10
赤黒い焔は、さながら夜を蹂躙する獣のようだった。
海に面した山腹、切り立った崖と、崖下を囲む激流に護られるようにして、目指す城は建立されていた。
マリスの城 。
塔状の細長い建物で、五重層の屋根が重なるようにして連なっている。その背後は絶壁で、下方では激しい轟音が途切れることなく響いている。
城を囲む塔は、すでに、燃え盛る焔に包まれていた。黒煙が、火の粉を巻き上げながら、天へと舞い上がっていく。
あさとは、ウテナの手綱を引いた。
山腹から続く法王軍の群れは、この場所で最終的な陣を張っているようだった。周辺には夥しい騎馬と、法王旗がひしめいている。少し離れた場所には、天幕が張られている。
「 何をしているの……?」
山裾で合流し、ここまで護衛のために同行してきた騎士群に、あさとは訊いた。
「火を、放ったのではないでしょうか」
むろん、後方にいた彼らに、今の状況が判るはずがない。
火を、放った……?
どういうことだろう。では、もう全てが終わったということなのだろうか。
あさとの目には、ひしめいたまま動かない法王軍は、まるで、城が炎上していくのを、手をこまねいて見物しているだけのように見える。
「 クシュリナ様!」
叫び声と共に、騎馬の群れから飛び出してきた男がいた。
思わず身構えたものの、それは法王軍の甲冑を身につけたジュールだった。
「……ジュール」
あさとの緊張がわずかに解ける。
見慣れた指揮官の服ではなく、一騎士としての闘服に身を包んだ男は、背に、まだバートル隊だった頃よくそうしていたように、太い三叉の槍を背負っていた。
甲冑は泥と血に汚れ、額には包帯のようなものが巻きつけてある。男が今、決死の戦いの最中であることを、あさとは怖いような気持ちで理解した。
「アシュラル様から、あなた様の居場所を聞き、たった今、迎えを行かせたところでした。入れ違いだったのですね」
「ジュール、いったい」
あさとはウテナから飛び降りた。
どうなっているの? そう続けようとした言葉を、そのまま喉で飲みこんでいた。
焔に赤く照らし出されたジュールの顔は、左半分が朱に染まっている。血濡れた耳が半ばで千切れているのに気づき、あさとは息を引いていた。
「忌獣にやられました。けれど、大した怪我ではありません」
ジュールはそう言って、頬に流れる血痕を拭った。
「ひどい出血だわ、ジュール、止血を」
「大丈夫です」
男は首を振るが、とても軽いけがには見えなかった。額を覆う布は、ほとんど血止めの役をなしていない。あさとは手を伸ばそうとしたが、ジュールは緩やかにそれを拒否した。
「私のことより、早く安全な場所にお逃げ下さい。ご存じかと思いますが、月が消えました。この闇では、いつ忌獣が出てくるかわかりません」
忌獣……?
あらためて気づき、あさとは眉を寄せていた。
「忌獣は、……消えたんじゃないの」
「消えた?」
頷くと、ジュールは訝しく目をすがめた。
「理由は判らないけれど、月も消えて、忌獣も消えたわ。これほどの闇なのに、山下では誰も忌獣に襲われていないもの」
「……いや……、まさか」
迷うような男の目が、真っ暗な天を仰ぐ。
「上手く説明できないけど、それは間違いないと思うわ。本当に上手く言えないけど 忌獣は、確かに消えたのよ」
この世界の意志が雅なら、その声を確かに、あさとは耳にしたのだから。
「確かに、いきなり闇になった。何か 天に異変が起きたのだとは思っておりましたが」
まだ半信半疑らしいジュールの声を聞きながら、あさとは、今さらのように思い至っていた。
そうだ、もし忌獣が消えたのなら。
もし ロイドの言うことが本当なら、忌獣が消えれば、アシュラルの病も癒えているはずなのだ。
「ジュール、アシュラルは」
その時、頭上から、何かが瓦解するような音が響いた。
驚愕して顔を上げると、城を囲む塔の先端部分が崩壊する所だった。焔に包まれた断片が、轟音を立てながら、崖下の河川へと落下していく。
あさとは周囲を見まわした。燃えているのは上階だけだ。階下には、まだ、火は回ってはいない。
なのに、周囲を囲む法王軍は、身じろぎもせずにこの光景を眺めている。
「何をしているの? サランナやユーリはどうなったの?」
「……近づけないのです」
