2
あさとはラッセルの背中を追い、飛び出すように、部屋を出た。
鍵は掛かっていなかった。それどころか、屋敷の中に、人の気配はまるでない。
周辺を見まわして、あさとは眉をひそめていた。乱雑に色々なものがひっくりかえり、衣装や宝石のケースが塵のように無造作に転がっている。 まるで襲撃にあい、慌てて出て行ったような痕跡だ。
窓から見える外には、すでに、夜の闇が落ちていた。
別れ際に見た、サランナの衣装が、ふと思い出された。
今思えば、まるでそれは 今から旅にでも出るような出で立ちだった。
「これは、……どういうことなのかしら」
ラッセルは、厳しい表情のまま、振り返った。
「何かあったのでしょう。この館はもう、無人のようです」
無人……?
「でも、どこに逃げるというの」
「あなたは、ここに」
言うなり駆けだしたラッセルの背中を追う。夜空には白い深淵がぽっかりと口を開けていた。 眩しいほどの満月だった。
庭に出ると、天摩宮を襲った異変は、ますます顕著に、その痕跡を残していた。
倒れた彫像。折れたアーチ。穿たれた壁の宝石。至るところに、強奪の跡が残っている。
見れば、庭園の向こう側を、ばらばらと人の影が駆けている。所々で聞こえる女の悲鳴、男の怒声。ふいに頭上から何かが落ちてきた。
「危ない!」
咄嗟にラッセルがあさとを抱いて身を引き、紙一重の面前に、そのいくつかの塊は落下して砕けた。それは、かつてナイリュ王家があがめていた、マリス神の彫刻石だった。
「……どういうことなの」
あさとは、嫌な予感に胸が震えた。
「攻撃は、明日の朝ではなかったの」
「……王宮内部で、暴動が起きたのでしょう」
ラッセルは難しい目をしていた。
「法王軍の攻撃が迫っているのに、門を閉鎖されて出られない。 貴族や騎士たちが、王家に反旗を翻したのかもしれません」
「開けろぉっ」
耳を凝らせば、そんな声が確かに聞こえた。
「門を開けろ! ここから出せ!」
「三鷹ミシェルを引きずりだせ。あの悪魔は、ここにいる全員を道連れにするつもりだ!」
すでに火の手が、天摩宮を取り巻く塔から立ち上っている。
ユーリは、 サランナは、まだあの塔の中にいるのだろうか。
騎馬の群れが、火煙の中から飛び出してきた。逃げ惑う人たちを蹴散らすようにして、大門めがけて殺到している。その中にいくつもの馬車が見えた。おそらく、身分を持つ人々がこぞって脱出しようとしているに違いない。
「門は決して開けるなとのご命令です」
「法王軍の攻撃など、ありえません!」
門を防ごうと抗う木犀騎士たちも、必死であった。門周辺は、さながら地獄のような凄惨な攻防が繰り広げられている。
その中で、身分なきものは簒奪者と化していた。
宮殿内が荒らされているのは、逃亡を覚悟した騎士や兵たちが、めぼしいものを片端から持ち出そうとしたに違いない。そこには美しい女官なども含まれていたのか、あちこちで 女たちの悲鳴が聞こえた。
「どうして、こんなことになってしまったの」
あさとは、呆然と呟いた。
わからない。何故ユーリは、頑なに門をふさいでいるのだろう。第一門内の平民たちは追手さえ出さずに見逃しながら 何故。
ユーリが、いやサランナが、閉じ込められたままむざと死を待つとは思えなかった。
この天摩宮のどこかには、アシュラルと、彼の子が捕われているのだ。ユーリがその気になれば、攻撃を止めさせる手立てもあるはずなのに、何故。
いったい、ユーリは、……そしてサランナは、何を待っているのだろう。
二人の前には、王族の居城、天摩宮本殿がそびえている。その周辺も、すでに混乱の極みにあるようだった。
ラッセルは振り返った。
「危険だ、……あなたは安全な場所に隠れていてください。私一人で中に入った方がいい」
「いいえ、私も行くわ」
「しかし」
その時だった。
ものすごい衝撃音が空に響き、足元を震わせた。
夜が、一瞬にして光を放ち、真昼の明るさが闇を裂く。
「 !」
二人の頭上で、宮殿の一角が弾けて崩れ、瓦礫と土砂になって落下した。
ラッセルがあさとを抱きかかえ、地に伏せる。
