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 忘我していたのは、けれど、その一瞬だった。
 あさとは、弾かれたよう身を起こし、階段を駆け下りた。
     私の子供。
 私と、そしてアシュラルの子供。
 間に合わなかった、助けてあげられなかった、ごめん、ごめん、ごめん……。
 間に合うものなら、最後のその一瞬だけでも、抱きしめてやりたい。 
 転がるように包みの傍に駆け寄ったあさとは、ようやく異変に気がついた。
     違う。
 震えながら、ちらばった包衣を拾い上げる。
 これは    ……。
 包みの中から、黒い縮れ毛がのぞいている。美しいウェーブ。動かないガラスの瞳。ふっくりとした頬に、朱で刷いた愛らしい唇。レースで作られた可愛らしい衣装。
 壊れた腕が、不自然な形で折れ曲がっている。
     人形……?
「それが私」
 頭上から声がした。
「それが私なのよ、お姉様。誰からも愛されて、けれど、決して本気では愛されない。飽きられれば棄てられるお人形」
「子供は……どこなの」
 震える声で、あさとは聞いた。サランナは声もなく微笑する。
「上でよく眠っているの。ごめんなさいね、だって、起こすのがかわいそうだったんだもの」
       
 今度こそ、絶望があさとを包んだ。この火の手で    上の階に取り残されている。
 その時だった。
 燃え盛る扉の向こうから、ふいに大きな影が飛び出してきて、あっという間もなく、サランナの身体を羽交い絞めにした。
 さすがに驚愕する妹を抱きかかえるようにして、その影は    紫がかった漆黒の、法王だけが持つ軍服に身を包んでいた男は、そのまま、素早く、扉の向こうに姿を消した。
「ラッセル!」
 あさとは叫んだ。
 扉が閉まる。
     ラッセル、ラッセルだ、でも、どうして。
 死仮面を被ってはいなかった。視界に映ったのは黒い布で覆われた横顔だった。
     ラッセル……!
 あさとは弾かれたように階段を駆け上がり、後を追った。
 何時の時点からか判らない。が、彼はずっと、扉の向こうで、機会をうかがっていたに違いない。おそらく、この焔の中、子供の居所を捜していたのだ。
    ラッセル!」
 ようやく階段を上がりきる。扉の取っ手は、焼け石のようだった。ドレスをまくって掌を覆う。が、押しても引いても、びくともしない。
     馬鹿な!
 鍵が掛かっているのだ。内側から。
 あさとは力いっぱい扉を叩いた。
「ラッセル、嫌よ、ラッセル!」
 彼が、一人で全てを背負い込もうとしている。あさとが追っていくのを拒否している。
    ラッセル!!」
 あさとは、絶望の声を上げた。しばし、目を閉じ、歯をくいしばるようにして激情に耐える。
     諦めたりするものか。
 必死で、自分に言い聞かせた。
 サランナを、妹を救えるのは、私しかいない。
 私が諦めれば、何もかもここで終わってしまう。
 あさとは階段を駆け下りた。これだけ広い城で、上階に通じる階段が一つだとは思えない。
 部屋の扉を片端から開けていく。ようやく広い空間に行きあたる。そこは、食堂なのか、大きなテーブルが部屋の半分を占めている。
 視線をめぐらし、使用人たちが通るための小さな通路を見つけると、あさとはその中に駆けこんだ。
 狭い通路は石壁で遮断されている。それはらせん状の階段に繋がっていて、そのまま上に昇ることができた。
     死なせない。
 一気に、階段を駆けあがった。
     子供も、ラッセルも、サランナも。
