16
 
 
 それから数日がたった。
 朝から晴れ渡ったその日、金羽宮本殿では、シュミラクール各国の代表が集まっての調印式が執り行われた。
 五州統一が実現し連邦国となったイヌルダを始め、タイランド、ウラヌス、ゼウス、新政府が樹立されたナイリュ共和国。
 それぞれの代表が一堂に会し、法王アシュラルが立会い人となって、恒久の平和を誓う式は、厳かに、滞りなく行われた。
 各国の不可侵と、そして、新型兵器の終結的な放棄がそこには謳われていた。それは、女皇とその夫が、この四年    ずっとそのために奔走し続けてきた、あらゆる成果の結実だった。
 式典が終わった後、金羽宮では、戦後初めての舞踏会が催された。
 各国の王や各州の代表はこぞってクシュリナに踊りを申し込み、彼女は笑顔でそれに応じた。誰もが皇都の美しい主を感嘆の目で眺め、戦後から今日までの偉業を褒め称えた。
 今夜    ようやく時代は、戦争という闇の帳を取り去ったのだ。新しい時代が始まる。災いが起ると言われるリュウビの時が来たとしても、五国手を携えて立ち向かっていけるだろう。
 そして、これからの時代の主役は、クシュリナ様だ。    ユリアは誇らしくそう思ったし、今夜、この場に集った誰もがきっと同じように思ったはずだった。
「まさか、あの方は法王様の?」
「まぁ、ではご婚約の噂はまことでございましたのかしら」
 ふと、不穏な囁きが、立ち働くユリアの耳に聞こえてきた。
 婦人たちの視線は、広間の隅、長椅子に寄り添って座るひと組の美しい男女に注がれているようだった。
 男は、ひと目で身分あるものと判る立派な衣装を身につけている。長身に影を帯びた黒い髪、印象は暗いが、顔立ちの凛々しさといい、眼差しの美しさといい、周囲の男性の中では格段に秀でた容姿を持っている。
 傍らで寄り添う女性も美しかった。ふわりとした薔薇色のドレス。むき出しになった肩も胸も、触れるだけで溶けてしまいそうなほど白く透き通っている。
 その女性をもう一度見て、ユリアは、あっと息を飲んだ。
     日向……ルナ。
 青百合オルドで初めて会った時とは、まるで別人のような華やかさだった。高く結い上げた髪を、花と真珠であでやかに飾り、幸せそうに恋人の顔を見上げている。
     じゃあ、あの人がダーシー公なんだ。
 青州公鷹宮ダーシー。戦前、戦後を通じ法王を支えた、第一の盟友として知られている。彼もまた、飽きることなく、美しい婚約者の顔を見つめたまま、目を逸らそうともしていない。
 広間の隅に下がりながら、ユリアは、無意識に法王の姿を探していた。実際    相当に、腹立たしかった。
 大胆といえば大胆だ。日向ルナが法王の愛人だというのは、イヌルダでは公然の噂である。こんな恥をかかされて、法王様もクシュリナ様も平気なのだろうか   
 探していた人の姿は、すぐに見つかった。
 法王は広間のほぼ中央で、諸侯のあいさつを受けていた。黒地に金刺繍の入った上着を着て、クロークを右肩から垂らしている。均整の取れた綺麗な身体。 整った横顔。つややかな髪    ユリアの眼には、それは、五年前のアシュラルその人に見えた。
     やっぱり、すごく素敵な人だ……。
 あらためて、彼に見惚れている。そんな自分に吃驚して、慌てて眼を逸らそうとして    、ふと気がついた。
 双子の兄という話だけど、彼の本当の名前はなんと言うのだろう。
 誰も、彼の名を呼んではいない。それは    すごく心許なく、寂しいことではないだろうか。
 その時、法王の横顔が不意に上がった。ユリアにも、彼が先ほどから、何かを気にしているのは判っていた。
 諸侯に一言何か言い残し、そのまま法王はクロークを翻した。
     どこへ……?
 ユリアは、思わずその後を追っていた。
 彼が足早に進む先に、クシュリナの姿があった。
 彼女もまた広間の中で、夫人たちに囲まれ、祝辞を受けている最中だった。その横顔に、優し気な笑顔が浮かんでいる。
    失礼」
 法王は、夫人たちを避け、クシュリナの傍に立つと彼女の肩をいきなり抱いた。
 クシュリナがひどく驚いている様子が、少し離れた場所に立つユリアにも、はっきりと判った。
「連日の激務ゆえ、妻は体調が優れないようです。少し、別室で休ませます」
 ざわめきが起こる。法王はそのまま妻を横抱きに抱え、ものも言わず広間を後にした。
 ユリアは慌てて後を追った。    体調が悪い? そんな風には見えなかったのに。
 けれど、廊下で彼らに追いつき    法王に抱かれているクシュリナの横顔を見た時、ユリアにも判った。
 先ほどまで優しく微笑んでいたその人は、今、明らかに変調をきたしていた。蒼い顔には血の気がなく、呼吸さえ苦しそうにみえる。
「大丈夫よ……、すぐに、戻れるから」
 力ない声が、ユリアに向かって告げられる。
 女を抱く男は何も言わず、黙ってそのまま、歩みを進めた。
 彼女がずっと、疲労を堪えて笑顔を振り撒いていたことを    他の誰も気づかないのに、この法王の兄だけは判っていた。
 例え、それがかりそめの夫婦だとしても。
 ユリアは自分の目が潤むのを感じた。
     これほど強い結びつきがあるだろうか……。
 
