第11章 神話の時代に
 
 
 
                  1
 
 
 私がアシュラルを護るんだ……私が   
    アシュラル!」
 跳ね起きたあさとは、自分を取り巻く平穏な静けさに、戸惑って瞬きをした。
「…………」
 薄暗い部屋に、蝋燭明かりだけが揺れている。灰色の壁、朱色の柱、格子窓。皇都が西洋なら、この部屋からは東洋の匂いがした。
     ここ……、どこ?
 もしかして、夢……? 
 それとも、夢から覚めた現実だろうか。それとも    もとの世界に戻ったのだろうか。
 が、そうでないことはすぐに判った。
 あさとの記憶に残る日常とは、明らかに異なる異世界の風景。    ここは、まだ「瀬名あさとの現実」ではない。
 今、いったい何時だろう、いや、そもそも、ここは何処だろう。騎馬の群れ、黒斗の咆哮、生々しい記憶の欠片    そんなに長い間意識を失っていたとは思えない。
 衣服は、もとのままだった。所々火の粉で焼け落ち、手足には泥さえこびりついている。
 外は    まだ、夜の闇に包まれていた。
「アシュラル……」
 アシュラルとはぐれたことだけは、迷いようのない現実だった。
 とにかく、彼を探すのが先決だ。
 寝台から飛び降りて、扉らしき戸を押しあける。    と、たちまち、外から、四、五人の男たちが駆け寄ってきた。口々に何か言いたてながら、あさとを押し戻そうとする。
 あさとは、驚いて後ずさった。
 男たちは、黄土色をした袈裟様の衣装を羽織り、頭は綺麗に剃髪している。一見して僧のようだったが、おそろしく黄ばんだ肌といい、つきだした頬骨といい、あきらかに皇都に住む人たちとは人相が異なっている。
     蒙真族……。
 それと気づいた瞬間、恐怖で顔が強張るのが判った。
 ナイリュの街で、略奪と殺戮を繰り返していた、あの時の光景がよみがえる。
 もしかして    私とアシュラルは、蒙真の暗殺部隊(カマラ)に。    
 捕らえられてしまったのだろうか。
 そうでなければ、今の状況が説明できない。
 前を灰狼軍、背後を蒙真のカマラに囲まれた絶体絶命の状況下、あの混乱の最中、いったい何が起きたのか、あさとにはよく判らなかった。
 突如空から現れた蒙真の暗殺部隊(カマラ)は、不思議な煙幕のようなものを張り、その煙は、吸い込んだあさとの意識を混濁させた。
 朦朧とする視界の中、アシュラルが、カマラの手によって運ばれていくのが見えた。そして、自分の身体が何者かに抱き起こされるのも判った。    記憶できているのは、それだけだ。
 蒙真族に拉致された    これもまた、最悪の事態だとは思ったが、少なくとも、あの場で失うしかなかった命だけは取り留めたのかもしれない。
「アシュラルはどこにいるの」
 身のすくむような恐ろしさを感じながらも、勇気を奮い起して、あさとは叫んだ。
「彼に逢わせて! 私たちを、すぐにここから出しなさい」
 男らは口ぐちに何かをわめきちらしながら、あさとを扉の外に出すまいとする。
 その言葉は、全く意味の通じない言語で、あさとはあらためて、ここが蒙真の拠点なのだと思い知らされていた。
     どうして……。
 この土壇場で、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 しかも、アシュラルは……あの人は、二度も血を吐いたのだ。 
 残酷な記憶がよみがえる。黒血病の末期症状。もう……もう、彼の命は。
「お目覚めになったか」
 その時、男たちの向こう側で、妙な抑揚のある声がした。が、それは確かに、あさとにも通じる言語だった。
 あさとは顔をあげ、そのほうを仰いだ。
 見れば、袈裟を着た男たちは、全員、動きをとめて平伏している。
 歩み出てきたのは、黒い    ケープのようなものを頭から被っている男だった。髪は長く肩に垂らし、背が高く、奥まった眼光に鋭さがある。明らかに周囲の連中とは格が違う。
 あの場に現れたカマラの一人だ。    はっと全身を強張らせたあさとだったが、男の、どこか落ち着き払った知的な眼差しに、別の記憶が喚起されるのを感じていた。
 蒙真のカマラ    ……まさか……。
 そうだ、間違いない。在りし日の金羽宮で、男は法王の前に引きたてられ、死を宣告されていた連中の一人ではなかったか。
「あなたは……」
 後ずさりながら、あさとは、悪夢を見ているような気分になった。
 金羽宮の謁見の間。法王軍によって暴行を受け、口ぐちに何かを訴えかけていた男たちの中で、ただ一人、沈黙を守り、じっとアシュラルを見つめていた男   
 それが、蒙真人の特徴なのか、ひどく背の高い角ばった骨格を持つ男は、やはりあの日と同じように、無言のままじっとあさとを見下ろしていた。
 それはあさとにとっては、死を宣告されたに等しい沈黙だった。
 いったいこの人たちは、自分とアシュラルをどうするつもりなのだろうか。なんのために、こんな所のまで連れてこられたのか。    が、男は静かな目のまま、何故かわずかに唇をほころばせたように見えた。
「あの男なら、今は動かせない」
 低い声音は、やはり、どこかたどたどしかった。
 アシュラルのことだ、とあさとは思った。
「彼も、ここに?」
 男は頷いた。
「無事なの? どこにいるの? アシュラルは   
 そこで、ふと、あさとは眉を寄せていた。私は何故、この人と、言葉を交わせているのだろうか。
 おそろしいものでも見るような思いで、あさとは、再度男の動かない目を見つめた。
「あなたは……私の言葉が、理解できるの?」
 彼が、    あの時のカマラなら。
 金羽宮では、通訳なしにアシュラルと会話することができなかったはずだ。
「わかる」
 男は短く答えると、落ち着きはらった眼差しで、あさとを見つめた。
「あの時、法王は私たちを殺せと言った」
「…………」
「それを、あなたがおとめになられた」
「…………」
 それは    それは。
 呆然としながらも、あの日の記憶を手繰り寄せる。
 止めた? いや、結局私は、アシュラルを止めることができなかった。
 でも    でも、今、目の前の男が生きているということは。
「……アシュラルは……」
 じゃあ、あの人は……。
 あの時、カマラを見逃してくれたのだ。
 あれだけ冷たく……あれだけ残酷に拒絶しておいて。   
「来なさい、あの男のところに案内する」
 黒いケープの蒙真人はきびすを返した。
「待って、アシュラルは元気なの、彼は   
 彼は、もう。
「ここでは、穢れた血は浄化される」
「…………」
「そうやって、半年、あの男はここで養生した。今も、バヤン様が彼の血を清めている」
 バヤン……?
 なんだろう、ここは    ここはいったい、何処だろう。
 恐ろしさとは違う胸騒ぎを覚えながら、あさとは男の背を追った。 
 
