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 翌日、クシュリナの外出に同行することになったユリアは、青百合オルドから来た迎えの馬車に乗り込んだ。
 驚いたことに乗っていたのはクシュリナ一人で、ユリアは即座に    彼女が、意図的に自分と二人になろうとしたのだと、理解した。
「……彼から、聞いたわよね」
 しばらく窓の外を見つめていたクシュリナは、やがて、静かな口調で切り出した。
「ぶしつけな方法だとは思ったけれど、彼の口から聞いたほうが解りやすいでしょう?……驚かせてごめんなさいね」
 どうして、と言いかけてユリアは言葉を飲み込んだ。
 確かに、肝を抜かれるほど驚きはした。が、それは、何故自分のようなものに、国家を揺るがすほどの秘密を、あえて知らせるような真似をしたのか    その理由を考えることと比べると、ごくささやかな驚きに過ぎない。
「……最初から……私に、話してくださるつもりだったんですか」
 ユリアが訊くと、うつむいたままで、クシュリナはわずかに頷いた。
「私も彼も、これからは本当に公務が忙しくなるの。今までのようにはいかなくなるし、アシュラルが死んで四年もたって、生前の彼のことをはっきりと覚えている人も少なくなったわ。……そろそろ、私の役目も終わりにした方がいいと思うの」
「……役目って…」
 おずおずとユリアは訊いた。
「彼を法王として、私の夫として、……周囲の疑いの眼から守ること」
「………」
 多分、そうなのだろうとは思ってはいた。昨夜の、他人行儀な法王の声を聞いた時から。
 二人は    本当の意味での夫婦では、決してないのだ。
 なんと言っていいのか判らなかった。大切な……そして、宝物のような思い出が、薄っすらと翳ったような気持ちだった。
 なによりも、だまされていた    その失望の方が大きかった。全てが偽りだったのだ。互いを見つめあう優しい眼差しも、幸福そうな笑顔も。
「記憶をなくしたと言われたのは、……それも、身代わりを隠すための嘘だったんですか」
 つい、非難めいた言葉になってしまっている。
「………」
 クシュリナは、何故かそこで、黙ってしまった。うつむいたままの横顔が、本当に    本当に寂しげに見えて、ユリアは、自分が言った言葉を取り消したい気持ちで一杯になった。
 けれど、クシュリナは、囁くような声で、こう続けた。
「……あの人は、本当に記憶をなくしてしまったの。今でも、たった一つだけ……彼が思い出せないことがある……」
「………」
「でも、それでいいの」
 そこで初めて、憂いた顔は笑顔に変わった。
「私は彼を護るために傍にいる。最初からそれだけなの。私たちは本当の夫婦ではないし、これからも決してそうはならない」
 そこで言葉を切り、美しい寡婦は、ユリアを見つめて微笑した。気のせいなのか、やはりそれは    ひどく寂しく、儚げに見えた。
「私の心臓が悪いというのも全部嘘。……夫婦で寝室を共にしていないなんて不自然でしょう?そういう噂を流せば、みんな納得してくれると思ったのよ」
 