 
                 17
 
 

 翌日の夜。法王の居室は、いつになく賑やかな顔ぶれで溢れていた。
 大きなお腹を抱えたカヤノと、薫州で医術師をしているというその夫、滝沢ロイド。
 加賀美ジュール。
 日向ルナと、青州のダーシー公。
 法王と、そしてクシュリナ。
 彼らは<法王>の秘密を共有する者たちで、戦前から戦後の長きに渡って、苦楽を共にしてきた者たちだった。
 彼らの願いは、昨日で全て結実した。
 その祝杯と    日向ルナとダーシー公の婚約を祝い、今夜、密やかな集まりが催されたのでだった。
 ユリア一人が、彼らの接待のために、その場に居合わせることになった。
 みな、ユリアが全てを承知していることを知っているのか、ひどく砕けた様子で会話を楽しんでいる。実際、誰の顔も楽しげだった。ただ一人    部屋の隅で、法王の仮面を被る男をのぞいては。
 彼は、歓談の間中、殆んど表情を変えなかった。つまらないという風でも、楽しいという風でもない。ただ、その場の雰囲気に安らいでいるという感じだ。
「そうそう、子供が男だったら」
 それまで盛り上がっていた青州公の馴れ初め話が途切れた時、不意にカヤノが、クシュリナを見上げて口を開いた。
「絶対にアシュラルって名づけるつもりなの。いいわよね、クシュリナ、一応あんたの許可をもらっておかなくちゃ」
「そりゃ……私はいいけれど」
 振られたクシュリナは、戸惑ったように視線を別のほうに振った。
「他に許可を取るべき人が、いるんじゃないの」
 振られたのは、カヤノの夫、ロイドだった。
 美しい榛色の髪をした男は、憮然として腕組みしている。
「もちろん、俺は反対だ。あいつみたいな気難しい男になったらどうしてくれる」
「あら、あんたがきちんと教育してやればそれでいいのよ」
「冗談じゃない。名前を呼ぶたびに俺はぞっとして逃げ出しちまいそうだ」
 滝沢ロイド。
 ユリアは初対面になる。彼が    四年前の戦を起こした張本人、かつての薫州公松園フォードの息子だという話を、ユリアはその日の朝、クシュリナから打ち明けられたばかりだった。
 それには、さすがにしばらく言葉が出てこなかった。ユリアが知る限り、灰狼の異名を持つフォード公は、三鷹家と共に皇都に反旗を翻した大罪人である。今でも法王庁ではその名を出すことさえ禁忌とされているくらいだ。
 しかも……その戦いで法王アシュラルが亡くなったのなら、彼を殺めたのもまた、フォード公ということになるのではないか。
 が、クシュリナは、少し厳しい目でこう続けた。
    フォード様は、この世界を憂いて起たれ、負の連鎖を終わらせるために全ての罪を背負われたのよ。戦争に関わったものに一方的な正義はありません。その罪はアシュラルも私も同じことだわ)
 戦後、滝沢ロイドは、生き残った妹と共に薫州に渡り、瓦礫と化した街を復興させるために働いていたという。皇都に残ったカヤノとは長らく別居していたそうだが、妊娠を機に、ようやく正式に同居することになったらしい。不思議なのは、誰も二人がいつ正式に結婚したか知らないことで    クシュリナも、それには首をかしげていた。
「ちょっと待って、クシュリナ」
 次に口を挟んだのは、先ほどから面白くなさそうな顔でカヤノの話を聞いていたルナだった。
「ルナも、子供の名前をアシュラルにするから、今、簡単に許可しないでほしい」
 はぁ? と、カヤノが即座に眉をあげた。
「何いってんの、この子は。私のほうが先なんだから仕方ないじゃない」
「ルナだってすぐにできるもん。ねっ、ダーシー様」
「ま、まぁ、努力はするが……」
「馬鹿じゃない? あんたたちの式は来年でしょ。天下の青州公がそんなしめしのつかない真似してどうするのよ」
「……考えが古い……。カヤノは、頭がもうおばさんになってる」
「なんですって??」
 冷笑したルナを、立ちあがったカヤノが凄まじい眼で睨みつける。
「あの、……別に喧嘩しなくても、二人とも同じ名前にすればいいんじゃないの?」
 そこへ、おそるおそるクシュリナが口を挟むと、
「だめ、やだ! 私だけのアシュラルじゃなくなるもの」
「それはいや! アシュラルは一人でいいの!」
 女二人の怒りは、たちまちそのアシュラルの妻である彼女一人に向けられた。
 むろん、面白くないのは女二人の夫と    その予定者である。
「……ルナ、そういうことを私の前で口にするのは、どうかと思うが」
「青州公! もっと強気で! あんた、もう完全に尻に敷かれてるじゃないですか」
「ロイドが言う?」
 クシュリナが笑い、全員が吹き出すようにして笑い、はじめて、法王もわずかに苦笑した。
 傍らで見ていたユリアは、何故か自分もほっとしていた。
「でね、女の子だったら、クシュリナ、あんたに命名してほしいのよ」
 カヤノが真面目な目になって言った。
 クシュリナは、少し意表をつかれた顔になる。
「期待してるんだからね。いい名前つけてよね」
「うーん、……、名前。……あまり自信ない……かもしれない」
「黒斗とウテナの子供に、白斗ってつけるくらいの単純さだからな」
 ロイドが揶揄して、場は再び笑いに包まれた。
 それは穏やかで優しく、苦楽を共にしたものだけが共有できる、本当に楽しい時間だった。傍にいるユリアにも、皆の優しさが伝わってきて、彼女は今夜一晩で、ここにいる人たち全てが好きになった。  
     でも……。
 それでも、誰も    法王のことを決して本名で呼ぼうとしない。
 ユリアには、それが不思議だった。ここでなら、彼を本当の名前で呼んでも、誰にも聞かれる心配はないはずなのに。
 だからつい、カヤノが席を立ったついでに、訊いてしまっていた。
「ああ……本人が絶対に許さないのよ。普段から呼ばないように気をつけていないと、うっかりってこともあるからね」
 カヤノは、声をひそめて答えてくれた。
「自分の名前は四年前に捨てたんですって。絶対に本名を呼ばないこと、それが彼が代役を続ける条件だったそうよ」
 そう言って法王を見る女の目も、どこか寂しそうだった。
「……昔から、ああいうところが、頑固というか不器用なのよね」
 カヤノは呟き、そして、もとの明るい表情を取り戻して、話の輪の中に戻っていった。
 
