7
 
 
 月が   
 あさとは空を見上げた。
 夜空に雲が滲み出ている。あれほど鮮やかに輝いていた月が、何時の間にか、淡く頼りなく揺らぎはじめている。
     急ごう。
 山を登る途は、ひとつしかなかった。が、山頂までの道は意外に険しく、所々に、戦闘の痕跡が残されていた。
 あさとは幾度も、法王騎士の亡骸とすれ違った。残酷な道しるべだが、間違いない。この先に、ユーリとサランナ……そして、アシュラルがいるのだ。
 どこかで、激しい水流の音が聞こえる。川……か、滝が近いのかもしれない。
 やがて、山道は細くなり、道は深い森に閉ざされた。あさとはウテナのスピードを緩めた。
 目を凝らすと、森の木々の一部に、枝を切り払われた痕跡が、はっきりと残っている。日差しが少ないせいなのか、湿り気を帯びた地面には、轍の跡が残っていた。
 ほんのわずか前に、ここを馬車が突破して行ったのだ。
     まだ、地面が乾いてない、近いんだ。
 あさとは、ウテナの手綱を引き、森に向かって向きを変えた。
 背後から声がしたのはその時だった。
「女、待て!」
 たちまち追いついた騎馬が一騎、あさとの正面に立ちふさがる。
 騎乗しているのは、白銀の甲冑に、法王の紋章を施した騎士だった。一目で、親衛隊の一人だとあさとには判った。
「女、こんな時間に何処に行く。この先を通ること、相成らん」
「法王を探しに行く、ここを通しなさい」
 あさとはひるまず、言いきった。
「なんだと……?」
 騎士が驚いて、あさとを見下ろす。
「ふざけるな、法王様なら、先ほどここをお通りになられた。お前ごときが探す必要はない」
「私は夫を探している、どきなさい!」
 まだ、若い騎士だった。その目が、しだいに驚愕を帯びて見開かれていく。あさとの顔を    クシュリナの顔を、そしてウテナを、法王の騎士が知らないはずはない。
「……こ、この先で、戦闘が……」
 騎士は、事態が飲み込めないままに、困惑したように呟いた。
 薄闇に眼が慣れれば、騎士の甲冑には無数の傷がついていた。兜の下から見える頬には、血痕らしき筋が跡を引いている。
「へ、陛下」
 うわずった声で、騎士は叫んだ。
「お一人で行くなど、狂気の沙汰にございます! 我々もまた、仲間の大半を失いました。今、危急を告げに下山するところでございます」
 あさとは、目の前が暗くなるのを感じた。
「……何が、起きたの」
「……逃亡中の三鷹ミシェルの一団と、………この先で斬り合いになったのです。忌獣が……現れ、我々を襲い、その隙に三鷹家の馬車は逃げ去りました」
「………」
「追手の大半が死に絶え、生き残って動ける者は、私一人にございます」
「法王は?」
 急くようにあさとが聞くと、騎士は困惑したように、言葉を途切れさせた。
「……私にも、よくわからないのです。法王様は、我々を置いて先に行かれたはずなのに、……三鷹家との戦闘の最中、突然、黒斗に乗って、出てこられて」
     !」
     アシュラル。
 それは、アシュラルだ。
 あさとは思わず拳を握った。
 そして、先に行った法王というのは、ラッセルだ。
「そのまま、闇に消えてしまわれました。……おそらく、逃亡した三鷹ミシェルを、単身、追われたのだと思いますが」
 あさとは、再び鞭を振った。
「陛下、お一人では!」
「あなたは、早く、このことをジュールに伝えて!」
 背後に構う余裕はなかった。アシュラルとラッセルだ。彼らもまた、ユーリとサランナを追っている。多分、二人の元に、    きっと、私の子供がいるから。
 
