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 都心にある、私立聖蘆花病院。その六階を占める外科病棟。
 瀬名志津子がこの総合病院を訪れるのは、仕事以外では    今日が初めてのことだった。
     もっと早く、来るべきだったのかもしれない……。
 待合ロビーで時間を確認しながら、志津子は改めてそう思っていた。
 この病棟に、門倉雅が入院している。
 聖蘆花病院は、彼女の父、門倉篤志が多額の寄付金を寄せている病院だった。
 門倉雅が自宅の庭で倒れているのを発見されたのは、あさとたちが病院に運び込まれた後になってのことだ。受け入れ体制の問題もあって、彼女だけ、家族の希望通りこの病院に運び込まれた。
 ホールに流れるのはクラッシック調に編曲されたクリスマスソング。ロビーの中央にはささやかなツリーが飾られており、見舞客の目を楽しませている。窓から見える空は、からりと晴れ渡った雲ひとつない晴天だ   
(こういったらいいのかな。    あの男に真実を打ち明けた夜、僕は今夜中にでも、あの男が自身で死を選べばいいと思いました)
(ぜひ、彼が死ぬ時は僕を呼んでください。子供を殺した男の死に様を見る程度の権利はあるでしょう?    父親として)
 まだ    今日の午前に受けた衝撃が、志津子の心を打ちのめしている。
 今の志津子であれば、風間と同じセリフを言ってしまうかもしれなかった。
 もう、無駄だった    もう、僕は手を引くと。
 今、小田切が目を覚ましたとして、彼に    私は、生きる希望を見せてあげることができるのだろうか。
 が、絶望の淵に沈む心のどこかで、果たして、殺された妻の仇討ちだけが、小田切の望みの全てだったのか、とも思っている。
 何故だろう。前世の繋がりを、無意識に信じるようになってしまったからだろうか。門倉雅を追っていた小田切の動機が、純粋な復讐や憎しみだけだったとは思えない。
 もしかすると彼自身は、そう思っていたのかもしれない。が、    きっとそうではない。 そんな単純なものではなかったはずだ。何故なら、復讐が動機の全てなら、彼の心は、三年前に完全に折れていたと思うからだ。
 彼は    それでも戻ってきたのだ、東京に。そして、自らの足で、あさとや門倉雅と接触を図った。それは、何のためだったのだろう。
 多分、彼が……彼が、それでも求めていたのは。
「瀬名先生!」
 明るい声が、背後から聞こえた。
 振り返った志津子は、自然に笑顔になっている。
 元気いっぱいに手を振って立っているのは、広島で別れた少年    高崎守莉だった。
 
 
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「ほんとに……僕が行っても迷惑じゃないの?」
 少年はそう言って、不安そうな顔を上げた。
 今日の彼は、オーバーオール付きのコートと、ウールのセーターを着こんでいる。愛らしい顔立ちは、制服を着ていないと、まるで少女のようにも見える。
「親の人とか、嫌がらない? だって僕、あの人を追いかけ回したことになってるんでしょう?」
「大丈夫、ちゃんと電話で承諾をとってあるから」
 励ますように背を叩いたが、    実際、了解を得た時は志津子も自身の耳を疑った。
(主人が、かまわないと言っておりますから)
 事件以来、人目を避けるようにひっそりと自宅にこもっていた門倉祥子は、志津子の電話に淡々と答えてくれた。随分、落ち着いた    というのが、志津子が受けた印象だった。
 本当にいいのだろうか   
 あれから志津子は、電話で高崎守莉のカウンセリングを続けていた。一度ならず広島に行ったこともあるし、本人が東京に来たこともある。
 不思議なことに、離人性障害を思わせる症状は、あれを機にぴたりと止んだらしい。ただ、本人は記憶が曖昧だった時期のことをひどく不安に思っていて、今も何かのはずみで件の発作が起きるのではないかと    そんな心配をしているようだった。
