13
忘我していたのは、けれど、その一瞬だった。
あさとは、弾かれたよう身を起こし、階段を駆け下りた。
私の子供。
私と、そしてアシュラルの子供。
間に合わなかった、助けてあげられなかった、ごめん、ごめん、ごめん……。
間に合うものなら、最後のその一瞬だけでも、抱きしめてやりたい。
転がるように包みの傍に駆け寄ったあさとは、ようやく異変に気がついた。
違う。
震えながら、ちらばった包衣を拾い上げる。
これは ……。
包みの中から、黒い縮れ毛がのぞいている。美しいウェーブ。動かないガラスの瞳。ふっくりとした頬に、朱で刷いた愛らしい唇。レースで作られた可愛らしい衣装。
壊れた腕が、不自然な形で折れ曲がっている。
人形……?
「それが私」
頭上から声がした。
「それが私なのよ、お姉様。誰からも愛されて、けれど、決して本気では愛されない。飽きられれば棄てられるお人形」
「子供は……どこなの」
震える声で、あさとは聞いた。サランナは声もなく微笑する。
「上でよく眠っているの。ごめんなさいね、だって、起こすのがかわいそうだったんだもの」
「 」
今度こそ、絶望があさとを包んだ。この火の手で 上の階に取り残されている。
その時だった。
燃え盛る扉の向こうから、ふいに大きな影が飛び出してきて、あっという間もなく、サランナの身体を羽交い絞めにした。
さすがに驚愕する妹を抱きかかえるようにして、その影は 紫がかった漆黒の、法王だけが持つ軍服に身を包んでいた男は、そのまま、素早く、扉の向こうに姿を消した。
「ラッセル!」
あさとは叫んだ。
扉が閉まる。
ラッセル、ラッセルだ、でも、どうして。
死仮面を被ってはいなかった。視界に映ったのは黒い布で覆われた横顔だった。
ラッセル……!
あさとは弾かれたように階段を駆け上がり、後を追った。
何時の時点からか判らない。が、彼はずっと、扉の向こうで、機会をうかがっていたに違いない。おそらく、この焔の中、子供の居所を捜していたのだ。
「 ラッセル!」
ようやく階段を上がりきる。扉の取っ手は、焼け石のようだった。ドレスをまくって掌を覆う。が、押しても引いても、びくともしない。
馬鹿な!
鍵が掛かっているのだ。内側から。
あさとは力いっぱい扉を叩いた。
「ラッセル、嫌よ、ラッセル!」
彼が、一人で全てを背負い込もうとしている。あさとが追っていくのを拒否している。
「 ラッセル!!」
あさとは、絶望の声を上げた。しばし、目を閉じ、歯をくいしばるようにして激情に耐える。
諦めたりするものか。
必死で、自分に言い聞かせた。
サランナを、妹を救えるのは、私しかいない。
私が諦めれば、何もかもここで終わってしまう。
あさとは階段を駆け下りた。これだけ広い城で、上階に通じる階段が一つだとは思えない。
部屋の扉を片端から開けていく。ようやく広い空間に行きあたる。そこは、食堂なのか、大きなテーブルが部屋の半分を占めている。
視線をめぐらし、使用人たちが通るための小さな通路を見つけると、あさとはその中に駆けこんだ。
狭い通路は石壁で遮断されている。それはらせん状の階段に繋がっていて、そのまま上に昇ることができた。
死なせない。
一気に、階段を駆けあがった。
子供も、ラッセルも、サランナも。
熱気が迫り、これ以上昇れないと思いかけた時、ようやく目の前に扉が見えた。
体当たりするように扉を開ける。室内には、激しい焔が、周辺の壁を舐めるように広がっている。
煙と焔、あさとは必死で視線をめぐらす。轟音渦巻く焔の中を、駆けて行くサランナの後姿が見えた。奥へ さらに焔の中へ、妹の影は飲み込まれようとしている。
「サランナ……!」
あさとは手で顔を覆うようにして駆けた。
壁際の柱が、火力で崩壊を始めている。焔を上げた石材が、がらがらと音を立てて崩れ、足止めされたサランナが、振り返った。
あさとを見る女の顔は、まるで死人のように、蒼ざめていた。
「ラッセルは?」
あさとは聞いた。
サランナは答えない。
「子供は? 子供は何処にいるの?」
妹の片頬に、初めて皮肉めいた笑みが浮かんだ。
「助かりはしないわ、もう誰も」
そして、そのまま、あさとを振り切るように背を向けた。
