11
 
 
     フォード様……。
 ウテナの手綱を握りしめたまま、あさとは、声にならない叫びをあげた。
 金波宮で最後に会ったのが結婚の前だから、およそ二年ぶりの再会になる。
 狼のたてがみを兜にまとった灰狼の長は、右手に鋼のような長剣を携え、青灰色の馬に跨っていた。
 男は、ぎらっと鋼剣を一閃させる。
「剣を引け、弓を収めよ! この方に傷ひとすじつけてはならぬ!」
 銅鑼のような声が響き、ざっとあさとを取り囲む剣弓が下ろされた。総勢にして、百騎余り、音に聞こえた灰狼軍の精鋭は、すでに死を覚悟した者のみが発することができる凄まじい闘気をまとっている。
「陛下……」
 灰狼軍を率いる男が、その軍名の所以となった兜を脱ぎ払った。風になぶられる老将の髪に、一房、二房、若き日の名残のような榛色が混じっていることに、あさとは初めて気が付いていた。
「どうかしばし、しばし、このままでお待ちくださいませ」
 薫州松園家の当主、フォード公は、そう言って紺碧の目に淡い微笑を滲ませた。
 それは金羽宮でいつもクシュリナに向けられた、優しい、父にも似た笑顔だった。
 待つ……?
 あさとは、言うべき言葉を見つけられないまま、ただ黙ってフォードを見上げる。
「もうじき、陛下を苦しめた何もかもが、終わるのです」
 穏やかな声で、フォードは続けた。
「あとわずかで、……この長かった戦は全て終わります。それまで私は、なんとしても、この城を守らねばならないのです」
 意味は、わかった。
 フォード公は、この城と共に<アシュラル>が焼け落ちるまで、入口を死守しようとしているのだ。守るためではなく、決して逃がさないために。
 そうだ、背後は崖、その下には激流渦巻く川が流れている。逃げ道は、ここにしかない。
「通して下さい」
 あさとは、震える声で、かつての忠実な配下と対峙した。
「フォード様、誤解なのです。私は苦しんでなどいない。私は、夫を助けたいのです」
「陛下……」
 瞳に憐れむような色を浮かべ、フォードはゆっくりと首を横に振った。
「もう我慢なさらずともよいのです。ご幼少のみぎりより陛下がいかに苦しんでこられたか、私は、よく存じておりましたから」
「違うんです」焦燥をこらえて、あさとは続けた。
「フォード様、信じて下さい。中には、私たちの子供がいます、私は子供を助けなければならないんです」
「あれはマリスの子供です」
 優しい声のまま、フォードはゆったりと微笑んだ。「あなた様の子供などではない。陛下は、ずっと騙されておいでだったのです」
「………」
 何を言っても通じないむなしさに、あさとはようやく気がついた。
 もしや、フォード公には、すでに現実を直視するだけの正気が残っていないのではないだろうか。   
「もっと早く、早くにあなた様をお助けするべきでした。……私はいつも、いつも……ただ、迷うばかりでございましたが」
 微笑して言葉を切り、フォードは穏やかな目であさとを見つめた。
「罪は全て、このフォードが背負います。もう、何もおっしゃってくださいますな」
「…………」
「さぁ、お行きくださいませ。ここは危険にございます」
 その瞳に優しさしかないだけに、あさとは何も言えなくなった。何も、反論できなくなった。
 どういえば……。
 自然に双眸に涙が溢れるのを感じた。
 この、純情一途な男に思いを伝えることができるのだろうか。彼はクシュリナの母への愛ゆえに、その悔いゆえにマリスの闇に心を奪われてしまったのだ。……
「愛しているんです……」
 涙を拭うのも忘れたまま、あさとは言った。
「私……あの人を、本当に愛しているんです……」
 フォード公の瞳は変わらない。ただ、慈愛をこめた眼差しで、じっとあさとを見つめている。いや、見ているのは、あさとの中に残る、かつての恋人の面差しなのかもしれない。
「生きていてはならぬ男です」
 静かな声だった。
「あの男にできたのは、ただ破壊し、世に憎しみの連鎖を産み出すことだけでした。これ以上、生かしておけば、必ずや陛下の禍根となる」
「フォード様!」
 涙を絞るようにして、あさとは護身用の短剣を抜き払った。
「あなたを、斬ってでも、私は行かなければなりません!」
「どうぞ」
 灰狼の老将は笑んだ。
「どうぞ、その刃で、私を罰してくださいませ」
「………」
 もしや   
 ふっとあさとは、自身の眉を開いていた。もしや、私の言葉は、最初からフォード様に通じているのではないだろうか   
 その刹那、周囲の空気に、すうっと光が差し込むような変化があった。
 何……?
