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 アシュラルの手があさとの服を脱がせ、あさとの手が、アシュラルの服を脱がせた。
 痩せたように見えてもなおたくましく張りつめた彼の身体に、あさとは触れ    撫で    唇を当て、彼も同じようにした。
 朝露と素肌の匂いが、朝日に仄白く照らされた天幕の中に満ちていく。
 野生の獣にも似た、荒く、情熱の限りを尽くしたキスは、最初は、これが    どんな状況でも冷静さと理性を保っていたアシュラルかと思うほどに恐ろしく、あさとは初めて、彼の本当の姿を知ったのだと思った。それは、解き放たれた嬉しさのような喜びで、畏れながら、それでも全身で愛する人を受けとめ続けた。
 眼を閉じて、おとがいを上げ、アシュラルの髪に指を入れる。抑制を無くした熱い唇が、頬に、喉に、胸に激しい愛を刻んでいく。
「……クシュリナ」
 うめくように囁いた彼に、たまりかねたように抱きあげられる。そのまま柔らかな寝台の上に降ろされて、彼の重みと熱が重なる。が、何故かアシュラルは動かなかった。
     アシュラル……? 
 男の表情は、影になって見えない。もしかして、まだ……怒っているの? 再び不安に駆られた時、指の関節があさとの頬をそっと撫でた。
「お前は、怖くないのか」
「怖い……?」
 意外な言葉に、瞬きをして、陰る左目を覗き込む。
 指を顎に滑らせ、アシュラルはわずかに視線を下げた。
「……俺は、怖い」
 喉に降りた彼の手に、あさとは自分の手を重ねた。
「こうしていることが、夢じゃないかと思う」
 また、寂しい眼になっている。幸福な瞬間に悲しい夢を見る男。あさとは、彼の頬を抱き、自分の方へ引き寄せた。
「もう、二度と、夢は見ない」
「………」
「忘れないで。今は、私が、あなたの傍にいるのよ」
 それでも、どこか寂しげに微笑する彼の    額から片目を覆う黒布に、あさとはそっと指をかけた。
「よせ」
 女の意図を察したのか、アシュラルはわずかに狼狽して、顔を背ける。
「……俺の顔は変わってしまった。もう、お前の好きな男の顔は、俺のものではない」
 構わずに、その覆いを払いのけた。
 天幕に覆われた薄明かりの下、無残に裂けた皮膚が、その傷痕を顕にしている。
「……アシュラル…」
 傷に唇を寄せた。少し驚いて顔を引こうとしたアシュラルの頬を抱き、もう一度、その失われた目に口づけた。
「クシュリナ……」
「あなたはあなたよ、……どんな顔をしていても」
 頬骨あたりまで伸びた傷を指で撫でる。それにアシュラルの手が重なる。彼の目はまだどこか戸惑って見えた。
「恐ろしくは、ないか」
「………」
 どうして、いまさらそんなことを訊くんだろう。    一瞬困惑した後にこみあげてきた感情を堪え切れず、あさとは思わず微笑を浮かべた。
「何がおかしい」
 笑われたのが気に障ったのか、アシュラルの眉がむっとする。
「だって、今まで、さんざんな目にあわせておいて」
「……なに?」
 まさか、無自覚だったとは言わせない。本当に、この人には非道い目にあわされてきた。指で数えても足りないほどだ。
「いつだって、あなたは、私には恐ろしい人だったじゃない」
 一瞬、口に出しかけた何かの言葉を詰まらせた後、ようやく、彼の唇から力が抜けた。
「言い方を知らない女だ。まさか、俺には、お似合いの顔だと言いたいんじゃないだろうな」
「そうよ」
 自信を持って言い切り、もう一度あさとは、彼の傷痕にキスをした。
「この傷のおかげで、前ほど嫌味な感じはしなくなったけど」
「この、……性悪め」
 それ以上言葉は続かなかった。遮るように唇が重ねられ、息ができないほど激しいキスは、身体も心も溶かすほど熱く、深く、永遠のように長く続いた。
