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「なんのお話でしょう」
 目の前の男は薄く笑った。薄い唇、通った鼻筋。とても想像していた年には見えない。
「静那さんの」
 志津子は、一時、息を詰めてから切り出した。
 樋口利樹    彼の目は、明らかに志津子の存在を認識している。だから挨拶も、持って回った会話も不要だと思った。
 二人の背後で、幼い子供の笑い声がした。墓参りにきた親子連れらしい。クリスマスイブに墓前に来るような悲しい運命を持つ家族が他にもいることを、志津子は改めて思い知らされている。
「静那さんのお腹にいた子供の父親は……あなたですね」
「…………」
 不思議な微笑を浮かべ、樋口は手にしていた百合の花束を墓前に捧げた。
「そうですよ」
 動揺どころか迷いさえない声に、逆に志津子が返す言葉に窮していた。
 しばし、手を会わせて瞑目していた彼は、やがて微笑を目に浮かべたままで振り返る。
「風間君に聞きましたか。今度は彼が、探偵まがいのことをやっているようですね」
「……あの人は言いません」
 言わなくても    いや、頑なに口を閉ざされたからこそ、察しがついた。
 故人の尊厳    静那さんの尊厳。
 賀沢修二を保護していた男    元児童相談所の職員    小田切静那の元婚約者。
 小田切は当時から妻と彼の不義を疑っていて、それを裏付けるように、最後の瞬間、静那は夫ではなくここにいる男に助けを求めた。
「ああ、そうか、それはそうだ」
 突然、男は可笑しそうに笑いだした。わざとなのか、彼がもつ癖なのか、ひどく人を不快にさせる笑い方だった。
「先生は当然ご存知だったでしょうね。なにしろ、病院の方ですから」
「…………」
 やはりそうだ。この男は私のことを知っている。
 ひどく恐ろしい予感がしたが、志津子は表情を変えずに樋口の言葉の続きを待った。
「あの日、電話がありましてね。そう、静那からの電話です。彼女が殺された夜のことです」
 冷たい微笑を浮かべた目だけは、傍らの墓標に注がれていた。
「電話で……すでに彼女は虫の息でしたが、私にこう伝えました。どうしても、それが心残りだったのでしょう。言わないで、と」
 言わないで……?
「直人にだけは、妊娠のことを伝えないでくれと」
「…………」
「僕はすぐに救急車を呼び、僕自身が真っ先に病院に駆けつけました。彼女の主治医に事情を打ち明け、できることなら配偶者にその事実を伏せておくように頼みました。が」
 再び男の唇に、楽しそうな笑みが浮かんだ。
「どういう誤解か、その主治医はよりにもよって、当の配偶者を切開手術に立ち合わせたらしい。瀬名先生、人というのは、どこまでも残酷になりきれる生き物ですね」
「…………」
「で、あれですか? あなたも当時の罪滅ぼしに、風間君のワトソンの役回りを演じているのかな。最も僕には、瀬名先生がホームズに見えますが」
「…………」
 樋口の静かな    けれど底のない憎しみが、志津子自身にも向けられていることを、志津子は黙って感じ取っていた。
 そうだ、だから私だけは、決して逃げることが許されないのだ。
「小田切君は、自分の子供だと信じていました」
 志津子は聞いている。明け方、霊安室から漏れ聞こえてきた彼の慟哭を。
「それを    その事実を、静那さんの遺志を裏切って、彼に告げたのは、あなたなんじゃないですか」
 目を細め、やはり樋口は不思議な微笑を唇に浮かべた。
「あれは……いつだったかな。彼がね、僕を訪ねてくれたことがあったんです。東京を出ることなったから、その挨拶にとね。その時あの男は、とても面白いことを言ったんですよ」
 何かを思い出したのか、樋口は口に手をあて、笑いを噛み殺すような仕草を見せた。
「静那を殺した犯人を捕まえることができずに申し訳なかったと。だから僕は言ったんです。そんな無駄なことに短い人生を費やすのはやめたまえ。犯人なら、今、僕の目の前にいるじゃないか」
「………」
「全てを打ち明けても、あの男はさほど打ちのめされた風ではなかったですけどね。    彼はね、ずっと自分が疑っていたことの、その答えを確認しに来たんですよ。いや、はっきり否定してほしくて来たのかもしれない。いずれにしても、僕は彼に答えを与えてやりました」
 必死で見開いている自分の瞼が、わずかに震えるのが志津子には判った。
「確証はあるんですか」
 志津子は言った。「あなたが本当に父親だと、その確証はあるんですか」
「彼らの結婚が   
 樋口は、わずかに言葉を考えるような目になった。
