3
 
 
「ここ全部が、法王様がお住まいになっておられる宮殿(オルド)だから」
 カヤノに案内されたのは、金羽宮の西側にある、瀟洒な造りの建物だった。
 庭には黄色い薔薇が咲き乱れ、その珍しい色に、ユリアはしばしカヤノの存在を忘れて見入っていた。
「以前は、カナリーオルドと呼ばれていたの。前はそうね、もっとごてごてして……趣味の悪いオルドだったけれど、今はちょっと寂しすぎるわね」
「青百合オルドとは、随分距離があるんですね」
 女皇陛下が、こことは反対側に位置する青百合オルドで暮らしていると予め聞いていたユリアは、ふたつのオルドの距離に、少しだけ驚いていた。徒歩で移動なんて、まず無理だ。まぁ、身分の高い人の暮らしなんて、そういうものなのかもしれないけど。
 それには答えず、カヤノはずんずんと先を歩く。
「執務室がまずあって、その奥が来賓の間、あなたが入っていいのはここまでね」
 廊下から部屋の場所を指し示しながら、カヤノは早口で説明してくれた。
「南側が彼の個人的な居室になってるんだけど……。そこへは、身内しか入れないから、あなたも絶対に入らないようにしてね」
 少し厳しい口調だった。ユリアは戸惑った。
「では……私は、何をお手伝いしたらよろしいのでしょうか」
「執務室と来賓の間で、彼の仕事の補佐をすればいいの。……って言っても、お客様にお茶を出したり、本殿や法王庁と連絡を取り合ったり……殆ど雑用なんだけど」
「あとは……?」
「全部、クシュリナがやってるのよ」
 カヤノは振り返って、肩をすくめた。
「ああ見えて、家庭的な女皇様なの。二人は本当に仲がいいから、あてつけられるわよ、あなたも」
 その視線が、ユリアの肩でふと止まる。
「噂をすれば、お二人でご登場よ」
 ユリアはその視線を追った。
 渡り廊下の向こうに、美しい庭園が広がっている。
 腕を組んだ一組の男女が、顔を見合わせ、楽しげに語り合いながら、緑樹の影から出てくるところだった。
 男はかなり背が高い。黒い髪は肩の上で緩く波打ち、遠目から見ても均整のとれた綺麗な身体つきをしているのが判る。その顔の右半分、頬骨の上あたり一帯が、赤銅色の皮マスクで覆われている。
     法王様だ。
 ユリアは慌てて直立不動の姿勢をとった。
 彼は今、二十九歳だと聞いていた。
 五年前とはさすがに感じが違っている。けれど隠されていない方の眼と、端整な鼻筋、そして顔の輪郭などは、ユリアがずっと    夢に見るほど憧れていた、記憶の中の法王アシュラルそのものだった。
 凛々しく    そして美しい。片目の傷は、彼の男らしさを一段と引きたてているかにさえ見える。
 彼の腕を取り、時々楽しそうに笑いながら、何かを語りかけているのは、これもユリアの記憶の中にあるクシュリナ女皇だった。
 今年で二十三歳になるはずの彼女は、さすがに昔より大人びて見えた。
 目鼻立ちや輪郭が、一回り細くなった感じがする。すらりと痩せた品のある立ち姿や、涼しげに輝く印象的な瞳が、とても優雅で美しい。
 初めに顔をあげたのはクシュリナだった。
 彼女はすぐに、カヤノの隣に立つユリアに気づき、にっこりと微笑うと、傍らの夫を優しく見上げた。
 何か、一言二言囁いている。
 法王の視線が上がり、それがユリアに注がれた。片方だけのその眼差しが、わずかに当惑しているのが解る。
 けれどすぐに納得したように頷くと、先に立ってユリアの傍までやってきた。
     うわ。
 すごい、間近。
 思わず緊張して、後ずさりそうになっていた。
     眼が、やっぱりすごく綺麗、男の人じゃないみたい。
「しばらくの間だがよろしく頼む。アシュラルだ」
 低く、よく通る声。
 この声で囁かれたら、どうにかなってしまいそうな……気がする。
 自分の馬鹿げた想像に眩暈を感じながら、ユリアは弾かれたように頭を下げた。
「あ、あの……ユリアです。羽須ユリア」
「父のところで、以前見かけたことがある」
 彼は言葉少なにそう言うと、そのまま妻に視線を返した。
 クシュリナは柔らかく微笑んだ。優しい、そして人好きのする笑い方だった。
「ユリア、クシュリナです。私のことはクシュリナと呼んでね」
「は、は、はい」
     そんな、普通、呼べません……。
 クシュリナは、少しの間ユリアを見つめているようだったが、すぐに傍らの夫と、そしてカヤノに、一言、二言声をかけた。緊張しているユリアには、彼らが何を話しているのか理解できない。
「こちらへ、ユリア」
 気が付くと、クシュリナと二人だけになっていた。
「彼の部屋を案内するから、ついてきて」
 