「待って!」
あさとは、逃げようとする女の身体に抱きつくように飛びかかった。
ドレスの裾を、背後から掴んで引き倒す。必死だった。
「あなたは愛されているのよ、サランナ! それに気づかないだけなのよ!」
サランナは恐ろしい力で抵抗した。
火柱を上げた黒マリス像が、二人の身体すれすれの所に崩れ落ちる。
あさとの腕がサランナの頬を叩き、サランナの爪が、あさとの肌を裂いた。
妹の衣服の胸元が破れ、鎖に繋がれた緋色の石が零れ出す。それは、かつてあさとがユーリから託されたネックレスだったが、妹がそれを持つ理由を問い質す余裕はなかった。
あさとは肩で息をしながらサランナを見下ろした。
「クロウが、どういう思いであなたの剣を受けたと思っているの?」
サランナも、肩で荒い呼吸を繰り返している。
「あなたを……」
簡単に避けられる距離だった。クロウはまるで、自らその刃を抱きとったように、あさとには見えた。
「あなたを愛しているからじゃない!」
「…………」
「あなたをの心を、救おうとしたんじゃないの!」
サランナは応えない。きつい眼差しで、じっとあさとを見上げている。
「馬鹿! わがまま! 自分勝手に思いこんで、周りが全然見えてなくて、最低よ、あなたって女は」
「ほっといてよ、あんたに何がわかるのよ!」
焔の中で、二人は折り重なるように格闘した。やがて、あさとはサランナを完全に組み敷いた。
苦しげに上下するサランナの白い胸で、血色の石が揺らめいたように見えた。
「あなたのことなんか……ほっときたいわよ」
息をきらしながら、あさとは言った。
「初めて会った時から、本当は嫌いだったのよ。べたべたして、嫉妬深くて、いつも琥珀を苦しめてばかりいて」
自分が何を言いたいのか、言っているのか判らなかった。
「あなたなんか、大嫌い、いなくなればいい、いなくなればいいって、本当はずっと思ってた。本当はずっと大っ嫌いだった!」
サランナの目。大きくて、吸い込まれそうほどに美しい二つの瞳。
それが、いつしか雅のものになっている。
「なのに、やっぱり、私は、……あなたのことが心配なのよ、あなたのこと」
あさとはうなだれた。
嫌いなのに、 気がつけば、いつも一緒にいた。互いを笑顔であざむきながら、欺いている事さえ、どこかで互いに自覚しながら。それでも 。
「………」
「……私の友達は、……雅、あなただけだから……」
「………」
サランナの表情は動かなかった。ただ その唇だけが、ゆっくりと開いた。
さよなら。
そう聞こえた。
サランナ……?
ぴしっと、妹の胸で、小さな亀裂が走るような音がした。それが何か確かめようとした刹那、サランナの大きな瞳が、いきなり極限まで見開かれた。
獰猛な勢いであさとを押しのけ、起き上がったサランナは、そのまま覆い被さるように身体を投げかけてきた。
「……っ? サランナ?」
たまらず、あさとは仰向けに倒れる。
轟音が、妹の動きに被さるようにして響き渡る。
まるで、大量の火薬が、まとめて爆発したような音だった。
サランナは、身体をごとあさとに覆い被さったまま、耳元で低く囁いた。
「……ばかねぇ……」
「……?」
「お姉様じゃなくて、私のことよ。初めて私の方が、あなたより馬鹿なことしちゃったみたい」
「……サランナ……?」
妹の背中に回した手 自分の手が掴んだ衣服が、じっとりと濡れている。
何かの錯覚ではないか、とあさとは思った。
密接したその胸元からも、泡交じりの鮮血があふれ出ている。
「なるほど、これは、すごい威力だ」
頭上で男の声が響いた。その亡霊のような響きに、あさとは全身が凍りつくのを感じた。
「アシュラルが発案したか。嫌な男だがさすがは神童、これが世界を変える鍵となる兵器……」
男は、中央の階段半ばに立っていた。
その周囲は、すでに半ば焼け落ち、崩れかけている。
彼が手にしているものは、黒光りする短筒状の物体。その細長い口から、薄い煙が立ち昇っている。
それが何か、あさとはよく記憶していた。山中の天幕で、法王軍が隠し持っていた 。
「……ヴェルツ……公爵」
あさとは呟いた。
悪夢を見ているような気分だった。
14
