3
 
 
 震える肩に、誰かが毛布のような物をかけてくれた。
「クシュリナ様、そのままでは、お風邪を……」
 誰の声も、耳には入らなかった。
 岸に立ちすくんだまま、あさとは待った。ジュールが琥珀を引き上げてくれるのを、ただ待っていた。
 川の流れは、いまや激流に転じていた。川沿いを、法王軍が血相を変えて歩き回っている。
 レオナは無事で、全くの無傷だった。騎士たちが、濡れた衣服を着替えさせ、冷えた身体を暖めるために、火の傍に連れて行ってくれた。
 あさとはただ、待ちつづけた。
 絶望的な思いと戦いながら、ただ、ジュールが戻ってくるのを待ち続けた。
 その時だった。
     法王様!」
「ご無事なのですか!」
 そんな声が、水流の奏でる轟音にまじって届いてきた。
 あさとは毛布を払いのけて、駆け出した。少し離れた岸辺に、人の輪が出来ている。
     琥珀。
 人の輪はすぐに割れ、その中から出てきたのは、ジュールだった。
 彼もまた、全身から水を滴らせ、その腕に    琥珀が横抱きに抱かれている。
「……こ」
     ラッセル。
 琥珀は力を失い、頭をジュールの肩に預けたまま、意識を失っているようだった。
 ジュールは、周りから人を遠ざけると、抱えた身体に覆い被さるようにして、    そのまま、そっと、動かない身体を岸辺に横たえた。
 離れた場所からでもはっきりと判る。琥珀の身体は、無反応だった。
「法王様!」
「法王!」
 たまらず、駆け寄ろうとする騎士たちを、ジュールは鋭い眼で一瞥した。
「クシュリナ様以外、誰も寄るな!」
 あさとは、目の前が暗く濁っていくのを感じながら、二人の傍に駆けていった。
 ジュールは無言で立ち上がり、あさとのために場所を譲ってくれる。
     琥珀……。
 駆け寄って、その傍らに膝をついた。
 蒼ざめた琥珀の顔。それは、肌を弾く日光でさえ、月の光りを思わせた。
 何故か、彼の右眼を覆うように、頭部全体が黒い布で覆われている。
 何時の間に、    と、あさとは思った。わずかの間に、ジュールがしたことだろう。こんな時にも、彼はアシュラルの代役なのだ。
 そっと、指先で心音を探る。彼の心臓は、まだ停まってはいなかった。
「水を吐かせなきゃ」
 あさとは振り返り、立ち尽くしたままの男に言った。苛立っていた。どうして    ジュールは、何もしようとしないのだろう。
「水中で気を失ったのでしょう、水は飲んでいないようです」
 返ってきたジュールの声は、冷静だった。けれど、どこか、いつもの彼とは違って見えた。
「下流で、岸から伸びた木の枝に、すがるように掴まっていました。溺れていたわけではありません」
「……じゃあ」
 何故、琥珀は眼を覚まさないのだろうか。
 あさとは、彼の冷えきった頬を抱いた。
「ラッセル、ラッセル……? 眼を覚まして」
    アシュラル様は……」
 その傍らに立ったまま、ジュールは低く呟いた。
「アシュラルは、死んだのですね」
「………」
 あさとは眼を見開いたまま、一瞬言葉を失っていた。哀しい、余りにも辛い現実。認められない、まだ、事実として受け入れられない。
「はっきりと……確認したわけじゃないわ」
     別れた時、彼はまだ生きていた。確かな体温の温もりがあった。
 もし、もし、彼もまた、脱出することが出来ていたなら。
 けれど、ジュールは、ゆっくりと首を振った。
「城は全焼しました……残っていたのなら、生存の可能性はないでしょう」
 そして、深い息を吐いた。
 この吐息が、兄の現した感情の全てだった。
「…………」
 あさとは足が震えるのを感じた。アシュラルは死んだ    死んだ? 本当に? そして今は   
「ラッセルは大丈夫なの?」
 もう一人の分身もまた、その後を追おうとしているのだろうか。
 あさとはその冷たい唇に触れてみた。わずかだが、確かに彼は呼吸をしている。脈もある。なのに    意識だけを失っているのか、力なく眼を閉じたまま、表情になんの反応もみられない。
「ジュール、お願いだから、……何か言って」
 あさとは懐疑の眼を上げた。ジュールは、水を飲んでいないといった。溺れたわけではないといった。ならば何故、目の前の男はこんなに沈鬱な眼をしているのだろうか。何故琥珀の意識は戻らないのだろうか。
「昨夜……」
 ジュールは、そこで、苦しげに言葉を詰まらせた。
「彼が法王軍に合流した時から、様子がおかしいとは思っていました」
「…………」
     どういう、こと……?
「瞳孔に特徴的な変化が見られました。しきりに指が震えるのを気にしていた……おそらく、毒物を飲まされたのでしょう」