 
             4
 
 
 一緒に歩くと、ユリアの方が、少しだけ背が高い。
     細い人だな……。
 横目で、隣に立つ姿を、おそるおそる垣間見ながら、ユリアは内心少しばかり驚いていた。
 自分も肉付きの悪い方だが、クシュリナはさらに痩せている。骨格がそもそも細いのかもしれない。華奢で、触れたら壊れそうなほど繊細に見える。
 そして肌が、透き通るほどに白い。滑らかで、まるで上質の絹のようだ。
 彼女は、さきほどカヤノが案内してくれた法王の執務室の扉を開け、中にユリアを導いた。
「法王は、濃い目の紅葉茶を午前と午後に飲まれるの。執務室で仕事をされている間は、時間を決めてお茶を出してさしあげてね」
「はい」
 広い部屋に、あまり装飾物のたぐいはない。
 沢山の図書が、壁一面に並んでいる。
 クシュリナは次の扉を開けた。
「お客様は、毎日のように来られます。ここではお茶を出してさしあげて。お食事をされるようなら本殿でなさるから、そのご用意はね」
 クシュリナは細かく、そして、丁寧に教えてくれた。まだ緊張したままのユリアは、ただ頷くだけしかできなかった。  
「それから、ここが彼の居間」
     ここは。
 はっとするカヤノの前で、クシュリナは当然のように扉を開けた。
 円卓と、それを囲むように長椅子と肱掛椅子が並べられている。
 椅子の背に掛けたままになっている上着を手に取り、クシュリナは大きな衣装棚を開けた。
「ここが衣装棚、公式の彼の着替えは全てこの中に入っています。今は寒いから暖かな衣装が用意してあるけれど、季節が変わったらこちらのものを」
「あの」
 ユリアは慌てて口を挟んだ。
「ここには……あの、入ってはいけないと、カヤノ様が申されておりましたけど」
「いいのよ」
 クシュリナは振り返らずに言った。「今、私の公務の方が多忙なの。これからは少しずつ、彼の身の回りのことを誰かに頼もうと思っていたから」
「は、はい」
 クシュリナは、そのまま、部屋の内部の説明を続け、法王服の着合わせ方、就寝時間、起こす時間、一日と一年の予定まで、こと細かに説明してくれた。
 彼女の口調は終始優しく、ユリアがよく判らないような顔をすると、何度でも丁寧に言い直してくれる。
「そんなに、心配しなくても大丈夫よ」
 部屋を出る時、クシュリナはそう言って、ユリアの肩を優しく抱いた。
「法王はね、大抵のことはご自分でなさるの。余り他人に煩わされることを嫌う方だから……よほどのことがない限り、あなたがこき使われることはないと思うわ」
「はい……」
 と、言われても、正直少しも安心できない。
「しばらくの間、私の様子を見ていたらいいわ。一緒に彼のお世話をしてみましょう。そうすれば大体がわかってくるから」
「はい」
 ようやく気持ちが落ち着いてきた。
 そして、心の底から嬉しくなった。クシュリナは、ユリアが想像していた通りの人だった。優しくて、綺麗で、よく気がついて、    本当に素敵な人だ。あの御立派な法王様が、一筋に愛情を注がれるのも無理はない。
「それからね、……彼は、顔に傷を残して以来、人前に出るのを余り好まなくなってしまったの」
 クシュリナは少し、声を落とした。
「公式の場に出るにしても、ご挨拶しかなさらないし、不用意に他人とはお会いになりません。そのことだけは注意しておいてね」
「……はい……」
 どうしてだろう。ユリアは少し不思議に思った。顔に傷があるとしても、それは、ひとつも、彼の魅力を損ねてはいないのに。
「……正直に打ち明けるけれど」
 クシュリナは、ふと、思いつめたような眼になった。
「彼ね、記憶を無くしているの、……四年前の戦で、奇跡的に、一命をとりとめられた時から」
     え……?
 記憶……を?
 驚きを通り越して、何を言っていいか判らなかった。そんなことは    聞いた事もない。
「公務のことは、全て思い出していらっしゃるから大丈夫。でも、……昔の記憶に、曖昧なところが残っていて」
 そこまで言って、ユリアの表情に気づいたのか、クシュリナは、優しく笑った。
「大丈夫、彼は彼だから。……ただ、そう言ったご病気のことを、他人に知られるのを嫌う方だから」
 その笑顔が……ひどく寂しげに見えた。けれどそれは、一瞬だった。
「私とも仲良くしてね、ユリア。きっと私たち、いいお友達になれると思うわ」
 
