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覚醒の時が近づいている。……
永瀬悔斗は、ぼんやりと思考をめぐらせていた。
夢を見ている 多分眠りが浅いためだろう、その感覚が如実にわかる。
そう、これは夢なんだ………。
※
「サランナ……」
ユーリは呟いた。
呼ばれた女は物憂そうに、枕に伏せていた顔を上げる。
いつだって、殺せた。
再び眠りに落ちる横顔を、ユーリは複雑な思いで見つめ続けた。
寝台の端に腰をかけ、女の頬にこぼれる髪を掬い上げる。そのまま、そっと唇を寄せた。つい先刻愛したばかりの肩に、静かに布団を掛け直してやる。
……どうして、こんなに無防備でいられるんだ。
お前は、俺を、信じていないはずなのに。
「そうだろう、サランナ? 」
むろん、穏やかな眠りは、その呟きに答えない。
山中屯する法王軍と蒙真族の包囲を縫うようにして、ようやくユーリが切り立つ崖上の城に辿りついたのは、明け方近くになってからだった。
半ば幽鬼のように到着したユーリを、サランナは当然のように出迎えてくれた。
アシュラルを逃がした。 と告げても、特に怒った風でもなく落ち着いていた。
( 全てが終わったら、この国を離れましょう)
女は、悠然と微笑した。
( 大丈夫よ。この館は完全に護られているのですもの。この世界で、私たちが行けないところなんて、どこにもないのよ)
その意味を考えるのが、恐ろしかった。いや、ずっと考えないようにし続けてきた。そう あれは、俺自身の力だった。俺自身があの怪物を生み出し、操り、沢山の、数えきれないほどの人を殺してきた。
昨夜だけではない。それまでも 子供の頃から 自分の周囲には、いつも死が満ちていていた。それは……それは、全部……俺の……。
俺の、持って生まれた忌わしい血脈のせいだった 。
しかも、それはもう、ユーリ自身の意思を超え、勝手に蠢き始めている。いや、そもそも最初から、俺自身が操られていたのかもしれない。自分の意思で動いているつもりで、何か 大きな、この世界を滅ぼそうとする意思に、動かされていたのかもしれない。
「…………」
寝台の傍らに置かれている、小さなゆりかごに目を留める。
( それにね、この子がいる限り、法王庁は私たちに手が出せないの。大丈夫よ、もうすぐ、この世界はマリスの闇に包まれる。何も、畏れることはないのだから)
そう言ってゆりかごを揺らす女、その横顔がひどく優しく、幸せそうに見えたのは、何故だろう。
判らない。
俺は、この女が判らない。
ユーリは立ち上がり、窓を覆う帳を開けて空を見上げた。
まだ、夜には間があると思っていたのに、空はすでに薄闇に覆われている。
星は見えない。月が淡い。この山城は、かつて蒙真王家が、三鷹家の侵攻を防ぐために建てさせたもので、堅牢な防御力を誇っている。足場の悪い切りたった崖は軍隊を容易に通さず、崖下には激流が流れている。
そして今は この山城全体を、薫州フォード公の残党と、そして忌獣が取り巻くようにして護っていた。
サランナの言う通り、逃げのびる道は確かにあった。
一見、攻めることも逃げることも不可能なこの山城には、実は、秘密の抜け道があるのだ。
三鷹家の連中はむろん、サランナでさえ知らないだろうが、ユーリはそれを知っていた。いや、知っていたというより、憶えていた。
子供の頃 思い出したくもないほど昔、ユーリはこの城の地下で暮らしていた。
暗い地下で月だけを見上げ、決して地上の光を見ることが叶わぬ世界で、六年を過ごした。
地下を脱出し、さらにこの城から母と共に逃げ出した記憶は、忘れたくともまだ胸の底深くに生々しく残っている。
そうだ、逃げ切ることは可能なのだ。 が、逃げたとして、それが何になるのだろう。
けりをつけなければならない。忌獣に護られたこの館に、アシュラルや法王軍が辿りつくのは不可能だ。だとしたら 、自身の手で、全てのけりをつけなければ。
ふと頭に浮かんだのは、一人の男の面影だった。
水のような冷静さで、焔もいとわぬ激しさを包み隠している男だった。
あの男なら……来るかもしれない。
ある意味、自分より馬鹿な男のことを思い、ユーリは苦い笑みを浮かべている。
いずれにせよ、決着をつけるなら、今しかなかった。
サランナを殺し、俺も 。
「…………」
その感傷的な思いに、自分でも驚いていた。馬鹿馬鹿しい、こんないかれた女につきあって、今まで散々な目にあってきた。この上、死までつきやってやる必要はどこにもない。
そう、今夜でようやく、この忌々しい女と手が切れるのだ。 永遠に。
もう一度、眠っている女の横顔を見つめた。
哀れな女、愚かな女。
そして、誰よりも寂しい女。
サランナは、もう、死をもってでしか救われない。
このまま生きていても、再びその憎しみを、異母姉にぶつけるだけだろう。それは、もう誰にも止められない。
アシュラルなんかの、どこがいいんだ。
どうしてそんなに固執するんだ。馬鹿な女だ、もっと、他の男を見ればいいものを。
「………」
意を決し、ユーリはテーブルの引き出しから、一鞘の短剣を取り出した。
「……サランナ」
馬鹿な女。
殺されることも知らず、その男に抱かれて眠る。
再び、女の枕もとに腰を下ろし、流れるように美しい髪に、最後に触れた。
「……俺が、後を追ってやる」
呟いた。
「だから、迷うな」
薄闇に煌く刃。振り下ろそうとしたその手が、ある一点から動かなくなった。
「………」
どうして、俺は クシュリナを、一度も抱くことができなかったんだろう。
狂うほど求めていたのに、服を脱がせ、身体中にキスをして、……それでも、自身がそれを否定していた。どうしても挑めなかった。
この女が。
息をひそめて、隣室で様子をうかがっていたから。
その気配がわずらわしかったから。厭わしかったから。
この女の前で 。
ユーリは、行きついた自身の思考に愕然とした。
俺は。
誰も、抱きたくは、なかった……?
「………」
眩暈がした。
立ちあがり、その弾みで短剣が床に落ちた。
サランナに背を向け、窓枠にすがって身体を支える。
考えてもみなかった。信じたくない、厭わしい、身体の繋がりだけしかない女だったはずなのに。
不意に背後で、闇が膨れ上がったような気配がした。
「……っ」
衝撃が、背中から、全身を震わせる。
「……サラ…」
ユーリは呟いた。
目の前が暗くなり、全身に、冷たい汗が滲むような感覚がする。
「甘いわね、ユーリ」
背中に、ぴったりと押し付けられた唇が囁いた。
「……サラン、ナ…」
ユーリはうめいた。刺された刃を引きぬかれた痛みで、一瞬、意識が飛びそうになる。
そのまま前のめりに膝を突くと、自分の身体から血だまりが広がって行くのが それが視界の全てになった。
「……どうして、殺してくださらなかったの?」
頭上から優しい声がした。
「さようなら、最後まで役立たずの優しい男」
馬鹿……。
ユーリは苦く笑うと、たまらずに、膝を折った。
自分にふさわしい末路だと思った。今までしてきたことへの報いとしては、甘すぎるほどだ。
馬鹿な女、憐れな女、最後まで、お前は……。
意識が、白く濁っていく。
お前も、俺も、本当に馬鹿だ……。
闇がほどけ、無にも似た静寂に包まれていく。
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