自分の腕の中で、妹の身体が次第に重みを増していく。
「もう、逃げ場はありませんよ、クシュリナ様」
その男 元奥州公、薬師寺ヴェルツは、楽しそうに肩を揺すった。別人のように痩せている。白髪に変じた蓬髪、落ち窪んだ目。かつての、鷹の様な雄雄しさはどこにもない。
「一階に、私が火を放ちました。もう、ここからは、何処へも逃げられない」
男はそう言いながら、両手で、しっかりと黒い筒状の銃器を構え直す。
「いや、私だけは、生延びてみせますがね。この兵器を模倣して大量に作らせる。そして 私がこの世界の主になるんだ」
あさとは立ち上がろうとした。サランナは動かない。死んだのかもしれない 妹が死んだ、憎んで、愛して、そしてようやく分かり合おうとしていた妹が、今……。
妹の腰には雪白桜の短剣が掛かっている。震える手で剣を抜き取り、あさとはかろうじて立ちあがった。
怒りと悲しみ、そして絶望が胸を塞ぐ。剣を構えて立ったものの、あさとは、その場から一歩も動くことができなかった。
「私は、あなたの母上を愛していた……」
ヴェルツは続けた。その目は、もう、まともな人間のものではなかった。
「あなたを、私のものにしたかった。けれど今は、……死んでもらうしかないようだ」
銃口が、しっかりとあさとを狙っている。
「あなたが死ねば、アシュラルが苦しむ。私は、その瞬間を見るためだけに、今日まで生きてきたのだから」
動けなかった。
これが これが、結末だったのだろうか。これが……この世界での、私の……。
「撃ってみろ」
殆んど耳元で声がした。
その声を聞きながら、振り向くまでもなく、その声の主を認識しながら、それでもあさとには信じられなかった。
「その銃は出来損ないだ、撃ってみろ、ヴェルツ」
声と共に、あさとの胸元に、柔らかなものが押し当てられた。
白い絹に幾重にも包まれた 黒い髪、それと同色のつぶらな瞳。真珠のような白い頬に、薔薇色の赤みが差している。
赤ん坊は、あさとを見上げて、あどけない笑顔を浮かべた。
渡された命を抱き取り、抱きしめ、そして、あさとは茫然と、自分の傍をすり抜けていく男の背を見送った。
それは、先ほど垣間見た、法王の軍服を着た男だった。兜は被らず、右目だけを黒布で覆っている。
あの時はただ一瞬、横顔を見ただけだった。だから、疑うことさえしなかった。ここに アシュラルがいるはずがないと思っていたから。
「アシュラル……」
あさとは呟いた。間違いない、背中の感じ、輪郭、声。ここにいるのは アシュラルだ。
「……やっと……貴様に会えた……」
ヴェルツの、乾ききった唇から、きしむような音が漏れた。それは憎しみに燃える男の歯軋りだった。
「アシュラル!」
あさとは叫んだ。駆け出そうとした。
「馬鹿、来るな!」
夫の背中は厳しかった。そのまま、彼は階段まで歩みを進める。
燃え盛る焔が、対峙する二人の男を炙り出している。
「……撃ってみろ、ヴェルツ。その銃はな、欠陥があって使えないんだ。相手を殺せず、撃った本人の身体が吹き飛ぶ」
幽鬼を思わせる笑みを浮かべ、ヴェルツは、銃を構えなおした。
「アシュラル、昔から、貴様の口の上手さには、随分騙されてきた……マリスの化身め、誰が貴様の言う事など、信じるものか」
アシュラルの歩みは止まらない。
「だったら、撃ってみるんだな。その銃は二弾式だが、厄介なことに、一発目と二発目、どちらに欠陥があるか、撃ってみるまで判らない」
「貴様のせいで、私は……最愛の息子を失った」
「二発とも正常に発射されることもあれば、そうでないこともある。せっかく生延びた命を、くだらないことで棄てる気か」
あさとは、自分の胸が、痛むほど鼓動を荒げているのを感じた。
アシュラルの背中、声、横顔 それが、元の輝きを取り戻していると思えるのは、気のせいだろうか。
もしかして。
それは、かすかな、そして祈るような希望だった。
もしかして、彼の病は……。
「私がどれだけ、我が子を愛していたか、……貴様に、判るか」
その口調に、あさとははっと胸をつかれて顔を上げた。
ヴェルツの、枯れ果てた頬に、涙が幾筋も伝っていた。
「愚かで、何もできない馬鹿息子だ、でも、愛していた、私の全てで、私の 生きている意味そのものだった」