 
                  5
 
 
 ユリアは、法王殿と呼ばれるオルドの一室に部屋を与えられた。同室の侍女たちは四人いて、みな身分も年齢も近いことから、すぐにユリアと打ち解け合った。
「それにしてもユリアはいいわね。法王様のすぐお傍にいられるなんて」
 夜になってお喋りが始まると、同室の女たちはすぐに法王の話を聞きたがった。
 驚いたことに、法王オルドに仕えていても、彼女たちが法王の傍に近寄る機会は殆どないようだった。彼女たちは、このオルドにあって別の仕事を与えられており、もともと極めて人数が少ないオルドの中で、法王の傍にあがれるのはほんの一握りの側近しかいないのだと、ユリアにもようやく判りはじめていた。
 同室の侍女たちは、根掘り葉掘りユリアに法王の私生活を訪ねたが、ユリアは曖昧に誤魔化し続けた。そういった噂話の火だねになるのはご免だったし、実際のところ、ユリアより、彼女たちが持つ情報の方がはるかに豊富だったからだ。
「そうそう、記憶がね、一時、錯乱されておられたらしいわよ」
 驚くことに、クシュリナに打ち明けられたことまで、彼女たちはよく知っていた。
「戦の終り頃、ナイリュで、灰狼軍と戦われた時に……かろうじて命を取りとめられたとお聞きしたけど、ご自分が誰なのか、しばらくお分かりにならなかったんですって」
「……今は……どうなの?」
 ユリアの脳裏に、庭園で、仲睦ましく語り合う夫婦の姿と、寂しげなクシュリナの横顔が蘇った。
「今はもう、問題ないわよ。あんただって法王様に会ったんでしょ」
    短い間だが、よろしく頼む。アシュラルだ)
 そう……法王はそう言っていた。問題ないのだろう、記憶は戻っているのだろう。けれど    だったらどうして、私にその話を打ち明けられた際、陛下はあんなに寂しそうなお顔をなさっていたのだろうか。
「でもさ、本当に法王様とは何もないわけ?」
 ある夜、いつものように適当に話を流して眼を閉じた時だった。隣合わせの寝台で寝そべる女が、妙に意味ありげな声で囁いた。
「どういう意味?」
 ユリアは眉をひそめている。
「だって、カヤノ様の時もかなりの噂があったもの。二人で部屋に閉じ困ったまま出てこないことなんてしょっちゅうだったし。カヤノ様のお腹が出てきた時は……ねぇ」
 ひそやかな笑いが、狭い部屋に広がった。
「やめて、そんなの有り得ないわよ」
 むっとしたユリアは、ぴしりと笑いを遮った。
「カヤノ様には、ずっと婚約していた方がおられたという話じゃない。それに、法王様はそんな方じゃないわ」
 が、どっと笑いが沸き起こった。
「ユリア、あんた本当に法王様のお傍にいるの?」
「あのね、法王様は、御本宅に愛妾をお持ちなのよ」
「そんなことも知らずに、よくお世話がつとまるわね」
「……本当に?」
 ユリアは吃驚していた。そんな、    信じられない。法王様とクシュリナ様、あれほど仲が良さそうに見えたのに、他に女の人がいるなんて。
「日向ルナ様って言われて、私たちと同じくらいの年の娘よ。法王様がお若い頃からお傍に置いておられたみたいで、それはもう、人形みたいに綺麗な子だから」
「法王庁では、あの方が奥方のように、法王のお世話一切をなさっているんですって」
「……そう、なんだ……」
 とても、嫌な気持ちになっていた。自分の描いていた夢が、その瞬間、濁り曇ったような気がしていた。
「クシュリナ様は、それをご存知なの?」
 ユリアは苦い口調で訊いた。女たちはさも当然とでも言うように、眉をあげて頷きあう。
「それどころか、クシュリナ様も、ルナ様を妹のように可愛がっておられるのよ」
「ご自分のお身体が弱いから、仕方がないと思われているんでしょうね」
     仕方がない?
 けげんそうな顔をしたユリアに、女たちは呆れたように囁いた。
「まだ知らないなら教えてあげるけど、もうお二人は、寝所をご一緒になされていないのよ」
「………」
 法王の寝室には、余り大きいとは言えない寝台が、ひとつきりしかなかったことを思い出していた。
「女皇陛下は心臓をお悪くされていて、もう、そういったことは、お出来になれないんですって」
 
 
 
 
 

BACK    NEXT    TOP
Copyright2009- Rui Ishida all rights reserved.