15
 
 
 ICUでは、懸命な救命措置が続いていた。
 志津子は時計を見た。視界は、短針と長針の区別がつかないほどに滲み、焦点は虚ろに定まらなかった。
     二十分……。
 心肺機能が停止してから、それだけの時間がたっている。
 通常、一時間が蘇生限界とされている。
 けれど例え    今、心肺機能が回復したとしても、彼には    小田切には……。
 脳死、という現実が待っている可能性が高い。
「くそっ……」
 傍らの風間が、両拳で壁を叩いた。彼はもう、目を赤く泣きはらしている。
 いつのまにか、ICUの中は静かになっていた。
 抗菌服を脱いだ看護士が、扉を開けて中から出てくる。その顔には、疲れと諦めが滲み出ている。
 志津子はたまらず、その脇をすり抜けるようにして、室内に飛び込んだ。
    小田切君!」
 上半身裸のまま、彼は寝台の上で仰臥していた。
 閉じられた目。薄く開いた唇、そして、色味を失った肌。
 傍らの医師が、志津子を制止しようとする。
 志津子は構わず、枕もとに駆け寄ると、動かない元研修医の肩をゆすった。
「小田切君、死んじゃ駄目、あなたが死んだら、誰が静那さんの幸せを証明できるの!」
     彼女は幸せだった。
 今、志津子はそれを確信していた。恋の一瞬は永遠なのだ。それがいくら儚くとも。それが、人が生きている限り、求め続ける至福なのだから。
 小田切が、小田切だけが、彼女の幸福の瞬間を知っている。
「あなたが認めなきゃ、あなたがそれを認めて、前に進まなきゃ」
 声が途切れ、涙が零れた。
「……小田切君……」
 動かない眉、静かな静寂に包まれた唇。
「小田切君!!」
 哀しみも、恨みも、憎しみも、あなたがそんなものにからめ取られて生きることこそが、何よりも不幸なのだと    教えてあげたい、知って欲しい。
「……先生」
 背後から肩を抱いて起こされる。
 風間が、深い悲しみを押し殺した眼で、首を横に振っている。
 志津子にも判っていた。もう    全てが終わったのだ。
「喜谷先生!」
 その時、廊下の向こうから、慌しい足音がした。
 蒼ざめた顔で飛びこんできたのは、脳外科の女性看護師だった。
「すみません、こ、今度は真行君が」
 志津子は、弾かれたように顔を上げていた。
「ずっと、心拍数に異常があって、注意はしていたんです。今、血圧が急低下しています」
「こっちに運べるか?」
「無理です!」
     この夜が、悪夢なら。
 志津子は眩暈を堪えながら、半ば風間にすがるようにしてICUを出た。
     早く醒めて欲しい、終わって欲しい。
 医師たちが行き来する忙しない足音だけが、静まり返った廊下に響く。
 壁を叩いた風間は顔をそむけ、男泣きに泣いていた。廊下で待っていた高崎守莉もうなだれている。
 志津子はまだ、今の現実が受け入れられないでいた。医師の消えた病室内では、すでに看護師らが死後の処置を進めている。それでも、まだ、これは性質の悪い夢の続きで、現実ではないような、    そんな不思議な感覚がしてならなかった。
 その時だった。
「やぁ、先生もおいででしたか」
 場違いに穏やかな声がした。
 薄暗い廊下の半ば、ICUからやや離れた場所に    長身の男が立っている。
 折り目正しいグレーのスーツ、色白で端正な面立ち、薄い縁無眼鏡。
    樋口さん?」
 小さく叫んだ志津子は、信じがたい来訪者に、ただ驚いて目を見張っていた。何故    彼には何も、小田切の病院すら知らせていないはずなのに。
 
