|
5
都心にある、私立聖蘆花病院。その六階を占める外科病棟。
瀬名志津子がこの総合病院を訪れるのは、仕事以外では 今日が初めてのことだった。
もっと早く、来るべきだったのかもしれない……。
待合ロビーで時間を確認しながら、志津子は改めてそう思っていた。
この病棟に、門倉雅が入院している。
聖蘆花病院は、彼女の父、門倉篤志が多額の寄付金を寄せている病院だった。
門倉雅が自宅の庭で倒れているのを発見されたのは、あさとたちが病院に運び込まれた後になってのことだ。受け入れ体制の問題もあって、彼女だけ、家族の希望通りこの病院に運び込まれた。
ホールに流れるのはクラッシック調に編曲されたクリスマスソング。ロビーの中央にはささやかなツリーが飾られており、見舞客の目を楽しませている。窓から見える空は、からりと晴れ渡った雲ひとつない晴天だ 。
(こういったらいいのかな。 あの男に真実を打ち明けた夜、僕は今夜中にでも、あの男が自身で死を選べばいいと思いました)
(ぜひ、彼が死ぬ時は僕を呼んでください。子供を殺した男の死に様を見る程度の権利はあるでしょう? 父親として)
まだ 今日の午前に受けた衝撃が、志津子の心を打ちのめしている。
今の志津子であれば、風間と同じセリフを言ってしまうかもしれなかった。
もう、無駄だった もう、僕は手を引くと。
今、小田切が目を覚ましたとして、彼に 私は、生きる希望を見せてあげることができるのだろうか。
が、絶望の淵に沈む心のどこかで、果たして、殺された妻の仇討ちだけが、小田切の望みの全てだったのか、とも思っている。
何故だろう。前世の繋がりを、無意識に信じるようになってしまったからだろうか。門倉雅を追っていた小田切の動機が、純粋な復讐や憎しみだけだったとは思えない。
もしかすると彼自身は、そう思っていたのかもしれない。が、 きっとそうではない。 そんな単純なものではなかったはずだ。何故なら、復讐が動機の全てなら、彼の心は、三年前に完全に折れていたと思うからだ。
彼は それでも戻ってきたのだ、東京に。そして、自らの足で、あさとや門倉雅と接触を図った。それは、何のためだったのだろう。
多分、彼が……彼が、それでも求めていたのは。
「瀬名先生!」
明るい声が、背後から聞こえた。
振り返った志津子は、自然に笑顔になっている。
元気いっぱいに手を振って立っているのは、広島で別れた少年 高崎守莉だった。
6
「ほんとに……僕が行っても迷惑じゃないの?」
少年はそう言って、不安そうな顔を上げた。
今日の彼は、オーバーオール付きのコートと、ウールのセーターを着こんでいる。愛らしい顔立ちは、制服を着ていないと、まるで少女のようにも見える。
「親の人とか、嫌がらない? だって僕、あの人を追いかけ回したことになってるんでしょう?」
「大丈夫、ちゃんと電話で承諾をとってあるから」
励ますように背を叩いたが、 実際、了解を得た時は志津子も自身の耳を疑った。
(主人が、かまわないと言っておりますから)
事件以来、人目を避けるようにひっそりと自宅にこもっていた門倉祥子は、志津子の電話に淡々と答えてくれた。随分、落ち着いた というのが、志津子が受けた印象だった。
本当にいいのだろうか 。
あれから志津子は、電話で高崎守莉のカウンセリングを続けていた。一度ならず広島に行ったこともあるし、本人が東京に来たこともある。
不思議なことに、離人性障害を思わせる症状は、あれを機にぴたりと止んだらしい。ただ、本人は記憶が曖昧だった時期のことをひどく不安に思っていて、今も何かのはずみで件の発作が起きるのではないかと そんな心配をしているようだった。
門倉雅に、会わせてみたらどうだろうか。
すっかり懇意になった守莉の両親に、そう提案したのは志津子だった。が、実現には時間がかかるだろうとも思っていた。