ジュールは低く言い、そこで初めて感情を堪えるように、ぎりっと奥歯を噛みしめた。。
「近づけない?」
あさとはようやく気がついた。建物の周りに、黒い靄のようなものが滲んでいる。煙とは違う まるで霧のようにも見える。
それは微かに蠕動しつつ、城の周りを幾重にも取り囲んでいる。
「あれは……何……?」
思わず出た声は、震えていた。
「忌獣が本当に消えたのなら」
ジュールは言葉を途切れさせた。
「あの周辺にだけ、奴らは残っているのでしょう」
自身の耳を疑い、あさとは再度、黒煙に包まれた城を見上げる。
「まるで、あの城を護っているかのように。いや、ひょっとしたら、城の中にいる者が、忌獣そのものを操っているのやもしれません。 サラマカンドの時と、同じように」
「待ってジュール、だから、誰も手を出せないということなの?」
そう質しながら、ある予感に、膝が震え出しそうになっていた。では では、あの城の中には、まだ。 。
「中には……、誰が残っているの」
「サランナ様と、……おそらく、三鷹ミシェルが」
「……子供は?」
ジュールはそれには答えなかった。
いるんだ。まだ 私の子供があの中に。
あさとは駆け出そうとした。しかしその焦燥を遮るように、ジュールはあさとの腕を掴んだ。
「ジュール、行かせて!」
「なりません! 忌獣だけでなく、城の周囲は、今灰狼軍が取り囲んでいる!」
「…………」
フォード様……。
「何度も突入を試みましたが、無駄でした。灰狼軍と忌獣に阻まれ、どうにもならない。近づくことさえできないのです」
彼自身凄まじい慙愧を堪えているのか、ジュールの叫びは血を吐くほどに激しかった。
が、それでもあさとは、ジュールの腕を振りほどこうとした。
それでも、私だけは絶対に行かなければならないのだ。
「お願い、行かせて!」
「危険すぎる、死に行くようなものです」
「馬鹿! だったらなんで、火なんかつけたのよ!」
「火は、内部から放たれたのです!」
「内部?」
新たな血が、ジュールの顎を伝っている。暗い眼のまま、ジュールはようやく腕を離した。
「これは誘いです。……あなた様が到着されると聞いて、私にも、ようやくそれが判った」
「どういう意味……?」
ひどく嫌な予感がした。
「あれは、 中にいるサランナ様が、おそらく、あなた様をおびきよせるために、そのために火を放ったのです」
「……サランナが……」
呆然と呟くと、ジュールは低く頷いた。
「あの方は、降伏を辞さず、このまま死を選ばれるおつもりなのでしょう。おそらく、あなた様を道連れにして」
ジュールは何かを言いかけて、そこで、言い難そうに口元を歪めた。
「クシュリナ様、とにかく今は安全な場所に避難してください。アシュラル様のお傍に、いつでもお戻りになれるように、です」
……アシュラルの……傍?
ジュールの口調に、心臓が、嫌な感じに高鳴っていくのを感じた。
男は、無言でうつむき、唇を噛んでいる。
「……アシュラルは、どこなの?」
そう聞きながら、あさとはもう確信していた。
倒れたんだ、また……あの人は、倒れたんだ。
沈鬱な男の目が、奥まった場所にある天幕に向けられる。
あさとはよろめいて、歩みだそうとした。
「……今は、……お会いになること、できません」
ジュールは苦い口調で呟いた。
「どうしてなの……?」
男の足元だけを見つめながら、目の前が暗くなっていくのを感じていた。
忌獣は消えたはずなのに、あの人の病は治らなかった。無理だったんだ、駄目だったんだ……。
「……アシュラル様は、ここへ来る道中だったのでしょう。落馬した状態で倒れたまま、気を失っておいででした」
ジュールは、囁くように続けた。
「幸い、蒙真族に囚われていたロイドを連れてきております。適切な処置を施すことができましたが」
ロイド……。
サラマカンドの手前で別れたきりだった彼は、では、無事に法王軍と合流したのだ。今、運命のように最後の場に居合わせた男のことを、あさとは不思議な気持で思っていた。
うつむいたジュールは苦痛に耐えるように、ぐっと拳を握りしめた。
「……アシュラル様は今、天幕で手当てを受けておいでです。……万が一に備え、今、あの中には、誰も近づけないようにしています」
どういう、意味だろう……?
万一に備え?
