4
外には、篝火がいたるところに焚かれていた。
ここが……蒙真の、邑……。
あさとは不思議な思いで、焔に照らし出された周囲の景色を見渡した。
建物というより、天幕で覆われたテントのような家々が規則正しく並んでいる。街 というより、集落といった風情である。
あさとが今までいた建物だけが、唯一建造物といえる造りを有していて、おそらく、この邑の支配権に属する者たちが住み暮らしているのだろう。
あさとの前には、松明を片手にした男 クラン様と呼ばれるカマラがいる。
正直言えば、まだあさとには、彼らが味方なのかどうか判らなかった。彼らは暗殺集団である。蒙真と三鷹家が政権をめぐって争っていた頃、三鷹家の重臣たちを次々と暗殺したとの噂もある。
が 今夜、アシュラルの命を救ってくれたのは、紛れもなくこのカマラなのだ。
(生きて行くということは、きれいごとだけでは済まされない面もあるのです)
(どんな人間にも表裏がある。悪い面と良い面を同時にもっている それが、人間というものです)
「ナイリュで、蒙真の人たちが、略奪や誘拐をしているのを見たわ」
ラッセルの言葉を思い出しながら、勇気を振り絞ってあさとは訊いた。
「彼らも……あなたたちの、仲間なの?」
わずかに眉を寄せたクランが、質問の意図を問うような目であさとを見る。
「た、助けてもらえたことは、感謝してるわ」迷いながらも、あさとは拳を握りしめて、言葉を続けた。
「でも でも、罪もない民や街を襲っているのがあなたたちなら、私は、……この邑の人たちを信用することはできないわ」
「蒙真族は、かつてこの国を支配していたほどの大きな民族」
再び前を向いたクランの背から、淡々とした声が返ってきた。
「流派は多岐に判れ、同一民族とはいえ判りあえない連中もいる。我々はその中でも異端の派。中央の一族が何をしているかまで、知りようがない」
確かに、ナイリュで見た蒙真族の衣装や髪型、装飾品の趣は、この邑の人たちとは大きくかけ離れている。
が、カマラ 蒙真の暗殺部隊として金羽宮に引きたてられてきたこの男は、当時、蒙真王家に仕えていたのではなかったのか。
あさとがそう訊くと、クランはそれこそ心外といった風に眉をしかめた。
「我々は誰にも仕えたりしない」
毅然とした口調だった。
「蒙真王家が我々をどのように喧伝していたかは、知らない。むろん、協力関係にあったことは認めよう。が、我々は決して王家の道具として、働いていたわけではない」
では なんのために?
そう訊こうとした時、前を行く男の足がようやく止まった。
「ここだ」
集落の外れに、小さな天幕が張られている。
顔をあげたあさとは、あっと声をあげていた。
天幕の前には、夜目にも鮮やかな一頭の白馬が繋がれていた。
慣れない場所に連れて来られたせいだろうか。ひどく落ち着きをなくしたウテナは、主人の姿を認め、何故か悲しげにいなないた。
「ウテナ !」
きっと法王軍によって救われたと信じていた。でも 心ならずも置き去りにしてしまったことは、ずっと心に悔いとして残っていた。
まさか、まさかウテナまで助けてくれたなんて 。
ずっと目の前の男を疑い続けていた自分が恥ずかしくて、あさとは胸がいっぱいになっている。
「ありがとう、……本当にありがとう。なんてお礼を言っていいのか」
カマラの男は、何故か表情を変えず、視線だけをわずかに下げる。
が、あさとが駆けよっても、なおウテナはもどかしげに首を振った。
その様子が普通ではないことに、あさとはようやく気がついていた。
「怪我……怪我をしているの?」
ウテナは、そうではない、とでも言いたげに首を振る。夜に向かって悲しげに嘶く。
「あの場から、あなた方二人を連れ出すのは、至難の業だった」
静かな声が、背後から聞こえた。
「薫州軍の標的は、最初からあの男一人だった。あれだけの敵に囲まれ、それでも一重の差で救い出せたのは、馬が主人の盾となったからだ」
