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 薄い陽射しが射しこんでいる。
 まどろみの中にいたあさとは、土を踏みしだく音を感じ、はっと目を見開いていた。
 天幕の中は、明るい日差しで満ちていた。隣にいたはずのアシュラルは    いない。
「アシュラル!」
 急いで衣服を合わせ、そのまま外へ飛び出した。
 彼の安らいだ呼吸を確認して、あさとも意識を手放していた。目が覚めたら、絶対に眼を離さないと決めていたのに    自分の迂闊さが呪わしい。
 あの人をサランナのところへ行かせてはならない。どんなに怒られて罵倒されても構わない。今は、この邑に残って療養すべきだ。    いや、どうしたってそうさせなければ。
「………!」
 天幕を囲む木々の間から、騎馬の影が滲み出ている。
 ゆっくりと馬を進めて出てきたのは、黒馬に騎乗したアシュラルだった。
 彼は、銀の甲冑と青灰のクロークを纏っていた。顔半分は黒布で覆われているが、死仮面は被っていない。
 そのまま、ものも言わずに馬から飛び降り、アシュラルはあさとのほうに歩み寄ってきた。
 その立ち姿が、いつもの法王衣より格段に凛々しく見え、こんな時なのに、あさとは自分の胸が、切なく高鳴るのを感じている。
「蒙真族の鎧を借りてきた。法王が二人いたら、まずいことになるからな」
「アシュラル   
 即座に止めようとしたあさとは、そのまま言葉を飲み込んでいた。すでに身支度を整えた夫の眼には、昨夜の感情の欠片も残されてはいない。むしろ、冷やかに、突き放したような眼差しで、妻の口出しを拒絶している。
 理解するしかなかった。今、どんな言葉を繋いだところで、おそらく、何も変わらない。アシュラルの気持ちは変えられない。
     この人は、行くんだ……。
 私が何を言おうと、どう止めようと、二人の子供の所へ、サランナの所へ。
 それが    それが、私たちの因果であり、運命なんだ   
「…………」
 その先に待つものを思うと苦しかった。が、あさとは懸命に、彼の決意を受け止めようと自分自身に言い聞かせた。そうだ、まだ……救いがなくなったわけじゃない。私たちの未来は、過去とは違う。
「お前のことは、クランに頼んである。ここで迎えを待て、今夜には片がつくだろう」
 冷淡なほどそっけなく言うと、アシュラルは、あさとの傍をすりぬけるようにして天幕に戻った。
「私も行くわ」
「だめだ」
「あなた一人でなんて、そんなの無茶よ」
 どれだけ冷たくされても、その背中に、もう不安をかきたてられることはない。
「私もついていく、止めたって絶対についていくから」
 答えないアシュラルの背は、天幕の中から死仮面を持ちだし、やはり無言で歩み出てくる。
「アシュラル   
「……また、俺の足手まといになりたいのか」
 遮るように見下ろされた目に、迸るような怒りがあった。
「何度も同じことを言わせるな、お前はここに残っていろ!」
 その凄まじい剣幕に、あさとはびくっと肩を震わせている。
 鋭い怒りと苛立ちが、険を孕んだ眼差に宿っている。が    それでも、引くわけにはいかなかった。
「いやよ」
「なんだと?」
 彼が行くのが運命なら、私が追うのも運命だ。
 ひるみそうな自分を励ましながら、あさとは彼の前に立ちふさがった。
「……あなたが行くなら、私も、絶対について行く」
「………」
「か、勝手にしろって言わないの? 言われなくても勝手にするけど」
 怒鳴られると思った。こういう時のアシュラルは本当に怖い。顔のことは気にするくせに    こういう性格をまず、なんとかしてほしい。
 が、呆れたように嘆息し、再び歩き出したアシュラルの背は無言だった。その代わり、馬の前で足をとめた彼は、手にした死仮面をあさとに向かって放り投げた。
「お前はここで、迎えを待て」
「アシュラル」
 受け取った兜は、思ったより軽い。一見、ただ美しいだけの死の仮面は、よく見れば無数の傷が刻まれている。
 ふっと胸が痛くなった。確かにこれは、アシュラル自身を象徴する仮面だ。   
「その兜はラッセルに渡してやれ、俺の形見だとな」
     ふざけないで」
 兜を持ったまま、アシュラルの傍に歩み寄ると、あさとは、それを胸元につき返した。
「私も行く。何回も言うけど、止めたって無駄」
 彼が動こうとしないので、あさとは兜を地面に置き、ウテナを繋いである場所に向かおうとした。なんのつもりか知らないが、彼が故意にあさとを怒らせようとしたのは明らかだ。腹立ちのあまり恐ろしさなど飛び去っている。どうしていまさら    そんな挑発をするのだろう。何故今になって、再び氷の殻をまとおうとするのだろう。
「お前は怖くないのか」
 呟くような声が聞こえた。あさとは眉を寄せて足を止めた。
「……怖い…?」
 言葉の意味が判らず、いぶかしんで振り返る。
 そうだ、彼は今朝も同じことを私に訊いた。お前は、怖くないのかと。
 戦場に向かうことだろうか。それとも、サランナと対峙することだろうか。
「あなたと一緒なら、全然平気よ」
「………」
「前も、二人で忌獣を追い払ったじゃない。大丈夫、足手まといにならない自信はあるから」
「………」
 眉を寄せ、顔を背けたまま、アシュラルは動かない。その横顔に、近寄り難い沈黙がある。
     アシュラル……?