アシュラルの背は動かない。彼はそのまま、静かに腰の長剣を抜き払った。
「……それでも、ヴェルツ、お前に、その武器を渡すわけにはいかない」
呟くような声だった。
ヴェルツは銃口をアシュラルに向け、狂気すれすれの笑みを浮かべた。
「死ぬのはお前だ、私はこの武器を持ってウラヌスへ渡る。イヌルダも皇室も、法王庁も潰してやる。世界を私だけのものにする、そして、我が息子ダンロビンに皇帝の冠を捧げよう」
「……俺が死ぬか、お前が死ぬかだな、ヴェルツ」
アシュラルは、片手に長剣を構えたまま、ゆっくりと階段を上がり始める。
「アシュラル、駄目!」
あさとは叫んだ。胸騒ぎがした。アシュラルの 彼の背中から、あの日金羽宮で、サランナと向き合った時と同じ感情が透けて見える。
「心配するな」
わずかに横顔だけ見せて、アシュラルは笑った。
「俺は強運に恵まれている、大丈夫だ」
それを見下ろす、ヴェルツの目が血走っている。かつての大諸侯は今、完全に何かの境界を超えていた。
アシュラルの身体が低く沈み込む。彼はそのまま、階段を一気に駆け上がり、銃口を向ける男との距離を詰めた。
「アシュラル!!」
あさとの背後で、何かが崩れた。激しい轟音と舞い上がる煙で、一瞬、視覚も聴覚も奪われていた。
抱いた子供を庇うように、あさとはその場に膝をついた。すぐに顔をあげ、アシュラルの姿を探す。
階段。
ヴェルツの身体が、枯れ木のように二つに折れ曲がるところだった。
死に行く男の見開かれた目は、何故か、満足げな微笑を浮かべている。
傍らに立つアシュラルは、胴を払ったばかりの剣を下ろした。その剣は、けれど彼の指を離れ、階段の傾斜を転がり落ちた。
その様を、夢でも見るような思いで、あさとはただ、見つめていた。そして 。
彼もまた、階段の途中に、崩れるように膝をついた。
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あさとは、片腕で幼子を抱き止めたまま、彼の頭を膝に抱えた。
紫の軍服。開いた襟元。その首から胸元にかけてが、真新しい血で濡れている。
「アシュラル……」
自分の声が、信じられないほど震えている。
「馬鹿……まだ、逃げていなかったのか……」
アシュラルは、薄く眼を開けて呟いた。
「馬鹿はどっちよ。なんで……あなたが」
ここに……。
後は言葉にならなかった。
ようやく、ジュールに欺かれていたのだと気がついた。
声の様子が、どこか不自然だとは思っていた。城内に残されていたのは、ラッセルではなくアシュラルだったのだ。
それと知れば、私が必ず追っていくと思ったのだろうか 私を行かすまいとしてくれたのだろうか 。
「馬鹿、考え無し、……何を考えてるのよ、……そんな身体で」
悔し涙がまなじりに滲んだ。一瞬、横顔しか見なかったとは言え、どうして階下にいた時点で、すぐに それがアシュラルだと気がつかなかったのだろうか。
「死なないで……」
零れた涙が、彼の焼けた頬に落ちる。
これがアシュラルとの別れになるのだと、 今生の別れになるのだと、あさとにははっきり判っていた。
傷の深さは判らないが、もう、助かりようがない。この焔の中 立ちあがることさえできないのなら。
あさとの膝で、力なく呼吸を繰り返していたアシュラルは、目だけで、その頭上に抱かれた子供を見上げた。
「俺の子だからな」
優しい声だった。
「………」
「俺が残してやれることは、これくらいしかないだろう」
「………」
涙で、彼の顔がよく見えない。
泣くことさえわずらわしいほど、今は彼の顔を見ていたい。
男の頬を抱き、自分の額と重ね合わせ、あさとは震える声で囁いた。
「私には何も残してくれないの……?」
「お前には、沢山残した」
「足りない……」
「欲張りだな」
「全然足りない……」
死なないで。
一人にしないで。
私を置いて逝かないで。
「子供……もっと、欲しいから」
「………」
「カヤノの家で、みんなでお喋りしたりするの。もう、戦争も法王もやめて、私たち……普通に、幸せに生きていくの」
髪を撫でるアシュラルの指は、優しかった。