 
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 その日、クシュリナがユリアを伴って向かったのは、法王領にあるカタリナ修道院だった。
 むろん、十四の年から法王庁にいたユリアは、その修道院のことをよく知っている。有名貴族が子息を預けることで有名な    が、戦後は広く民に門戸を開いた僧学校になっている。
 しかし、馬車が着いたのはユリアのよく知っているカタリナ修道院ではなく、シーニュの森の外れにある、見たこともない建物だった。
「ここが、カタリナの本家なのよ。ユリアでも知らないなんて、よほど厳密に隠されているのね」
 馬車の中で沈んでいた人は、すっかり普段の彼女らしさを取り戻しているようだった。
 クシュリナの後をついて歩きながら、ユリアの胸中は、さきほど馬車の中で交わした会話のことで、まだ一杯になっていた。
     では、あれも全部嘘だったのだろうか。
 毎日二人で、もしくは親子三人で過ごす庭園の午後。幸せそうな笑顔。信頼しきった瞳。転寝する法王の膝に毛布をかけ、愛しげに見上げる眼差し    あれが、全部……。
「ユリア?」
 クシュリナの声に、ユリアははっとして我に返った。
「忙しいのにつき合わせてしまってごめんなさいね。今日会う約束をしている方も、法王様の正体をご存知なの。誰でもいいというわけにはいかないから    だからユリアについてきてもらったのよ」
 クシュリナと共に建物の中に案内されたユリアは、そこに立っている人を見て、あっと驚きのあまり、声を立てるところだった。
「クラン!」
 親しげに呼んだクシュリナが駆けよって見上げたのは、驚くほど背の高い    褐色の肌に編み込んだ長い黒髪、高い頬骨を持つ男だった。
 容貌も衣服も、明らかに皇都の人たちとは違う。ユリアは血の気が引くような思いで、目の前の男を見つめた。間違いない、この人は、蒙真族だ   
「よく来てくれたわね。向こうも色々大変でしょうに」
 が、クシュリナには全く屈託がなかった。
 向かい合う男は、蒙真族特有の衣装を翻し、恭しく一礼する。
「陛下も、お元気そうでなによりだ」
「バヤン様はお元気? アユリダはどうしているの?」
 イヌルダの陛下が……蒙真族と……。
 ユリアは、唖然としたまま声もでない。
 蛮族    野蛮人、マリスの血を引く悪魔。蒙真族の存在そのものが、ユリアが過ごした法王庁では禁忌として知られている。戦後、それらは全て三鷹家の流した根も葉もない醜分だということが判ったが、それでも蒙真人が、得体のしれない蛮族であることには変わりない。
 その    言葉も通じないはずの野蛮人が、クシュリナ様と……。
 それは、長年法王庁で過ごしたユリアには、にわかに信じがたい光景だった。
 しかも、クランと呼ばれたこの男は、法王の秘密まで知っているという。そんなことがあっていいのだろうか。
「ユリア、悪いのだけど、この方には私が持ってきた紅露のお茶をお出しして。規律の厳しい方だから、なんでもというわけにはいかないの」
「あ、はい」
 なんだか、見てはいけない場面を見たような気まずさを感じつつ、お茶を用意して戻ると、二人は庭の卓で向かい合い、熱心に    何事かを話合っているようだった。
 クシュリナの真剣な表情に、ユリアは思わず足を止めている。が、すぐにユリアの存在に気付いたのか、女主人は、優しい眼差しで手招きしてくれた。
「バヤン様が、面白いことを言っておられた。何故皇都の姫君が、ユリウスの乙女だったのかと」
 クランという男が口を開いた。
「どういう意味……?」
 クシュリナが訝しく顔をあげる。
 お茶を出すユリアには、意味の判らない会話だった。
「シーニュ神の末裔である皇都の姫が、何故、シーニュを護るユリウスの星の下に生まれたのか。……なにかそこに、偶然ではない必然があると、バヤン様はそう申しておられた」
「…………」
 クシュリナは、一瞬眉を震わせたものの、不思議に静かな表情で微笑した。
 なんて失礼なことを言う人だろう。
 逆にユリアが憮然としながら、蒙真の男を睨んでいる。
 ユリウスとは、ユリアが知る限り古代の男性神だ。幼い頃からシーニュを護り、彼の神のために死んだと言い伝えられている。神とはいえ立場が下の者と、シーニュの血を引くクシュリナ様を比べるなんて   
 が、クシュリナは特に気にするでもなく、唇に微笑を刻んだまま、お茶を飲んだ。
「以前、ディアス様が言われていたことがあるわ……。私を護るために死んだ者は、皆、どこかでユリウスの血を受け継いでいるのかもしれないと」
 それには、蒙真の男が、労わるような微笑を浮かべた。
 一瞬、ひどく寂しげに見えたクシュリナは、すぐに彼女らしい優しい笑顔で顔をあげる。
「蒙真の神話では、ユリウスはどうなったと伝えられているの」
「心臓を奪われたシーニュを護った……最後まで、その命が尽きるまで」
「…………」
「ユリウスは守護の星。その宿命(さだめ)は、皇家の血が続く限り終わることはない」
 異国の男は、独り言のように締めくくった。
 