 
                  18
 
 
    ところで」
 突然、ジュールが立ち上がったのは、夜も更けて話も尽き、そろそろお開きかと思われた時だった。彼は、ひとつ咳払いをした。
 それだけで、周りが不意に静かになる。
     何……?
 ユリアは驚いて、全員の顔に視線を巡らせた。
 戸惑った顔で、長身の男を見上げているのは、クシュリナだけだ。
「クシュリナ様と法王に、実はご提案があるのですが」
 ジュールは、場違いにかしこまった口調で続けた。
 周りの皆は口をつぐみ、しんと静まりかえっている。その表情から、ジュールの言い出すことを、あらかじめ皆が承知しているのだと    、ユリアは感じとっていた。
「なにかしら……」
 クシュリナと、訝しげな顔をしている法王だけが、その空気が読めないでいる。
 美髯の男は、もう一度咳払いをした。
「お二人には、今まで、苦労のかけどおしでした。この四年、随分なご心労があったと思います。もう、……終わりになさいませ」
「……ジュール……」
「もう、十分でございます」
「………」
 クシュリナは黙ったままうつむいた。
「クシュリナ様さえご異存がなければ、皇位をレオナ様にお譲りくださいませ。……もう法王は、ご退位の意思を固められたと聞いています」
 ユリアも驚いたが、クシュリナはさらに驚愕したようだった。
「本当なの?」
 背後の法王を、ほとんど蒼白な顔で振り返っている。
「はい」
 仮面の男はわずかに頷いた。
「……コンスタンティノ大僧正様に、すでに後任を願いでています」
 落ち着き払った口調だった。
 クシュリナは言葉を無くしたように、しばらく唇を震わせていた。
 そのまま黙っていたジュールが、再び静かに口を開いた。
「レオナ様は予言の子……しかし、私は今でも思うのです。予言に言うクインティリスの獅子は、やはり地星を持つ鷹宮ユーリのほうであったと」
 ユリアに意味は判らない。が、みなにはそれが判るのか、全員、静かな面持ちでジュールの言葉を聞いている。
「予言の解釈はいまだはっきりとせず、ディアス様であっても、その真偽は判りません。が……こうは読めないでしょうか。ユーリ様が遺されたお子と、クシュリナ様がお産みになられたレオナ様……陰と陽の血を継いだ二人が結びつく時、この世界に真の平穏が訪れるのだと」
 ジュールは微笑し、優しい目でクシュリナを見下ろした。
「新しい時代はレオナ様とユウリ様が作って行かれることでしょう。私が生涯かけて支えてまいります。お二人は、もう、いつでも自由の身になれるのです……もう、およろしいかと思います。本当にご結婚し、お二人で、新しく再出発なされても」
「ジュール……」
 クシュリナの声が震えている。
「そうよ、いいのよ、クシュリナ、あんたたちの気持ちは、誰が見たって判るんだから」
「アシュラルだって文句は言わないさ。この四年間、あいつの遺志をくんで、お前たちは本当によく頑張ったよ」
「そうだよ、クシュリナ、クシュリナも幸せにならなきゃ駄目だよ」
 クシュリナは黙っていた。しばらく……唇を震わせて黙っていた。ユリアはドキドキしながら、彼女が口を開くのを待った。そして、ふと思った。法王様は……どうして何も言わないのだろう。
 彼は    法王は、わずかに視線を下げたまま、身じろぎもしていない。嬉しいのか困惑しているのか、変わらない表情からは何も掴めない。
 やがて、クシュリナは静かに顔を上げた。
「……ありがとう、みんなの気持ちはとても嬉しい。でも、私も……みんなに言わなければいけないことがあるの……」
 彼女は、背後に座る法王を振り返り、そして、視線を元に戻した。
「……私たち、正式に離婚することにしました」
 周囲が、冷水でも浴びせられたようにしんとした。ユリアも愕然として、息を飲んだ。
 誰も何も言わない。誰かが何か言い出せば、    たちまち大騒ぎになりそうだった。
「始めから、彼とはそういう約束だったの。この調印式が終わったら正式に離婚しましょうって。……ジュール、そしてあなたの言うとおり、私は退位します。もう届けは法王庁にお出ししました」
「しかし、それで」
 ジュールが何か言いかけるのを、クシュリナは笑顔で遮った。
「私はしばらく、ナイリュで暮らしてみるつもりなの。みんなも知っていると思うけど、あの国は戦後の復興の途中で……まだまだ、医療や福祉が他国に追いついていません。私はそこで………ナイリュの人々のお手伝いをして生きていこうと思っているの」
 誰も何も言わない。
「勝手を言います。ジュール、あなたには迷惑をかけてばかりで、ごめんなさい」
 クシュリナは、深く頭を下げた。
「ディアス様に、レオナの後見をお願いしています。あの子を連れて行きたいけど、あの子には大切な使命があるから……。ジュール、レオナを……お願いします」
 誰も何も言わない。
 頼まれたジュールも、座る事さえ忘れたまま、立ち尽くしている。
 やがて、カヤノが、苛立ったように口を開いた。
「クシュリナ、あのね」
 クシュリナは、それを制止するように首を横に振った。
「ナイリュは、サランナとユーリ、それから、アシュラルが眠る土地なの。……私は、彼らの冥福を祈って、あの土地で残りの人生を終えたいの」
 そして、水のように静かな、それでいて燃えるような眼差しを周囲に向けた。
「私の夫は死ぬまでアシュラル一人だけよ。他の誰とも、一生結婚するつもりはありません」
 反論できる者は誰もいなかった。
 やがて、溜息とともに、ロイドが口を開いた。
「ラ、……法王は、それを承知なのか」
 クシュリナはもう一度、背後に座る法王を見上げた。
 彼の顔は影になっていて、ユリアからはよく見えなかった。ユリアは    法王がクシュリナを止めてくれることを期待した。多分、その場にいる全員が。
「知っている」
 けれど法王は、静かな口調でそう答えた。 
「全て陛下から事前に聞いた。クシュリナ様の良いようになされれば、と思っている」
 クシュリナが、ほっとしたように嘆息した。
「みんなには悪いけど……そういうことなの」
 誰もが、息をつめたまま、険しい顔つきになった。
 その中で、法王はゆっくりと立ち上がった。
「そういうことだが、……けれど私にも、私なりの考えがございます」
 彼の声は、クシュリナだけに向けられたものだった。
 ユリアは、息苦しいほど胸が高鳴るのを感じた。
     法王様は……どうするつもりなんだろう。あれだけはっきりとクシュリナ様は否定された。そう、彼女は拒否したんだ    この人を。
 彼はそのまま、傍らのクシュリナの前で膝をついた。そして、まっすぐに彼女を見上げた。
「私と結婚してください、クシュリナ様」
 時が、止まったような気がした。
 誰も何も言わなかった。おそろしいほどの静けさが、部屋の中を包んでいた。
「私はあなたについて行くつもりでした。最初にお話を伺ったときから」
「………」
 クシュリナの顔は蒼白だった。膝の上で握り締めた拳が細かく、気の毒なほど震えていた。
 不思議だった。それほど    ここまで、彼女が動揺している理由が、ユリアにはわからない。
「ありがとう……」
 やがて、クシュリナは呟いた。
 けれどその声はうつろで、無理に取り繕ったような響きがあった。
「……少し時間をおいて、考えみるわ。……今日は、みんな、この話は忘れてちょうだい」
 
 
 
 その晩   
 ユリアは、クシュリナがレオナを抱き締め、何度も何度も繰り返し抱き締め、そして頬ずりしている姿を見た。
 それきり、彼女は自室の中に消え、朝まで出てこなかった。
 
 
 
               18
 
 
 
