さようなら。
私の中の二人の私。
今度会う時は、みんながひとつになっていたらいいね。
エピローグ イヌルダ〜4年後
1
羽賀ユリアは顔を上げた。
この部屋に入ってから、もう随分な時間がたつのに、まだ、心臓が痛いほど高鳴っている。
幼い頃、たった一度だけ連れられて来た金羽宮。
今日から自分が、この宮殿で寝起きするなんて、まだ夢の続きを見ているようだ。
(戦後の財政難のせいで、皇宮の見栄えは格段に悪くなっているそうよ、ユリア……)
昨夜、娘の支度を整えながら、母はしきりと不安ばかりを口にしていた。
年頃の娘ならば、こぞって金羽宮にご奉公へ という下級貴族の風潮は、もはや過去の話である。戦後、厳しい財政難と大胆な改革の嵐が吹き荒れた皇都の象徴は、その地位を奪われようとした貴族階級にとっては、敵地に等しい存在になってしまった。
そういった軋轢や争いは、昨年頃からようやく落ち着いたが、 それでも、幾多の改革を経た金羽宮は、もう、有力貴族たちが栄華と権勢を誇った場所ではなくなってしまった。
だからこそ、貧しい家に生まれ育ったユリアに、その機会が巡ってきたのかもしれない。
金羽宮本殿の片隅。
静かな一室で待たされていたユリアは、そっと視線を室内に巡らせてみた。
感嘆の吐息が、唇から漏れた。いや、この部屋だけではない、やはり金羽宮の全ては、彼女が数年間夢にみたままの美しさだった。
高天井に描かれた絵画。柱に施された彫刻。壁一面に掲げられた肖像画。庭園に咲きこぼれる青百合の花 。何もかもが、おとぎ話か夢の世界のようだ。
その時、目の前の扉が開いた。
ずっと挨拶をしようと身構えていたユリアは、相手も確かめずに思い切りよく頭を下げた。
「はじめましてっ、今日から、よろしくお願いします!」
針が落ちても響きそうなほど静まり返った宮殿内。場違いに大きな自分の声が、木霊のように返ってくる。
「……ええと、ユリアと呼んでもいいかしら」
そのまま、頭を上げられずにいると、頭上から低い声が返ってきた。
おそるおそる顔を上げる。
目の前に立っているのは、くっきりとした黒い瞳を持つ年若い女だった。背丈はユリアの肩ほどしかなく、抜けるほどに白い肌には健康的な雀斑が散っている。赤茶けた髪をきりっと後ろでまとめ、真直ぐ、こちらを見つめている女性は、頭からつま先まで、わずかの隙もないように見えた。
すっきりとした痩身で なのに、腹部だけが重そうに膨らんでいる。それを庇うように片手で支え、女はきびきびとした口調で言った。
「私はカヤノ、あなたの前任者になるのかしら。引継ぎの間だけになるけど、よろしくね」
「は、はい、こちらこそ」
厳しそうな人 それがユリアの感じた、カヤノという女性の第一印象だった。退任の理由は事前に聞いてはいなかったが、そうか、つまりは出産のため……ということなのだろう。
「何を突っ立ってるの? いいから、そこに座りなさいよ」
「は……はい」
それでも、もじもじしていると、カヤノは肩をすくめて、よいしょっと長椅子に腰を下ろした。
「私は座るわよ。本当にここの連中は人使いが荒いんだから……。今産気づいたら、どうしてくれるのかしら、ねぇ」
「は、はぁ」
「……頼むから、そんなにかしこまらないでくれる? 私があなたより上なのは、多分、年だけなんだから」
そう言って顔を上げたカヤノは、初めて表情を緩めて苦笑した。
人の心を見透かすような大きな眼は、笑うと優しげな表情を見せる。 少しほっとして、ようやくユリアも笑顔になった。
「ええと、ユリア、……あなたはこの間まで、法王庁にいたのよね」
カヤノの問いに、その対面の椅子に腰掛けたユリアは、こくりと素直に頷いた。
「修道院で、行儀見習いをしておりました」
「あなたくらいの年頃の子は、みんな、教会か、貴族の所へ行儀見習へ上がるのよねぇ。……なんだか、面倒そうで気の毒ね」
女は、独り言のようにそう言いながら、手元の書類を手繰っている。