第一に、門倉雅はいまだ意識が戻っていない。マスコミを警戒してか家族の手によって完全に隔離され、一切の面会が遮断されている。
しかも高崎守莉は、門倉雅へのストーカー騒ぎを起こした本人である。一切の記憶がないとは言え、門倉家は当然、必要以上に警戒するだろう。
「てか、こんなタルイことせずに、さっさと催眠術つかってくれたらいいのにさ」
ソファに背を預けたまま、少年は天を見上げて嘆息した。門倉雅に会いたくないのは、守莉もまた同じらしい。身長のほとんど変わらない目線が恨みがましく志津子を見あげる。
「あのね、何度も言ってるけど」
「はいはい、危険なんでしょ、聞いたよ、聞いた」
少年はいったんは黙ったものの、缶コーヒーを飲み干すと、再び、唇を尖らせた。
二人は今、病棟の待合ロビーで、担当看護師の到着を待っている。
「でもさぁ、危険って言うけどさ、永瀬って人、催眠術かけられても平気だったんでしょ」
「彼は強いの。君と違って大人なんだから」
眉をあげて言いかえしながら、志津子は、今日、病院に向かうタクシーの中で、永瀬から受けた電話のことを思い出していた。
( どうやら、死んじゃったみたいです。ユーリ)
どこかふっきれたような声で、開口一番、永瀬は言った。
不思議と、志津子に驚きはなかった。
永瀬のそれまでの話から ユーリ自身が、この結末を望んでいたような……そんな気がしていたからだ。
あれから永瀬とは、何度も何度も電話で話した。
不思議なことに、ユーリのことを語れば語るほどに、永瀬海斗の気持はすっきりと落ち着き、ユーリとは全く違う、彼らしさを取り戻していくようだった。
逆に、永瀬には、それを知るための作業であり、反復だったのかもしれない。自分と夢の中に出てくる男は、全くの別人格なのだと 。
鷹宮ユーリ。彼の半生の前半は、その美貌と生まれゆえに幾多の悲劇に見舞われ続けた。
地下に閉じ込められていた幼少時代、性的虐待を受け続けた少年期、心の拠り所だった母と妹の死、 愛を誓った人への報われぬ想い……。
が、サランナという協力者を得た後半、まるで奪われた前半部分への復讐のように、彼は他人への陵辱行為に明け暮れた。
彼がナイリュ国の王座に上り詰めるまで、一体どれだけの謀略の血が流れたのだろう。 反対する諸侯、王位継承をめぐるライバル、裏切った身内。
目を覆いたいほど酷かったのは、正妻となった女性の婚約者を毒殺したうえ、レイアを薬で幻惑して妊娠させ、無理に手中に収めたことだ。
同じやり方で、彼はクシュリナをも手に入れようとして失敗している。
( あの時ね、ユーリは結局、未遂だったんですよ。何もできなかったんです)
少し可笑しそうに永瀬は言った。彼にはそれが、よほど嬉しかったようだった。
( サランナが見張ってるから、毎晩クシュリナの部屋には行っていたんです。でも、ただ顔を見るだけしかできなかった。だからね、最初から彼女のお腹の子が、自分の子じゃないって知ってたんですよ。知ってて、……だからこそ、アシュラルのところに返したくなかったんじゃないかな、そんな気がしますね)
( そんときの彼の気持ちですか? わっかんねーなぁ、男としては全然謎。でも、あれですよ、……ちょっと直接的な言い方であれですけど、ユーリ、クシュリナに対して、劣情を感じたことが一度もないんですよね。口では好きだのなんだの、しつこいくらいに迫るんだけど、頭の中ですら彼女を汚せない男なんです。……そういうの、恋愛とは少し違いますよね)
ユーリの特白、それだけでひとつの長い物語が完成しそうだった。
彼の人生は、前半に転落し、後半に昇りつめた。
が、彼にとっての幸福は……果たしてどちらの時代にあったのだろうか。
多分、グレシャムが死んだ時から。
志津子は不思議な気持ちで考えていた。