 まだ、日は昇りきっていなかった。
 あさとはウテナに乗って、一人、早朝の山道を駆けていた。
 旅支度は少し前から済ませてあった。夕べ髪を短く切り、もう心の整理はつけている。
 自分にとって、もはや一刻の猶予もなかった。
 老いたウテナは、かつてのようなスピードが出ない。それでも    最後のこの時に、あさとはウテナに乗ってやりたかった。
    心臓から、……妙な音が聞こえます。)
 半年前から、発作が頻繁に起こるようになっていた。
 子供の頃から時折起きていた    呼吸が苦しくなる発作。父が嫌うため、医術師に見せたことは一度もなかった。
 今年になって、何気なく御典医に診せると、老いた医術師はひどく難しい顔をしてこう言った。
    クシュリナ様のお母上も、心臓の病で若くしてご逝去なされました。お亡くなりになる少し前には、今のクシュリナ様と同じ心音が聞こえていたように思います。………これは、あまりよくない病でしょう)
 そう言われた時も    泣かないと決めていた眼からは、不思議と涙は流れなかった。
 けれどその日、いつもと同じように、法王とレオナ、三人で庭園を散歩しながら、初めて息苦しいまでの心の痛みに襲われた。
 嘘になればいいと思った、この真実が全て嘘になればいいと。
 その日からあさとは、自分が    誰よりも大切に想う二人の前から、姿を消す日のための準備を始めた。
 そして、今   
 あさとは、溢れそうになる涙を拭った。
 丘を登りきり、目的の場所に辿りついた時、丁度、山間から朝日が光の断片を覗かせたところだった。
 あさとはウテナを止め、愛馬の背を降りて、いつか    在りし日の彼と見た景色の前に立った。
      "ここからは、イヌルダの全景が見渡せる。"
 そう言って指差した凛々しい横顔。どこか寂しげで優しい笑顔。
 クシュリナの人生の中で    多分、一番幸せだった時。
 あさとはあの時と同じ景色を見つめた。
 その光景が、みるみるぼやけて歪んでいく。
     どうして……。
 あの時のままで、人の心も、時間も全部、止めておくことができないのだろうか。
 景色はそのままなのに、心だけが、変わっていってしまうのだろうか。
 昨夜、この四年、かりそめの夫でいてくれた男から結婚を申し込まれた時。
 あさとは嬉しさで息も出来ないほどだった。そんな自分の    彼への感情を初めてはっきりと自覚した。
 嬉しかった。
 泣きたいほど嬉しかった。
 すぐにでもその思いを打ち明けて、彼の腕に飛び込みたかった。
 けれど   
 あさとは眼を閉じた。溜まった涙が、幾筋も頬を伝い、それでも止まらず喉を濡らした。
 そんな自分が許せない。
 病に冒されたアシュラルが、頑なに自分を拒んだ理由が、あさとには初めて我が身のこととして理解できた。同情    いや、同情でないことはわかっている。この病を告げれば、あの優しい男が全てを捨ててでも、自分の傍から離れないことも判っている。
 けれど、彼を大切に想っているからこそ……自分に課された重い宿命を、その負担を、彼に負わせることだけは出来なかった。
「アシュラル………ごめん……」
 あさとは呟いた。
 あれほどアシュラルを愛して、苦しいほど恋して、そして、誓って、夢のような幸福の時を過ごして   
 その気持ちに嘘はないのに。
 あの時の想いは、何よりも大切な宝物なのに。
     どうしてなの………。
 膝を付き、肩を震わせてあさとは泣いた。どうしてその宝物だけを大切にして、人は生きていくことができないのだろうか。
 どうして人の気持ちは、変わってしまうのだろうか。
 泣きじゃくりながら、あさとは立ちあがった。
 もう、これ以上、イヌルダにはいられない。
 これ以上、自分の中の思い出が壊れていくのを見たくない。
 元の世界のことを、ふと思った。懐かしい、もう夢の中でしか会えない人々のことを。
 琥珀は雅と上手くいっているのだろうか。小田切さんは、無事に戻ることが出来たのだろうか。
「さよなら………」
 最後の涙を拭い、あさとは、全ての想いを込めて呟いた。
 カヤノ、お腹の子供の名前、本当はあさとにしてほしかった。もう一度、誰かに呼んでほしかった私の名前。
 ロイド、大好きだった。カヤノのこと、絶対に幸せにしてあげてね。
 ルナ……窮屈な宮廷暮らしがルナに勤まるかどうか心配だよ。ダーシーは優しい人だから、大丈夫だと思うけど。
 ジュール……今までありがとう。
 あなたが誰を想って一人身を貫いていたか、私は愚かにも気がつかなかった。先日、カタリナ修道院で、あなたがいつまでもいつまでも、その人の墓標の前から動かなかった姿を見て……なのに、それでもあなたは、今日までずっと私を護ってくれたんだね。ありがとう、本当にありがとう。
 レオナ……お父様の短剣を大切にしてね。
 どういう方法か知らないけれど、あなたは、いずれ、私のいた世界に行くことになるんだろうね。きっと、私たちを……この世界に導くために。