「お父様が僧職者でいらっしゃったのね……お亡くなりになられたの?」
「はい、四年前の戦で、法王軍に従事しておりましたから」
「……だから、お父様の苗字をあなたが受け継いだのね、……年は、十七、ああ、やっぱり、私より若いわねぇ」
うんうん、と一人で納得し、カヤノは手にしていた紙を伏せた。
「金羽宮は初めてかしら?」
「……いえ、一度、……舞踏会に」
「舞踏会?」
カヤノが意外そうな声を上げる。
ユリアは、言葉に詰まってうつむいた。
金羽宮の舞踏会。
自分のような身分の女が、出席できるはずがない。だからカヤノは驚いたのだろうが、出席するに至った理由を、ここでくどくど言い訳するのも、おかしい気がした。
「……ああ、ごめんね。だって、金羽宮で舞踏会があったのって……もう、随分前のことだから」
ユリアが黙ったのを、どう解釈したのか、カヤノは慌てて言い足してくれた。
「私……十二でした」
ユリアも、ようやくおずおずと口を開いた。
「……父の、手伝いで、コンスタンティノ家の名代の方に付き添ったんです……。あの舞踏会を最後に、もう金羽宮では、ああいった催しはなくなったと聞いていますけど……」
「……そうね、戦後はずっと財政難だったから」
今もだけどね。
そう言って、ひょいっと肩をすくめたカヤノは、元の事務的な表情に戻った。
「じゃあ、あなたのお仕事を説明するわね。大体のことは、もう聞いていると思うけど」
そして、腹部を支えるようにして、長椅子に深く座りなおす。
ユリアは作法通り膝をそろえ、行儀よく背すじをのばした。そのまま、カヤノの次の言葉を待った。
「………」
けれど前任者は無言のまま、じっとユリアを見つめていた。
大きな瞳に、つかみどころのない、何かの感情が浮かんでいる。
「あの……?」
「ああ、ごめんね」
ふっと息を吐いて、カヤノの眼がそらされた。
「……わかったわ、なんでクシュリナがあなたをわざわざ推薦したのか」
女は、低い声で呟いた。
え?
ユリアは驚きを隠せずに眼を見張った。 え、え? クシュリナって。
まさかと思うけど、この人、呼び捨てにしているの? 女皇陛下を?
「表情とか、喋り方のせいかしらね……。顔だけみれば、そんなに似ている風でもないのに」
「………?」
なんだろう。私のことだろうか。
「今日から、あなたには、法王様のお世話をしてもらうことになるんだけど、彼は……色々と難しい人だから」
カヤノはもう一度、今度は大きく溜息をついた。
「まぁ、これから説明するから、とにかく、よく覚えておいて」
2
「……どうして、赤のドレスなの?」
ユリアは少し不満気に母を見上げた。
母が、相当無理をして、それをあつらえてくれたのは知っていた。だからこそ、余計に落胆は大きかった。
「お母様の鈴蘭のドレスを仕立て直して下さるんじゃなかったの? こういう色は下品だって、いつも、おっしゃっておられるのに」
「ユリア」
頬を抱く母の手は優しかった。
「 今、法王様は戦続きで大変なの。その戦勝を祈って、婦人はみな、赤を着るのよ」
「センショウ……?」
「戦に勝つことを祈る、という意味よ」
「……そうしたら、お父様も帰ってくるの?」
母は、ものも言わず、幼いユリアを抱きしめた。
明日の夜、金羽宮で行われる定例の舞踏会に、ユリアは初めて出席することになっていた。
父の同僚の僧侶が、ユリアを、コンスタンティノ家侍女の一人として同行させたいと、申し出てくれたのだ。
それは、社交界への憧れを口にしてやまない少女の夢を、一夜でも叶えてやろうという心遣いだったのだろう。
センショウって……そういうものかな……。
釈然としない気持ちのまま、ユリアは毒々しい赤に袖を通した。
隣の澤家の主人も死んだし、幼い頃よく遊んでくれたラルフ兄さんも戦で死んだ。「新しい時代のためだ」と父は厳かに言い、ユリアにも母にも涙を禁じた。が 。
それでもユリアは、父に生きて還ってほしかった。