 熱気が迫り、これ以上昇れないと思いかけた時、ようやく目の前に扉が見えた。
 体当たりするように扉を開ける。室内には、激しい焔が、周辺の壁を舐めるように広がっている。
 煙と焔、あさとは必死で視線をめぐらす。轟音渦巻く焔の中を、駆けて行くサランナの後姿が見えた。奥へ    さらに焔の中へ、妹の影は飲み込まれようとしている。
「サランナ……!」
 あさとは手で顔を覆うようにして駆けた。
 壁際の柱が、火力で崩壊を始めている。焔を上げた石材が、がらがらと音を立てて崩れ、足止めされたサランナが、振り返った。
 あさとを見る女の顔は、まるで死人のように、蒼ざめていた。
「ラッセルは?」
 あさとは聞いた。
 サランナは答えない。
「子供は? 子供は何処にいるの?」
 妹の片頬に、初めて皮肉めいた笑みが浮かんだ。
「助かりはしないわ、もう誰も」
 そして、そのまま、あさとを振り切るように背を向けた。
「待って!」
 あさとは、逃げようとする女の身体に抱きつくように飛びかかった。
 ドレスの裾を、背後から掴んで引き倒す。必死だった。
「あなたは愛されているのよ、サランナ! それに気づかないだけなのよ!」
 サランナは恐ろしい力で抵抗した。
 火柱を上げた黒マリス像が、二人の身体すれすれの所に崩れ落ちる。
 あさとの腕がサランナの頬を叩き、サランナの爪が、あさとの肌を裂いた。
 妹の衣服の胸元が破れ、鎖に繋がれた緋色の石が零れ出す。それは、かつてあさとがユーリから託されたネックレスだったが、妹がそれを持つ理由を問い質す余裕はなかった。
 あさとは肩で息をしながらサランナを見下ろした。
「クロウが、どういう思いであなたの剣を受けたと思っているの?」
 サランナも、肩で荒い呼吸を繰り返している。
「あなたを……」
 簡単に避けられる距離だった。クロウはまるで、自らその刃を抱きとったように、あさとには見えた。
「あなたを愛しているからじゃない!」
「…………」
「あなたをの心を、救おうとしたんじゃないの!」
 サランナは応えない。きつい眼差しで、じっとあさとを見上げている。
「馬鹿! わがまま! 自分勝手に思いこんで、周りが全然見えてなくて、最低よ、あなたって女は」
「ほっといてよ、あんたに何がわかるのよ!」
 焔の中で、二人は折り重なるように格闘した。やがて、あさとはサランナを完全に組み敷いた。
 苦しげに上下するサランナの白い胸で、血色の石が揺らめいたように見えた。
「あなたのことなんか……ほっときたいわよ」
 息をきらしながら、あさとは言った。
「初めて会った時から、本当は嫌いだったのよ。べたべたして、嫉妬深くて、いつも琥珀を苦しめてばかりいて」
 自分が何を言いたいのか、言っているのか判らなかった。
「あなたなんか、大嫌い、いなくなればいい、いなくなればいいって、本当はずっと思ってた。本当はずっと大っ嫌いだった!」
 サランナの目。大きくて、吸い込まれそうほどに美しい二つの瞳。
 それが、いつしか雅のものになっている。
「なのに、やっぱり、私は、……あなたのことが心配なのよ、あなたのこと」
 あさとはうなだれた。
 嫌いなのに、    気がつけば、いつも一緒にいた。互いを笑顔であざむきながら、欺いている事さえ、どこかで互いに自覚しながら。それでも   
「………」
「……私の友達は、……雅、あなただけだから……」 
「………」
 サランナの表情は動かなかった。ただ    その唇だけが、ゆっくりと開いた。
 さよなら。
 そう聞こえた。
     サランナ……?