 門倉雅に、会わせてみたらどうだろうか。
 すっかり懇意になった守莉の両親に、そう提案したのは志津子だった。が、実現には時間がかかるだろうとも思っていた。
 第一に、門倉雅はいまだ意識が戻っていない。マスコミを警戒してか家族の手によって完全に隔離され、一切の面会が遮断されている。
 しかも高崎守莉は、門倉雅へのストーカー騒ぎを起こした本人である。一切の記憶がないとは言え、門倉家は当然、必要以上に警戒するだろう。
「てか、こんなタルイことせずに、さっさと催眠術つかってくれたらいいのにさ」
 ソファに背を預けたまま、少年は天を見上げて嘆息した。門倉雅に会いたくないのは、守莉もまた同じらしい。身長のほとんど変わらない目線が恨みがましく志津子を見あげる。
「あのね、何度も言ってるけど」
「はいはい、危険なんでしょ、聞いたよ、聞いた」
 少年はいったんは黙ったものの、缶コーヒーを飲み干すと、再び、唇を尖らせた。
 二人は今、病棟の待合ロビーで、担当看護師の到着を待っている。
「でもさぁ、危険って言うけどさ、永瀬って人、催眠術かけられても平気だったんでしょ」
「彼は強いの。君と違って大人なんだから」
 眉をあげて言いかえしながら、志津子は、今日、病院に向かうタクシーの中で、永瀬から受けた電話のことを思い出していた。
    どうやら、死んじゃったみたいです。ユーリ)
 どこかふっきれたような声で、開口一番、永瀬は言った。
 不思議と、志津子に驚きはなかった。
 永瀬のそれまでの話から    ユーリ自身が、この結末を望んでいたような……そんな気がしていたからだ。
 あれから永瀬とは、何度も何度も電話で話した。
 不思議なことに、ユーリのことを語れば語るほどに、永瀬海斗の気持はすっきりと落ち着き、ユーリとは全く違う、彼らしさを取り戻していくようだった。
 逆に、永瀬には、それを知るための作業であり、反復だったのかもしれない。自分と夢の中に出てくる男は、全くの別人格なのだと   
 鷹宮ユーリ。彼の半生の前半は、その美貌と生まれゆえに幾多の悲劇に見舞われ続けた。
 地下に閉じ込められていた幼少時代、性的虐待を受け続けた少年期、心の拠り所だった母と妹の死、    愛を誓った人への報われぬ想い……。
 が、サランナという協力者を得た後半、まるで奪われた前半部分への復讐のように、彼は他人への陵辱行為に明け暮れた。
 彼がナイリュ国の王座に上り詰めるまで、一体どれだけの謀略の血が流れたのだろう。    反対する諸侯、王位継承をめぐるライバル、裏切った身内。
 目を覆いたいほど酷かったのは、正妻となった女性の婚約者を毒殺したうえ、レイアを薬で幻惑して妊娠させ、無理に手中に収めたことだ。
 同じやり方で、彼はクシュリナをも手に入れようとして失敗している。
    あの時ね、ユーリは結局、未遂だったんですよ。何もできなかったんです)
 少し可笑しそうに永瀬は言った。彼にはそれが、よほど嬉しかったようだった。
    サランナが見張ってるから、毎晩クシュリナの部屋には行っていたんです。でも、ただ顔を見るだけしかできなかった。だからね、最初から彼女のお腹の子が、自分の子じゃないって知ってたんですよ。知ってて、……だからこそ、アシュラルのところに返したくなかったんじゃないかな、そんな気がしますね)
    そんときの彼の気持ちですか? わっかんねーなぁ、男としては全然謎。でも、あれですよ、……ちょっと直接的な言い方であれですけど、ユーリ、クシュリナに対して、劣情を感じたことが一度もないんですよね。口では好きだのなんだの、しつこいくらいに迫るんだけど、頭の中ですら彼女を汚せない男なんです。……そういうの、恋愛とは少し違いますよね)
 ユーリの特白、それだけでひとつの長い物語が完成しそうだった。
 彼の人生は、前半に転落し、後半に昇りつめた。
 が、彼にとっての幸福は……果たしてどちらの時代にあったのだろうか。
     多分、グレシャムが死んだ時から。
 志津子は不思議な気持ちで考えていた。
