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琥珀はユーリの指示どおり、南側の部屋に飛び込んだ。そのまま、窓を破ってテラスに出る。
冷たい風。ようやく熱から解放され あさとは、男からレオナを抱き取り、抱き締めた。
のぞきこんだあどけない顔は、この状況を知ることもなく、無邪気な笑みを浮かべている。
そして、隣に立つ琥珀を見上げた。額から落ちる髪で影になっている彼の顔は、どこか……いつもより苦しげに見えた。
「……琥珀?」
彼は無言で焼け落ちた木の一切れを掴むと、それを思いっきり外に向かって放り投げた。
まばゆく輝く焔が、闇の中にきらめいて消える。
手が焼けるのもかまわず、彼は二度、三度同じ真似をした。
彼が何をしているのか、あさとには判らなかった。
「ジュールは……おそらく知っている。何故なら、この方法で、ユーリは我が子を逃がしたからだ」
呟いた琥珀は、初めて暗い目をあさとに向けた。
「お前、泳ぎは駄目だったな」
焔は、窓を破り、テラスに立つ二人を轟音となって舐め上げていた。ようやくあさとは理解した。ただ焔から逃げるのに必死で、その先のことなど考えもしなかった。琥珀はここから 飛び降りるつもりなんだ。この闇のような崖の下へ。
そんな真似ができるとは思えない、が、生き残る術はそれしかなく、躊躇する間がないことも明らかだった。
あさとはテラスの下方を見下ろした。この城に辿り着いたとき、崖下には確かに、激流が流れている気配があった。
けれど今、闇のように広がる黒い水面は、恐ろしいほど静まり返っている。
「俺が先にその子を抱いて飛び降りる。子供を無事に岸に上げたら、お前もすぐに飛び降りろ」
「………」
「水深は十分にある。身体を垂直にしてまっすぐに落ちろ、着水に失敗しなければ、絶対に大丈夫だ」
ここから下まで、高さにして、ビルの十階くらい 約二十メートルほどだろうか。見下ろすだけで眩暈がするような高さである。
暗闇の入り口のような暗黒の水面。
あさとには、それが、 この世界の旅の終り、予定された死の淵に見えた。
足がすくんだ。できるだろうか それだけの気力が、今の私にあるだろうか。
いや、気力など、最初からない。
あさとは、自分が、死の渇望に取り付かれていることを自覚した。
レオナさえ助かればそれでよかった。もう 私の役目は終わったのだ。この世界の秩序を破壊して死んだ、アシュラルと同様に 。
あさとは琥珀を見て、そして目を逸らしてから頷いた。
「判った……レオナを、お願い……」
琥珀とレオナさえ助かればそれでいい。
それを見届けたら、 私は。
私は、あの人の傍に行きたい。
アシュラルと一緒に、死にたい……。
いや、違う。
「…………」
あさとには判っていた。
死んだ夫の後を追いたいのではない。ここにいる 琥珀と共に、生延びる自分が許せないのだ。
彼が待つ水の中へ身を投じることはできない。アシュラルを置いて、彼と生きる、そんな自分が許せない。
ふいに、琥珀の腕が、あさとの両肩を抱いた。きつく、抱きすくめるように、強く抱いた。
「信じろ」
心ごと、突き刺すような声だった。
「絶対に、俺が助ける」
「………」
琥珀はそのまま、あさとからレオナを抱き取った。
抱きすくめ、その頭部を護るように抱えると、彼はもう一度あさとを見た。
その眼差しは、ラッセルだった。
優しく、穏やかで、まっすぐな、昔からよく知っているラッセルの眼差しだった。
琥珀。
彼の足が、敏捷にテラスの柵を蹴った。
「……琥珀!」
柵に駆け寄り、手すりにすがったまま、あさとは落ちて行く影を見守った。
琥珀、レオナ……。
息ができない。心が壊れてしまいそうだ。
長く尾を引く水音、同時におおっという歓声とも悲鳴ともつかない声が、眼下からあがった。
背後で、焔が鋭く弾けた。もう、この場所も限界だった。
あさとは、胸に収めていた雪白桜の短剣を取り出した。胸にあてた。眼を閉じた。
「 瀬名!」
「…………!」
琥珀が呼んでいる。
それは幻聴に違いなかった。それでもあさとは、はっとして、闇に広がる暗い水の流れを見下ろした。
静かだった流れが、次第に勢いを増しつつある。
流れをせき止める力に、限界がこようとしているのだろうか 。川が、元の激流に戻ってしまえば。
「 琥珀!」
あさとは叫んだ。
涙が溢れた。
行くしかないのだと、そして、ようやく理解した。
琥珀は決して、逃げたりはしないだろう。どんな激流が襲ってきても。自分がこの場所から飛び降りない限り。
溢れ出る涙を拭い、あさとは手すりに足をかけた。かけると同時に、熱が回っていたのか、それはもろく崩れ落ちた。
バランスを崩し、あさとは落下していく自分を感じた。黒い水面が、恐ろしいほど急速に迫ってくる。
琥珀の姿を探す余裕はなかった。
名状しがたい衝撃、そして、全身が暗い水底に沈んでいく。
…冷たい……。
地獄のような熱波から解放された身体。
沈んで行く感覚 底へ、底へ、さらに底へ。
遥か底に、淡い光りが満ちていた。
お父様……。
あさとは呟いた。
氷のように冷たい目をした父が、鞭をふるっていた。
お母様……?