 ぴしっと、妹の胸で、小さな亀裂が走るような音がした。それが何か確かめようとした刹那、サランナの大きな瞳が、いきなり極限まで見開かれた。
 獰猛な勢いであさとを押しのけ、起き上がったサランナは、そのまま覆い被さるように身体を投げかけてきた。
「……っ? サランナ?」
 たまらず、あさとは仰向けに倒れる。
 轟音が、妹の動きに被さるようにして響き渡る。
 まるで、大量の火薬が、まとめて爆発したような音だった。
 サランナは、身体をごとあさとに覆い被さったまま、耳元で低く囁いた。
「……ばかねぇ……」
「……?」
「お姉様じゃなくて、私のことよ。初めて私の方が、あなたより馬鹿なことしちゃったみたい」
「……サランナ……?」
 妹の背中に回した手    自分の手が掴んだ衣服が、じっとりと濡れている。
 何かの錯覚ではないか、とあさとは思った。
 密接したその胸元からも、泡交じりの鮮血があふれ出ている。
「なるほど、これは、すごい威力だ」
 頭上で男の声が響いた。その亡霊のような響きに、あさとは全身が凍りつくのを感じた。
「アシュラルが発案したか。嫌な男だがさすがは神童、これが世界を変える鍵となる兵器……」
 男は、中央の階段半ばに立っていた。
 その周囲は、すでに半ば焼け落ち、崩れかけている。
 彼が手にしているものは、黒光りする短筒状の物体。その細長い口から、薄い煙が立ち昇っている。
 それが何か、あさとはよく記憶していた。山中の天幕で、法王軍が隠し持っていた   
「……ヴェルツ……公爵」
 あさとは呟いた。
 悪夢を見ているような気分だった。
 
 
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 自分の腕の中で、妹の身体が次第に重みを増していく。
「もう、逃げ場はありませんよ、クシュリナ様」
 その男    元奥州公、薬師寺ヴェルツは、楽しそうに肩を揺すった。別人のように痩せている。白髪に変じた蓬髪、落ち窪んだ目。かつての、鷹の様な雄雄しさはどこにもない。
「一階に、私が火を放ちました。もう、ここからは、何処へも逃げられない」
 男はそう言いながら、両手で、しっかりと黒い筒状の銃器を構え直す。
「いや、私だけは、生延びてみせますがね。この兵器を模倣して大量に作らせる。そして    私がこの世界の主になるんだ」
 あさとは立ち上がろうとした。サランナは動かない。死んだのかもしれない    妹が死んだ、憎んで、愛して、そしてようやく分かり合おうとしていた妹が、今……。
 妹の腰には雪白桜の短剣が掛かっている。震える手で剣を抜き取り、あさとはかろうじて立ちあがった。
 怒りと悲しみ、そして絶望が胸を塞ぐ。剣を構えて立ったものの、あさとは、その場から一歩も動くことができなかった。
「私は、あなたの母上を愛していた……」
 ヴェルツは続けた。その目は、もう、まともな人間のものではなかった。
「あなたを、私のものにしたかった。けれど今は、……死んでもらうしかないようだ」
 銃口が、しっかりとあさとを狙っている。
「あなたが死ねば、アシュラルが苦しむ。私は、その瞬間を見るためだけに、今日まで生きてきたのだから」
 動けなかった。
 これが    これが、結末だったのだろうか。これが……この世界での、私の……。
「撃ってみろ」
 殆んど耳元で声がした。
 その声を聞きながら、振り向くまでもなく、その声の主を認識しながら、それでもあさとには信じられなかった。
「その銃は出来損ないだ、撃ってみろ、ヴェルツ」
 声と共に、あさとの胸元に、柔らかなものが押し当てられた。
 白い絹に幾重にも包まれた    黒い髪、それと同色のつぶらな瞳。真珠のような白い頬に、薔薇色の赤みが差している。
 赤ん坊は、あさとを見上げて、あどけない笑顔を浮かべた。