戦など負けてもいいから、以前のように家族三人で楽しく食卓を囲みたかった。
また、無益な殺生を誰よりも嫌う父が、今、戦場で殺し合いをしていると思うと、どうにも悲しい気持になる。赤いドレスなど着たくはない。 むろん、そういった感情が我儘だとは判っているけれど。……
着ている衣装さながら、どこか落ち着かない、うわついた気持ちのまま、ユリアにとって初めての舞踏会の幕が開いた。
「わあ……」
やや遅れて到着した金羽宮本殿の大広間は、すでに鮮やかな赤一色で占められていた。
壮観 我を忘れて、ユリアは立ち尽くしている。
なんて綺麗、なんて美しいんだろう。
それは、十二歳の少女には異世界か別世界にしか見えなかった。
七色に輝く飾灯、彫刻の施された金と緋の壁面、楽隊が奏でる調べ、大輪の花々、……その中を人魚のように優雅に泳ぐ貴婦人たち。
気づけば、似合わないドレスのことなど、頭の中から吹き飛んでしまっている。
囁き、微笑、ドレスの絹ずれ。髪から漂う銀粉が、空気に光の粒子を散らしている。
それらを夢中で見ていたユリアは、ふと、異なるものに気づいて眉を寄せた。。
深紅の色彩の中、ひとつだけ 忘れられたまま取り残されている白い花がある。
誰……?
視線は、自然にその女性に引きつけられていた。見惚れたまま、眼が離せなくなっていた。
女性は、茶褐色の髪をゆるく編み、白い羽飾りを控えめに飾っていた。
真っ白なドレスは銀刺繍のレースで覆われ、他に目立つような装飾はない。
それが、彼女のほっそりとした身体と桃色の肌に、輝くように映えている。
綺麗……。
でも、どうして、あの方だけが白なんだろう?
そう思った時、傍を通りかかる婦人たちの囁きが、耳に入った。
「なんなのでしょう、あの惨めなドレスは」
「クシュリナ様は、法王と不仲だとお聞きしたけれど、あてつけておられるのかしら」
クシュリナ様…って。
女皇陛下だ!
ユリアは吃驚した。もちろんその名前は知っている。
十八歳で女皇に即位され、法王と結婚されて その美しさとしとやかさは、イヌルダで他に並ぶものがいないという……。
本当に、きれいな人……。
息を詰めるようにして、ユリアはクシュリナの横顔を見つめた。
まるで優雅な白鳥を思わせる細い首。少しうつむいた姿は、今にも消え入りそうなほど儚げに見える。
でもどうして、あんなに寂しげで、哀しそうな顔をしていらっしゃるのだろう。戦に出られたという法王様がご心配なのだろうか……。
やがて、クシュリナの姿は人ごみにまぎれて消えた。音楽の調子が変わり、広間にいた者たちが、ぞろぞろと立ち位置を変え始める。
円舞曲が始まるのだと、ユリアにも解った。
どのみち踊る相手もいないし、クシュリナを見失った今、どことなく退屈になり始めていた。
少し……お城の中を見てみようかな。
むろん、勝手にうろうろしてはいけないと言い含められてはいたが、こんな機会は二度とないという誘惑には勝てなかった。
裏の扉を開け、そっと広間を抜け出してみる。
隣室の談話室では、何人かの婦人たちがカード遊びと歓談に興じていた。その場にいるのも気詰まりで、ユリアはさらに、別の扉を開けてみる。
そこは、絵画がずらりと並ぶ回廊だった。絵を追いながら歩いていると、ふっと周囲の明かりが途切れた。どこだろう、ユリアは少し不安になった。
がらんとしたホールである。灯りも人の気配もなく、露台から月光だけがのぞいている。
風が、外の木々を揺らしている。冷たい空気がすうっと背を撫でた。怖くなってきびすを返そうとした時だった。
突然、囁くような話し声が、静まり返った室内に響いた。
「どうしても、考えを変える気はないか、アシュラル」
「言うな、もう決めたことだ」
「サランナ様は恐ろしいお方だ。仕損ねたら、後々までに禍根を残す。お前が決められないのなら、俺が」
「よせ」
「………」
ふいに話し声が止んだ。
どうしよう。
ユリアは息をつめて、自分の胸の鼓動の音だけを聞いていた。