     ユーリという人は、心のどこかが壊れてしまったんだ。彼は、……不思議だけど、自分をあれほど虐待した養父を……どこかで……。
 養父の死後、絶望的なほどに深まった彼の孤独は、おそらく一度も癒されることがなかったのだろう。
 今、鷹宮ユーリは、自らの死をむしろ喜んで受け入れているのだろうか。……
「………」
 少しだけひっかかる。まだ、彼には遣り残したことがあるような気がする。思い残したことがあるような気がする。永瀬の言うように、あっさり死を受け入れたとは思えない。
     そして、まだ判らないのが……。
 志津子は、わずかに眉根を寄せた。
 永瀬の口を通して語られた、サランナという女の心理だ。 
 ユーリが王座を奪取するためのシナリオは、むろん、全て彼女が書いたに違いない。
 シナリオを実行したのは、彼女と……彼女がイヌルダから連れて来た、クロウという名の、不気味な侍従だ。
 イヌルダを出た後の彼女は、ユーリを王座につけることに全力を傾け、嬉々として毒薬を調合していた。その威力と効果は凄まじく、ゆえにユーリは瞬く間に政権の中央に辿りついたのだ。 
 志津子が不思議なのは、そこだ。
 サランナにそれだけの力があるなら、自身も簡単に皇位を得ることができたような気がする。    なのに、彼女は何故、そうはしなかったのだろうか。
 そもそも彼女は、本気で姉を傷つける気持ちがあったのだろうか。
 サランナという女は    ぎりぎりまで姉を追い詰めながら、いつもどこかで最後の逃げ道を用意している、……そんな気がする。
 やがて現れた担当看護師の案内で、志津子と守莉は、病棟の最上階にエレベーターで向かった。
 檜の扉で閉ざされた特別室。門倉議員の外聞慮ってか、入院者の名前は表示されていない。
 志津子は傍らの少年を見た。
 守莉は、さすがに緊張しているのか、何度も唇を噛むようにして湿している。
 軽くノックすると、中から「はい」と低い男の声が聞こえた。
 志津子は少し驚いた。    門倉議員、だ。
 辞任したとはいえ、彼がまだ与党の幹部であることは間違いない。まさか、こんな時間に、多忙な父親自らが来ているとは、思ってもみなかった。
「お久しぶりです、瀬名先生」
 志津子が扉を引くと、門倉篤志は静かに立ちあがって、一礼した。
 品のよいダークスーツ、少しウェーブがかった髪は、丁寧に整えられている。
     痩せたな。
 まず思ったのが、それだった。
 背が高く、恰幅がいいが、以前よりひどく憔悴して見える。
 まるで異国の血がまじったような端整な顔立ちと、くっきりした涼しげな目もと。若い頃は政界のプリンスともてはやされたこともあった。雅は間違いなく、この父が持つ血統を濃く受け継いでいる。
「こんにちは……」
 守莉が気おされたように頭を下げた。彼も、テレビなどで、篤志の顔は知っているはずだ。
 篤志はわずかに眉を動かしただけで、特に何も言わなかった。
「いらしてたんですか」
 志津子は訊いた。
「ええ、暇が出来れば、寄るようにしています」
 言葉すくなにそう言うと、篤志は病床の娘の顔をじっとみつめた。
 布団から手が出ているのを、まるで壊れ物を扱うようにすくいあげると、そっと布団の中に入れてやる。
 そして志津子に眼を向けて目礼した。
「では、私は……用がありますので」
 すれ違う時、志津子はもう一度頭を下げ    気がついた。
     え……?
 振り返ろうとして止めた。勘違いでなければ、篤志の目は、つい今まで泣いていた人のそれに見えた。
 扉が閉まり、部屋には志津子と守莉だけが取り残される。
 そしてもう一人、……眠り続けるこの部屋の主、門倉雅
     症状は、あさとと同じ……。
 志津子は、深く眠っている美しい少女を見つめた。肌は透き通るほどに玲瓏として、長い睫が綺麗な影を落としている。
 眠り姫……。
 ふと、そんな場違いな童話を思い出していた。
 その夢の中に、王子様ごと閉じ込めてしまった眠り姫。自らかけた魔法を解く王子は   
 小田切直人……?
 それとも真行琥珀……?