 
                8
 
 
 森に馬を乗り入れた途端、闇が急速に深まって行った。
     月が、消えた。……
 あさとは、呆然と空を見上げた。
 気づけば、一点の光りもささない闇の中に取り残されていた。雲だろうか    それとも、天摩宮の時と同じように、何かの力が作用しているのだろうか。
     行けるだろうか。
 不意に、不安が胸をよぎった。
 行けるだろうか、たった一人で。
 もし    忌獣が出てきたら。
 恐怖に、不安に、私は一人で克つことができるのだろうか。
 駄目   
 あさとは、首を横に振った。
 考えてはいけない。迷っては駄目。が、もう、考えてしまった時点で、心が闇に支配されかけている。
 それまでの沸き立つ気持ちが嘘のように、あさとの足はすくんでいた。
 何が怖いんだろう。何が不安なんだろう。忌獣    そうだけど、そうじゃない。
「……………」
 アシュラルに……会うことが、だろうか。
 自分の心の底にあるものに気づき、あさとは愕然と闇を見つめた。
 今まで、何度も何度もアシュラル一人を愛そうと決めた。決めながら、それでもいつも、あさとはラッセルに迷わされ続けてきた。
 今度もそうではないと言いきれるのだろうか。
 この先にいるのが、アシュラルではなく、ラッセルだったら?
 いや、夫の顔をみて、それがアシュラルだと見分けられなかったら?
 アシュラルが    まだ、心を閉ざしていたら?
 いけない   
 考えてはいけない、考えては    いけない。
 ひるみそうな自分に鞭打って、あさとはウテナを歩かせた。闇の中、それでも注意深く目を凝らすと、森の木々の間隙に、一際激しい轍の跡が残されているのが判る。
 それは、ひどく乱れ、まるで    錯乱しながら疾走していったようにも見えた。
「……ここ……?」
 法王軍の騎士が言った。戦闘があったというのは、この近辺なのだろうか。
 ふっと、生臭い血の香が鼻をついた。
 木々の間に口を広げている闇    その中へ進むことに、怖いようなためらいがあった。
 何かが、闇の向こうで蠢いているような気がした。
 闇の中で……誰かが、囁いているような気がした。
(あさと……)
     雅。
(あさと、早く、こっちへおいで)
 雅……。
(うふふ、……うふふふ、うふふ、ふふふ)
 囁くような笑い声が、闇の中でこだまする。
 怖い   
 あさとは、ぎゅっと目を閉じた。
 怖い、……怖い。
 憎まれるのが怖い、拒絶されるのが怖い。    自分が傷つくのが、怖い。
 怖い、    でも。
 だからこそ、ここで逃げちゃ、いけないんだ。
 だからこそ、行かないといけないんだ。
 目を見開き、闇を見据えた。
     雅、私はあなたに会いに行く。
 もう、あなたを恐れない。自分が傷つくことを、恐れない。
 風が、木々の葉をゆらした。幻聴のような囁きは、もうどこからも聞こえなかった。
 闇に視線を凝らした時、    かすかに草を踏みしだく音がした。
「………!」
 誰か、いる。
 目を向けた途端、闇の塊が、木々の隙間から膨れ上がった。
     忌獣? 
 それは、私の心の中   
 鼓動が踊りはじめている。抑えきれない恐怖が、足の先から這い上がってくる。
     駄目……。
 考えては駄目、恐れては駄目。
 それでも、考えてしまっていた。
 忌獣は最後、見る人の、最も恐れている者の姿になるのだという。
 人の心を映す怪物。なら、私が出会う忌獣は、……誰の姿をしているのだろう。
 一番、怖いと思う人の顔をしているのだろうか。
 それは    いったい。
 気づけば、凍りついたように、手も足も動かなくなっていた。
 心臓が、轟音を立ててわなないている。
 闇の形が、ゆっくりと人馬の輪郭を顕にしていく。
 黒い馬の蹄が、じわりと、闇の中から現れた。
 一番、恐れていて   
 一番、怖くて。
 闇から浮きだす漆黒の馬。
 あさとは、息を引いていた。
 その馬上には紫の死仮面があった。闇色のクロークが、風にたなびいて揺れている。
「…あ……」
 恐怖が形作るシルエット。まさにその姿は、    あさとにとって、一番怖いものだった。
 あさとはウテナから飛び降りた。はずみで膝をつき、鈍い衝撃が走った。けれど、もうそんなことは、どうでもよかった。
 闇から滲み出た死仮面もまた、馬から飛び降り、こちらに駆けて来た。
 迷いはなかった。
 これが例え忌獣の作り出した幻でも。
 このまま、闇に飲まれてしまっても。
 それでも。
 腕が触れ、そして、互いに飛びこむように抱き合った。
    アシュラル」
 あさとは叫んだ。
「アシュラル、アシュラル!」
 このまま    これが全て幻で。
「クシュリナ、お前、どうして」
 その愛しい声で殺されても構わない。
 月明かりが、何時の間にか木々の隙間から差し込んでいた。
 あさとは手を伸ばして、彼の顔を覆う兜を外した。
 痩せた頬、そのせいか、以前より鋭くなった輪郭。右半分を覆う黒布。
 かつての、張り詰めた若木ような輝きはない。その面差しから、琥珀の影が消えている。
 なのに、あさとには一目で判った。闇に浮かぶ姿を見ただけで、すぐに判った。
 彼が、    ずっと探していた人なのだと。
「何故、……お前がここに」
 聞こえる声が戸惑っている。胸から、暖かい鼓動が伝わる。
 彼も、    私をすぐに判ってくれた。
 かつての面影を失くしてしまったのは、アシュラルだけではない。あさともまた、印象だけでいえば、以前とは別人になっている。
 それでも、すぐに判ってくれた。
 それだけでいい。もう    他には、何もいらない。
「……クシュリナ」
 静かな声が背後で響いた。
 あさとは、はっとして顔を上げた。同時に、アシュラルの腕も緊張する。
 その声の持ち主を、ずっと追っていたはずだった。けれど    まさか今、こんな所で。
「ユーリ……」
 ユーリと対面できるとは、思ってもみなかった。
 