 ラッセル………。
「……………」
      好き。
 あなたが、………好き。
 あさとは、両手で顔を覆った。眼を閉じた途端、新しい涙が頬を濡らした。
 このままだと、いずれ歯止めが効かなくなるほど、ラッセルのことが好きになる。病のことで、あの人の気持ちを拘束してしまう前に    そうなる前に、全てを捨ててしまいたい。
 その時、早朝の静けさを破るように、蹄の音が、澄み切った空気を震わせた。
 あさとは涙で濡れた顔を上げた。
 朝霧を裂いて、駆けてくる一頭の馬が見えた。
     お父様……?
 最初、その顔はハシェミに見えた。風に揺れる長い髪、詩人か楽人を思わせる、たおやかで優雅な眼差し。
 父は、優しい笑みを浮かべ、あさとに向かって、わずかにうなずいてみせた。
     ユーリ……?
 父だったものが、いつの間にか、ユーリの顔に変わっていた。白銀の髪、灰色の瞳、朝日が霞むほど気高い美貌。    君は、相変わらずだな    かすかに苦笑した唇から、そんな声が聞こえた気がした。
 そして、アシュラルが現れた。
      アシュラル………。
 眼を見張るほどの見事な黒馬。その手綱を鮮やかに操るイヌルダ一の美剣士。黒髪は鬣のように風に踊り、鋭い瞳は焔を孕んで輝いている。風に舞うクロークには法王の紋章。
 彼は美しい双眸で、僅かに笑んだ。
"     クシュリナ。"
 懐かしい声で、彼は言った。
"     もういいんだ、お前を許す。俺は、お前が幸せなら、それでいいんだ。"
「アシュラル………」
 あさとは呟いた。
      アシュラル。
 アシュラル、私    
 あなたが好きだった。大好きだった。嘘じゃない、本気で、死にたいくらい大好きだった。今でも好きで、あなたが傍にいてくれたら、きっと変わるはずがなかった気持ちなのに。 
 アシュラルの影が滲んで行く。それが幻なのか、あさとの涙がそうさせるのか、もう自分でも判らなかった。
「ごめんなさい……ごめ……なさい……」
      私………。
「ラッセルこと、好きになってしまったの、彼を愛してるの!」
      苦しいの、辛いの。
「………本当は……怖いの、……失いたくないの……」
 あさとは両手で嗚咽を抑えて膝をついた。
 消えかけていたアシュラルの幻影が、穏やかに笑みを浮かべたような気がした。
      ……許してくれるの……?
 朝日が眩しく視界を射ぬいた。
 あさとは思わず目を閉じた。
 蹄の気配が、間近に迫った。
     クシュリナ様!」
 それも幻なのだ、とあさとは思った。
 手綱を引いて馬上から見下ろす人。紫紺の上着と肩を覆うクローク。きれいに伸びた背筋と真直ぐな瞳。彼の額には汗がにじみ、めずらしく焦燥の色を浮かべている。仮面がない代わりに、黒の眼帯だけを巻いている。
 何故、彼が、今ここにいるのだろう。
 そう思う間もなく、飛び降りたラッセルの腕に抱き締められていた。
「お一人で、何処へいかれるつもりだった」
 彼の動悸が、激しく脈打っている。
「ユリアが知らせてくれて……心臓が止まりそうでした」
      ラッセル……。
 夢じゃない、……幻じゃない。
 彼の声、ぬくもり、香り。力強く抱き締めてくれる腕。
「私が夕べ、不愉快なことを言ったからですか」
 あさとは無言で首を横に振った。よほど急いで来たのか、ラッセルの呼吸が乱れている。たったそれだけのことが、息苦しいくらいに嬉しい。
 もう、これでいい。もう何もいらない。    この思い出さえあれば。
「私を行かせて、ラッセル。……私……私は、ずっとあなたに甘えてきた、迷惑ばかりかけてきた」
 うつむいたままで、あさとは続けた。
「ナイリュへ行かせて……。あなたと別れて、私は一人になってみたいの」
「私もご一緒します」
「それは、駄目、それは」
「病のことなら、私は承知しております」
「……    !」
 思わす、身体を硬くして、目の前の男を見上げていた。
「ご様子がおかしかった。随分前に御典医から聞き出したのです。あなたが……黙っておられるつもりなら、お気がすむまでお付き合いするつもりでした」
 逃げかけた腕を、男の手が強く捕らえた。
「離して」
「離さない」
「……嫌なの、それだけは嫌!」
「何がですか」
「…………」
 同情ではない、判っている。宿命に縛られているのでもない、判っている。彼は強い、きっと私の死も、彼ならば乗り越えていくだろう。
「……怖いの……」
 あさとは、両手で顔を覆った。
「怖くなる、あなたといると……どんどん、死ぬのが怖くなる」
 感情のままに言葉が溢れ、苦しい涙が頬を伝った。そして、気づいた。別れたいと思ったのは、彼のためでも、誰のためでもない。これが    本当の気持ちだったのだと。
「アシュラルの時のように………たくさん好きになって、苦しいくらい好きになって、……突然、それが終わってしまうのが、怖い」