特に意識していたわけではないが、ユリアは大きな柱の影に、隠れるようにして立っていた。ふたつの声は前方から近づき、柱のすぐ傍で止まったような気がする。
どうしよう、これは……聞いてはいけない会話なんだ。
「女、今の話を聞いたか」
怒声を含んだ声が、沈黙を破った。
「……!」
ドレスの裾が、柱の影からのぞいている。
ユリアは肩を震わせた。頭上から有無を言わせぬ気配が近づき、ユリアはあっけなく腕を掴まれ、引きずり出されていた。
「……子供か」
見下ろしているのは、見上げるほど長身の男だった。
ユリアでもよく知っている……黒竜隊の騎士服を着て、口髭を濃く生やしている。鷹のような目つきが恐ろしくて、思わず身体を縮こませている。
「大したことでもない、放っておけ」
低く、きれのある声が、男の背後から聞こえた。
「しかし」
「今更、聞かれたところで、どうなるものでもない」
腕を解かれたユリアは、震えながら顔を上げた。
まず、飛びこんできたのは、眼が痛むほど白く輝く光沢だった。
左肩にかかった真っ白なケープ、金刺繍のチェニック、緩やかに巻かれたボゥ。肩にかかる黒髪が、月明かりに煌いて揺れている。
なんて、綺麗な男の人だろう。
ユリアは息をのんでいた。男性で、これほど端整でなお凛々しく、男らしい容姿を持つ者を、これまでユリアは見たことがない。
少し怖い眼差しをしている。けれど、とても綺麗な瞳だ。
「娘、忘れるんだな、今の話は」
男は低くそう言うと、そのまま、あっさりときびすを返した。
真直ぐな背が遠ざかり、その後姿が、隣室の光に飲まれ、扉が閉まると同時に消えた。
「……舞踏会の客人なれば、失礼いたしました」
残っていた口髭の男が丁寧な口調で頭を下げた。
「お戻り下さい、円舞曲が始まるようでございます」
ユリアは慌てて、男に背を向けて駆け出した。話の意味はひとつも理解できなかったが、命が 気まぐれのような偶然によって救われたのだけは判った。その幸運が背を向けないうちに、一刻も早く立ち去らなければならない。
大広間に戻ると、すでに楽隊が円舞曲を奏でていた。
……?
何か、あるのかな?
壁の隅で、ユリアは周囲を見回した。大広間の中は、不思議なざわめきで満ちている。踊りを踊る者は誰もいない。皆 動きを止めたまま、ある一点を見つめている。
彼らの視線の先を追って、ユリアは自分もその方を見た。
「……あ」
それはまるで、深紅の薔薇園の中に舞い降りた、番いの白鳥のようだった。
白の服に身を包んだ一組の男女が、手を取り合って、踊っている。
あの人だ。
ユリアは食い入るように、男の方の横顔を見つめた。
さきほどユリアを見逃してくれた、あの綺麗な男の人。
彼がその腰を抱き、恋をしていることを隠そうともしない、情熱的な眼差しを注いでいるのは 。
クシュリナ陛下……。
ああ、そうだ。
ユリアは、自分の鼓動が激しく高鳴るのを感じた。
あの人は、法王様だったんだ。だから女皇陛下は、あんなに嬉しそうにしていらっしゃるんだ。
互いを優しい笑顔で見つめ、耳元で囁き合い、時に切ない視線を交わす。それは 幼いユリアの眼にも、熱烈に恋する恋人たちの光景に見えた。
すごく……すてき。
これが、恋というものなんだ。なんて素敵な二人だろう。まるで聖絵の中から抜け出してきたようだ。 ああ、私もいつか、あんな風に自分一人を見つめてくれる人と巡り合える日が来るのだろうか。
曲が止んだ。
人々の輪が離れても、二人は互いの目を見つめたまま、動こうとしなかった。
クシュリナがうつむいて何か囁き、法王が、それに答えた。
そのまま 法王は、静かにクシュリナを抱き締める。
「………」
ユリアは胸が痛むような思いで、その光景を見つめていた。
以来 イヌルダ皇都の象徴とも言える二人の存在は、ユリアにとって憧れの全てになった。
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