「いや、彼の性格が破綻していたのは、よくご存知でしょう? 先生なら」
「…………」
「彼のセックスは、もう暴力といってよかった。夫婦とはいえ、相手の同意を得ていないのですからね。静那は、性的暴力に対してひどいトラウマを持っていた。彼女は怯え    そして、僕に救いを求めてきたんです」
「同意だったと、仰るんですね」
「僕たちは結ばれました。それが、当然の定めのように」
「…………」
「お疑いですか? 僕らは彼女が非業の死を遂げるまで、何度も二人で会っているんです。それが暴力づくの」
 小田切のことを思い出したのか、樋口はひどく皮肉な目で笑った。「関係ではないことくらい、当時の警察だって判ってくれたでしょう」
 そうか    第一通報者でもある樋口は、当然警察に、自身のアリバイと静那との関係を聴取されたはずである。
「しかも、あの男は、愚かにも自分が父親だと信じこんでいたんでしょう? とすれば、静那にも言い逃れできる余地があったということです。にもかかわらず、彼女は僕に口止めを強いた。彼女自身、お腹の子の父親があの男ではないと、はっきり判っていたからですよ」
 反論の余地はなかった。    その通りだ。
「僕に、何かの救いを求めているなら、お角違いですよ」
 一切の感情を感じさせない口調で、樋口は続けた。
「こういったらいいのかな。    あの男に真実を打ち明けた夜、僕は今夜中にでも、あの男が自身で死を選べばいいと思いました」
「…………」
「僕が    彼に、静那を暴力で奪われて以来、彼に、ずっと抱き続けてきた感情は以上です。それ以外は何一つない」
 ここにもまた、死んだ心を抱いて生き続けてきた男がいる   
 風間の絶望が、志津子にもようやく判った。この人の心の鍵は解けない。おそらく、どんなに言葉を尽くして説得しても。
「何故、賀沢修二を保護したんです」
「静那の遺言だったからですよ」
 あっさりと樋口は答えた。
「僕はこう見えて、児童福祉畑が長くてね。……あの少年のことなら、事件前から彼女に相談を受けていたんです。保護したといっても身元引受人になっただけですが」
 小田切のことは許せなくても、殺害の実行犯である少年は許せた、ということだろうか。
 樋口という男の冷酷なまでの冷たさをみるに、そうではないような気がした。
 むろん賀沢という少年も、樋口にとっては殺しても飽き足らない存在だったろう。が、それよりもなお、小田切への憎しみが深かった。    静那の遺言かどうかは定かではないが、彼が賀沢を庇護した動機は、おそらく    小田切のプライドや彼を支えていた信念のようなものを、底から突き崩すための    復讐だろう。
「彼は今、どこにいるんですか」
「賀沢修二ですか? それは言えません。言う必要もない」
 冷やかな横顔は、すでに取り付く島もなかった。
 志津子はどうにもならない無念さに打ちのめされていた。そうだ    可能性は、すべてこの男で断ち切られている。
 その時、不意に背後から勢いよく人が駆けてくる気配がした。
 志津子が振り返った時、志津子の腰のあたりまでしか背丈のない少女が、あっという間に近づいてきて、そのまま、どんっと目の前の男にぶつかった。
 不意を打たれたのか、樋口はその刹那、ひどく驚いた目をしていた。いや、普通の驚き方ではなかった。目を大きく広げ    何か、信じられない光景でも見るような目をしていた。
 なんだろう。女の子に、何かトラウマでもあるのだろうか。
 が、樋口はすぐにその驚きを目から消すと、すっと手を伸ばして、空に舞いあがろうとしていた赤い風船を手にとった。
「どうぞ」
 わずかに背をかがめた男は、別人のように優しく笑んで、泣きべそをかきそうな女の子に風船を手渡す。
「ありがとう!」
 弾けるように少女は笑うと、離れた場所にいるらしい両親のもとへ駆けて行った。
 何だろう    ひどく、印象的な光景だった。
 人形のような樋口という男の、驚きと優しさを同時に見たせいだろうか。
「あの男は、今、意識不明の重体だそうですね」
 優しい笑顔の余韻を残したまま、樋口は志津子を振り返った。
「有毒ガスを吸ったとか新聞には書かれていましたが、ぜひ、彼が死ぬ時は僕を呼んでください。子供を殺した男の死に様を見る程度の権利はあるでしょう?    父親として」
 志津子は何も言えないまま、一礼して去っていく男の背中を見つめていた。
 
 
 
 
 
 

   
 
 

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