「………………」
     あの時の、毒薬……。
 あさとは、茫然と、記憶の断片を思い浮かべた。
 ここへ来たとき、天幕の中で眠っていた男。あれは    最初からアシュラルではなかった。
 あの中には本当に偽者の法王が、素顔を決して人前に晒してはならない男が    ラッセルがいたのだ。
     では、ここへ来る道中、落馬した状態で倒れていたというのは……。
 アシュラルのことではなく、ラッセルのことだったのだ。
     あ……。
 頭が真っ白になって、あさとは両腕で、身体を支えた。
「……彼は……」
 震えながらあさとは言った。
「彼は、毒には耐性があると言っていたわ………」
 振り向いたジュールは、何か問い掛けようとして、あきらめたように口をつぐんだ。そして、うつむいたままで呟くように言った。
「皇室を警護する者として、毒殺は、常に警戒しなければなりません。……ラッセルも私も、ごく少量の毒を少しずつ摂取することで、多少の毒薬による中毒には、免疫ができていますが」
     嘘よ……。
 あさとは琥珀の冷たい頬に触れた。濡れてはりついた髪を指で分けた。
「………完全に耐性があるわけではない。毒の力が強ければ、……同じことです」
     そんなの、嘘よ………。
「この包帯は、火傷の傷を外気から護るためです」
 ジュールは横を向いたままで言った。
「……お気づきになりませんでしたか? 右目周辺に、酷い火傷痕があった。……おそらく、河川に飛びこんだ時点で、ラッセルの右目はほとんど見えていなかったはずです」
「………」
 震える指先で、右目を覆う黒い布に触れた。それは、よく見れば、ジュールの衣服を裂いたものだった。
 あの時だ。
 あさとには、すぐに判った。
 階段で、下から巻き上げる焔に包まれた時だ。どれだけ痛かったろう、苦しかったろう    琥珀は何も言わなかった。苦しいとも辛いとも、彼は一言も漏らさなかった。
 アシュラルとラッセルは……。
     不思議な絆で結ばれている。
 あれは、ロイドの言葉だった。
 あさとは、その言葉の持つ意味を考えた。それを理解するのが怖かった。
     アシュラルが傷を負えば、ラッセルもまた、同じ場所に傷を負う。
 それは……。
     アシュラルの命が尽きれば……。
「もう……無理なの……?」
 震える声で、あさとは訊いた。
「……眼を覚まし、あなた様の後を追って城に飛び込んで行った……それさえ、奇跡のようなものでした。……ラッセルの強靭な精神力ゆえでしょうが……」
「見込みはあるの?……それともないの?」
 ジュールはそれには応えなかった。
 胸がもの苦しく痛み、強い憤りで締め上げられるようだった。ラッセルの命は     今、アシュラルと同じ運命を辿ろうとしているのだ。
「ラッセルは、この瞬間法王アシュラルになりました。……彼は、法王として死なせなければなりません」
 ジュールは、自分に言い聞かせるように    感情を押し殺すように言って、あさとを見下ろした。
「………」
 足元が揺れ、視界が滲んで暗くなった。喉の奥に石がつかえて、声が上手く出てこない。
「……どうして……」
 涙を    ぎりぎりで飲み込んで、まだ諦めてはいけないと、必死に自分に言い聞かせる。
 まだ    方法はあるはずだ。少なくとも、琥珀だけは助かる方法が。
「ジュール、お願い」
 あさとは背を向けたまま、背後に立つジュールに言った。
「……私とこの人を二人にして……しばらく誰も、近づけないで」
 ジュールは黙って、あさとの言葉に従ってくれた。
「……琥珀」
 あさとは、琥珀の動かない頬を叩いた。
「琥珀……、琥珀、お願いだから目を覚まして」
 耳元で小さく叫んだ。
「このまま、死んでしまうつもりなの? あなたは琥珀なんでしょう? このまま、ラッセルと一緒に逝ってしまうの?」
     ラッセル……。
 ラッセルの言葉、声、控え目な笑顔、静かで綺麗な眼差し。子供の頃から、彼だけを見つめて、恋して    そして、一度は、憎んで、恐れて、……そして。
 涙が溢れ、それは止まらずに頬を伝い、ラッセルの唇に落ちた。
 死なないで、ラッセル、      琥珀!
「琥珀!!」
 全身の力で揺すった。
     ラッセル……」
 閉じられた男の瞼は、無反応のままだった。揺すられて、腕が地面に落ち、顔が傾いた。
「……琥珀……」
 涙が、後から後から頬を伝った。
 これが結末? これがこの旅の終わりなの?
 辛すぎる、哀しすぎる。    クシュリナの魂は解放された。でも、私は。
     私は、どうなってしまうの………?
 