 アシュラルにためらいは、もうなかった。あったとしても、あさとがそうさせなかった。繰り返し彼の名を呼び、顎に、喉に、広い肩に口づけて、全身で、想いを伝えようとした。彼に知ってほしかった。私が愛しているのは、誰でもない、今、ここにいるあなた(・・・)だと。
 逆に、ある時、あさとがためらった。熱を帯びたアシュラルの唇が、腹部を滑り降りた時    脚に触れた時、新婚の時と同じで、反射的に、全身を強張らせていた。
「アシュラル……」
「抗うな」
 掠れた声は、優しかった。
「お前の全てが、見たいんだ」
 目を閉じ、あさとは、言われるとおりにした。
 アシュラルもまた、本当の私を知ったのかもしれないと、溶けてしまいそうな意識の中で、ふと思っていた。私でさえ知らない私    それは、恥ずかしいけれど不思議な幸福だった。私しか知らないあなた。あなたしか知らない私    この広い世界で、たった二人きりしか。……
 やがて、浅い呼吸の狭間で、二人は満たされたキスを交わしあった。
 唇を離したアシュラルの呼吸も乱れている。互いの額を押しあてるように寄り添った二人は、深く    互いの孤独ごと結ばれた喜びを噛みしめていた。
「もっと、教えて」
 汗ばんだ身体を抱きしめながら、こみあげる気持ちのままにあさとは囁いた。「もっと……アシュラルのことが、知りたいの」
 私たち、まだ、大切なことを沢山話さないままでいる。これほど魂を触れ合わせているのに、私と彼に与えられた時間は、あまりにも短すぎる。
「これ以上、何を知りたい」
 かすかな苦笑と共に、額に唇が当てられた。
「お前ほど、俺を知っている奴はいないのに」
 耳元で囁く掠れた声を聞きながら、どうしよう、と、唐突にあさとは思っていた。
 もう、一人では生きていけない。何故か、この幸福の頂点で、忘れていた涙が再び零れそうになる。
「もっと、たくさん一緒にいたい、もっと、色んなことを話したいの」
 こらえきれずに頬を濡らした涙を、アシュラルが親指で払い、キスで拭った。優しい目には、わずかな影が滲んでいる。
「俺に、その望みが叶えてやれると思うのか」
「………」
     アシュラル……。
 一瞬、暗い淵をのぞいたような気がしたあさとは、急いでその感情を押しやり、彼の首に両手を回して抱き寄せた。
「思ってる……。私、信じてるから」
 まだ、諦めない。彼の病を癒す術は必ずある。もし、運命を乗り越えて、再びこの邑に戻ってこれたなら。そうしたら   
「もう、どこにも行かないで」
「…………」
「ずっと、私の傍にいて……」
 
 
 
 なに……これ。
 あさとは今まで感じたことのない、不思議な波の間を漂っているのに気がついた。
     なんだろう……これ。
 あさとを包んでいるのは、アシュラルの腕ではなかった。触れているのは彼の唇ではなかった。なにか、もっと大きくて温かくて、気のような水のような、光のような焔のような、不思議な意思    それを意思といっていいなら、そんなものが、あさとを包みこんでいた。
     光……。
 身体の内側で、もっともっと底のほうで、何かがやさしく、ほどけていく。溶けていく。
 消えそうなほど儚いあさとの意識の断片が、その中で、異様にグロテスクな黒い塊を感知した。
 どく、どく、と規則正しい鼓動がした。
 その黒い塊は動いていた。心臓    心臓だ。それに、黒くて太い鎖がががんじがらめに巻きついている。縛り上げている。
 それは、シーニュの心臓であり、クシュリナの心臓であり、そして   
 私を……縛っていたもの……。
 それは、心に長く    長く、意識する必要さえないほど長い時間絡みついていた因果の鎖だった。今、その鎖は緩んでほどけ、ゆるやかに落ち、透明な気になって消えて行く。
     ありがとう。……
 そんな声が聞こえた。確かに聞こえた。声というより、胸の底から、囁くような、謡うような響きだった。
 誰?
 まだ、鎖が一本残っている。なのにその声は、どんどん彼方に遠ざかっていく。
     雅……?