 
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 やがてクランが去り、クシュリナが院長のところに挨拶に向かったので、ユリアは別室で、主人の用が済むまで待つことになった。
 気のせいだろうか、話の終わり頃から、クシュリナ様の表情がひどく悲しそうだった気がする。何故だろう、彼らの話題は神話時代の昔語りばかりで、さほど深刻になるような内容ではなかったのに……。
「あら、どうしたの? クシュリナのお使い?」
 その声に、ユリアははっとして顔を上げた。目の前に、医術師にも似た白衣を身につけている女    カヤノが立っている。
「カヤノ様!」
 ユリアは驚いて立ち上がっていた。
 金波宮を辞した後、すぐに薫州で暮らす夫の元に旅だったと聞いていた。まさか、こんな場所で会えるなんて想像してもいなかった。    臨月が近いのか、女のお腹は、以前よりますます大きく膨らんでいるようだ。
「ああ、ここって私の実家なのよね。今クシュリナが会っているのが、私のお父様」
 ユリアの疑問を察したのか、カヤノは手短に説明してくれた。
「昨日、亭主と一緒に帰ってきたの。ちょっと皇都でやり残したことがあって」
 言いさしたカヤノは、そこで「うっ」と眉をしかめた。「    蹴られたわ、今」
「大丈夫なんですか、そんな身体で」
 ユリアのほうが慌てている。
「平気、平気。気楽よー、亭主がまがりなりにも医術師だと。いつ産気づいても、全然大丈夫って感じだもの」
「そ、そうなんですか」
「こっちには、手のかかる人たちが多いからね」
「……?」
 意味の判らないことを言って、カヤノは肩をすくめると、ふと視線をユリアに戻した。
     え……?
 戸惑うほど、まじまじと見つめられる。
 少しの間、くいいるようにユリアを見ていたカヤノは、やがて微かな息を吐いた。
「どう? 法王様の傍は、少しは慣れた?」
「あ、……いえ、まぁ」
 慣れたというか、とんでもない秘密を知ってしまったというか。
「なんでも一人でやる人だから楽でしょう? 無口すぎて雑談相手にもならないのが難だけど」
「……い、いえ」
 そもそも、雑談をしようだなんて、考えたこともない。
「ああみえて、怒らせると怖いから気をつけてね。ああ、でも彼を怒らせるなんて、よほどのことでもないと無理ね。    焦らせただけでも合格よ。ほんと、憎らしいくらい冷静な人なんだから」
 カヤノは    法王の秘密を知っているのだろうか。今の言い方を聞くと、お互い知っているのは承知の上、という感じがする。
「ひょっとして、クシュリナに、へんなこと言われたんじゃないの?」
「え?」
「法王の   
 言葉を切ったカヤノは、ユリアが座っていた長椅子に腰を下ろした。そして、再び息を吐いてから、ユリアを見あげた。
「法王の愛人になってくれとか、さ」
「はい??」
 口をぽかんとあけたまま、しばしユリアは呆気に取られていた。
 愛人    愛人??
 こ、この人、何を言ってるんだろう。それとも、もしかして今のは、私の耳に問題があったとか?
「ま、さすがにはっきりとは言わないか」
 呟いたカヤノは、面倒そうに、指先を髪にからめた。
「ったく、今頃になって、何を考えてるんだか。あなたも、もう聞いてるんでしょ? あの二人が本当の夫婦じゃないってこと」
「……あ、あの」
「最初はルナに譲るつもりだったらしいけど、あの子、プロポーズされてるのよね、青州のダーシー公に。てか、ルナったら、何時の間にあんないい男を捕まえたのかしら」
「え……ええっ??」
「それに年の差、いくつだと思う? ていうか、いつから? ルナが青州にいたのが四年前だから、その時からとして」
 指を折って真剣な目で数えだすカヤノを、ユリアは慌てて止めていた。
「ちょ、ちょっと待ってください。だってルナ様は」
     法王様の……。
「あなたね、……似てるのよ」
 カヤノは不意に真面目な顔になって、じっと正面からユリアを見つめた。
     え……?
 なんのこと?
「顔とかそういうんじゃない、雰囲気……表情、こうやって話していると、私でも時々、思い出してしまうくらいに」
「………」
     誰……に……?
「法王の……あの人の、亡くなった奥様に」
 意味が判らなかった。ただ、その響きに眉をひそめていた。    亡くなった、……奥様?
「だからクシュリナは、あなたを彼の傍に置いたのね。……そういう発想、すごくあの子らしいけど私は嫌いよ」
 どこか投げやりな口調で言って、カヤノは疲れたように腰を上げた。
 