 
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「どうも」
 悠然と歩み寄ってきた樋口利樹は、二人の前で軽く一礼した。
 そして、扉が開いたままになっているICUに、その冷めた眼差しを向ける。
 薄い唇が、その刹那わずかにほころんだのを、志津子は胸が冷えるような思いで見つめていた。
「死にましたか」
 熟練医師よりも、あっさりした言い方だった。
 志津子もつられてその方を見て、辛さから眼を背けた。見るのではなかった。すでに小田切の顔は白い布で覆われている。
 慟哭と怒りが、同時に胸を突き上げた。
     まさか……。
「まさか、本当にあなたは、そのためだけに来られたんですか」
 悲しみが、自然に志津子の口調を攻撃的にしていた。
 微笑した樋口は、眉だけをわずかにあげて、それに応える。
「そんなに……」
 途切れた言葉。涙を、拳でやりすごした。判っている。私が、彼を責める資格も筋合いもない。
 が、ひとつだけ、どうしても志津子は言いたかった。聞きたかった。
「これが、本当に、あなたの望まれた結末だったんですか!」
 樋口の表情は動かない。唇に淡い微笑を浮かべたまま、反論もしなければ、言い訳もしない。
 その時、ようやく志津子は気がついた。    樋口は、一人で来たのでははない。彼の背後から    おずおずと、眼を不自然に伏せたまま、近づいてくる男がいる。
     誰……?
 白髪のまじった五部刈。顔はつるりとしているのに、髪だけが異様にふけている。いかにも肉体労働者といった感じのシャツとズボンには、ペンキの汚れがこびりついている。
 あっと、隣で、風間が息を引く様な声をあげた。
 その驚きで、志津子にも判った。
 まさか    この男が、賀沢修二?
 眼だけが若いといえば若い光を宿しているが、脂の浮いた肌は疲れて黒ずみ、全体的にひどく淀んだ印象がする。スタイルも若者というよりは、中年男性のそれに近く、銅回りなどだらしなく膨らんでいる。
     本当に……、賀沢修二?
 事件当時の年齢から起算すると、今、まだ彼は二十代前半のはずだ。なのに、目の前の男は、どう見積もっても三十すぎにしか見えない。
「賀沢です」
 あっさりと、疑念に答えてくれたのは樋口だった。
 彼は不思議な微笑を浮かべた目で、志津子と風間を交互に見た。
「随分お探しになっておられたようなので、わざわざ連れてきたんですがね。あまり、意味がなかったかな」
 彼の傍らで、賀沢はひたすら居心地が悪そうだった。時折、薄気味悪いものでも見るような眼で、扉の向こう側を見つめている。
「確かに、探していましたが」
 押し殺した声で、ようやく風間が口を開いた。
「それは、こんな場所に、いきなり連れてこさせるためじゃないですよ。あんた、いったい何を考えてるんだ」
 彼が必死で怒りを殺しているのが、よく判った。
 が、樋口は、冷やかに笑って肩をすくめる。
「それは失礼。が、これも更生プロセスのひとつでしてね。被害者家族の現状を知ることは、罪を犯した青少年には、とてもいい薬になるんです。ご存知ありませんでしたか」
 風間が、がっと前に出ようとする。志津子は咄嗟に、その腕を掴んで止めていた。
「帰ってくれ」
 腕を掴まれたままで、風間は怒鳴った。
「もういい、もう沢山だ。あんたも気がすんだろう、小田切は十分苦しんだ、あんたのいう所の罪を犯したというなら、奴は、もう十分に罰を受けた」
 樋口は、ただ、涼しげな微笑を唇に浮かべて立っている。
「もういいだろ、樋口さん」
 初めて賀沢が口を開いた。想像以上に線の細い、女性的な声だった。
「あんたには世話になったから、こんなとこまで着いてきたけど」
 うつむいたまま、ぼそぼそと賀沢は続けた。
「いまさら……迷惑なんだよ。わかるだろ、俺だって家族いるし。それなりに真面目にやってるわけだし」
 何を言っているんだろう。