 渡された命を抱き取り、抱きしめ、そして、あさとは茫然と、自分の傍をすり抜けていく男の背を見送った。
 それは、先ほど垣間見た、法王の軍服を着た男だった。兜は被らず、右目だけを黒布で覆っている。
 あの時はただ一瞬、横顔を見ただけだった。だから、疑うことさえしなかった。ここに    アシュラルがいるはずがないと思っていたから。
「アシュラル……」
 あさとは呟いた。間違いない、背中の感じ、輪郭、声。ここにいるのは    アシュラルだ。
「……やっと……貴様に会えた……」
 ヴェルツの、乾ききった唇から、きしむような音が漏れた。それは憎しみに燃える男の歯軋りだった。
「アシュラル!」
 あさとは叫んだ。駆け出そうとした。
「馬鹿、来るな!」
 夫の背中は厳しかった。そのまま、彼は階段まで歩みを進める。
 燃え盛る焔が、対峙する二人の男を炙り出している。
「……撃ってみろ、ヴェルツ。その銃はな、欠陥があって使えないんだ。相手を殺せず、撃った本人の身体が吹き飛ぶ」
 幽鬼を思わせる笑みを浮かべ、ヴェルツは、銃を構えなおした。
「アシュラル、昔から、貴様の口の上手さには、随分騙されてきた……マリスの化身め、誰が貴様の言う事など、信じるものか」
 アシュラルの歩みは止まらない。
「だったら、撃ってみるんだな。その銃は二弾式だが、厄介なことに、一発目と二発目、どちらに欠陥があるか、撃ってみるまで判らない」
「貴様のせいで、私は……最愛の息子を失った」
「二発とも正常に発射されることもあれば、そうでないこともある。せっかく生延びた命を、くだらないことで棄てる気か」
 あさとは、自分の胸が、痛むほど鼓動を荒げているのを感じた。
 アシュラルの背中、声、横顔    それが、元の輝きを取り戻していると思えるのは、気のせいだろうか。
     もしかして。
 それは、かすかな、そして祈るような希望だった。
     もしかして、彼の病は……。
「私がどれだけ、我が子を愛していたか、……貴様に、判るか」
 その口調に、あさとははっと胸をつかれて顔を上げた。
 ヴェルツの、枯れ果てた頬に、涙が幾筋も伝っていた。
「愚かで、何もできない馬鹿息子だ、でも、愛していた、私の全てで、私の    生きている意味そのものだった」
 アシュラルの背は動かない。彼はそのまま、静かに腰の長剣を抜き払った。
「……それでも、ヴェルツ、お前に、その武器を渡すわけにはいかない」
 呟くような声だった。
 ヴェルツは銃口をアシュラルに向け、狂気すれすれの笑みを浮かべた。
「死ぬのはお前だ、私はこの武器を持ってウラヌスへ渡る。イヌルダも皇室も、法王庁も潰してやる。世界を私だけのものにする、そして、我が息子ダンロビンに皇帝の冠を捧げよう」
「……俺が死ぬか、お前が死ぬかだな、ヴェルツ」
 アシュラルは、片手に長剣を構えたまま、ゆっくりと階段を上がり始める。
「アシュラル、駄目!」
 あさとは叫んだ。胸騒ぎがした。アシュラルの    彼の背中から、あの日金羽宮で、サランナと向き合った時と同じ感情が透けて見える。
「心配するな」
 わずかに横顔だけ見せて、アシュラルは笑った。
「俺は強運に恵まれている、大丈夫だ」
 それを見下ろす、ヴェルツの目が血走っている。かつての大諸侯は今、完全に何かの境界を超えていた。
 アシュラルの身体が低く沈み込む。彼はそのまま、階段を一気に駆け上がり、銃口を向ける男との距離を詰めた。
「アシュラル!!」
 あさとの背後で、何かが崩れた。激しい轟音と舞い上がる煙で、一瞬、視覚も聴覚も奪われていた。
 抱いた子供を庇うように、あさとはその場に膝をついた。すぐに顔をあげ、アシュラルの姿を探す。
       階段。
 ヴェルツの身体が、枯れ木のように二つに折れ曲がるところだった。