 ようやくあさとは、彼が何か、口に出せない葛藤を抱えているのだと理解した。
 お前は怖くないかと、彼は訊いた。何度も訊いた。つまり、彼は怖いのだ。でも、いったい何を恐れているのだろう。彼のような人が    天罰をも恐れず、この世界の秩序を沢山の命ごと破壊した人が   
「……南陽で」
 彼は、呟くように口を開いた。
「……南陽?」
 不思議な胸の高鳴りがした。いったい、アシュラルは、何を言い出すつもりだろう。
「籠城していた城から脱出した時、俺は初めて、完全に変化した忌獣を見た」
「………」
 なに……?
 なんの、話?
 右目の覆いに指をあて、彼は、あさとを見ないままで続けた。
「それまで俺は、死ぬことなどひとつも恐れてはいなかった。子供の頃から、繰り返し聞かされていたからな。死に耐性ができていた。……それに、俺より永く生きられる奴らが、あまりにも儚く、俺の前から消えて行った」
 うつむいた顔が影になっている。
 あさとはもどかしく、男の言葉の続きを待った。
「だから俺は、自身を憐れんだことなど一度もない。むしろ、死を恐れないことを誇りにすら思っていた、でも……」
 彼はようやく、あさとを見つめた。その情熱的な眼差しが、胸を苦しく締め付ける。
 あさとは歩み寄り、彼の冷たい甲冑の胸に手で触れた。
「……お前と再会して、お前のことを、……歯止めが効かなくなって」
 つま先で立って、その頬にキスをした。心臓が苦しかった。
 アシュラルは両腕であさとを抱いた。
「……怖くなった、死ぬことが、どんどん怖くなっていった。南陽の城で、月がない闇に囲まれた時、俺は初めて恐怖を感じた。忌獣が現れて……それが、俺の前で」
 きつく抱き締める腕に、息がとまりそうだった。
「……お前の姿に変わった」
「………」
「俺は、どうすることもできなかった。そのまま顔を引き裂かれ、ジュールが駆けつけてくれなかったら、間違いなく死んでいた。そうだ、俺の恐怖の正体はお前だった。お前を失うことへの恐れが、俺を駄目にしていた」
     アシュラル……。
 あさとは声にならない声で、呟いた。
「そのことに気がついた時、俺は……お前と」
 アシュラルは腕をほどき、あさとの肩を抱き起こした。
「お前と、距離を置かなければならないと思った。でなければ、死を受け入れることができなくなりそうだった」
「………」
「嫉妬に狂いもした、子供が俺の子でなければいいと思いもした。……そうでなければ」
「もうやめて」
 手首を絡め取られ、アシュラルの唇が押し当てられた。触れ合う唇から新しい血の香りがする。あさとは身体を強張らせた。
「………俺は」
 微かに離れた唇が、囁く。
「今でも、怖い」
「やめて」
「……死にたくない……」
 あさとは両手で、男の頬を抱き、言葉の続きを遮った。
「ロイドは、忌獣さえ消えれば、病気が治る可能性があるって言ったわ。簡単にあきらめないで、死ぬなんて考えないで」
 彼は何も言わなかった。
 優しい、けれど、どこか寂しげな眼差しは、彼自身がその可能性を知っていて、そして、それを信じていない事を意味していた。
「アシュラル……」
「サランナは俺を待っている。多分、俺以上にお前を待っている」
「………」
「それが……最後の審判のような気がする。忌獣が彼女を守っているのなら、それは……」
     それは……?
 アシュラルはそれ以上言わなかった。
 もう一度、唇が合わさる。呼吸ができないほど激しいキスをした後、アシュラルは苦しそうな目であさとの身体を抱きすくめた。
「……だから、お前を連れては行けない」
 あさとは顔を上げようとして、できなかった。
 みぞおちに、息がとまるほどの衝撃があった。
     アシュラル………。
「……クシュリナ……」
 薄らぐ意識に、最後のキスの感覚だけが刻み込まれる。
 アシュラル……だめ……。
 あとは、     闇に包まれた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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