ユーリという人は、心のどこかが壊れてしまったんだ。彼は、……不思議だけど、自分をあれほど虐待した養父を……どこかで……。
養父の死後、絶望的なほどに深まった彼の孤独は、おそらく一度も癒されることがなかったのだろう。
今、鷹宮ユーリは、自らの死をむしろ喜んで受け入れているのだろうか。……
「………」
少しだけひっかかる。まだ、彼には遣り残したことがあるような気がする。思い残したことがあるような気がする。永瀬の言うように、あっさり死を受け入れたとは思えない。
そして、まだ判らないのが……。
志津子は、わずかに眉根を寄せた。
永瀬の口を通して語られた、サランナという女の心理だ。
ユーリが王座を奪取するためのシナリオは、むろん、全て彼女が書いたに違いない。
シナリオを実行したのは、彼女と……彼女がイヌルダから連れて来た、クロウという名の、不気味な侍従だ。
イヌルダを出た後の彼女は、ユーリを王座につけることに全力を傾け、嬉々として毒薬を調合していた。その威力と効果は凄まじく、ゆえにユーリは瞬く間に政権の中央に辿りついたのだ。
志津子が不思議なのは、そこだ。
サランナにそれだけの力があるなら、自身も簡単に皇位を得ることができたような気がする。 なのに、彼女は何故、そうはしなかったのだろうか。
そもそも彼女は、本気で姉を傷つける気持ちがあったのだろうか。
サランナという女は ぎりぎりまで姉を追い詰めながら、いつもどこかで最後の逃げ道を用意している、……そんな気がする。
やがて現れた担当看護師の案内で、志津子と守莉は、病棟の最上階にエレベーターで向かった。
檜の扉で閉ざされた特別室。門倉議員の外聞慮ってか、入院者の名前は表示されていない。
志津子は傍らの少年を見た。
守莉は、さすがに緊張しているのか、何度も唇を噛むようにして湿している。
軽くノックすると、中から「はい」と低い男の声が聞こえた。
志津子は少し驚いた。 門倉議員、だ。
辞任したとはいえ、彼がまだ与党の幹部であることは間違いない。まさか、こんな時間に、多忙な父親自らが来ているとは、思ってもみなかった。
「お久しぶりです、瀬名先生」
志津子が扉を引くと、門倉篤志は静かに立ちあがって、一礼した。
品のよいダークスーツ、少しウェーブがかった髪は、丁寧に整えられている。
痩せたな。
まず思ったのが、それだった。
背が高く、恰幅がいいが、以前よりひどく憔悴して見える。
まるで異国の血がまじったような端整な顔立ちと、くっきりした涼しげな目もと。若い頃は政界のプリンスともてはやされたこともあった。雅は間違いなく、この父が持つ血統を濃く受け継いでいる。
「こんにちは……」
守莉が気おされたように頭を下げた。彼も、テレビなどで、篤志の顔は知っているはずだ。
篤志はわずかに眉を動かしただけで、特に何も言わなかった。
「いらしてたんですか」
志津子は訊いた。
「ええ、暇が出来れば、寄るようにしています」
言葉すくなにそう言うと、篤志は病床の娘の顔をじっとみつめた。
布団から手が出ているのを、まるで壊れ物を扱うようにすくいあげると、そっと布団の中に入れてやる。
そして志津子に眼を向けて目礼した。
「では、私は……用がありますので」
すれ違う時、志津子はもう一度頭を下げ 気がついた。
え……?
振り返ろうとして止めた。勘違いでなければ、篤志の目は、つい今まで泣いていた人のそれに見えた。
扉が閉まり、部屋には志津子と守莉だけが取り残される。
そしてもう一人、……眠り続けるこの部屋の主、門倉雅
症状は、あさとと同じ……。
志津子は、深く眠っている美しい少女を見つめた。肌は透き通るほどに玲瓏として、長い睫が綺麗な影を落としている。
眠り姫……。
ふと、そんな場違いな童話を思い出していた。
その夢の中に、王子様ごと閉じ込めてしまった眠り姫。自らかけた魔法を解く王子は 。
小田切直人……?
それとも真行琥珀……?