「もう一度……抱かせてくれ」
「………」
涙を拭い、あさとは、胸に抱いた命をアシュラルの胸元に近づけた。
「名前……聞いて、いなかったな」
彼の手が、赤ん坊の頬に、髪に、愛しそうに触れる。
あさとは、その耳元に唇を寄せ、子供の名前を囁いた。
レオナ。
不思議だった、口にした途端、それまで赤ん坊だったものが、レオナという名の息子に変わった。レオナ。私と、そしてアシュラルの子供。
「女みたいな名前だな、……でも……いい名だ」
「うん……」
彼の指が、力なく落ちていく。
あさとは、その血塗れた胸に顔を寄せた。抱きしめた。
いや。
怖い あんな幸せを知ってしまって、一人で取り残されるのが怖い。
「クシュリナ」
「いや」
彼が何を言いたいのかは、判っている。
「俺はもう、動けない、……逃げてくれ」
無言で、ただ首を横に振る。
「レオナを、見殺しにするつもりか」
首を振る。
「クシュリナ」
「……もう、逃げられない……」
焔は部屋中を覆い尽くしていた。ヴェルツが階下にも火を放ったのなら、もう、どこにも逃げ場はない。
もういい、と思った。
やるべきことは全てやった。
サランナに、自分の言いたかったことは全部伝えた。
あとは この世界の意思に、全てを委ねるしかない。
この世界での……雅の意思に。
「クシュリナ……」
「……逃げ場はないの……どこにも……」
「………」
自分の役目は、全て終わった……。
あさとはレオナを抱き締め、目を閉じた。
その肩に、アシュラルの手が、ゆるやかに掛けられる。
「頼む、行くんだ」
あさとは首を横に振ろうとした。
「行け、クシュリナ、お前の役目は、まだ終わってはいない」
尽きかけている者とは思えないほど、厳しい、そして毅然とした声だった。
「俺が死ねば、再び諸侯の結束は乱れ、戦乱が起こるだろう。ラッセルにはこの日のために、今まで不自由な思いをさせてきた。お前はラッセルを助けろ、あいつ一人では、この先何年も欺ききれない」
あさとは涙を飲みこんだ。首を振りたかった。そんなことは、できないと言いたかった。
アシュラルの手が、あさとの頬を抱いて、引き起こした。
「クシュリナ、俺の過ちを償うんだ、……俺に代わって」
「あやま……ち……?」
唇が震えた。涙が、止まらずに頬を伝う。
「俺が創り上げたものは、まだ……この世界には早すぎた。皮肉なものだな、俺自身が作ったものが、……今、こうして……俺を罰しているのだから……」
「……アシュラル……」
自分の頬を抱く夫の手を、あさとは上から握り締めた。
多分、最初から 。
最初からこの人は、戦いが終結した後の世界を、生きるつもりはなかったのだろう。
ジュールが予見していたとおり、アシュラルの役目は、ただ、世界の秩序を破壊することだけだった。フォード公もまた、早すぎた才能がこの先生き続ける危険を察し、その死を 願ったのだ。憎しみではなく、この世界の未来のために。
そして、アシュラルも……。
ヴェルツの銃口を、彼は最初から、わが身に受けるつもりだったのだ。
馬鹿……。
寂しがり屋のくせに、怖がりのくせに。
「……泣くな……」
もう、アシュラルの目は、あさとを捕らえられないようだった。頬に触れる指が、零れ落ちる涙をぎこちなく拭ってくれる。
「お前は、生きろよ」
「…………」
「三年でいい、辛抱して生きてくれ。……三年たったら、……そうだな、許してやろう」
「……何を……」
「他の奴を好きになっても、許してやる……」
「いやよ、アシュラル」
「俺は、……お前が幸せになるなら……少しも怖くはない、……不思議だな、怖くないんだ……」
アシュラルはそのまま目を閉じた。
膝に掛かる重みが増した。彼の身体から力が抜けて行くのが判る。
「いや、……いや、いやよ、アシュラル……!」
反応の失せた身体を揺すり、あさとはただ慟哭した。
「アシュラル!!」
咳き上げる思いに耐えきれなかった。
この辛さを抱いたまま、この先、生きていく自信がない。行きたくない、何処にも行かない。ここで、彼と一緒に死んでしまいたい。
「どけ!」
頭上で厳しい声がはじけた。
「どくんだ、瀬名」
その声に、あさとは愕然として顔をあげ、凍りついた。
