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 外は雪が降っていた。
 乗車したタクシー。ラジオからは、聞きなれたクリスマスソングの一節が流れている。
     クリスマス・イブか。
 外の景色を眺めながら、志津子は思わず苦笑していた。
 忘れようにも忘れられない悪夢のような思い出。あれから、同じ日がめぐるたびに、ただ消せない罪の記憶だけを突きつけられていた六年間。
 夕暮れは、すでに薄闇へとその明度を変えつつある。
「守莉君、悪いけど、ちょっとつきあってくれるかな」
 時計を見た志津子は、隣に座る少年に声を掛けた。
「雅ちゃんのこと、うちの第一外科にも報告しておきたいの。その後、私の車でホテルまで送ってあげるから」
 少年の横顔は無言のままだった。
 志津子は、病院の正面にタクシーをつけさせて、守莉を急かすようにして先に降ろした。
 少年はまだ    呆然自失の状態が続いている。
 目の前で、四ヶ月あまり植物状態になっていた人間が目覚めたのだから    病院中の医師が大挙して押しかけ、まだ駐車場にいた門倉議員や母親が駆けつけてきて、泣いたりわめいたりの大騒ぎになったのだから    無理もない。
     ……でも。
 むろん、全てが、大団円に終わったわけではない。
 運転手に支払いを済ませながら、志津子は胸に淀む不安を噛み締めていた。
 門倉雅は、四ヶ月に渡って昏睡が続いていた。
 二ヶ月も脳の機能が停止した状態が続けば、覚醒してもなんらかの障害が残る確率が高いという。志津子が見た限り、門倉雅の様子は、あまり芳しいものとは言えなかった。
 何時間か、その場で経過を見守ったが、結局、誰の呼びかけにも応じず、目だけは開けたものの、表情にはわずかな変化も見せなかった。
 脳に、重大な障害が残っているのかもしれない。言語障害、いやそれよりもっと深刻な。   