 
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 そう言われれば、何もかもがそんな気がして、ユリアはその日から、法王の世話をするのも、顔を見るのも    何もかもが気もそぞろになってしまった。
 実際、カタリナ修道院から帰った翌日には「法王様のことは、全てユリアに任せたから」と、クシュリナに告げられ、その日を堺に、彼女は本当にオルドに姿を見せなくなった。
 当の法王は、態度も口調も以前と全く変わらない。あの夜、自ら正体を明かした事など、まさに記憶から消し去ったように、平然としている。
 ユリアが居室に入り、今までクシュリナがしてきたこと全てを代行しても、何も言わず、当たり前のように受け入れてくれる。
     双子だったと……噂では、そう聞いているけれど。
 衣服の着替えを手伝いながら、ユリアは、そっと彼の横顔を窺い見た。
 多分、本当によく似ていたのだろう。この四年間、誰一人、その身代わりに気づかないくらいなのだから。単に顔や身体の特徴だけではない、立ち振る舞い、喋り方、雰囲気、そういったもの全てが同じでないと、四年もの間親しい者たちを欺けはしない。
     それとも、あえて似せているのだろうか。
「………」
 ふと、目の前の男が気の毒に思えた。
 本当のこの人は、いったい何を考えて生きてきたんだろう。四年もの間、他人の仮面を被ったままで……。
 ユリアの眼差しに気づいたのか、法王の視線が、一瞬下がる。
「………」
 ユリアは慌ててうつむいていた。
「後は、自分でやる」
「は、はい」
 男の形良い肩に衣装を掛け、綺麗な横顔を間近で見るたびに、ユリアは自分の気持ちがどんどんこの偽法王に傾いて行くのを感じていた。
 もしこの人が、本当に私を求めてくれたら    と、有り得ない想像に、一人頬を熱くしたこともある。
 が    、同時に、不思議な寂しさも感じていた。
 こんなはずではないと思う。そして、このままでもいけないと思う。何故だろう。何かに    苛立ちを覚えずにはいられない。
 クシュリナが、法王のオルドを訪れることはなくなった。けれど、彼ら夫婦の日課でもある、庭園の散歩だけは、毎日欠かさずに続けている。彼らは一体、何を話し、何を笑っているんだろう    ユリアには、もう理解不能だった。
 
 
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 その翌日のことだった。
 いつものように散歩に出た二人が、定刻になっても戻らないので、ユリアは、彼らを探しに庭に出た。
 夕闇が濃かった。何年か前まで、夜は危険な存在だったが、今はもう違う。暮れかけた空に、薄い三日月がかかっている。
     どこ……?
 さながら迷路のような庭園だった。形良く植栽された木々が、複雑に立ち並んでいる。
 が、少し奥まで行くと、彼らはすぐに見つかった。
     あ。
 ユリアは足を止めていた。
 大樹の下で、身体を折るようにしてうずくまったクシュリナを、背中から、法王が抱き締めている。
 細い女の身体は、逞しい男の腕の中、今にも消えてしまいそうに儚く見えた。
     やだ、どうしよう。
 立ち去れば気配が伝わるような気がして、ユリアはそのまま、動けなくなった。
 法王の胸に背中を預けたクシュリナは、力なくあごを反らせ、頭上の彼の顔を見つめている。
 その顔に覆いかぶさるようにして、法王もまた、しっかりと抱きすくめた女の顔を見下ろしている。
     その眼差しを……。
 ユリアは、自分の胸が高鳴るのを感じた。
 これを、    愛情と呼ぶほかに、なんと呼べばいいのだろうか。
「ユリアか」
 先に、顔を上げたのは法王だった。
 ユリアは飛びあがりそうになった。「す、すいませんっ」
「勘違いするな、陛下が発作を起こされた、すぐに御典医を呼んで来てくれ」
     え?
「いいのよ、騒がないで」
 しっかりした声で、それを止めたのはクシュリナだった。
「しかし」
「もう……楽になったわ、あなたのおかげで」
「最近、頻繁に発作が起きる……」
「一時は収まっていたのよ、知っているでしょう」
「お疲れなのです、あなたには休息が必要だ」
 そう言うと、法王はそのまま、クシュリナを抱き上げて立ちあがった。
「お部屋までお送りします」
 クシュリナはかすかに苦笑した。
「女官たちが騒ぐわよ」
「構いません」
 二人の姿が、静かに夕闇に溶け込んでいく。
     なんだ……すごい、お似合いじゃない。
 ユリアは呆けたように、その場に立ったままでいた。
 最初、カヤノから「あてつけられるわよ」と言われたけれど、本当にその通りだった。馬鹿を見たのは、勝手な想像で悩んでいた自分だったというわけだ。
 でも。
 何故かユリアは嬉しかった。とても    清々しい気持ちだった。
 
 
 
 
 

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