 
                 2
 
 
「アシュラル!」
 案内されたのは、あさとの居た部屋とさほど内装が変わらない小部屋だった。
 寝台に腰かけていた彼は、訝しげな視線をあげる。クロークと軍服を脱いだ彼は、白いシャツとホージズという軽装だった。闇色の髪は肩に流れ、顔半分はいつもの黒布で覆われている。
     顔色が、戻っている……。
 ほっと安堵したのもつかの間、その前にかしづいている人の背を見て、あさとは思わず声をあげそうになっていた。
     ユーリ??
 透き通るような銀色の長い髪    が、振り返ったその人は、ユーリとは全くの別人だった。優しい、潤みを帯びた灰色の瞳を伏せ、その美しい人はあさとに頭を下げた。
「では、アシュラル様、御用があれば」
「ああ」
 女性   
 あさとに再度目礼し、しずしずと退室した人は、ユーリを女性にしたかのような麗しい美貌の持ち主だった。
 銀の髪に、灰色の目   
 ユーリ以外に、そんな変わった特徴を持つ人がいるなんて、想像してもいなかった。しかし、ムガル・シャーを父に持つユーリにもまた、蒙真族の血が流れている。
 周囲の人たちとは明らかに異相だが、もしかしてこれも、蒙真人が持つ血流のひとつなのだろうか。
 では、あの女性がバヤン様……?
 あさとをここまで案内してくれた蒙真のカマラは、すでに姿を消している。
「目が覚めたのか」
 まるで異変など何もなかったかのように、アシュラルはあっさりと言って立ちあがった。
「どうやら幸運に助けられたな。お前を法王軍に預ける手間が省けた。    この邑は、安全だ」
     邑……?
「ここは、どこなの?」
 周囲を見回しながら、あさとは訊いた。
「蒙真族の隠邑だ。蒙真半島と言えば判るか」
「…………」
 蒙真半島    ディアス様が、目指された土地。
 それは……。
「夜明けを待って、俺は戻る。お前は戦が終わるまでここにいろ。直にジュールを迎えにやらせる」
 ぼんやりと自分がいる場所のことを考えていたあさとは、その言葉に弾かれたように顔をあげた。
「いやよ、私も行く!」
「だめだ」
 にべもなく拒絶すると、アシュラルは上着を羽織って部屋を出ようとした。
「待って、どこに行くの」
「お前には関係ない」
「…………」
 一顧だにしない横顔は、まるで青州で再会した頃のように冷たかった。
 アシュラルの変わりように、あさとは、驚いて声を失くしている。
 彼は、まだ私を拒絶しているのだ。でも、どうして   
「アシュラル   
 ただ、青州の時と違うのは、彼もまた足を止め、動かないでいてくれるということだった。
 あさとはその背中に歩み寄り、彼の動かない手をとった。
 以前、情熱的に握り締めてくれた指は、今は、微動だにしない。
「身体は、……大丈夫なの?」
「見ての通りだ」
「……アシュラル……」
「…………」
 アシュラルの横顔は、あさとを見ようともしない。
 どうすればいいの。どうすれば    この人の心に、もう一度触れることができるの。
 彼もまた、何か言葉に出来ない懊悩を抱えているような気がするのに。それが    それがすごく判るのに。
「離せ」
 素っ気ない声がした。
「カマラの連中と話がある。夜明けまでに少しでも眠っておきたい。邪魔はするな」
「…………」
 手が振りほどかれる。
 そのまま扉は閉ざされ、あさとは一人取り残された。
 
