、今夜は俺が泊まりにいってもいいか、君の家に」
「はっ? ちょっ、なんすかそれ」
「一応警察関係者としてほっておけないだろう、ストーカーと聞けば」
多分わざとだろうが、風間は大真面目である。
「いいっす! てか、どういう嫌がらせですか、それ」
本気で慌てる永瀬に、志津子は耐えかねて吹き出していた。
2
「……あれ」
荷物を運ぶ手を休め、永瀬は棚上から一枚の葉書を取り上げた。
「どうしたの?」
志津子は、彼の手に納まった葉書を目にして、ああ、と思った。
「知ってるよね、高崎守莉君。……彼、時々手紙をくれるのよ」
今年の夏に来た暑中見舞いだった。そこには、友達と一緒にはしゃいでいる彼の姿が、写真になって焼かれている。
「結局、彼……なんだったんでしょうね」
永瀬の背後から風間が呟いた。
「僕には、彼と門倉雅が、無関係だとは思えないんですよ。記憶を失くした夏の間、彼は門倉雅の周辺につきまとい……彼が、初めて病室を訪ねた日に、奇しくも彼女は覚醒している」
「…………」
「いったい彼は、あの夢の世界で、どういう役回りだったんでしょうか」
レオナの名前を、目覚めたあさとに告げた時。
娘は、なんとも言えない不思議な表情になり、しばらく一人で泣いていたようだった。
まだあさとは、夢の記憶を語らないし、志津子も聞かない。
また、高崎守莉も、クリスマスイブのあの夜から、まるで何かの憑き物が落ちたかのように、一切の過去を気にすることがなくなったという。
別人のようにすっきりした顔で、翌日広島に帰った少年は、以来、一度も不可思議な発作に見舞われることはなくなった。
あるいは ―。
志津子は勝手な想像を巡らせていた。
あの夜、彼の中のレオナも、自分の世界に戻ってしまったのかもしれない……。
結局は謎だけが残された。全ては風間の妄想で、そして志津子の空想で、永瀬の夢だったのかもしれない。
永瀬の言葉がヒントになり、門倉雅が残した手記がほかにもあるのではないか と、風間が探していたようだったが、結局は、それを見つけだすこともできなかったらしい。
もう、終わったんだ。
志津子は自分に言い聞かせるようにして、顔を上げた。もう、忘れよう。あの悪夢のような十ヶ月のことは。
「瀬名は……」
不意に永瀬が呟いた。
振り返ると、青年はどこか居心地の悪そうな目になった。
「いえ、えっと、あさとさんは、……どこまで、覚えてるんですかね?」
「何を?」
「ええと、だから、……夢の記憶とかですよ」
焦りを誤魔化すように、髪に手を差し入れる。
彼が考えていることが判って、志津子は少し可笑しくなった。
「夢の記憶って、普通、目覚めた瞬間から忘れてゆくものでしょう? あさとも、今じゃ、断片的にしか思い出せないそうよ。それに、本人も余り喋りたくないみたいなの。私もね、あさとにはまだ……雅ちゃんのことは、話すつもりはないから」
もう少し、……何年かたって落ち着いたら、話してみるのもいいだろう。あなたが見たのは、門倉雅の妄想の世界だと。 でも今は……もう少しそっとしておいてやりたい。
「それに、あさとの口からは、永瀬君の名前は出てこなかったから大丈夫だと思うわよ。私たちさえ、何も言わなければ」
「よかったぁ」
美貌の青年は、あからさまに喜色を浮かべた。彼が見た夢の記憶の内容を考えると、その反応も無理はない。
が、志津子は内心思っている。彼もまた、私と同じで触媒になっただけではないだろうか。漏れ出てきた夢の思念を、ただ傍受しただけなのだ。彼の中にある、鷹宮ユーリと似通った部分が、夢を呼び寄せたたとも考えられる。
本当の鷹宮ユーリは……。
「で、もうひとつ確認したいんですけど」
「琥珀君のこと?」
「いや、……そうじゃなくて」
言葉を濁すと、永瀬は声を小さくした。
「あの……小田切っていう刑事さんも、当然、僕のことは知りませんよね」
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