「…………」
「もう、私には、耐えられない……、もう、……耐えられないの」
 強い力で引き寄せられた。
 驚いて何か言いかけたあさとを、ラッセルはきつく抱きしめて、その髪に口づけた。
「怖くても、嫌がられても、一人では行かせません」
「………」
「絶対に、行かせない……」
 涙が溢れ、あさとは強く眼を閉じた。激しい感情が涙と共に洗い流され、心が次第に、優しく温かなもので満ちていく。   
「………哀しませるのに……」
「………」
「苦労をかけて、なんの役にも立てなくて……その挙句に、あなたより先に死んでしまうのに……」
「………」
「こんな私を……それでも、それでも、どうして……」
 彼はそのまま、あさとの耳元に唇を寄せた。
 彼は囁いた。
 その言葉が、いや、そんな言葉を、彼のような寡黙な人が言うはずがないと、あさとはずっと思っていた。
     好きです。
 何度も、耳元にキスを繰り返すように。
     好きです、あなたを、
     愛しています。
 うん。
 ただ頷いた。
     ……うん、ラッセル。
「……あなたを」
 ラッセルは、あさとの頬を抱き、自分の方に向かせて見下ろした。
 この眼差しを、あさとは今まで何度も見てきた。そして、気づかないふりをし続けてきた。いつも、いつも。
「………いつだって、あなたを奪ってしまいたかった」
      ラッセル……。
 彼は、無言であさとを抱き締めた。強く    心ごと抱きすくめるように。
 あさともまた、両腕で彼の背を抱きしめていた。誰よりも近くにいて、なのに永遠より遠かった身体をしっかりと抱きしめていた。
 もう、何もいらない。
 幸せで、苦しくて、息もできない。
 まだ、怖い。まだ……自信はない。けれどもう、二度とこの手を放すなんてできそうもない。たとえ、いつか必ず離れる日がこようとも。
「ナイリュについたら、すぐに式をあげましょう」
 髪を撫でながら、ラッセルが囁いた。
「私には何もない……。本当に、こんな男の妻になってくれますか」
「また、二人で旅をしたいわ」
 涙に潤んだ笑顔で、あさとは言った。
「今度もきっと、足手まといになるわね。でも、もう、置いていかないで……」
 彼の唇が瞼に触れた。頬に、それから    壊れそうな宝物に触れるように、唇に。
 触れた唇はぎこちなく合わさり、ためらうように離れ、ラッセルはわずかに顎を引いた。
「……クシュリナ……」
 夢のような囁きの後に、もう一度唇が重なって、あさとは目を閉じていた。
 やがて、うっすらと瞳を開ける。仰向けに抱かれた彼の肩ごしに、厳かな朝日が見える。
 それは、幾重にも色を重ね、空と海を優しく染めあげ、天光の粒子を煌めかせていた。
 彼方には山々の稜線、薄い雲が筋を引き、光の波が海面を撫でる。
 美しい、とあさとは思った。
 世界も、人も、この景色も。
 それはいつか、必ず消えてしまうものだけど、だからこそ、今この瞬間が、結びついた確かな心が、人にはかけがえのないものなのだ……。
 やがて全景を見せた朝日が二人を静かに照らし出す頃、ラッセルはあさとを抱き締め    何度も髪を撫で、もう一度、強く抱きしめた。
「…………」
 彼はそのままの姿勢で、しばらく動こうとしなかった。
     ラッセル……?
 彼が、何かを惜しんでいるのが、あさとには判った。が、それが何か判らないまま、かすかな不安を感じて彼を見上げた。
 あさとを見下ろし、ラッセルは初めてわずかに微笑した。
「……ナ…」
 その唇から零れた言葉が、一瞬あさとには判らなかった。
 ラッセルは、ゆっくりとあさとを抱き起こし、正面から再度見下ろした。
 彼の唇が囁いた。
「それでも俺は、お前(・・)お前を死なせるわけにはいかない」
「………………」
 え……?
 まさか   
 彼の眼差しに、声の抑揚に、思わず、声を上げかけていた。
 唇に、双眸に秘められた感情の激しさに、幻のように、ある男の面影が滲んでいる。
      まさか、……そんな。
 ラッセルは、静かに身体を離し、懐から、くすんだ紫色の包みを取り出した。
 その形に、色に、あさとは息を飲んでいた。
「……それは、アシュラルの……」
 母の形見。彼が軍服の下に身につけていたもの。紫の布地は痛み、記憶より随分色褪せている。ラッセルは朱の紐を解き、包みの中のものを、あさとの手のひらの上に、そっと載せた。
「……?」
 これ……。
 掌に載せられたのは、一欠片の石だった。
 青い石。
 胸が不意に、やけるように熱くなった。そこに、ユーリの形見として身に着けていた赤い石があることを、あさとは今さらのように思いだしていた。いや、そんなことより。
    瀬名」
 大きな手のひらが、石の上に被さった。
「これが、あいつの遺言だ」
 あさとは、震える顔をあげ、ラッセルを    いや、彼の中にいるはずのない男を見上げた。
「……琥珀……」
 