 ふっとつられるように、背後を振り返った時、ごうっと風がうなる音がした。
 闇と光の間隙から、風を裂いて飛来するもの    それが、ジュールが戦場で持ち歩く三叉の槍であると判った時、むっと唸ったフォードが手にした剛剣を振りかざした。
「フォード様!」
 あさとは、咄嗟に叫んでいた。
 おそらく、城を覆う闇が一瞬溶けた隙を逃さず、ジュールが渾身の力で放ったのだ。
 金属が凄まじくぶつかり合う音がする。
 巨大な槍は、それが人力で放たれたと思えぬ速度で、あやまたずフォード公の、唯一むき出しになった顔面に襲いかかった。が、それを防ぐフォード公の剣技と気迫が、なお勝っていた。
 槍よりも重たげな分厚い剛剣は、槍の先を正確に弾き返し、あわや、というところで三叉の槍は方向を変える。
 が、その刹那、折れた三叉の一欠けらの剣先が、フォード公の首の付け根に、音をたててめりこんでいた。
     !!」
 すべては、一瞬の出来事だった。時間にすれば、一秒にも満たなかったのかもしれない。
「行け! 陛下をお助けするのだ!」
 ジュールの声   
 薄靄の向こうから、どっと騎馬の群れが動く気配がする。
 色めき立ったのは、落馬した主を取り巻く灰狼軍も同じだった。
「来てはだめ! 来ないで!」
 渾身の力であさとは叫んだ。同時に、倒れ伏したフォード公も叫んでいた。
「動くな! この方に傷ひとすじつけてはならぬと言ったのを忘れたか!」
 ぴたり、と両軍の動きが静止する。
「私の、負けだ!」
 ひと声、吠えるようにフォードは言った。
 どくどくと溢れる血潮が、彼の鎧やクロークを生臭く染めている。それでもなお、仁王立ちとなりながら、老いた狼は双眸から炎を散らして全軍を指揮した。
「我が、気高き灰狼軍よ、おそれずに闇と闘って死ね。我らが誇りをシュミラクールに永遠に刻むのだ!」
 おおおおと、凄まじい激が飛んだ。
 一斉に刃を構えた騎馬軍は、が、あさとが思うのとは逆の方向に疾走を始めた。
 それは、マリスの城を取り囲む闇に向かっての疾走だった。
「やめて!」
 驚きというより、ほとんど衝撃を受けながらあさとは叫んだ。闇はみるみる巨大な獣に姿を変え、果敢に飛び込む灰狼軍に襲いかかる。
「やめて、行ってはだめ! 行かないで」
 声を限りに叫んだが、無駄だった。たちまち、腕が飛び、首が飛び、足が飛んだ。あまりの残酷さに、あさとは目をつむって唇を震わせる。
 それでもなお、灰狼軍に恐怖はなかった。彼らはすでに、死を覚悟していたのだろうか。命をも恐れぬ剣の前では、恐怖を糧に増長する忌獣は、ただ実態化した気塊にすぎない。
「これで、よいのです」
 フォードの囁くような声がした。
「フォード様、何故」
 あさとは、震えながら振り返る。
 すでに彼は虫の息だった。喉の付け根から、迸るほどに溢れる血が、今も横たわる土に吸い込まれている。
「これで、よいのです」
 彼は、実際囁くしかない声で、同じ言葉を繰り返した。
 止血しようとしたあさとを、彼は手で強く制した。
「全てを、灰狼軍の、罪に」
「え……?」
 どういう意味?