「…………」
ウテナが鳴いた。
あさとにも、もうその意味は判っていた。
天幕の中で、闇色の黒馬は、すでに生の最後の火を燃やしつくそうとしていた。
槍剣の的となったのだろう。全身の肉がえぐれ、手当のかいもなく、鮮血が黒毛を濡らしている。
見るも無残なのは、後脚をねじまげるようにして折り、前脚だけでかろうじて立とうとしている様だった。
脚の骨を やられているのだ。馬の体重は二百キロをゆうに超えるとどこかで聞いた。それを支える脚が駄目なら、もう、……。
時折、苦しそうないななきをあげるものの、黒斗はそれでも馬首をあげ、美しく気高い眼で己の主人を見つめていた。
アシュラルが、その傍らで、愛馬の首を抱いている。何かを囁いているかのように、その顔に頬を寄せている。
「頭のいい馬だ」
クランが、小さく呟いた。
「毒入りの餌を用意したが、どうしても口にしない」
あさとは両手で口を覆った。
もう 黒斗はだめなのだ。
このまま生かしても苦しみぬくだけだと知っているから、アシュラルもクランも、安らかに死なせようとしているのだ。……。
黒斗……。
涙が溢れて、とまらなかった。
皇都には白斗がいる。ウテナと黒斗の間にできた子供なのに、それを……一度も見ないまま。
アシュラルは、黒馬の首を愛しむように撫でながら、何かを囁き続けている。
それは、永年連れ添った親友への最後の別れだったのか、彼の手には、鞘から抜かれた長剣が握られていた。
やがて、静かな時が訪れても、アシュラルはその場を動こうとしなかった。
いつまでもいつまでも、動かない友の背に寄り添ったまま、優しい手でたてがみを撫で続けていた。
5
夜明けが、海を青白く光らせている。
海岸沿い、まだ仄暗い砂浜に、岩礁が、淡い影を刻み始める。
荒く削り取られた岩の間に、先ほどからずっと座ったまま動かない人影 その傍に、そっと一人の女性が近づいていくのを認めた時、あさとは胸苦しさから目を逸らしていた。
アシュラル……。
理由は判らない。でも、アシュラルはまだ、私を許してはいない。受けいれてはいない。むしろ 前よりも強い拒絶を感じるのは何故だろう。
黒斗を亡くし、今、出会って初めてと言っていいほど打ちのめされている彼の傍に……あさとは、近寄ることさえできなかった。
アシュラルが、それを全身で拒んでいるのが、はっきりと感じられたからだ。
今のアシュラルは……私を、必要としていない……。
彼の、彼の心はもう。
夜明けをまたずに逝った黒斗の亡骸は、蒙真人の手によって、丁寧に土に還された。
蒙真では、死者の弔いは陽が沈んでから登るまでの間に行うのだという。
(この地では、昔から陰と陽の区別を重んじる)
泥を手ですくいながらクランは言った。
(生とは陽、死とは陰。天が陽であり、地が陰である。太陽が陽ならば、月は陰。死者は月に見守られて地に還るのだ)
埋葬の場に、アシュラルは姿を見せなかった。彼は一人きり 誰の言葉も拒否するように、天幕を出て行った。
夜が、もうすぐ明けようとしている。
墓標に寄りそうウテナの傍に歩み寄り、あさとはそっと背を撫でた。
「ウテナ……」
海から吹く風が、ウテナとあさとの髪を舞いあげた。
私たちはこれから、どうすればいいんだろう。大切な人を失くしたまま、どこに 向かって行けばいいんだろう。
判っている。サランナの後を追い、二人の子供を取り戻さなければならない。闇に沈んだ妹の心を、父に代わって救わなければならない。でも それも、アシュラルと心が離れたままでは、何一つ始まらないし、終わらないような気がするのだ。
あと少しで、あと少しでこの世界での旅が終わるような、そんな漠然とした予感がするのに。……
ふっと柔らかい風を背後に感じ、あさとはわずかに首をかしげて振り返っていた。
気のせいだろうか、その刹那、まるで風に囁きかけられたような感覚がした。
えっ……?
