今日、私が言ったことを忘れないでね。
絶対に忘れないでね。
そうだね、静那。
僕の、負けだ……。
第12章 奇跡
1
あさとは、琥珀に手を引かれて走った。熱波と焔をかいくぐるようにして。
ラッセル 琥珀。
男の片腕には、しっかりとレオナが抱きしめられている。
琥珀………。
足がもつれ、崩れかけた身体を、男の腕が素早く支えた。
「大丈夫か」
「………」
自分の足が、彼の速度に追いつかないことは判っていた。それだけではない、右腕にレオナを抱き左腕であさとの手を引く琥珀は、両腕を塞がれた状態で、なおかつあさとを庇いながら駆けているのだ。
足手まといになっているのは明らかだった。 私さえ置いていけば、レオナと そして琥珀は助かるかもしれないのに。
あさとは何度か、彼の手を振り解こうと試みた。が、琥珀は、繋いだ手を決して離そうとはしなかった。
ふっと、意識が飛んでしまいそうなくらい熱かった。壁が瓦解するたびに吹きつける熱風。肌を焦がす火の粉。眩暈がして足もとが揺れた。もう、生きて ここを出ることは無理なのではないか そう思うほどに、焔の回りは速かった。
琥珀は、あさとが出てきた扉をくぐり、階段を駆け下りようとした。
しかし、そこは、もう階下から火が吹き上げている。
「 !」
轟音と共に熱波がきて、波のような火塊が二人を襲った。
「きゃあっ」
あさとを肩で押しのけた琥珀は、身体を折り曲げるようにしてレオナに覆い被さった。その刹那、彼の右肩めがけ、焔が舐めるように襲いかかる。
「 琥珀!」
彼の腕に絡みついた火を、あさとは必死で叩き消した。
「平気だ、構うな」
琥珀は、あさとを背に庇いこむように後退し、そして、元いた部屋に戻って扉を閉めた。
大きな背中が、荒い呼吸を繰り返している。
彼は背後を振り返った。髪が乱れ、ところどころ焼け落ち、煤で汚れた顔半分を覆っている。
部屋の中は、壁にも、天井にも、焔が渦巻き、二人の行く手を遮っていた。
「………」
「………」
二人の呼吸と視線が合った。
暗く、激しい眼差し、唇で押し殺されている感情。
琥珀……。
全て彼のものだった。それと意識してしまえば、目の前の男は、すでにあさとにとっては、ラッセルではなく琥珀そのものだった。
そして、今、かつての琥珀の表情を知っているあさとには判った。琥珀はまだ、 微塵も諦めてはいない。
ものも言わず、再びあさとの手を掴むと、琥珀は焔の比較的少ない個所を選んで走り出した。
怖い。
火勢の激しさで足がすくむ。
それは死の淵へ突入していくに等しい行為だった。
ふいに男は足を止めて、振り返った。抱いていたレオナをあさとの胸押し戻す。
琥珀……?
次の瞬間、あさとは琥珀に抱きあげられていた。胸に抱いた赤ん坊ごと、しっかりと横抱きにされた。
逆らう間も、拒む間もなかった。そのままの姿勢で彼は駆けた。焔が髪を焦がし、額を紅く染めている。
こんなこと、前にもあった……。
耳に押し当てられた胸。その鼓動を感じながら、あさとはかつて、彼と共に旅をしたことを思い出していた。
あの時も、彼はこうして有無を言わさずに抱き上げてくれた。もしかして、あの時、すでに琥珀は……。
その想像は、あさとに苦痛を覚えさせるだけだった。あさとは、琥珀への恋を永久に失ったことを知っていた。
彼が目指していたのは、隣室へ抜ける扉だった。
扉を、肩で叩き壊すようにして押し開け、開いた部屋に飛びこんでいく。
その部屋も、さほど状況は変わらない。しかし二人の背後で、今までいた部屋の壁が、間一髪の差で瓦解した。
「………」
建物の崩壊していく不気味な音が、焔の中で、いつまでも、木霊のように響いている。
琥珀は肩で息をしていた。こんなに熱いのに、彼の身体、触れる指先はひどく冷たい。
そのまま男は、壁際まで走った。燃える窓枠。それをものともせずに、肘で叩き割ると、ようやく澄んだ空気が肌に触れた。
外は、漆黒の闇だった。
夜はまだ明けていない。
なんて長い夜だろう。
男の腕から解放されたあさとは、新鮮な呼吸をもとめ、喉をあえがせた。
絶望的な闇の濃さ。
いつになったら、この夜は明けるのだろうか 。
窓の下には、松明のかがり火が揺れている。その周辺には法王旗がひしめいている。忌獣が出ないことが判ったのか、援軍がさらに駆けつけ、城の周りを取り囲んでいる。
けれどそれは、今の二人にとっては、何の意味もない光景だった。少なくとも飛び降りて、そして生き残ることは絶対不可能な高さである。
耳元で焔がはぜる。
死ぬんだ。
あさとは琥珀を見上げた。別の方角を見ている彼の表情は判らない。
が、もう逃げ場はない。階下にも、そして上にも火の手は回っている。
ここで 琥珀と、この子と……死ぬ。
死ねば……どうなるのだろう。私の心は、そして、琥珀の心は。
元の身体に戻るのだろうか それとも……。
背後を振り返った彼の横顔が、ふいに鋭く緊張した。
あさとは、琥珀の視線を追った。
「……クシュリナ……」
焔の向こうから、蜃気楼に揺れる人影が近づいてくる。
ユーリ……?