「連鎖の鎖を……我々で、終わりに……」
「………」
「新しい、時代のために」
 虚ろな、けれど美しい紺碧の瞳が迷うように何かを探し、そして諦めたように伏せられた。が、それは悔やむというよりは、幸福な諦めのように、あさとには思えた。
     フォード様……。
 あさとは、新しい涙が頬を伝うのを感じた。
 私の言葉は、最初からこの人に届いていたんだ。彼が今まで、何に突き動かされていたのかは判らない。でも、今日、この場で、フォード様は私を理解し、そして    禍根も憎しみも全てを諦め、受け入れてくれようとしたのだ……。
「親父!」
 ロイドの声が、どこかから聞こえた。
「親父、ルシエ、どこにいる!」
 あさとは、涙を拭って、すでに息絶えた人の静謐を見下ろした。
 フォード公が自分に何を告げたかったのか    もう、あさとには判っていた。
 彼が何のために死を受け入れ、何のために自軍を全滅させたのかも。
 ラッセルを    、そしてアシュラルを助けなければ。
 泣いている場合じゃない。あさとは、ようやく姿を見せた城門に向かって駆けだした。
 
 
                  12
 
 
 扉は、あっけないほど簡単に開いた。屋敷の内部は、すでにうっすらと煙が立ち込めている。
「サランナ!」
 あさとは叫んだ。「ユーリ、どこにいるの!」
 内乱でもあったのだろうか、それとも逃げようとして殺されたのか、床の至る所に、侍女や侍従と思しき男女の亡骸が転がっていた。それはまさに、沈没目前の船にも似て、内部は惨々たる有様であった。
 その中に、時折、三鷹家の甲冑をまとう騎士らの骸も混じっている。
     ラッセル……。
 不吉な予感にぞっとしたが、亡骸を覆う兜を取ってまで、その顔を改める余裕はない。
 震える唇を噛み締めながら、あさとは遺骸を縫うようにして、先に進んだ。
 火のはぜる音だけが、いたるところから不気味に響く。まだ、階下に火の手はないものの、焔が近くまできているのかもしれない。
「サランナ……」
     どこなの……?
 周囲を窺いながら、階段を駆け上がる。
 二階に上がると、すでに空気の温度が変わっていた。熱い、熱気と煙が充満している。よろめいたはずみに、手を添えた手すり。もう、それが、焼けた石のようだった。
 死ぬかもしれない。
 さらに上を目指しながら、あさとは初めてそう思った。
     この世界の旅の終わり。それは、ここで向える死を意味していたのかもしれない。
 その時、頭上で、扉が軋むような音がした。低く、    そして長く。
    ……お姉様……」
 階段の途中だった。あさとは足を止め、顔をあげた。
 階段を上がりきった部分に広がるホール。その向こう、開いた扉の背後に、赤い焔が揺らめいている。白煙とそして焔の中、白い人影が滲み出てくる。
     サランナ……。
 あさとは、心の中で呟いた。
 真っ白な長いロングドレス。それが、煙と爆風にあおられて、生き物のように舞っている。
 絹のおくるみを抱いた妹が、静かに、まるで、夢の中の風景のように、あさとの頭上に現れた。
「やっと……来てくださったのね……」
 サランナは柔らかな口調で囁くと、零れた水が広がるような静かさで微笑した。下ろした髪が、焔にあぶられ、きらめきながら踊っている。雪白の肌、焔と血を宿した唇、爛と輝く水晶の瞳。
     雅……。
 あさとは息を呑んでいた。
 判っている。サランナは、あさとのように、雅そのものというわけではない。
 サランナはサランナのまま、きっと、雅の意思に    同調しているだけなのだ。