憎しみに顔をゆがめ、怒声をはりあげている義母の顔があった。
サランナが、あざけるように笑っている。
アシュラルがその隣で、腕を組んだまま冷笑している。
ラッセルが、憎悪の視線で見上げている。
みんな。
みんな……。
涙が溢れた、それは水に溶けて、流れて、やがて自分の身体ごと周囲の水流に溶けこんでしまうような感覚に変わっていく。
哀しみで胸が塞がれる。息ができない。悲しくて、哀しくて、ただ、………涙がとまらない。
……ナ……。
どこかで自分の名を呼ぶ声がした。
それが、瀬名なのか、クシュリナなのか、あさとにはわからなかった。
背後から、強い力で抱きすくめられた。
あさとは肩越しに、抱き締める者を見上げた。
「琥珀……」
声を出さずに呟いた。
琥珀……。
大丈夫だ。
どこかで、琥珀の声がした。
大丈夫だ、もう終わったんだ、もう、お前は大丈夫だ。
それはあさとでなく、他の誰かに向けられた言葉のようにも聞こえた。
強い力が、ぐいぐいと身体を引き上げていく。
光りの輪がみるみる小さくなり、やがて全てが闇に飲まれた。
終わった……。
強い力に全てを任せたまま、あさとは、ぼんやりとそう思った。
悪い夢は全て終わった………。
まるで、吸引されるように、急速に、あさとの身体は水面に引き上げられていく。そして唐突に、頬に冷たい空気が触れた。
「………っ」
呼吸を求めて、あえぐように顔を出した。
現実がそこにはあった。
背後から抱くようにして、水を掻き分ける琥珀の顔が、肩越しに見え隠れする。
水面から、岸に駆け寄る法王軍の騎士たちの姿が見えた。何人かが、甲冑を脱ぎ捨て、飛びこんでいる。
残る者たちは、一様に空を見つめていた。
「……?」
闇のように黒かった水面に、光の粒子が煌いている。
何……?
あさとは、琥珀にすがりながら、天を仰いだ。
これ、は……。
闇が、
まるで、光に滲むように溶け出している。
それはゆっくりと、そして、急速に速度を増していく。
射るような光の矢、闇は輝きに飲まれ、消え、世界一面に燦然たる光が満ち溢れた。日差し、太陽、青い空と柔らかな雲間。
夜は、
あさとは呆然と、空を見上げた。白く輝く太陽を見上げた。
夜は、とっくに終わっていたんだ………。
「……琥珀」
振り返ろうとした。
自分の身体を抱いている彼の腕が、ふいに解けた。
「……?」
水面でわずかに顔をあげたのを見たのが最後だった。その眼差しから、すでに表情が消えている。
力を失った腕だけを残し、彼の顔が水没した。
「……琥珀?…!」
がばっと、口に水が入った。その刹那、あさとの身体を、別の腕がしっかりと抱き支えた。
「クシュリナ様」
いつの間にか泳ぎ着いたのか、それはジュールだった。
彼は琥珀よりもさらに力強く、あさとを引き上げ、水上に押し出した。
「ジュール、こ、 ラッセルが」
あさとは振り向き、水を飲みそうになりながら懸命に叫んだ。
水流は、勢いを増しつつある。
「ラッセルを助けて! 早く!」
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