 それとも………。
「どう?」
 志津子は自分の迷想を断ち切るように、傍らの守莉を促した。
「何か、思い出したこと、ある?」
「………」
 少年は無言で、眠り続ける美貌の少女の枕元に歩み寄った。
 そのまま、身じろぎもせず、守莉は門倉雅の顔を見下ろしていた。
「きれいな人だね」
 やがて、彼はぽつりと言った。
「写真でみた時より、ずっときれい。……でも、僕にはやっぱり知らない人だよ」
「……そう」
 知らない人と言い切りながら、まだ何か未練気に、守莉の目は眠れる美女の顔を見つめている。
「なにか、ひっかかる?」
「そういうんじゃないけど」
 言葉を捜すように、少年はしばし無言になった。
「なんていうのかな、写真と随分印象が違うから。もっと冷たい感じの人を想像してたけど」守莉はそこで、言葉を切った。
「すごく……優しそう。すごく優しい人って気がする」
     印象、か。
 志津子もまた、門倉雅の顔を見つめていた。
 綺麗な容姿、恵まれた境遇、全てを持っているにも係わらず、いつもその表情は寂しげで、つくりものめいていた。いい子を演じている、そんな印象しか残らない娘だった。
 人格の交代が起きていたせいなのだろうか、時折見せる大人びた笑い方が、薄気味悪かったのも、よく覚えている。子供のくせに    と、そんな風に思ったことが、何度かある。
     ……こんな笑い方、意外な一面、こんな    顔。 
 唐突に、志津子の記憶に、言葉の断片が蘇った。
 小田切静那の写真。満面の笑顔。    ―ああ、この人は、こんな顔もできるんだ………。
「………」
 志津子は無言で、唇を手で押さえた。
 この感覚を    私は、……雅ちゃんを見た時に   
「ストーカーって、普通は恋愛感情からするものですよね」
 守莉の呟きが、志津子を現実へ引き戻した。
「まぁ、普通はそうなんじゃない?」
「恋愛かぁ」
 守莉は腕組みしてから、考えるような眼になった。
「よくわかんないけど、それは、ちょっと違うって気がするなぁ」
「好みじゃない?」
「そ、そんなことないけど、なんていうのか、恋愛じゃなくて、もっとなんか……」
 言葉が思いつかないのか、守莉はもどかしげに髪を引っ張った。
「……レオナとしては、彼女をどう思ってたか、覚えている?」
 志津子が聞くと、守莉はびっくりしたように首を横に振る。
「覚えてないっすよ! 覚えてたらむしろ怖いし」
「まぁ、それもそうね」
 志津子は笑ったが、少年はまだ表情を崩さないまま、黙って門倉雅の寝顔に視線を戻した。
「ただ……感じだけ」
「感じ……?」
「………」
「夢に出てきた女の人と……」
「?」
 意味不明の少年の呟きに、志津子は首をかしげている。
 守莉もまた、今の感覚を上手く言い表せないのか、焦れたように髪をかきむしった。
「てかこの人、笑ったら、どんな感じの顔になるのかな」
 笑ったら?
     こんな、笑い方。
 たまっていた何かが弾けるように、志津子は、墓前で感じた違和感の正体を思いだしていた。
     あれは、いつの記憶だったんだろう。あさとと一緒だった。何かの記念日、ホテルか何処かのレストランで、……たまたま、門倉篤志と、そして雅ちゃんに出会った……。
 記念日、違う、私たちは、単に食事に行っただけ、誕生日という記念日は門倉雅の方だった。父親と二人、声をかけたのはあさと、雅ちゃんは驚いたように振り返って。   
 あの時に見た、門倉雅の笑顔、その印象。寂しげだった花が、いきなりぱっと咲きほころんだような。
     似てるんだ……。
 眼の覚めるような思いで、志津子ははっきりと認識した。
 静那さんと、雅ちゃんは……笑った時の印象が……とてもよく、似てるんだ……。
 これは、何の符号だろう? 偶然? それとも、    小田切直人は、死んだ妻に似ているから、門倉雅が許せなかったのだろうか。追っていたのだろうか?
     それとも……。
「うわっ」
 突然、守莉が場違いな声を上げた。
「どうしたの?」
 驚いた志津子は、咄嗟にその方に向きなおる。
 雅のベッドから飛ぶように後ずさった守莉は、腰を落とさんばかりに驚いていた。
「せ、先生、この人起きそうだよ」
「え?」
     まさか。
「だって、今、瞬きしたもん、動いたもん!」
     まさか……。
 駆けよった志津子は、雅の顔をのぞきこみ、あっと声をあげていた。
 美貌の少女の    表情のない大きな瞳が、まっすぐに天井を見上げていた。
 それ以外の全てが静止したまま、目だけが、大きく見開かれている。
「み……」
 声にならなかった。信じられない。
 門倉雅が、覚醒したのだ。
 
 
 
 
 
 
 

 

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