 死に行く男の見開かれた目は、何故か、満足げな微笑を浮かべている。
 傍らに立つアシュラルは、胴を払ったばかりの剣を下ろした。その剣は、けれど彼の指を離れ、階段の傾斜を転がり落ちた。
 その様を、夢でも見るような思いで、あさとはただ、見つめていた。そして   
 彼もまた、階段の途中に、崩れるように膝をついた。
 
 
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 あさとは、片腕で幼子を抱き止めたまま、彼の頭を膝に抱えた。
 紫の軍服。開いた襟元。その首から胸元にかけてが、真新しい血で濡れている。
「アシュラル……」
 自分の声が、信じられないほど震えている。
「馬鹿……まだ、逃げていなかったのか……」
 アシュラルは、薄く眼を開けて呟いた。
「馬鹿はどっちよ。なんで……あなたが」
     ここに……。
 後は言葉にならなかった。
 ようやく、ジュールに欺かれていたのだと気がついた。
 声の様子が、どこか不自然だとは思っていた。城内に残されていたのは、ラッセルではなくアシュラルだったのだ。
 それと知れば、私が必ず追っていくと思ったのだろうか    私を行かすまいとしてくれたのだろうか   
「馬鹿、考え無し、……何を考えてるのよ、……そんな身体で」
 悔し涙がまなじりに滲んだ。一瞬、横顔しか見なかったとは言え、どうして階下にいた時点で、すぐに    それがアシュラルだと気がつかなかったのだろうか。
「死なないで……」
 零れた涙が、彼の焼けた頬に落ちる。
 これがアシュラルとの別れになるのだと、    今生の別れになるのだと、あさとにははっきり判っていた。
 傷の深さは判らないが、もう、助かりようがない。この焔の中    立ちあがることさえできないのなら。
 あさとの膝で、力なく呼吸を繰り返していたアシュラルは、目だけで、その頭上に抱かれた子供を見上げた。
「俺の子だからな」
 優しい声だった。
「………」
「俺が残してやれることは、これくらいしかないだろう」
「………」
 涙で、彼の顔がよく見えない。
 泣くことさえわずらわしいほど、今は彼の顔を見ていたい。
 男の頬を抱き、自分の額と重ね合わせ、あさとは震える声で囁いた。
「私には何も残してくれないの……?」
「お前には、沢山残した」
「足りない……」
「欲張りだな」
「全然足りない……」
     死なないで。
 一人にしないで。
 私を置いて逝かないで。
「子供……もっと、欲しいから」
「………」
「カヤノの家で、みんなでお喋りしたりするの。もう、戦争も法王もやめて、私たち……普通に、幸せに生きていくの」
 髪を撫でるアシュラルの指は、優しかった。
「もう一度……抱かせてくれ」
「………」
 涙を拭い、あさとは、胸に抱いた命をアシュラルの胸元に近づけた。
「名前……聞いて、いなかったな」
 彼の手が、赤ん坊の頬に、髪に、愛しそうに触れる。
 あさとは、その耳元に唇を寄せ、子供の名前を囁いた。
        レオナ。
 不思議だった、口にした途端、それまで赤ん坊だったものが、レオナという名の息子に変わった。レオナ。私と、そしてアシュラルの子供。
「女みたいな名前だな、……でも……いい名だ」
「うん……」
 彼の指が、力なく落ちていく。
 あさとは、その血塗れた胸に顔を寄せた。抱きしめた。
 いや。
 怖い    あんな幸せを知ってしまって、一人で取り残されるのが怖い。
「クシュリナ」
「いや」
 彼が何を言いたいのかは、判っている。
「俺はもう、動けない、……逃げてくれ」
 無言で、ただ首を横に振る。
「レオナを、見殺しにするつもりか」
 首を振る。
「クシュリナ」
「……もう、逃げられない……」