 それでも    あさとは思っていた。
 ようやく今、あの夜別れた雅に    本当にこの世界で出会えたのだと。
「お姉様が生き延びたということは、死んだのはラッセルなのね?」
 サランナはわずかに首をかしげると、楽しそうな笑顔になった。
「どう? お姉様、自分を恋する男を二度も殺してしまった贅沢な気分は……? 是非感想をお聞きしたいものだわ」
     サランナは、知らないんだ。 
 あさとは唾を飲みこんだ。ラッセルも私も、二人とも生き延びたことを妹は知らない。ということは    サランナはまだ、彼の存在に気がついていないのだ。
 それは    希望なのか、絶望なのか。
「その子は、私の子供なのね」
 あさとはサランナを見上げて言った。階段の半ばにいるため、上に立つ妹を見上げる形になっていた。
 サランナは、胸に柔らかな塊を抱いている。白い布に幾重にも包み、時折、愛しそうな眼差しを向けている。
「……みじめな子供、父親からは見捨てられ、母親からも顧みられなかった、憐れで可哀そうな赤ん坊……」
 サランナは謡うように呟き、胸に抱いた子供の方に顔を寄せた。
「どうせ生きていても、いいことなんて何もないって……私が教えてあげるのよ。天国の美しい褥の中で」
「……サランナ」
 正気なのか、狂気なのか。
 その顔全体に、静かな笑みが広がっていく。
「この子は私が連れて逝くわ。お姉様、最後の最後に、お姉様の一番大切なものを壊してさしあげるの。最高の死に方だと思わない?」
「そんなこと、させない」
 あさとは身構え、階段を駆け上がろうとした。
     動かないで」
 けれど、妹の動きのほうが俊敏だった。すっと振り上げた彼女の手には、きらめく短剣。アシュラルからもらった雪白桜の短剣が握られている。
「父親の形見で殺されるなんて、なんて幸福な死に方なのかしら」
 うっとりと呟いたサランナは、刃を胸に抱く幼子に突きつける。挑発的なまなざしが、そのままあさとに向けられる。
「サランナ……」
 足を止め、あさとはうめいた。
「……焦らないで、何も、お姉様を置いて逝くとは、言っていなくてよ」
「………」
「お姉様も、ここで死ぬの」
「………」
 焔がはぜる音。そして、何かが瓦解し、砕け散る音が頭上で響く。
 あさとは動けなかった。
「そう……動かないで」
 額に滲んだ汗が、玉になって滴り落ちる。    熱い。
「一歩でも動いたら、この子はその瞬間に、刺し殺すから」
 足元から熱気が上る。視界に映る、サランナの輪郭がわずかに滲んだ。
 あさとは手の甲で汗を拭った。
「どうなさるの? お姉様お一人だけお逃げになる? それともここで、子供と一緒に死ぬことを選ばれる?」
 動けない。
 サランナもまた、動かない。
 背後の焔が、彼女の髪を、肌を、赤黒く染めている。
 このままでは、三人とも、間違いなく焔に飲まれてしまうだろう。
     お父様……。
 あさとは、心の中で、今は亡き人の面影にすがった。
     私を……護って、私と、そしてサランナを。
「あなたには、できないわ……」
 あさとは呟いた。そして、頭上の妹を見上げた。
 一瞬不思議そうな顔をしたサランナは、すぐに憐れむような目になった。
「何をお信じになっておられるの? 私の良心? それとも肉親の情なのかしら。私にそんなものがないことは、お姉様が一番よくご存じのはずなのに」
 刃を、あえてあさとの方に向けて閃かせる。
「この刃は、さっきユーリの血を吸ったばかりよ。そう、彼は私が殺したの」
 眩暈がした。あさとはぎりっと奥歯を噛んで踏みこたえた。