 
      あさと……。
 
 静かな声がした。
 本当に静かな、風がそよぐような声だった。
 あさとは最初、それが誰の声なのかわからなかった。
 
     あさと……ありがとう、私たち、ようやくひとりの私になれた。
 
「雅………?」
 あさとは天を見上げて呟いた。
 雅の声    ひどく昔、聞いたことのある彼女の声。
 穏やかで、優しい声、    こんな声で、私たち、昔から語り合っていたような気がする。
 
     帰ろう、あさと、私たちの時へ、元の世界へ。今なら私、みんなを導くことができる。

 みんなって……? 琥珀も? 小田切さんも?

     琥珀は……今なら間に合う。私が連れて戻ることができる。
 
 小田切さんは?
 
     ……あの人は、……私の力では。
 
 もう、駄目なの? 本当に彼は死んだの?
 
     ……判らない……彼の心は、私とは別の場所にあって……たぶん、ずっと、最初から。
 
 どういう意味? 雅、……雅、小田切さんは、
 
     あさと、このままだと琥珀は本当に死んでしまう。手遅れになる前に、……あさと、戻ろう、みんなで戻ろう。
 
 ………どうすればいいの?
 
     あさとは願うだけでいいの。元の自分に戻ることを、強くイメージするだけで大丈夫。後は私に任せて……今ならまだ、私がこの時の狭間を行き来できる。でも、これが本当に最後のチャンス。結界が、壊れようとしているから。
 
 どういう意味?
 
     その世界を干渉から守る力が……多分、復活しかけているの。
 
 雅の声が、頼りなく揺れている。時間がないんだ、あさとは焦ったまま、言葉を続けた。
 
 この世界は、どうなるの? 私たちがいなくなって、……ここは。
 
     それは、私にはわからない。ここは、いずれ、私の手を離れてしまう。……残された者に、任せるしかないの。無責任なようだけど……信じるしか。
 
 雅、……待って、雅!
 
 声とイメージが遠ざかり、虚空の彼方に消えて行く。   
 
 
 