 それは、あさとや琥珀、そして小田切にも起こり得ることだ。
「瀬名先生」
 自動ドアをくぐった時、正面から高い声がした。
 声の主を探すまでもなく、聞いただけで、風間のものだとすぐに判る。
「よかった、今日は非番だと上で聞いて、今ご連絡しようと思っていたんです」
 際立って背の高い姿が、会計待ちの患者の向こうから手を振っている。
「どうなさったんです。何かありましたか」
 急いで駆けよって志津子が訊くと、風間は、ふっと表情から笑みを消し、そして再び、無理に造ったような笑顔になった。
「今日は命日ですから」
「…………」
「恩田さんに聞きました。毎年この日、先生は無茶なほど仕事を入れて、夜は必ず酔い潰れるほど飲まれるんだそうですね。ああ、余計なことですが」
 自分の弱さはすでに見抜かれているとはいえ、本当に余計なことだった。
 志津子は自身の表情が強張るのが判ったし、風間もまた、失言を悔いるような表情を見せた。
「すみません。……会われたんですね、樋口氏に」
「…………」
「先生が休みを取られていると聞いて、やはりな、と思ったんです。……お判りになりましたか。いや、正直、先生であれば、すぐにお察しになると思ったんですが」
 志津子もまた、無理に笑顔を作り、わずかに頷いた。
「夢の世界の因果だとは思いたくないですけど、……仮に小田切君をアシュラルに置き換えると、樋口さんは、ユーリにも似た役回りなんですね」
「皮肉な符号ですね。……僕も、それに思い至った時、少し怖くなりましたが」
 互いにわずかに沈黙する。
「実を言うと、僕自身、その可能性を全く考えていないわけではなかった。僕は……第三者ですからね。でも見ないようにしていた。考えないようにしていた。ある意味、一番肝心なことから目を逸らして、別の場所で答えを探そうとあがいていたのかもしれません」
 志津子は黙って頷いた。風間の気持はよく判る。志津子自身    今も、ある意味、一番恐ろしい部分から逃げ続けている。
「賀沢君は、今、どうしているんでしょう」
 そう訊くと、今度は風間は沈思した。
 賀沢修二。
 小田切静那の元教え子。    深夜の繁華街で、担任教師だった彼女を刺殺した少年。
「以前も言いましたが、事件後、賀沢家は離散したんです」
 沈鬱な声だった。
「両親は離婚し、東京の自宅は売却されました。父親は北海道に移り住みましてね。母親は外国で再婚しています。賀沢は家出して……、まぁ、結局は絶縁されたんでしょうね。しばらく、横浜のラーメン屋で、住み込み店員をやっていたそうなんですが」
 そこで言葉を切り、風間はわずかに嘆息した。
「まぁ、元来堪え性のない奴ですから、客とトラブって、傷害事件を起こしたんだそうです。そこに登場したのが、樋口氏です。以降、賀沢の行方はようとして知れません」
「樋口さんが、彼を更生させたんでしょうか」
「更生?」
 男の眉が、たちまち不快そうにゆがむ。
「……さぁ、僕には樋口氏の胸の裡はさっぱりです。本来なら、あの男自身が、賀沢を殺しても飽き足らないほどだと思いますけどね。ある意味、賀沢は最も恐ろしい相手に庇護されたことに」
 そこで初めて風間は、志津子の背後に立つ昌宏の存在に気がついたようだった。
「この子は……もしかして」
 今日、高崎守莉に会うことは、事前に風間にも知らせてある。
 ようやく志津子は、賀沢修二の発見以上の大事件を、風間に知らせなければならないことに思い至った。
「風間さん、それより大変なんです、雅ちゃんの意識が」
 その時、バックの中の携帯電話の着信音が、いきなり鳴った。
取り出した携帯電話を見ると、ウィンドウに、恩田佳織の名前が表示されている。
「もしもし?」
 嫌な予感がした。十年以上のつきあいになる生真面目な相棒は、志津子の休暇中は、滅多な要件では電話を入れない。
『あ、先生、大変なんです』
 佳織の口調は、明らかに動揺した人のそれだった。そのまま言葉を詰まらせる佳織に、志津子は声を失った。    あさとのことだ、娘に何か起こったのだ。
『ごめんなさい、あの、あさとちゃんのことじゃなくて………』
     え? 
 電話越しの声に、すすり泣きのようなものが混じっている。
『小田切先生が……』
 暗いものが胸をかすめた。
「小田切君がどうしたの、恩田さん?」
『……が、……もう、……』
「恩田さん、どうしたの、はっきり言って!」
 電話越しに嗚咽が響いた。
『こ、この前の……あさとちゃんと同じです。急に心拍が下がり出して、血圧もひどく下がって、……たった今、ICUに移されたところです』 
 志津子は電話を切った。
「小田切がどうしたんです」
 何かを察したのか、風間が押し殺したような声で聞く。
「とにかく、上に……」
 言いさして、後が続かなかった。
 これは何の符号だろう?
 雅が覚醒した日に、小田切が危篤に見舞われている。
 まるで、その命を犠牲にして雅を覚醒させたかのように。
 志津子の胸に、雅の病室で感じた疑念が再び蘇った。
 彼は    静那さんに似ているから、雅ちゃんを追ったのだろうか。
 それとも    雅ちゃんに似ているから、……静那さんに、惹かれた……?
 それは、有り得ない想像だった。違う、あれは、妄想だ、志津子は自分に言い聞かせた。仮想前世。あれは門倉雅の頭の中だけに存在する妄想の世界だ。本当の前世などでは、決してない。
 それでも今、確かに小田切は、その妄想に命を奪われようとしている。
     小田切君、死んでは駄目。
 志津子は走り出した。
「瀬名先生?」
 背後の声も、耳に入らない。
 まだ早い。早過ぎる。まだ    彼に、何の希望も見せていない。
 
 
 
 
 
 


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