「人を殺す事なんてなんでもない。同じように、私自身を殺す事も、なんでもないの。私はそういう女なのよ」
     ユーリ。
 彼との出会い、そして共に過ごした子供時代。様々なことが、その瞬間脳裏に溢れた。けれどその感情を、あさとはじっと抑えて    言った。
「それでもあなたには、できないわ」
「だから、できるのよ」
「できない」
 あさとは階段を一歩上がった。内心、心臓が壊れそうなほど踊っていた。
 サランナが短剣をさらに下げた。ここでひるんでは負けだ、あさとは歯を食いしばってまた一歩、階段を上がった。
「できない、サランナ、だってその子はあなた自身なんでしょう?」
 ゆっくりと言った。一言一言が、彼女の心に届くように。
「あなたはさっき、父親からは見捨てられ、母親からは顧みられなかったと言ったわよね。……それは、あなた自身のことなんでしょう?」
 焔が揺らぐように、サランナの眼の奥で何かが揺れた。
「……お父様が死んだわ。最後に、とてもあなたのことを心配していた。あなたを、許してほしいって」
 妹の眼が人のものではないように、するどく、獣じみて吊りあがった。あさとはひるまずに続けた。
「お父様は、あなたを少しも恨んでいないわ。それどころか、許してやってくれと、……涙をこぼして、私にそう頼まれたの」
 短剣を握るサランナの指が、かすかに震えている。
「でも、許すまでもないの。だって私は、やっぱりあなたを愛しているから」
 あさとは、妹を見つめた。いや、妹の中に    巣食ったものを見つめた。
「妹だから    ずっとそう思っていたから、サランナ、私を信じて、私を受け入れて」
 突然サランナが白い喉を逸らせた。どこか苦しげに唇をゆがめ、彼女は声をたてて笑い始めた。
 感情の何かが壊れたような笑い方だった。
 そして、始まりと同じような唐突さで、その笑いはいきなり止んだ。
「もういい加減に綺麗ごとはよさない?」
 凍るような声だった。
「気づいてよ、そういうところが嫌いなの、虫唾が走るほどむかむかするのよ。私はね、昔からあなたが大嫌いだったの。あなたが苦しむ顔を見たくて見たくて仕方なくて、それが全てでそれだけが私の真実よ」
「何故嫌うの?」
 あさとはひるまなかった。怖くはない    あの夜の雅に比べたら。あの夜の痛みに比べたら。それに、あさとは鍵を持っている。父から預かった    最後の、大切な切り札を。
 今が、それを使うときなのだと、あさとは覚悟を決めていた。
「何故、嫌うの? 何故、憎むの?」
 今度は姉が、妹に詰め寄る番だった。
 サランナの眉は動かない。炎を映した目が、ゆらゆらと燃えている。
「私が、あなたのないものを持っていたから? それは」
 少しだけ息を吐いた。これを言っていいものかどうか、ぎりぎりまで迷っていた。
「それは私が、お父様に愛されていたから?」
 妹の顔が、初めてかすかに強張った。
「あなたは……だから、私がうらやましかったんでしょう? 最初から、アシュラルもユーリも、皇位でさえ、あなたにはどうでもいいことだったのよね」
 綺麗な唇が歪んでいる。今にも歯軋りが聞こえてくるようだった。
「……何がおっしゃりたいの……?」
 サランナは短剣を構え直した。
「くだらないおしゃべりは、もう結構よ。さようなら、お姉様」
 その目に、尋常でない色がある。あさとは一瞬、覚悟を決めた。その時、妹の背後に黒い影がよぎった。
     !?」
 影は静かに、サランナの腕を、掴んでいた短剣ごと拘束する。
「およしくださいませ」
     クロウ!