その声は、確かに サランナがその命を奪ったと言ったはずの、幼馴染のものだった。
あさとは、夢を見ているのではないかと思った。
影は、次第に確かな輪郭に変わっていく。
ユーリだった。彼は、流れるような白のガウンを羽織り、一人の女を、横抱きに抱いていた。
焔で紅く照らし出された男の顔は、燃えさかる漁火のように美しかった。
「サランナ……」
あさとは呟いた。抱かれているのは、妹だ。それはもう骸なのか、男の肩に顔を預けたまま、力なく腕を垂らしている。
「サランナ、……ユーリ」
あさとは弱々しく、二人の名を呼んだ。
ユーリは静かに微笑した。そして、ゆっくりと その視線を、あさとの隣に立つ男に向けた。
「……ラッセルか」
琥珀がわずかに頷いた。
「アシュラルは、……死んだか」
「………」
あさとは答えられなかった。死んだのだろうか 本当に、あの人は死んだのだろうか。
「放っておけばいいのに、俺を助けたばかりに逃げ遅れたか。……本当に馬鹿な男だ」
口調とは裏腹に寂しげな笑いを浮かべ、ユーリは優しい目であさとを見つめた。
「君の子供だ」
「…………」
「父親に助けられた。俺では、火からその子を護るので精一杯だった、……よかったな、クシュリナ……」
ユーリ……。
自分の目に涙が膨れ上がるのを感じ、思わず、抱いていたレオナに額を寄せていた。
こんなに 多くの人たちに護られて、この命は生を繋いだ。なんとしても、なんとしても生かさなければならない。ここで、私が諦めてはいけないのだ 。
涙を飲み、ユーリの傍に駆け寄ろうとして、そして気づいた。彼の眼が、ひどく虚ろで まるで、生の気配が感じられないことに。
ユーリ……?
幽鬼のような男は、静かな口調で続けた。
「ラッセル、お前に頼みがある。俺の子供を、侍従と共に先に逃がした。……多分、法王軍に投降しているはずだ。お前に……託したい」
再び、琥珀が頷く気配がする。
ユーリは、ようやく安堵したように、優しく笑った。そして、ゆっくりと視線をあさとの方に戻した。
「ここをまっすぐ、南側の部屋に行け、……テラスの下に川が流れている。普段は人を寄せ付けぬ激流だが、数刻に一度、わずかな時間だけ、流れが止まる時がある。……上手くいけば、助かるかもしれない」
そのまま、ユーリは背を向けようとした。
「ユーリ」
あさとは叫んだ。
「あなたはどうするの?」
彼の行く手は、南ではない。
「川の流れを止めるためには」
琥珀が、初めて口を開いた。
「堤防となる柵を下ろさねばなりません」
「知っていたのか、……さすがはラッセルだな」
どういう意味……?
訝しむあさとを見つめ、ユーリは儚げな笑みを浮かべた。
「……俺は、こいつをつれて逝く」
「ユー……」
はじめて、あさとは気がついた。彼の白い衣装に、その腰から下の部分に、紅い沁みが広がっていることに。
そうして同時に気がついた。ユーリは……今、自らの手で、河の流れをせきとめようとしているのだ。私たちを、助けるために。
殆んど血の気を失った蒼白な顔で、幼馴染は微笑した。
「……この馬鹿は、最後まで俺の気持ちに気がつかなかったらしい」
ユーリ………。
涙で、二人の姿が滲んでいく。大切な友達と、そして たった一人の妹が……今……。
「許せ、お前の妹を俺にくれ。こいつをこのまま死なせてやってくれ」
彼はそう言うと、抱いたままのサランナの額に唇を寄せた。
「幸せにする……」
サランナの白い腕が、微かに反応したような気がした。
けれど、その頤は動かなかった。
ユーリが踵を返そうとした刹那、妹の胸元から何かが滑り落ち、それは音をたててあさとの足元に転がってきた。
石……?
一度はユーリから託され、サランナの手に渡った……血と焔を宿した石。
運命のように、あさとは初めてその意味を理解した。判った、これが これが、シーニュの心臓だったんだ……。
「君のものだ」
ユーリの囁くような声が聞こえた。
「君のものだった、……最初から」
拾い上げた石は、すでに亀裂を生じ、生来の光を失っていた。
あさとはそれを握りしめ、はっと顔をあげていた。
「ユーリ!」
すでにユーリは背を向けていた。黒煙に包まれた二人の姿が、焔に飲まれるようにして遠ざかっていく。
さようなら、ユーリ。
さようなら、サランナ。
出会いがあれば、必ず人は別れるのだと、 あさとは、涙があふれるままに、その寂しさを噛みしめていた。だから、愛しい、だから 人は、きっと互いを切ないまでに求めるんだ。
「行こう」
琥珀の声が促した。彼は再び、己が手であさとを抱こうとした。
あさとは首を横に振った。「大丈夫、もう遅れずについていくから」
わずかに頷き、彼はあさとの手を握った。
琥珀……?
ひどく冷たい指が、微かに、痙攣でもするように震えていた。
あさと……。
琥珀と共に走っていたあさとは、はっとして顔を上げた。
雅の声だった。
焔がかもし出す轟音に交じって、あの夜の、雅の声がした。
…あんたのこと、今でも大嫌い。
雅なの?
走りながら、あさとはを全身で雅を探した。
だけど、許してあげる………あんたも、琥珀も、もう十分に苦しんだから……。
さよなら。これで、全部おしまい。
声は途切れ、あとは瓦解の音にかき消された。
雅……。
あさとは、自分の眼を新しい涙が伝うのを感じた。
雅、私はあなたを 救うことができたのだろうか。
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