6
それからしばらくの間、ユリアはクシュリナの指示どおり、法王の仕事の手伝いをした。
すぐに要領は掴んだし、法王への接し方も解ってきた。実際 殆どすることはなかった。クシュリナの言ったとおり、彼は大抵のことは自分でする人だった。
それから、人嫌い、というのも本当だった。
来賓室に顔を出す人は限られていて、外部への指示は殆んど、彼らを通じてなされているらしい。
頻繁に顔を出すのは、ジュールという近衛軍の総帥の男で、 それは五年前、ユリアを恫喝した口髭の騎士でもあった。
さすがに挨拶をした時は緊張したが、ジュールは何も言わなかった。そのかわり、どこか複雑な視線でユリアを見下ろし、しばらく無言のままでいた。
まさかと思うけど、私のことを覚えているの……?
とも思ったが、そんな風でもないらしい。
ジュールとは不思議な男で、独身を通しながらも、一人の少女を養女にしている。
ユウリと呼ばれる四歳の少女は、時折義父に連れられて金羽宮に顔を出す。珍しい銀の髪と灰色の眼の 驚くほど美しい容姿をした子供だった。
それがまた、女官達の噂の種になっている。幾多の求婚を断り続けているというジュールの、隠し子なのか、果ては不義密通の相手に産ませた子供なのか 。
が、ジュールはこの上なくその子を愛し、その子もまた、ジュールを深く信頼しているようだった。
そしてもう一人、金羽宮には美しい子供がいた。
法王は、どれだけ忙しくても、クシュリナと必ず昼食を共にし、一日一度の庭園の散歩を欠かさない人だった。そして それには時々、彼らの息子が同伴した。
まだ四歳になったばかりの幼子は、法王籍ではなく、皇室に籍を置き、涼宮レオナと呼ばれていた。
昨年、皇室典範が改正されたことにより、少年はイヌルダ初の男性皇位継承者となったばかりである。
レオナは、黒目がちの涼やかな瞳を持ち、明らかに父親譲りの美しい容貌をしていた。肌の繊細さと唇の柔らかさが、少しだけ母の面影を映している。子供にしては寡黙な方だが、時折見せる笑顔が、吃驚するほど可愛らしい。
日溜りの中、父に抱かれ、母と共に散歩を楽しむ姿は、誰が見てもうっとりするほど幸せで、満ち足りた光景だった。
7
「お茶をお持ちしました」
決められた時間にお茶を持っていくと、法王は必ず、仕事の手を止めて顔を上げる。
そして「ありがとう」と応えてくれる。
声を掛けられることが嬉しい反面、ユリアは、自分が抱いていた法王像と目の前の彼が、微妙にずれていることを不思議に思い始めていた。
静かに佇む彼の姿からは、五年前の、射抜くような鋭さが感じられない。
かつて法王軍に所属していた父から、法王アシュラルの噂は耳にしたことがある。
豪胆かつ峻烈、戦場にあっては鬼神のごとく敵を薙ぎ払い、特に片目を失ってからは、彼の兜は死仮面と称され、シュミラクール中を震え上がらせたという 。
本当に、この……書類に眼を落としている穏やかな横顔が、父の言う死仮面と同一人物なのだろうか。
世界大戦は終結し、政治の中心は、皇室から三院と呼ばれる貴族・法王庁・平民の代表議会に移された。今、法王と女皇は、三院の調整役として、また、各国との同盟の要として、中央から一歩引いた立場で政務についている。そのような立場と時代が、彼を優しく見せているのかもしれない。
それとも……これも、記憶を失った後遺症のせいなのだろうか 。
「……なんだ?」
「あ、いえ」
つい、不躾に見すぎていた。ふいに顔を上げた男の視線にまごつきながら、ユリアは急いでお茶の片付けをし始めた。
油断してはいけない。いい人そうに見えても、この人には愛人なんかがいたりするんだ。やっぱり男って判らない。あんなに優しくてお綺麗な、クシュリナ様がいらっしゃるというのに……。
ユリアは、手早く片付けを終えると顔を上げた。その途端、椅子に腰かけていた法王と、真正面から視線があった。
どきり、とした。
なに……?