 あさとは心の中で叫んでいた。
 黒服に包まれた長身、ひとつに束ねた長い白髪。皇都からずっとサランナの傍にいた死神。
 いつものクロークは羽織っていない。上着の、右腕の部分だけがゆらゆらと揺れている。
 それは昨日、ラッセルの手によって切断されたはずだった。 
「クロウ、お前」
 サランナはもがいたが、クロウドは左手を離さなかった。
「もう、終わりでございます。子供はお返し致しましょう」
「お前まで裏切るつもりなのね」
「裏切りではございません」
「離しなさい!」
 サランナはさらに激しく身をよじったが、クロウの腕は離れなかった。迫り来る炎の中、垂れ下がる右の袖から血の雫が滴るのがあさとにも見えた。
 妹は、毒々しい眼で、男を睨んだ。
「役立たず、お前なんてとっくに死んだものだと思っていたわ、離しなさい! 下郎のくせになんのつもり?」
「まだ、退路はございます。私と一緒に   
「お前と逃げ落ちるくらいなら、死んだほうがましよ!」
 睨みあう二人の背後で、轟音と共に火柱があがった。その刹那死にも似た静寂が流れた。
 あさとの目に、クロウの横顔がわずかに    そう思える程度に笑んだのが判った。彼は手を離し、まるでサランナを抱き寄せるようにそれを広げた。
 片や、サランナは、明らかに動揺していた。後ずさって身構え、短剣を持つ腕を、威嚇するように突き動かす。
 ふわりと片腕を広げた死神の、痩せた胸に吸い込まれるそれを、    当然よけられる弱さで突き入れられた刃を、あさとは悪い夢でも見ているような気持で見つめていた。
 ものも言わず、黒服の男は身体を折り、炎の中に崩れ落ちる。
 サランナは、夢から覚めた人のような顔をしていた。忘我したまま立ち尽くすその手に、血塗られた刃が力なく握られている。
「……サランナ、……どうして」
 あさとはうめいた。もう、たまらなかった。抑えておくことができなかった。
    その人は、サランナの……」
 うずくまる死神の肩が、かすかに動いた。それは、あさとの言葉の続きを拒もうとしているようにも見えた。
「……知ってたわ」
 呟きで沈黙を破ったのはサランナだった。
「知ってたわ、本当のお父様でしょう」
 妹は視線を上げた。それは狂気をはらんでいた。
「この男はアリュエスの爪よ。三鷹家に仕える暗殺者で、汚らわしい奴隷も同然の身分だった。お母様は、お父様への復讐のためだけに、この忌わしい男を慰みものにして、そして私を産んだのよ」
 炎が舐めるように、すでに動かなくなったクロウの身体を包んでいく。
「こんな薄汚れた卑しい身分の男が、それが私の父親なのよ。お姉様、ご満足? 私はね、この男が私の父だと思うたびに、死んでしまいたいくらい恥ずかしかったのよ!」
「……どうしてなの……」
 あさとは、自分の目に涙が滲むのを感じた。
「あなたの、お父様なのよ」
「お姉様には判らないわ、非のうちどころのない血筋を持ったあなたには、あんな美しいお父様を持つあなたには!」
 悲しみと怒りで我を忘れ、あさとは勢いよく階段を上がった。
「判らないわ、私はアシュラルを愛しているけど、彼は貴族でも僧侶でもないわ。彼は彼よ、生まれになんの意味があるの」
「こないで!」
 サランナは叫んだ。正常な光を失った目が、さっと己の胸元に向けられる。
 あさとははっとして、立ち止まった。サランナは物も言わず、抱いていた赤ん坊の包みを諸手で掴み、高々と頭上へ持ち上げた。
「サランナ!!」
 まるで    悪夢の続きを見るように、その腕が、ゆっくりと弧を描く。
 腕から放たれたその包みは、一瞬柔らかな放物線を描き、あさとの延ばした手を掠めるように階段の下に落下していった。
「いやぁ    っ」
 これは、夢だ。
 悪い夢だ。
 視界に移る景色が、コマ送りのように時の断片を刻んでいく。
 二階のホールに落下した包みは、砕けるような音を立てて、二度、三度、反転して転がった。
 サランナの哄笑が頭上で響く。
 あさとは、千切れるほど腕を伸ばしたまま、そのまま、動く事ができなかった。
 
 
 
 
 
 

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