「昔のことは、もう思いだしたくないんだよ」
 思いだしたくなくても、生涯、その喪失感から逃げられないのが被害者家族だ。
 志津子は、胃が冷えるほどの憤りを感じたし、風間も拳を震わせていた。
「……そんな、今更、昔のことを言われても」
「帰ってくれ!!」
 風間が怒鳴る。
「俺だって、被害者なんだ」
 元少年は、ふてくされたように呟いた。上目づかいに風間を睨む。怯えた、こずるい小動物のような眼差しだった。
「暴力団みたいな奴らに脅されていて、言いなりになるしかなかったんだよ。この人の奥さんは、上の連中を怒らせたんだ。制裁を受けたんだ、それは俺のせいじゃない」
「じゃあ、君はそれを、警察に言ったのか」
 風間が歯をむき出すようにして詰め寄った。
「君はそんなこと、一言もいいはしなかった。君は    ただ」
「誰が信じるんだよ」
 低く、その時だけ野獣じみた目をぎらつかせ、賀沢は鋭く反論した。
「逆らった奴らはみんな制裁を受けたんだ。警察が俺らを守ってくれたのか、みんな知っていて、誰も手を出さなかった。言えよ、俺に何ができたんだよ!」
「帰れ!」
 風間は背後の壁を叩いた。
「二度と、小田切の前に顔を出すな!」
「死んじまった奴に、会いたくても会えるかよ!」
 彼は何を待っているのだろう。
 志津子は、ふと思っていた。
 彼    樋口利樹。
 殺伐とした喧噪の中、男は静かな眼差しのまま、ただ、どこでもない空の一点を見つめている。
 賀沢の暴言にも風間の怒りにも一切耳を閉ざしたまま、彼は一人きり、あたかも別の世界に立っているようでもある。
 そうだ、樋口利樹は何かを待っている。今    ここで、……彼は、何かを、待っている……?
「すみません、そこを開けてもらえますか」
 気遣うような声がした。
 扉が大きく開き、稼働式ベッドに乗せられた小田切の遺体が、押し出されてくる。
 賀沢は顔をそむけ、風間は唇を噛んだままでうなだれた。    その時だった。
「……瀬名先生?」
 唐突に呼ばれた声で、志津子は涙を拭って振り返った。
 喧騒の向こうに、一人の、痩身の男性が立っている。
 長い髪を垂らした女性を、毛布で包みこむようにして横抱きにしている。
 それは    それは、門倉篤志だった。 
 いつもテレビや新聞で見慣れた背広姿ではない。黒いセーターにスラックスという簡単な格好で、    彼は、自分の娘をしっかりとその胸に抱いていた。
「ど……」
 志津子は言葉を詰まらせた。
「どうなさったんですか?」
 雅は、父の胸に顔をおしつけたまま、動こうとはしない。
 今日覚醒したばかりの雅が、すぐに退院できるはずはない。 体力の低下もそうだが、まだ、まともに食事をとることさえできないはずだ。
「少しだけ、待っていただけますか」
 厚志は丁寧な口調で言った。それは、小田切を運ぼうとしていた看護師二人に向けられた言葉のようだった。
「娘が、どうしてもこの人と話がしたいというのです」
 カートは止まり、二人の看護師は、当惑したように顔を見合わせる。話など    できはしない。が、そう説明しがたい異様な空気が、確かに父娘の態度から滲んでいる。
 どんっと鈍い音がした。
 志津子が振り返ると、賀沢が壁に背を当てたまま、薄い唇をわなわなと震わせていた。
 恐ろしいほど蒼白になった男は、どこかふてぶてしい中年男性が、はじめて素の顔を見せたようだった。
「マ………」
 賀沢は、震える声で呟いた。
    マリア………」
 志津子もまた、凍りついていた。
 父親の胸の中、真白な顔をした女が、無表情で空を見つめている。
 彼女は何も見ていないようで、何かを、強い眼差しで見ているようでもあった。
     雅ちゃん……。
 その中に、今、何者(・・)がいるのか、志津子にはまるで判らなかった。
 
 
 
 
 
 
 


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