何気なく視線を逸らし、「ユリア、悪いがクシュリナを呼んできてくれないか」 と、法王は言ったが、彼が別の意味で彼女を見つめていたのは明らかだった。
「は、はい……」
多少上ずった声でそれに答えながら、ユリアは、そそくさと部屋を出た。
艶のある視線ではない。まるで 何かを懐かしむような寂しげな眼差しが、いつまでも胸をざわめかせていた。
8
その日。夕闇が濃くなっても、クシュリナは法王の私室から戻っては来なかった。
夜には、タイランドの大使と、懇親の会食が予定されている。
お邪魔かなぁ……。
と、思いつつも、ユリアはクシュリナを呼ぶために、法王の居間に赴かざるを得なかった。
法王オルドの侍女というのが、ユリアの正式な立場であるが、このオルドにクシュリナが滞在している間は、法王の というより、クシュリナの侍女のような仕事をよくさせられる。
むろん、ユリアにしてみれば、憧れの人に重宝されるのは嬉しい限りだが、何故? という気がしなくもなかった。何故こうも、陛下は私に目をかけて下さるのだろう……。
「……失礼します」
おずおずと扉を叩くと、「どうぞ」と、囁くような優しい声が、扉の内側から返ってきた。クシュリナの声だ。
ユリアが扉を開けると、すぐにクシュリナが顔を出し、しっとでも言うように、人差し指を唇に当てた。
「……さきほど、お休みになってしまわれたのよ」
促された視線の先、 居間の長椅子に肩をあずけ、肘掛に乗せた腕で額を支えるようにして眠っている法王の姿が、すぐに眼に入ってきた。
卓の上には、沢山の書類が山積みになっている。
「……悪いけれど、何か掛けるものを、もう一枚持ってきてくれる?」
「はい」
ユリアは足音を忍ばせて寝室に行き、柔らかな毛布を一枚用意した。
部屋に戻ると、丁度クシュリナが、法王の傍に膝をつき、膝を覆っていた掛布を、丁寧に直しているところだった。
その手つきに、そっと見上げる眼差しに、何とも言えず深い……言葉にできないほどの愛情を感じて、ユリアは一瞬、言葉をなくしていた。
「最近、……あまり、お眠りになっておられないようだから」
部屋を出たところで、クシュリナは軽く嘆息してから呟いた。
「もう直、シュミラクール五カ国で平和条約が締結されるの。今、彼はその準備に忙殺されているのよ」
そう言うクシュリナ自身も、眠る間を惜しんで働いていることを、ユリアはよく知っていた。
彼女は、皇都の象徴として外交の表舞台に立つ以外に、イヌルダ五州の学校、病院建設を推し進めている。
「女皇様も、お身体を大切になさってください……」
同室の侍女たちが噂していた 心臓が悪いというのが本当なら、もう少し休んでもいいような気がする。
クシュリナは少し驚いた顔をしたが、すぐに鮮やかに微笑した。
「私は平気、昔から身体だけは丈夫だったのよ」
あれ?
じゃあ……あの噂は本当ではないのだろうか。
「さぁ、行きましょうか。法王様につきあったばかりに、私、お腹が空いて死にそうだわ」
クシュリナは軽快な足取りで、さっさと先に立って歩き出した。
9
それから、数日後のことだった。
その日、夜も更けてから、連絡事項を伝えるために青百合オルドに赴いたユリアは、クシュリナを尋ねて来た客を見て、思わず息を呑んでいた。
侍従も連れず、一人きりで、さっさとクシュリナの居室へと向かっていく。それは 零れおちた月の雫のような、本当に綺麗な女性だった。
「あの……待ってください、今、陛下にお取次を」
たまたま女皇の居室前にいたユリアは、扉を素通りした女を慌てて追いかけたが、その女性は振り向きもしない。他の女官たちも、いつものことなのか、見て見ぬふりを決め込んでいる。
「あら、ルナ」
丁度、クシュリナが寝室から出てきたところだった。
「クシュリナ!」
ルナ ようやくユリアにも判った。この女性が 法王の愛妾、日向ルナなのだ。
ルナは、歓喜の声をあげ、クシュリナの首に両手を回して抱きついた。
「久しぶり、会いたかった」
「吃驚した。来るなら、一言、連絡をくれればいいのに」
「法皇様、迎えに来た」
あっさりとそう言う無神経な女を、ユリアはただ、唖然として見つめた。
ルナは、そこで初めて、背後のユリアに眼を止める。
いぶかしそうな視線が、じっと自分に注がれている。
日向ルナは、飾り気のない白のドレスを着て、長い髪を緩く編んで肩に掛けていた。繊細な顔立ちで、きれいな睫に縁取られた瞳は、月光のように麗しい輝きを放っている。
まるで……。
ユリアは思った。
あの日の、クシュリナ様みたいだ……。
五年前の舞踏会の夜、ユリアが一度だけ見たクシュリナの姿に、ルナという女はとてもよく似ているような気がした。
「あら、大変。彼、もう寝てしまったかもしれないわ」
クシュリナは笑顔だった。ルナは、再び目の前の女皇に視線を戻した。
「ごめん、大切な用みたい……。起こしてでも、今夜中には連れて帰らなきゃ」
どういう神経をしているんだろう。こんなことを、クシュリナ様に直接言いに来るなんて。
さすがに憤りを感じたが、それでも、クシュリナの笑顔は明るいままだった。
「じゃ、すぐに彼を呼びに行くわ。ルナ、少しは時間があるんでしょう? よかったら、私とお茶でも飲んでいかない?」
わけ……わかんない……。
「ユリア、悪いけどあなたにお茶の用意を頼んでもいいかしら。法王様のオルドには、その後で行ってもらえる?」
「は、はい」
廊下を引き返しながら、ユリアは首をかしげるしかなかった。
どうやら二人は、本当に仲がいいらしい。ルナは屈託がなかったし、クシュリナの笑顔にも不自然なところは何もない。
やがて、お茶の支度を整えて戻ったユリアの前で、何が可笑しいのか、ルナとクシュリナは、声をたてて笑い合っていた。ユリアには、……まるで理解できない光景だった。
しかも、あろうことか、クシュリナはユリアをこう紹介したのである。
「ルナ、今度アシュラルの傍についてもらうことになった、羽賀ユリアよ」
ぎょっとした。
確かに間違ってはないが、そんな言い方をしたら、誤解されるような気がする。
馬鹿げた焦りを感じつつ、おそらく自分と年が違わないその美しい少女の前で、ユリアは深く頭を下げた。
「知ってる……カヤノに聞いた」
ルナは、初めて不機嫌そうな横顔を見せた。そのまま黙り込み、出されたお茶を見つめている。
はじめて見せた愛妾らしい側面が、それが自分に向けられたことに、ユリアはさすがに戸惑っていた。けれどクシュリナはさらに続けた。
「もう少し慣れたら、ユリアには法王庁の方にも手伝いに行ってもらうつもりなの。そしたら、あなたの負担も少しは軽くなるでしょう?」
はぁっ?