「クシュリナ様が行けば、知らぬ者までそれと気づいてしまう、それでは」
「気づくって……?」
その時、激しい足音が急速に背後に迫った。
「ジュール様!」
すぐ後ろから、怒声にも似た声が聞こえた。振り返ると、そこには、法王軍の鎧をまとった騎士の一群が、息をきらしながら立っていた。
「どうした!」
途端にジュールは、厳しい顔になり、あさとを押しやるようにして前に出る。
「突入の許可を! あのままでは、城全体に火が広がってしまいます!」
「許可を!」
口々に訴える騎士たちの声は、悲鳴に近かった。
「駄目だ、今は、あの霧が晴れるのを待つしかない」
にべもなくジュールが言い放つと、一人の若い騎士が魂消るような声をあげた。
「けれど、それでは中に残された者が、 法王様のお命が!」
その言葉の意味が、一瞬あさとには判らなかった。
「法王はご無事である!」
ジュールは太い声で言い切り、裂帛の眼差しで言い募る騎士たちを睨みつけた。
「いったい何を血迷っておるか! 命令通り城周辺を厳重に包囲しろ、絶対に、三鷹家のものを逃がしてはならん!」
「……どういうことなの」
駆け去っていく騎士たちの背中を見ながら、あさとは聞いた。
法王 ? 中に残されている……?
まさか。……
「……ラッセル……?」
不安にかられてジュールを見上げた。
ラッセルは、かなり早い段階で、この城に到着していたはずだ。 それも、法王に身を変えて。ラッセルは、ではラッセルは今、どこにいるのだろうか。
眉を寄せ、少し躊躇してから、ジュールは、苦々しくうなずいた。
「……中にいるの?」
「館を覆う忌獣は、彼だけを通しました。まるで何かの意思のように」
「中にいるのね」
「……お二人のご令室を、取り戻しに」
あさとは、咄嗟に延ばされたジュールの腕を払いのけた。
ようやく 理解できていた。ここにいる法王軍は、今、焔の中にいる男を、法王と信じきっているのだ。
天幕の中にいる男と、城の中に残された男。
死の可能性が高い方が、今の時点では、偽者ということなのだろうか。
天幕の中には本物の法王がいる。だから だから今、マリスの城でサランナと共に焼け落ちていく偽の法王を、このまま見殺しにすると……。
「……ジュール……ひどすぎる、そんなの……そんなの」
あさとは、震える唇を噛み締めながら、赤く照らし出された天幕を見た。この中で、愛しい人が眠っている。アシュラル 心が震える。彼の命が尽きかけている、急速に、確実に、でも 。
背後では、マリスの城が、最期の焔に包まれている。
あの中に、私たちの子供がいる。そして、その子を取り戻すために、ラッセルが闘っている。
それから、もう一人、サランナが……。
サランナが、私を、待っている。
「…………」
アシュラル……。
私は、行かなきゃいけないんだね。
そうだ、それがきっと取り残された最後の心。 雅の、心だ。
あさとはウテナに向かって走り出した。
「クシュリナ様、いけない、それだけはお許しできない!」
背後から、男の声が追いすがった。
「ジュール、あの館を覆う忌獣、あれさえなくなれば、アシュラルは助かるかもしれない!」
振り返り、あさとは叫んだ。
「可能性は少ししかない、わかってる、奇跡みたいな希望だってこと。でも、私はそれに賭ける、そして、それは私にしか出来ない!」
「…………」
握り締めた拳が震えている。けれど、ジュールはもう、何も言おうとはしなかった。
そのまま、男を振り切って、あさとはウテナの背に飛びのった。
「ウテナ、行け!」
サランナが待っている。いや、サランナの中で雅が待っている。私を 。
「アシュラル、待ってて」
遮る騎士たちの間を飛ぶようにすり抜けて、あさとは、闇が渦巻く敷地内に飛び込んだ。
「私が、あなたの子供を連れてくる、あなたを助ける、それまで待ってて!」
館を取り巻く闇が割れた。まるでそれは、あさとの到着を待っていたかのようだった。
あさとはウテナをそこでとめた。
「陛下……」
灰狼軍がずらりと馬首を揃えている。つがえられた矢が、ぴたりと侵入者に照準を合している。
「残念ながら、ここを、お通しするわけにはまいりません」
先頭の最も巨大な騎馬の上、狼の毛にも似た髪をなびかせたフォード公が立ちふさがっていた。
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