 焔は部屋中を覆い尽くしていた。ヴェルツが階下にも火を放ったのなら、もう、どこにも逃げ場はない。
 もういい、と思った。
 やるべきことは全てやった。
 サランナに、自分の言いたかったことは全部伝えた。
 あとは    この世界の意思に、全てを委ねるしかない。
     この世界での……雅の意思に。
「クシュリナ……」
「……逃げ場はないの……どこにも……」
「………」
 自分の役目は、全て終わった……。
 あさとはレオナを抱き締め、目を閉じた。
 その肩に、アシュラルの手が、ゆるやかに掛けられる。
「頼む、行くんだ」
 あさとは首を横に振ろうとした。
「行け、クシュリナ、お前の役目は、まだ終わってはいない」
 尽きかけている者とは思えないほど、厳しい、そして毅然とした声だった。
「俺が死ねば、再び諸侯の結束は乱れ、戦乱が起こるだろう。ラッセルにはこの日のために、今まで不自由な思いをさせてきた。お前はラッセルを助けろ、あいつ一人では、この先何年も欺ききれない」
 あさとは涙を飲みこんだ。首を振りたかった。そんなことは、できないと言いたかった。
 アシュラルの手が、あさとの頬を抱いて、引き起こした。
「クシュリナ、俺の過ちを償うんだ、……俺に代わって」
「あやま……ち……?」
 唇が震えた。涙が、止まらずに頬を伝う。
「俺が創り上げたものは、まだ……この世界には早すぎた。皮肉なものだな、俺自身が作ったものが、……今、こうして……俺を罰しているのだから……」
「……アシュラル……」
 自分の頬を抱く夫の手を、あさとは上から握り締めた。
 多分、最初から   
 最初からこの人は、戦いが終結した後の世界を、生きるつもりはなかったのだろう。
 ジュールが予見していたとおり、アシュラルの役目は、ただ、世界の秩序を破壊することだけだった。フォード公もまた、早すぎた才能がこの先生き続ける危険を察し、その死を    願ったのだ。憎しみではなく、この世界の未来のために。
 そして、アシュラルも……。
 ヴェルツの銃口を、彼は最初から、わが身に受けるつもりだったのだ。
     馬鹿……。
     寂しがり屋のくせに、怖がりのくせに。
「……泣くな……」
 もう、アシュラルの目は、あさとを捕らえられないようだった。頬に触れる指が、零れ落ちる涙をぎこちなく拭ってくれる。
「お前は、生きろよ」
「…………」
「三年でいい、辛抱して生きてくれ。……三年たったら、……そうだな、許してやろう」
「……何を……」
「他の奴を好きになっても、許してやる……」
「いやよ、アシュラル」
「俺は、……お前が幸せになるなら……少しも怖くはない、……不思議だな、怖くないんだ……」
 アシュラルはそのまま目を閉じた。
 膝に掛かる重みが増した。彼の身体から力が抜けて行くのが判る。
「いや、……いや、いやよ、アシュラル……!」
 反応の失せた身体を揺すり、あさとはただ慟哭した。
「アシュラル!!」
 咳き上げる思いに耐えきれなかった。
 この辛さを抱いたまま、この先、生きていく自信がない。行きたくない、何処にも行かない。ここで、彼と一緒に死んでしまいたい。
「どけ!」
 頭上で厳しい声がはじけた。
「どくんだ、瀬名」
 その声に、あさとは愕然として顔をあげ、凍りついた。
 信じられなかった。
       小田切さん!」
 あさとを押しやり、そのままアシュラルの傍にかがみこむその姿、    その姿は。
 黒に近い紫紺の軍服。けれど、衣の下からは、最後に天摩宮で別れた時と同じ衣装がのぞいている。
 水を被ってきたのだろうか。男の全身は滴る水滴で濡れていた。黒く濡れた髪からのぞく首周りに、あさとの衣装を裂いて作った眼の覆いが、まだ、結び目が解ききれずに残っている。
     ラッセル………。
 彼はラッセルだった。間違いない。なのに。