信じられなかった。
「 小田切さん!」
あさとを押しやり、そのままアシュラルの傍にかがみこむその姿、 その姿は。
黒に近い紫紺の軍服。けれど、衣の下からは、最後に天摩宮で別れた時と同じ衣装がのぞいている。
水を被ってきたのだろうか。男の全身は滴る水滴で濡れていた。黒く濡れた髪からのぞく首周りに、あさとの衣装を裂いて作った眼の覆いが、まだ、結び目が解ききれずに残っている。
ラッセル………。
彼はラッセルだった。間違いない。なのに。
「しっかりしろ! あんたまで一緒に死ぬつもりか!」
ラッセルは、反応のないアシュラルの肩をゆすり、耳元に口を近づけた。
「起きろ! あんたは死なない、あんたはアシュラルじゃないからだ、目を覚ませ、あんたは小田切直人なんだ、しっかりしろ! このままじゃ、心まで持って行かれるぞ!」
抱え起こすようにアシュラルを抱くと、ラッセルは襟を掴むようにして、激しく揺さぶった。
「 眼を覚ませ! 本当に死にたいのか!」
目の前で起きていることが、あさとには理解できなかった。
ラッセルが琥珀だということは判っていた。 でも。
でも、ラッセルの中の琥珀は ―。
兄に抱かれたままだった弟の身体が、わずかに反応したように見えた。
ラッセルは弟の唇に自分の耳を近づけ しばらくそのまま、動こうとしなかった。
「………」
やがてラッセルは、静かな所作で、動かなくなった身体を床に下ろす。
そして、血に染まる襟元に指を差し入れ、紫の布に包まれた小さな包みを取り出した。
( 母の形見だ)
あれは青州で再会してすぐの頃だ。そう言って、床に落ちた包みを、怒ったように拾い上げたアシュラル。
あの時の光景を、あさとは、はっきりと覚えていた。
それは彼が、軍服の下に入れ、常に持ち歩いていたものなのか 無論、ラッセルにとっても母の形見になるのだろうが、今は、元の所有者の形見という意味合いもあった。
ラッセルは何も言わず、その包みを、自らの懐にしまいこんだ。
「……ラッ…セル……?」
琥珀……?
あさとは呟くように言って彼を見上げた。まだ……信じられなかった。理解できなかった。
双子の兄はわずかにあさとの方を見て、そして、目を伏せて立ちあがった。
その表情は、ラッセルのものであり、今は琥珀のものだった。
「行くぞ」
とっさに、あさとはアシュラルの身体にすがった。
「行かない」
まだ、暖かい。まだ 一人にさせたくない。
あんなにも、怖がっていた。あんなにも寂しがっていた人を。
「……行かない」
ラッセルの手が、あさとの腕を掴み、半ば強引に引き起こされた。さらに抗おうとすると、そのまま、思い切り平手で頬を叩かれた。
頭の芯までしびれるほど、それは強烈な痛みだった。
「 お前はいつから、そんな情けない女になった」
その声も、眼差しも。
「こいつのしてきたこと全部を、無駄な感傷でぶち壊すつもりか!」
すでに、彼はラッセルではなく、琥珀だった。琥珀そのものだった。
「来い」
有無を言わさず手を引く強い力に、あさとはもう、逆らうことが出来なかった。
振り返る彼方で、動かない夫の周辺が、燃え盛る焔に包まれていく。
「アシュラル……!」
未練のような涙が伝う、引き戻したい衝動を、身体ごと抱く男が引きとめる。
「アシュラル……アシュラル…………」
アシュラル……。
堪えてもなお溢れる涙そのままに、あさとはレオナを抱き締めた。
この子は、彼の生命そのものだった。彼が確かに生きていた証だった。この子の中に 今、彼の命が息づいている。
舐めるように襲う焔を避け、ようやく火の気の少ない場所までたどり着くと、ラッセルは足を止め、振り返った。
「俺が抱こう、その方が早い」
彼は、あさとの手から、そっとレオナを抱き取った。正面から見た男の顔は、どこか蒼ざめた硬さがあった。
「……いつからなの……」
怖いものでも見るような目で、あさとは聞いた。
いつから、あなたは。
ラッセル いや、琥珀は、首にまとわりついていた布を、引き抜くように投げ捨てた。
「ここから逃げるぞ、時間がない」
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