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空は澄み渡るような晴天よ。
往来には人が溢れているわ。どの顔もすごく楽しそう。ああそうね、クリスマスなのね。イブかしら。
子供があなたにぶつかるわ。
髪に赤いリボンをつけた女の子。そのはずみにリボンと同じ色の風船が空に
。
あなたは背が高いから、きっとつかまえてあげるのでしょうね。
ねぇ、今日、私が話したことを、忘れないでね。
絶対に忘れないでね。
ありがとう。
今まで、本当にありがとう。
第12章 錯綜
1
病院近くのフラワーショップで包んだもらった白百合の花束。
一抱えほどの季節の香りを墓前にたむけ、瀬名志津子は屹立したまま手を合わせた。
今日が命日だったせいか、灰色の墓標の前には、色取り取りの色彩があふれている。花束だけではない、おそらく生徒が手向けたものなのだろう、墓石の横には、寄せ書きめいた色紙が添えられている。
「………」
志津子は、その正方形の型紙に目を止め、傍らに腰をかがめた。
いかにも女の子らしい色彩で、複数の筆跡が紙面いっぱいに踊っている。
その中央に、集合写真が貼ってあった。
これ……。
若々しい、花が開くような満面の笑顔が、写真の中央で輝いている。思わず色紙を手にとって、目の前に近づけていた。
小田切静那 と、笑顔の持ち主を認識するのに、当人の墓標の前に立ちながら、それでも数秒を要していた。
驚いた、なんだか……印象がまるで違う。
志津子が、女性の生前の姿を見たのは一度きりだ。そして、あの時の印象が、志津子にとっての小田切静那の全てだった。
……こんな楽しそうな笑い方も、出来る人なのね。
こんな、笑い方も……?
その感覚に、記憶の隅に引っかかっていた何かが、ふいに揺り動かされたような気がした。
なんだろう……?
もどかしいような、頼りない記憶の欠片、実像は鮮明なのに、輪郭だけが朧で、どうしても思い出せない。
……こんな笑い方、意外な一面、こんな 顔。
自身の不思議な感覚が判らないまま、志津子は色紙を、元通りの場所に置きなおした。
「………」
小田切君の、ことだろうか。
彼もまた、志津子に言わせれば掴みどころのない人だった。
いや、掴んだと思った端から別の顔が出てきて、その顔を追っていたらまた別の顔になる。結局志津子は、最後まで彼の心に触れることができなかったのだろう。
(先生 )
(人の心を、止めておくことはできないんでしょうか)
自分の感情を護る術を知らない、傷つきやすい繊細な目。
大人びた眼差しに見え隠れする、子供のように危うい寂しさ。
成人してからさえ、小田切直人の印象はそうだった。綺麗な顔、冷めた眼差し。女性を惹きつけてやまない魅力を持つ一面、この男は、壊れやすくて扱いにくい、ガラス細工のような危うさを持っている。
愛されれば、きっと飢えたように愛を求めるだろう。まるで子供が母親を一人占めするような我侭さで。
それが怖いし、怖いから、……惹かれる。
(静那さんも、小田切みたいな男を好きにさえならなければ、また違った人生が待っていたんでしょうがね)
静那さんは、不幸だったんだろうか。
乾いた風が吹いていた。少しだけ肌寒い。水で清められたばかりの墓石は、まだ生乾きのまま、地面に黒い沁みを広げている。
墓石を飾る沢山の花。死後幾年たっても、これほどの花が集まっている。慕われていなかったはずはない。愛されていなかったはずはない。
妊娠中に生徒に刺された。そして 若くして亡くなった。
不幸といえば、これほどの不幸はない、けれど 。
志津子は目をすがめた。
写真の彼女は笑っていた。あのひととき、確かな幸福が彼女の人生を満たしていた。
小田切直人という少年と出会い、恋をして、結ばれた。胸が痛むほど幸福な瞬間も、確かにそこにはあったはずだ。
それ以上に、何がいるのだろう。
その瞬間を得るために 。
その瞬間を得るために、人は繰り返し、誰かを恋していくのではないだろうか。
背後で、砂利を踏みしめる音がした。
志津子は振り返る。
そう、最初から志津子はこの人を待っていた。
真紅のフェラーリの男。命日である今日なら、この場所で 必ず会えると思っていたから。
長身の男は、志津子を認め、わずかに眉をひそめてみせた。
端正な顔立ちに、薄い縁無眼鏡、洗練されたグレーのスーツ。
俗な言い方だが、頭からつま先までわずかの隙も感じさせない男だ。同じ冷たい印象でも、隙だらけの小田切とは真反対かもしれない。
髪色だけでなく、全体的に色素の薄い感じがする。
「樋口さんですか」
志津子は言った。男は無言で、その問いを肯定する。
「あなたが、賀沢修二を、保護していた方ですね」
わずかに眉を上げ、男はやはり無言だった。
もし、門倉雅の思念が、周囲の者に夢を見させていたのだとしたら 彼女は、最初から、鍵のある場所を教えてくれていたのだ。
やっと会えた 。
志津子は無言で、小田切静那の元婚約者を見上げた。
彼が、きっとそうなのだ。 この世界の、鷹宮ユーリ。
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