 
 
 胸が焼けるように痛んだ刹那、二筋の光が、二人の合わされた掌から迸るように放たれた。
「……っ」
「……!」
     なに……?
 一瞬激しく光った緋色が、青の光に飲みこまれる。掌から発した蒼い輪を中心に、まばゆい白い光が散っている。
    琥珀」
 あさとは叫んだ。
「俺に構うな」
 彼の声が聞こえた。それはもう、声だけしか聴きとることができなかった。「お前一人でも、帰るんだ」
「いやよ、    琥珀!」
 ふわ、と自分の体が浮き上がるのをあさとは感じた。
 けれど、あさとの視界の下には、やはりあさとと、そして彼女を抱くラッセルの姿があった。それが、どんどん彼方に遠ざかって行く。
 ようやくあさとは我に返った。
 どうして琥珀が、ラッセルの中にいたんだろう。そんなはずはない。だって、だって彼は   
 が、現実に彼はいた。そしてクシュリナの中の、あさとを助けてくれようとした。
 たった一人で、この世界に取り残されることを覚悟して。
     琥珀!
 声は、もう言葉にならなかった。
 いや、琥珀、あなたを置いてはいけない    琥珀……琥珀!
 懸命に手をのばすあさとの前で、皇都の景色が小さくなり、それはイヌルダ、そしてシュミラクールの全景になり、やがてそれすら遠ざかり、    真っ青な空、七色の虹が煌き、白亜の建物が、天に浮かんでいる。そんな不思議な空間に、あさとは一人で取り残された。
     ここは……。
 大地には緑が広がり、それは一瞬のうちに海原に変わった。あさとは、浮遊したまま、再び高みに押し上げられていった。
 景色のなにもかもが、ものすごい勢いで遠ざかって行く。
 ふいに、何もない、真っ暗な空間に出た。
     宇宙……?
 上も下も、前も後ろもない。
     ……どこ?
 ここは何処?
 声がでない、進むことも下がることも出来ない。
    瀬名。)
 声がした。
     琥珀?
 それは確かに、琥珀の声だった。
(大丈夫だ……。)
     琥珀、どこなの?
(もう、大丈夫だ   
 ふいに強い力が、背中からあさとを抱いて、引き上げた。
 あさとは振り返ろうとした。
 そんな間すら許さず、闇は突如差しこんだ光の筋に飲まれ、あさとはその中をさらに昇り続けた。
 眩しい光は、やがて大きな巨大な塊になり、たぎる焔とコロナに包まれた太陽の破片となり、それもまた、やがて小さく、遠くなる。永遠のような闇    宇宙。
 静けさの中に、ふいに穏やかな光が満ちてくる。それは太陽を反射して輝く月だった。それもやがて    遥か彼方へ消えて行く。
 強く、逞しい腕に引かれながら、あさとはその先を目指して飛び続けていた。
 