 忘我していた状態から放たれ、あさとは、ぼんやりと顔を上げた。
     帰れる……?
 帰れるんだ……元の世界に、元の時間に。
 理由も方法もわからない。けれど確かな確信があった。ここで念じれば私は瀬名あさとに戻ることができる。旅は終わったのだ。この世界での長い旅が。
 私も、琥珀も、    そして、小田切さんもそうだと信じたい。
 やるべきことは全てやった。そして、赦された。繋がれた闇から開放された。 そう    私たちは    帰ることができる。
     琥珀………。
 あさとは、動かないラッセルの顔を見つめた。少なくとも、彼の中の    琥珀だけは助かるのだ。
 悲しみが癒されたわけではない、けれど、絶望の闇の中に、かすかな光が差しこんだようだった。
      帰れるんだ……私たち……本当に……。
「クシュリナ様」
 背後で、ジュールの声がした。
 あさとは、刹那、それが自分の名だということを忘れていた。
    クシュリナ様?」
「………」
 は、と我に返り、あさとは振り返る。
 ジュールは    彼は、事務的な、いつもの冷静さを無理にでも取り戻そうとしているようだった。
 ぐっと唇を噛み、ラッセル    琥珀を見つめ、ジュールは、鉄面皮に戻った顔を上げた。
「法王様のことは、私どもにお任せ下さい。ロイドが手配していた薬が、今、蒙真の隠邑から届きました。すぐに天幕で手当てを施します」
「…………」
「ロイドは、アシュラルからあらゆる薬の調合を学んでいます。あるいは、毒消しの処方に成功するかもしれない」
「…………」
 助かる見込みがあるのだろうか。
 蒼く冷えた彼の額を見つめながら、あさとは    その可能性が殆どないことを感じていた。
 そして、思った。
 今、死のうとしているのは……。
     ラッセルだ。
 琥珀ではない。ラッセルの命の火が、ここで尽きようとしている。
 そして、城の中で焔に包まれて逝ったのは。
      アシュラル……。
 小田切ではない。アシュラルその人だった。
 けれど、あさとが愛したアシュラルは、アシュラルその人ではあり得ない。あさとがそうであるように、小田切がいてのアシュラルであり、アシュラルがいての小田切だった。どちらか一人だけでは、決して愛せなかったような気がする。
 あさとはもう一度琥珀を見た。
 琥珀も同じだ。あさとは思った。この世界で、あさとが好きになったラッセルは、琥珀がいてのラッセルであり、決してラッセルそのものではない。無論、琥珀そのものでもない。
 例え、二人の中で、琥珀と小田切が覚醒していなかったとしても    彼らの存在が、彼らの抱えていた記憶が、    この双子の兄弟に影響を与えなかったはずはないのだから。
 そして………。
 あさとは、自分の目を、新しい涙が濡らすのを感じた。
      アシュラルが、好きになってくれたのは、
 私だ。
 瀬名あさとではない、クシュリナでもない。
 クシュリナがいて私がいて、……二人が合わさったからこそ、私たちはお互いを好きになることができた。
      ラッセルが、命を賭けて護ってくれたのは、
 私だ。
 瀬名あさとではない、クシュリナでもない。
「クシュリナ様、……お辛いでしょうが、号令を」
 ジュールが沈鬱な声で言った。
「法王様が動かれない今、法王軍を指揮できるのは、陛下しかおられません」
「………」
 あさとは考えた。目を閉じて    長い間考え続けた。
 その目から、静かな涙が頬を伝った。
      私、ここに来てから、いっぱい泣いた。
 それが少し可笑しかった。瀬名あさとは、そう簡単に泣いたりしない女の子だったのに。これはクシュリナの性格がどこかで強く影響しているのかもしれない。
 泣くのは、これで最後にしよう。
 あさとは思った。
     アシュラル……。
    お前の役目はまだ、終わってはいない。)
 そうだね、……そうなんだ、私の役目はまだ、終わってはいない。
 あさとは涙を飲みこんだ。
    三年でいい、辛抱して生きてくれ。……三年たったら、……そうだな、許してやろう。)
「馬鹿、……死ぬ時にまで強がらなくてもいいのに……」
 寂しがり屋のくせに。
 眠る時でさえ、私の手を離さないくせに。
「……クシュリナ様……?」
 ジュールが、けげんそうに呟くのが聞こえた。
 あさとは顔を上げた。
「行こう、ジュール、法王軍は私が指揮をとる」
「………」
 そして、どこか呆然とあさとを見つめるジュールに、しっかりとした微笑を返した。
 さようなら。
 さようなら、雅。
 小田切さん。
 お父さん、お母さん。
 それから   
     琥珀……。
 空は抜けるような晴天で、日差しは緩やかに大地を照らしていた。
「予言の時代は全て終わった、これからの時代は、私たちが作るんだから」
 あさとは前を見つめて言った。
 
 
 
 
 
 
                4
 
 

 賑やかな打ち上げ花火が、聖誕祭の前夜を揺らしていた。
 ここから見渡せる多摩川周辺で、クリスマスのカウントダウンパーティが行われているらしい。
 午前ゼロ時の合図とともに、色鮮やかな色彩が弾け、冬の夜空に踊っている。
 締め切った窓辺で、闇に散る焔の断片を目で追いながら    瀬名志津子は、涙が流れるままに任せていた。
 ふと背後に、人の気配を感じた。
 窓ガラスに、背の高い男の影が映っている。
 志津子は振り返らなかった。
 男は    風間は、何か言いかけたようだったが、そのまま動かず、黙りこくっていた。
「あなたに……黙っていたことが、あります」
 前を見つめたままで、志津子は言った。七年間、心にずっと溜まっていた澱が、止まらない涙と共に、夜空に吸い込まれていくような気がしていた。
「七年前の今日、小田切君と一緒にいたのは」
「知っています」
「…………」
「僕は知っていました。あなたがずっと苦しんでいたのも。……その気持に、最初からつけこむつもりで先生を利用したんです」
「…………」
「……許して下さい」
 やはり、この男は想像以上に狡猾で頭がいい。
 志津子は涙を拭うことも忘れたまま、苦笑して首を振り、夜空を飾る花火に視線を戻した。
 男の視線も、闇を震わす花弁に注がれている。
 何か口にすると、全てが無意味になってしまいそうだった。
「………僕は」
 やがて風間は、静かな口調で呟いた。
「僕は、多分、忘れないでしょう」
 志津子は無言で頷いた。今の会話のことではない。彼が何を言いたいのか、解りすぎるほど解っていた。
 彼らはその夜、ひとつの美しい絵画を見たのだった。
 それは    奇跡以外のなにものでもなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 第五部 終
 

BACK    NEXT    TOP
Copyright2009- Rui Ishida all rights reserved.