銀盆を手にしたまま、ユリアは凍りついていた。
クシュリナは 優しい笑顔の下で、やはり愛人に対して面白からぬ感情を抱いていたのだろうか。そのためにわざわざ残されたのなら、なんだかこの場にいるのが恐ろしい。
「ルナは……平気だよ」
けれどルナは、怒るというよりはむしろ寂しそうに呟いた。クシュリナは卓越しに、その華奢な手を、そっとルナの掌に重ねた。
「無理しないで。……知ってるのよ、私のところに正式にお話があったから」
「クシュリナ……」
そこで初めて、クシュリナはユリアを振り返った。
「ユリア、悪いけど、そろそろ法王様を呼んできてくれないかしら。急ぐから、私の馬車を使ってちょうだい」
10
一体、あの二人はなんなんだろう……。
クシュリナとルナ 本妻と愛人? その通りなのだろうが、何か、どこかが違って見える。
ユリアは首をかしげながら、法王の居間へ足を踏み入れた。誰もいない、灯りすら消えている。
お休みになっておられるんだ……。
少し、足が退けてしまった。
そう言えば、法王の仕事が一段落したようなことを、クシュリナが言っていた。最近、ひどく疲れているようだったから、おそらく熟睡しているのだろう。
寝室に入るのはもちろん、寝入っている人を起こすのも、なんだか申し訳ないような気がする。
居室に入っても、やはり部屋の中は暗いまま、しんと静まり返っていた。
そういえば、一人きりで、法王の私室に足を踏み入れるのは、初めてのことだ。仕事以外の身の回りの世話は、まだクシュリナ一人がやっている。
寝室の扉は薄く開いていた。中から灯りが漏れている。ユリアはほっとした。
よかった、起きていらっしゃるのだ。
少し躊躇して、そして控え目に扉を叩いた。
「どうぞ、クシュリナ様」
即座に却ってきた声は、今まで聞いたことのない抑揚を帯びていた。
……?
クシュリナ……様?
「今、支度を終えたところです。急ぎの御用でしょうか。窓から、馬車が見えましたので」
内側から扉が開いた。
ユリアは動けなかった。
昔、父から聞いた噂話を、悪い夢のように思い出していた。
扉の向こうから顔を見せた法王が、わずかに息を引くのがわかった。
彼はすっかり身支度を整えていた。黒衣の法王衣を肩にかけ、左眼には赤銅のマスクをつけている。
「あ、あの……」
青百合オルドで、ルナ様がお待ちですから、 なんとかそう言って、ユリアはきびすを返そうとした。
その腕を、強い力で掴まれた。
「 待て」
低い、押し殺したような声だった。
足が震えるのが自分でも解る。ようやくユリアにも理解できた。法王が記憶を失った という噂を、女官たちでさえ知っていた、本当の理由を。
法王はそのままユリアの腕を引き、寝室に押し入れると素早く後ろ手で扉を閉めた。
殺されるかも、しれない……。
後ずさり、壁を背にして、ユリアは震えながら法王 を、偽る者の顔を見上げた。
「……お前の父は法王軍に従事していた。ならば、お前も戦場で流れた噂を聞いたことがあるだろう」
ユリアを見下ろす彼の声は、意外にも穏やかだった。
そして、彼は、何故かすっきりした顔で微笑した。
「お前の思っている通りだ、俺はアシュラルではない」
では、アシュラル様は……。
ユリアは震えながら訊いた。
「本物のアシュラルは、四年前の戦で死んだ。俺はそれ以来、ずっと弟の身代わりをしている」
|
|