それとも………。
「どう?」
志津子は自分の迷想を断ち切るように、傍らの守莉を促した。
「何か、思い出したこと、ある?」
「………」
少年は無言で、眠り続ける美貌の少女の枕元に歩み寄った。
そのまま、身じろぎもせず、守莉は門倉雅の顔を見下ろしていた。
「きれいな人だね」
やがて、彼はぽつりと言った。
「写真でみた時より、ずっときれい。……でも、僕にはやっぱり知らない人だよ」
「……そう」
知らない人と言い切りながら、まだ何か未練気に、守莉の目は眠れる美女の顔を見つめている。
「なにか、ひっかかる?」
「そういうんじゃないけど」
言葉を捜すように、少年はしばし無言になった。
「なんていうのかな、写真と随分印象が違うから。もっと冷たい感じの人を想像してたけど」守莉はそこで、言葉を切った。
「すごく……優しそう。すごく優しい人って気がする」
印象、か。
志津子もまた、門倉雅の顔を見つめていた。
綺麗な容姿、恵まれた境遇、全てを持っているにも係わらず、いつもその表情は寂しげで、つくりものめいていた。いい子を演じている、そんな印象しか残らない娘だった。
人格の交代が起きていたせいなのだろうか、時折見せる大人びた笑い方が、薄気味悪かったのも、よく覚えている。子供のくせに と、そんな風に思ったことが、何度かある。
……こんな笑い方、意外な一面、こんな 顔。
唐突に、志津子の記憶に、言葉の断片が蘇った。
小田切静那の写真。満面の笑顔。 ―ああ、この人は、こんな顔もできるんだ………。
「………」
志津子は無言で、唇を手で押さえた。
この感覚を 私は、……雅ちゃんを見た時に 。
「ストーカーって、普通は恋愛感情からするものですよね」
守莉の呟きが、志津子を現実へ引き戻した。
「まぁ、普通はそうなんじゃない?」
「恋愛かぁ」
守莉は腕組みしてから、考えるような眼になった。
「よくわかんないけど、それは、ちょっと違うって気がするなぁ」
「好みじゃない?」
「そ、そんなことないけど、なんていうのか、恋愛じゃなくて、もっとなんか……」
言葉が思いつかないのか、守莉はもどかしげに髪を引っ張った。
「……レオナとしては、彼女をどう思ってたか、覚えている?」
志津子が聞くと、守莉はびっくりしたように首を横に振る。
「覚えてないっすよ! 覚えてたらむしろ怖いし」
「まぁ、それもそうね」
志津子は笑ったが、少年はまだ表情を崩さないまま、黙って門倉雅の寝顔に視線を戻した。
「ただ……感じだけ」
「感じ……?」
「………」
「夢に出てきた女の人と……」
「?」
意味不明の少年の呟きに、志津子は首をかしげている。
守莉もまた、今の感覚を上手く言い表せないのか、焦れたように髪をかきむしった。
「てかこの人、笑ったら、どんな感じの顔になるのかな」
笑ったら?
こんな、笑い方。
たまっていた何かが弾けるように、志津子は、墓前で感じた違和感の正体を思いだしていた。
あれは、いつの記憶だったんだろう。あさとと一緒だった。何かの記念日、ホテルか何処かのレストランで、……たまたま、門倉篤志と、そして雅ちゃんに出会った……。
記念日、違う、私たちは、単に食事に行っただけ、誕生日という記念日は門倉雅の方だった。父親と二人、声をかけたのはあさと、雅ちゃんは驚いたように振り返って。
あの時に見た、門倉雅の笑顔、その印象。寂しげだった花が、いきなりぱっと咲きほころんだような。
似てるんだ……。
眼の覚めるような思いで、志津子ははっきりと認識した。
静那さんと、雅ちゃんは……笑った時の印象が……とてもよく、似てるんだ……。
これは、何の符号だろう? 偶然? それとも、 小田切直人は、死んだ妻に似ているから、門倉雅が許せなかったのだろうか。追っていたのだろうか?
それとも……。
「うわっ」
突然、守莉が場違いな声を上げた。
「どうしたの?」
驚いた志津子は、咄嗟にその方に向きなおる。
雅のベッドから飛ぶように後ずさった守莉は、腰を落とさんばかりに驚いていた。
「せ、先生、この人起きそうだよ」
「え?」
まさか。
「だって、今、瞬きしたもん、動いたもん!」
まさか……。
駆けよった志津子は、雅の顔をのぞきこみ、あっと声をあげていた。
美貌の少女の 表情のない大きな瞳が、まっすぐに天井を見上げていた。
それ以外の全てが静止したまま、目だけが、大きく見開かれている。
「み……」
声にならなかった。信じられない。
門倉雅が、覚醒したのだ。
|
|