それは確かに人の気配ではなかったのに、あさとの背後には、杖をついた一人の老人が立っていた。
まるで、何もないところから忽然と現れたように 身じろぎもせず、表情さえも動かさず、今にも消えてしまいそうなほど現実感のない輪郭をしている。
ただ無言で立っている老人は、その白髪と白髭、長く裾を引く上衣さえも、静止画のように止まって見えた。
人だろうか、と、まずあさとは思った。次に、生きているのだろうか、と思った。
老人 確かに、男は尋常でないほどに老いている。外見だけでも、齢が90を超えているのは間違いない。縮れてもつれ、からみあいながら垂れている髪と髭。土色の乾ききった肌は、紙をまるめて無理に伸ばしたような皺が無数に刻まれている。
「皇都の、姫君」
はじめて声が老人のほうから聞こえた。文字通り聞こえた。あさとは男の顔を食い入るように見つめていたが、彼が唇を開く気配は微塵もなかった。
が、確かに老人が声を発した証に、垂れ下った瞼の下から白く濁った眼がのぞき、初めてあさとのほうを見た。
誰……?
思わず、ウテナの背に置く手に力を込めている。
まるで、この世の人ではないようだ。あたかも黒斗を連れに来た死神のようだ。
現に、老人は杖をついて、立つのもやっとという風情なのに ふわり、と空に浮かんでいるような錯覚さえ感じている。
「皇都の、姫君」
もう一度声が聞こえた。今度ははっきりと、老人の唇が動いていた。
「はじめてお目通りいたします。それがし、バヤンと、申します」
眼を覆い隠すほどに垂れ下った瞼の下で、老人は、確かにあさとの顔をみつめ、わずかに微笑んでくれたようだった。
バヤン様……!
逆にあさとは、その名前を耳にした途端、あっと叫んでしどろもどろになり、自分の非礼に耳が熱くなる思いだった。
この人がバヤン様なんだ。この邑の長で、半年前も、そして今も、アシュラルを助けてくれた人 。今は、あさとにとっても、命の恩人だ。
あさとは自身の身分を急いで名乗り、これまでの礼を丁寧に述べた。
頭を下げるあさとを、バヤンは手をゆるりと振って遮った。
「法王の血の病を鎮めたのは」
やはりその声は、そよ風のようにひそやかで、なのに、不思議と耳に響いた。「それがしの力ではございません」
でも、アユリダはバヤン様の力だと そう言ったあさとを、バヤンは、今度は首を振って遮った。
「言ってしまえば、この土地の力なのでございましょうな。……ゆえに、土地を離れれば、血は再び騒ぎだし、不浄のものとなりましょう」
「…………」
「この土地はよそとは違う。不思議な気で満ちておりますから」
では、この土地が この邑が、二度と目覚めることがないと言われたアシュラルを、奇跡的に蘇らせたのだろうか。
あさとは、すがるように考えてしまっている。
では この地に留まり続けていたら、アシュラルが死ぬことはないのだろうか。彼の命は助かるのだろうか。もう二度と戦場に戻らず、ここで、このまま静かに養生を続けたら。
が、彼が決してその選択をしないであろうことも、あさとにはよく判っていた。今のあさとに、彼を説得する術がないことも。
「以前、聞いたことがあります。……ディアス様という方に」
苦しみを振り払うように、あさとは訊いた。
その刹那、垂れた瞼の下で、老人の目が動いた気がした。
「ここは、マリス神が滅した場所では、ないですか」
蒙真半島 アシュラルにこの邑の場所を聞かされた時から、漠然と予感していたことである。ここはもしや、かつてディアスが目指そうとした マリスが消滅したと言い伝えられている場所ではないだろうか。マリスが滅び、そして彼の神が奪ったと言われるシーニュの心臓が奉じられている地。
ゆえにこの地には、特別な力があるのだ。
(蒙真半島には、心臓を護る一族がいて、他者を決して近づけないとも言われています)
ディアス様の言うことが本当なら この邑の人たちは。
「もしや、この邑には、……奪われたシーニュ神の心臓が……あるのではないですか」
それが、もし門外不出の秘密なら、口にした瞬間この邑全てを敵にする可能性もあった。それでもあさとは、今、それを確認することがとても大切なような気がしてならなかった。
しばらく無言で微笑していた老人は、杖を引きずるようにして、ふわりと歩いた。
「ディアス様 それが千賀屋ディアス様と仰る方なら、一度書簡をいただいたことがございます」
ディアス様から?