    ……ナ」
 待って、雅。
 まだ……まだ、最後の、鎖が。
「……クシュリナ」
 はっと、夢から覚めたように、あさとはその囁きで瞳を開けた。
 アシュラルの腕の中だった。寄り添い、重なった素肌はまだ互いに熱を帯びている。愛された余韻と幸福が、全身に残っている。
「……ごめんなさい、私」
 半ば、驚きながらあさとは答えた。眠っていたのだろうか。彼と結ばれた幸福のただ中、そのすぐ後に? そんなつもりはなかった。現実からすうっと夢に引き込まれるような不思議な感覚がして   
 なんだったの? あれは……夢? それとも   
 アシュラルの指が、あさとの髪をそっと耳にかけてくれた。
「眠いか」
「……ううん」本当は少し眠かった。頭を抱かれ、アシュラルの唇が瞼に触れた。
「俺が眠るまで、起きていてくれ」
 なんでそんな、可愛らしいことを不意打ちみたいに言うんだろう。
 胸が詰まり、愛しさがかきたてられる。それを誤魔化すために、からかうように男を見上げる。
「なぁに、それじゃまるで」 
 が、彼の瞳を見たとたん、言葉は続かなくなっていた。 
 まるで、本当に幼い子供のようだった。愛される事に戸惑い、愛を失うことに怯える眼差し   
「……アシュラル」
「どうした」
 答えずに、あさとは彼の首に両手を回して頬を埋めた。
「なんだ、おかしな奴だな」
「おかしいのは、あなたよ」
 どうして   
「俺? おい……寝るんじゃなかったのか。    そうしがみつかれたら、暑苦しい!」
 どうして今、そんな寂しい目で私を見るの?
 こんなにも一つになれたのに。もう、私たちは本当の意味で夫婦なのに。
 あなたの寂しさも孤独も、私の弱さも、もう全部二人のものなのに。
 なのに    そう思ったのは私だけで、彼には伝わっていなかったのだろうか。
 あさとはアシュラルを抱きしめた。強く、強く、思いの全てを伝えるように。    が、それでも伝えられないもどかしさが、重なり合いながらも滑る素肌に伝わって行く。
 気づけば彼の腕も、苦しいほど強くあさとを抱きしめている。重なり合って唇を合わせ、何度も繰り返しキスをする。それでも足りずに抱きしめあう。
     それでも……。
 伝えられない、心の全てを伝えきることができない気がするのは何故だろう。
「クシュリナ……」
 もどかしいのは、アシュラルも同じようだった。彼の目に浮かぶ感情の波を見たとき、彼もまた、私に何かを求めているのだと、あさとは心の深いところで理解した。その隙間を    再び二人を覆う理由の判らない寂しさを埋めるように、アシュラルはいっそう情熱的に、胸に抱く女を全身で愛した。
 陶酔の中で、それでもかすかに残った理性が、夫の身体のことを気にしている。
「アシュラル……」
「黙っていろ」
 身体を割って入る熱    あさとは、彼の肩に額を押し当て、すがるように広い背にしがみつく。
 耳元で耐えかねたように彼が呻き、揺れる吐息が交じりあった。互いに求めあう重なった指をからめ、堅く強く握りしめる。
 触れ合う胸に、肩に、首筋に、鼓動が痛いほど共鳴している。
 やがて、彼の肩に頭を預け、あさとは呼吸を鎮めながら眼を閉じた。アシュラル    温かな胸が上下している。アシュラル    言葉にはならない愛おしさが、切ないくらいにこみあげる。
「……ずっと、あなたの傍にいるから」
 返事の代わりに、力強く抱きしめられる。あさともまた抱きしめる。そのまま無言で互いの感情を分かち合う    伝わったのだろうか、いや、違う、伝えきれたわけではない。やっと判った。このもどかしさは、心が一つになれない以上、決して埋ることはない。
 それが、人が持つ宿命的な寂しさだ。    二つの身体に生まれた以上、決してひとつになることはないふたつの心。
 それでも抱きしめあうことで、その隙間だけは満たされる。互いの寂しさを二人で背負うことができる……。だから……。
「愛してる………」
 クシュリナは囁いた。
 最後に残された一本の鎖が、その瞬間にほどけて、消えた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 頬に、何かが落ちてくる。
 なんだろう。
 冷たくもなく、暖かくもない。
 一滴、一滴、音もなく静かに。まるで透明な音楽のように。
     許してくれ。
 誰……?
     許してくれ、みやび……
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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