 
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 ユーリの姿を認めた途端、アシュラルの横顔が厳しくなる。
 彼は、素早くクロークを翻すと、あさとを背にして、ユーリの前に身体を入れた。
「クシュリナ……久しぶりだな」
 ユーリは、どこか虚ろな表情のまま、囁くような声で言った。
「ユーリ……」
 闇を背負って立つ彼の背後で、何か、濃淡を異にする塊がうごめているのが見えた。それは靄のようにユーリの胸から下を覆い隠し、今にも    何かの形に変容するようにざわざわと揺らめいている。
     ユーリ……。
 あさとは、声を出さずに呟いた。
 それは、ユーリであって、ユーリでないような気がした。いや、確かに姿容はユーリなのに、あさとの知っている幼馴染とは、全く別人になってしまったような気がした。
 広がり続ける黒い靄は、彼の身体から滲みでているような気がする。
「クシュリナ……」
 唇がわずかな笑みを刻んだ。    ひどく、やつれた笑い方だった。
 一歩歩み出た彼を、初めて月光が照らし出しす。
 銀の髪は乱れて落ち、瞳からは、かつての輝きが消えていた。
 あさとは言葉を失った。何も言うことができなかった。こんなにひどい状態のユーリを見るのは、知り合って以来、初めてだ。
 かつて、眩しいほどの美貌を誇っていた男は、もう一度あさとの名を呼び、寂しげに微笑した。
「本当に、……久しぶりだ。クシュリナ、君は変わってしまったんだな……」  
 上着には木犀の紋章、右肩から純白のマントを流している。
 月光を浴びたせいなのか、彼を覆う黒い靄が霧散して    その刹那、あさとは目を見開いていた。
 その腕に……ユーリは、一抱えの柔らかそうなものを、さも大切気に抱いている。
 それは幾重にも布でくるまれ、あたかも、産着に包まれた赤ん坊のようだった。いや、それは、間違いなく。   
     ユーリ。
 思わず足を踏み出しかけている。アシュラルの腕がそれを止めた。
 ユーリは、胸に抱いた子供をあやすような素振りを見せた。
「君が来るのを、ずっと天摩宮で待っていた。……今は、ここで待っていた。君は    絶対に、俺のところに戻ってくると思っていたからだ」
 彼の双眸が、ひたと寂しげにあさとを見つめた。
「君に会うためだけに、無様な真似をして逃げ延びた。……ずっと、待っていたんだ、クシュリナ……」
「………ユーリ」
 あさとは、今朝方ラッセルと交わした会話を思い出していた。
 ユーリは何を待っているの、とあさとは聞き、ラッセルは、何故か曖昧な言い回しでそれに答えた。
 ラッセルは知っていたのだ。ユーリは、活路を得るために籠城を続けていたわけではない。逃げるためでさえなかった。彼が    待っていたのは。
「もう、俺の周りには誰もいない、みんな死んだ、そして、逃げた。今、俺の傍にいてくれるのは」
 ユーリは腕の中のものに、ゆっくりと優しい視線を傾ける。
「……この子だけだ」
 それは   
「その子は……」
 あさとは呟き、彼の傍に駆け寄ろうとして    足を止めた。
 サランナの言葉が、そして、ルナの言葉が蘇る。
    銀の髪に、灰色の眼、お姉様とユーリの間にできた子供だもの、それはそれは、美しくていらしてよ)
    クシュリナが産んだのは、法王様の子供なんかじゃない、なのに、みんな振りまわされて、馬鹿みたい)
「君が産んだ子供だ、クシュリナ」
 ユーリは、優しい口調で囁いた。
「俺と、君の子供だ。さぁ、こっちへ来て、顔を見てやってくれ」
     違う。
 そう言おうとして、言葉が喉でつかえていた。
 月光が翳りをおび、闇がみるみる三人を包みこむ。
 ユーリを包む靄は、再びその範囲を広げ、彼の背後でうねるようにのたうっている。
 あさとはアシュラルの背中を見た。動かない背中を見た。今、彼がどんな顔をしているのか……想像するのが恐ろしかった。
 急速に、さっき掴んだはずの確信が薄れて行く
 彼はまだ、子供のことを認めていないのかもしれない。あれほど優しかったアシュラルが冷血な男になってしまったのは、……何もかもこの子供を妊娠してしまったことが原因なのだから。
「その子は……アシュラルの子供よ……」
 口から出た言葉は、力なかった。
 ロイドは確かだと断言してくれた。でも    実際あさと自身が、確認したわけではない。
 もし、    それがロイドの気休めだとしたら。
「ああ、アシュラル、お前もまだ、この子を見ていなかったな、見ればいい、一目で俺の子だと判るから」
 ユーリは平然と言うと、すうっと顔を上げる。その眼には、恍惚とした笑みが広がっている。
「……さぁ、見ろ、アシュラル。これが、俺と彼女が愛し合った証だ」
 
                
 
 
 
 
 
 
 

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