あさとは、思わず息をのんでいる。
「確かに我が一族は、代々この隠れ邑で、シーニュの心臓を護って参りました」
ゆるやかに老人は続けた。
「この邑の者たちは、みな、そのために生き、そのために子をなし、そのために死んでゆきます。それ以外の目的を知らぬのです」
風が、老人の長い髪を揺らした。
「シーニュの心臓をめぐり、過去、我が蒙真族と三鷹家の間では幾多の争いごとがございました。カマラは……古来より恐ろしき暗殺集団とされていますが、そもの役割はシーニュの心臓を護ること」
「………」
「さらには、二百年余前に盗まれた心臓の片割れを取り戻すこと。あなた様がクランを警戒されたのも無理はない。きゃつら、そのためならば、どのような悪事をも犯したでしょう」
淡々と老人は続けた。
「何故か? いつか転生を果たしたシーニュ神が、再びこの土地に戻ってきてくださると、何千年も何百年も我々は信じていたからです。ふたつに裂けた心臓がひとつに戻る日を、疑うことなく待ち続けていたからです」
「…………」
転生を果たしたシーニュ神?
あさとは何故か、身がすくむような緊張を感じていた。
それは……まさか、クシュリナのこと……? ディアス様もそんなことを言っていた。でも、まさか そんな。
あさと自身は、心臓のことなど何も知らないし、彼らの期待にこたえる術さえ想像もつかない。
「皇都の姫君」
が、バヤンは特にこだわりのない口調で言い、わずかだが眉に優しさを滲ませてあさとを見つめた。
「あなた様がこの世界に誕生されたみぎり、シーニュの心臓をあなた様にお返しするのが、それがしどもの本来の役目、でございました」
「…………」
「が、それより先の獅子の年、心臓は突然消えました。なにか天が乱れるような胸騒ぎを感じ、見守っているそれがしの目の前で忽然と消えたのです。 ご存じでしょうが、その時すでに、二つに割れた心臓のひとつは、何者かによって奪われていた。つまり、心臓は、ふたつとも無くなってしまったのです」
どういうこと……?
意味がわからず、あさとは眉をひそめている。
消えた心臓と、盗まれた心臓。そもそも、何故心臓は二つに割れていたのだろうか?
「ディアス様の書簡をみるに、消えた心臓を抱いて生まれたのがアシュラル様ということになるのでしょうな。 残念ながら、その現象が何を意味するのか、それがしどもには判りません。が、ディアス様が、姫とアシュラル様を定めの二人と看做す理由は、そのあたりにあるのでございましょう」
「…………」
「あなた様が持つべき心臓を、法王が持っているのですから」
それは 。
私のものだった心臓。それを……アシュラルが……。
あさとはもどかしく思考をめぐらせる。何かが引っかかっている。なんだろう、ひどく大切なことを忘れているような気がするのは、何故だろう。
シーニュの心臓。それが アシュラルの証で、私たちを引きつけた定めだったのだろうか。
なんだか、よく判らなかった。
あさとの立場と常識で考えれば、シーニュもマリスも神話世界の空想人物だ。
彼らは本当に存在していたのだろうか。そして、それが実在の人を指すなら 何千年にも渡って護られ続けてきた心臓とは、本当にシーニュのものなのだろうか。
いや、ディアスの言葉を信じるなら、そもそもこの世界は、雅が作った仮想現実空間のようなものなのだ。雅は 雅の思考は、そんな深いところにまで行き着いていたのだろうか。
「心臓は……何故、ふたつに割れたの?」
まず、それを確認しなければならない。
あさとが問うと、バヤンは、わずかに眉をあげて、白み始めた空を見上げた。
「心臓が何故二つに裂けたのか そして誰に盗まれたのか。 それらのいきさつを理解していただくためには、我ら一族と三鷹家の関わりを、知っていただかなくてはなりますまい」
三鷹家……?
「いや、そもそもシーニュとは、そしてマリスとは何だったのかを」
「…………」
言葉を切ったバヤンは、初めて唇に微笑を浮かべた。
「全ては、神話の時代の話にございます」
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