 
 
 
 
 
「………」
 眩しい。
     ここ、……何処だろう。
 天井が妙にぼんやりしている。真っ白な天井、……あれ? なんで壁がつるつるしてるんだろ。こんな壁紙あったっけ、まるでプラスチックみたいな。
     喉……すごい渇いてる……。
 口を開けようとして、舌が硬く強張っているのに気がついた。息は出来るのに、声が出せない。
     何……? 変な音……。
 ピ、    ピ、    ピ、    ピ……。
 規則的に続く機械音。こんな音を、どこかで聞いた    ああ、そうだ。病院とかで、よく聞く音に似てるかも。
「…………」
 これは、夢……?
 それとも……戻った?
 まさか    まさか。
 あさとは、焦れるように視線を周囲に巡らせた。
 視界には天井しか映らない。首が動かないのだと、すぐに気がついた。首どころか、身体全体が思うように動かせない。舌が強張って声さえでない。
 指先だけが、かろうじてシーツを掴んだ。
 眼だけを、ゆっくりと動かして、ようやく    ようやく、視野を広げることに成功した。
     ああ、やっぱりこれは夢だ。
 あさとは思った。
 目の前に、琥珀がいた。
 ベッドに横臥し、首だけを僅かに傾けてこちらを見ている。
 真っ直ぐな瞳、長く伸びた髪。前髪が額に落ちて、そのせいか、記憶の中の琥珀より随分幼く見える。
 頬も顎も、ひどく痩せているけど………    琥珀? 本当に?
 ラッセルでもアシュラルでもなくて    本当に、琥珀……?
 あさとは無言で、わずかな距離の先、そこに横たわっている男を見つめた。
 彼もまた、あさとを見ていた。まるで普段の彼ではないような優しい目になり、その口元に、わずかな笑みが浮かんだような気がした。
     琥珀………。
 あさとはゆっくりと手を動かした。
 届かないのは解っていた。けれど、今、彼の手が欲しかった。
 彼の目が、何か言いた気に揺れたような気がした。 
 唇が、薄く開く。
 それは、あさとにはこう言っているように聞こえた。
     帰ってきたな、俺たち。
 カーテンが開く。
 けげんそうな誰かの声が、やがて悲鳴に、    そして歓声に変わっていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                      エピローグイヌルダ(終) 〜EP東京に続く

BACK    NEXT    TOP
Copyright2009- Rui Ishida all rights reserved.