「しっかりしろ! あんたまで一緒に死ぬつもりか!」
 ラッセルは、反応のないアシュラルの肩をゆすり、耳元に口を近づけた。
「起きろ! あんたは死なない、あんたはアシュラルじゃないからだ、目を覚ませ、あんたは小田切直人なんだ、しっかりしろ! このままじゃ、心まで持って行かれるぞ!」
 抱え起こすようにアシュラルを抱くと、ラッセルは襟を掴むようにして、激しく揺さぶった。
     眼を覚ませ! 本当に死にたいのか!」
 目の前で起きていることが、あさとには理解できなかった。
 ラッセルが琥珀だということは判っていた。    でも。
 でも、ラッセルの中の琥珀は    ―。
 兄に抱かれたままだった弟の身体が、わずかに反応したように見えた。
 ラッセルは弟の唇に自分の耳を近づけ    しばらくそのまま、動こうとしなかった。
「………」
 やがてラッセルは、静かな所作で、動かなくなった身体を床に下ろす。
 そして、血に染まる襟元に指を差し入れ、紫の布に包まれた小さな包みを取り出した。
     母の形見だ)
 あれは青州で再会してすぐの頃だ。そう言って、床に落ちた包みを、怒ったように拾い上げたアシュラル。
 あの時の光景を、あさとは、はっきりと覚えていた。
 それは彼が、軍服の下に入れ、常に持ち歩いていたものなのか    無論、ラッセルにとっても母の形見になるのだろうが、今は、元の所有者の形見という意味合いもあった。
 ラッセルは何も言わず、その包みを、自らの懐にしまいこんだ。
「……ラッ…セル……?」
     琥珀……?
 あさとは呟くように言って彼を見上げた。まだ……信じられなかった。理解できなかった。
 双子の兄はわずかにあさとの方を見て、そして、目を伏せて立ちあがった。
 その表情は、ラッセルのものであり、今は琥珀のものだった。
「行くぞ」
 とっさに、あさとはアシュラルの身体にすがった。
「行かない」
 まだ、暖かい。まだ    一人にさせたくない。
 あんなにも、怖がっていた。あんなにも寂しがっていた人を。
「……行かない」
 ラッセルの手が、あさとの腕を掴み、半ば強引に引き起こされた。さらに抗おうとすると、そのまま、思い切り平手で頬を叩かれた。
 頭の芯までしびれるほど、それは強烈な痛みだった。
    お前はいつから、そんな情けない女になった」
 その声も、眼差しも。
「こいつのしてきたこと全部を、無駄な感傷でぶち壊すつもりか!」
 すでに、彼はラッセルではなく、琥珀だった。琥珀そのものだった。
「来い」
 有無を言わさず手を引く強い力に、あさとはもう、逆らうことが出来なかった。
 振り返る彼方で、動かない夫の周辺が、燃え盛る焔に包まれていく。
「アシュラル……!」
 未練のような涙が伝う、引き戻したい衝動を、身体ごと抱く男が引きとめる。
「アシュラル……アシュラル…………」
        アシュラル……。
 堪えてもなお溢れる涙そのままに、あさとはレオナを抱き締めた。
 この子は、彼の生命そのものだった。彼が確かに生きていた証だった。この子の中に    今、彼の命が息づいている。
 舐めるように襲う焔を避け、ようやく火の気の少ない場所までたどり着くと、ラッセルは足を止め、振り返った。
「俺が抱こう、その方が早い」
 彼は、あさとの手から、そっとレオナを抱き取った。正面から見た男の顔は、どこか蒼ざめた硬さがあった。
「……いつからなの……」
 怖いものでも見るような目で、あさとは聞いた。
     いつから、あなたは。
 ラッセル    いや、琥珀は、首にまとわりついていた布を、引き抜くように投げ捨てた。
「ここから逃げるぞ、時間がない」
 
 
 
 
 
 

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