 
                    3
 
 
 どれくらい、時が経っただろう。扉が開かれる音がする。
 寝台に腰かけたまま、じっとうつむいていたあさとは、弾かれたように顔をあげた。
 が、そこに立つ人を見て、深く息を吐いている。
     アシュラルじゃない……。
「あの方は、こちらにはお戻りになりません」
 美しい銀の髪をたらした女は、申し訳なさそうに口を開いた。
 どこかたどたどしいが、綺麗な皇都の言葉である。
「何処へいったの?」
 まさか、もうサランナを追って行っただろうか。
 が、女は静かに首を横に振った。
「ご案内いたします。ですが、その前にお召し替えを。服もお身体も、随分汚れていらっしゃいます」
「彼は、今、どこにいるの?」
「あの方の、お住まいに」
「……住まい…?」
「こことは、別の場所にございます」
     そうか……、アシュラルは、半年もこの邑に滞在していたのだ。
「おいでくださいませ」
 柔らかい声で告げると、女はあさとをうながすようにして歩きだした。
 きらきらと輝く銀の髪が、歩くたびに美しくきらめく。
 ユーリ……。
 その髪と目の印象が強烈すぎるせいだろうか。顔つきはまるで違っているのに、どうしてもその女性の面差しに、ユーリが重なる。
「あなたの……名前は、なんというの?」
 もしかして、ユーリの妹   
 女の雰囲気が随分大人びて見えたから、そんなはずはないと思いつつ、それでもあさとは訊いていた。
「アユリダと申します」
 案内された部屋で、湯の準備をしながら、女は答えた。
「この邑で生まれたの……?」
 質問の意図を悟られたのだろう。それには、わずかな沈黙が返ってきた。
「いえ。私の出自は知りません。幼き頃、この里に捨てられていたそうにございます」
 淡々と女は答えた。
「ナイリュには不思議な言伝えがございます。銀の髪と灰色の目は国に災いをもたらすと。……ゆえに、私のような特徴を持つ子供は、生まれてすぐに殺されるか、捨てられてしまうのです」
「…………」
「生きていても、残酷な人生が待っています。それが、親の慈悲なのだと思います」
 この人もユーリと同じ……。
 あさとは何も言えなくなり、そのまま黙って、女の指示に身を任せた。
「アシュラルは、以前もこの邑にいたの?」
「はい……」
 初めて女の声に、不思議な抑揚が混じった。
「船旅でお倒れになったというあの方を、クラン様が運んで来られたのです。法王家の方と知ったのは、随分後のことでした」
     クラン様……。
「さっき、私をここまで案内してくれた人?」
「そうです」女は、わずかに頷いた。
「クラン様は、皇都で、あの方に命を救われたと申しておりました。ゆえに、バヤン様を頼ったのでございましょう」
「………」
 バヤン。    誰だろう。さきほどの男もその名前を口にした。
「バヤン様は、この邑の長にございます」
 あさとの疑問に気付いたのか、女は丁寧に言い添えてくれた。
「医術師……なの?」
「いえ、……ただ、病を癒す力を持っておいでです」
「じゃあ、アシュラルの病気を治してくれたの?」
 身を乗り出すようにして訊いていたが、アユリダは、言葉に迷うような眼差しになった。
「バヤン様の御力をもっても、あの方がお目覚めになるまでには、長い時間が必要でした。……それでも、あの方の持つ血の病は、決して治るものではございません」
 ふっと伏せられた目に、隠しようのない悲しみが満ちている。
 この人は、   
 あさとは、初めて、目が覚めるような思いで、美しい人を見上げていた。
 どこか寂しそうな目であさとを見つめ、女は再び視線を伏せた。
「あのお身体で、この邑を離れるなど、死にいくようなものでございます。……どうか、奥方様がお止めになってくださいませ」
「…………」
 この人は、アシュラルが好きなんだ。……。
 着替えをすませたあさとは、どこか後ろめたい思いで、背後の女を振り返った。
「皇都の言葉は、アシュラルに教わったの?」
「クラン様と違い、私は無学ですから」
 わずかに頬を染め、アユリダはうつむいた。
「言葉が通じねば、お世話することもできません」
 皇都で別れて半年、彼に自分とは別の時間が流れていたことを、あさとは胸苦しい気持で思い知らされていた。
 
                
 
 
 
 
 
 
 

BACK    NEXT    TOP
Copyright2009- Rui Ishida all rights reserved.