それが引金だったのか、たちまち激しい爆撃音が何十も連弾して闇を揺らした。閃光、そして、地響きにも似た衝撃、崩れ落ちる瓦礫、立ち昇る黒煙と砂埃。
何が起きたのかわからないまま、あさとはラッセルの腕にすがり、目を凝らした。
やがて、轟音が去った後、聞こえてくるのは悲鳴、すすり泣き、そして頭上から重なり落ちてきた屍の断片。
これは……。
あさとは唇を震わせた。
「攻撃が、始まったのか……」
ラッセルが呟いた。彼の顔色は白いほどに蒼ざめていた。
ついに本宮の門扉が開き、たまぎるような悲鳴をあげつつ、甲冑の騎士たちが飛び出してきた。
口々に助けを呼びながら、一目散に駆けて行く。中には、略奪した金品を抱えている者、女を背負った者もいる。凄惨な光景は、庭園のいたるところで繰り広げられ、最早天摩宮内は、完全に統制を失った無法地帯と化していた。
その時、大門の外から鬨の声があがった。門の外に法王旗がはためくのが、あさとの目にもはっきりと判った。
「兵器の使用を誰かが命じたんだ でも、何故」
ラッセルは苦渋の面持ちで眉をひそめた。
「アシュラルが、……戻ったのか…?」
彼は呟く。横顔が初めて迷いに揺れている。
城内は煙と焔に包まれつつあった。再度別の方角から轟音が響く。あさとは焦燥に駆られて振り返った。
「ラッセル、早く 攻撃をやめさせないと!」
その時だった。闇を震わすような咆哮が、 長く、長く尾を引いた。
瞬間、死の静寂が周囲に満ちた。
あさとは、ラッセルの腕にすがったまま、凍りついていた。
この感じ……この感覚……忘れもしない。これは まさか。
闇が、いきなりその輪郭を顕にした。
おおオおお……おオォオお ン。
生暖かい魔風が、突風のように土砂と瓦礫を舞上げる。頭を殴られたような激烈な腐臭。
姿を現した巨大な闇の塊が、諸手をあげて、城壁を破壊した。
崩された石の欠片と共に、人馬が玩具のようにはじけ飛ぶ。
あさとは、呆然と空を見上げた。月は出ていたはずだった。雲などどこにも見えなかった。なのに 何故。
みあげてもまだあまりあるほど巨大な獣は、ひとつの山のようだった。天摩宮を覆う夜全体が、凝固して魔獣と化したようだ。
神に背いた獣は吠えた。月の消えた夜に向かって、憎悪のような咆哮をあげた。
3
忌獣!
たちまち、庭全体が阿鼻叫喚に包まれた。
あさとは、ラッセルの腕に庇われたまま、その、悪夢のような光景を見つめていた。
信じられない。性質の悪い夢でも見ているようだ。こんな 山ほどもある……悪鬼のような怪物が……現実のものとは思えない。
が、それは本当に最悪の現実だった。
漆黒の体毛は、ざわざわと蠢き、闇にその境界が溶け込んでいる。爛と輝く焔を宿した眼。血色の口腔が裂け、闇を咆哮が震わせる。生き物のように蠕動する前足が、逃げ惑う人諸共壁や建物を、踏みつぶし、薙ぎ払った。
オオ…おオォお……おオオォオお……。
「陛下」
突然、ラッセルが、あさとの手を強く掴んだ。
「空は晴れています」
彼の冷静さに、あさとは初めて詰めていた息を吐きだした。
「月だけが消えました。このようなことが、以前もあったのをご記憶ですか」
以前も……あった?
「忌獣は、おそらくユーリ様の心が作りだしたもの」
「どういう、ことなの」
「そうであれば、忌獣は決してあなたを襲ったりはしないはず。冷静に 恐れてはなりません。あれは、ユーリ様の心の中に棲む怪物」
「…………」
「言いかえれば、ユーリ様そのものなのです」
ユーリ………そのもの………。
あれが?
あの怪物が?
その時、闇に閃光が瞬いた。
一瞬の静寂の後、凄まじい爆発音が、二度、三度大地を震わせる。
法王軍の攻撃が、まだ続いているのだ 。その光は忌獣を貫き、闇に紅い火花を散らす。
忌獣は喉をあげ、高らかに吠えた。それは蠢く闇の、怒りが凝結したような咆哮だった。
「……愚かな法王が、ようやく地の王を覚醒させた」
静かな、夜が囁くような声音がした。
あさととラッセルは振り返る。
「この戦は、三鷹家の いえ、マリスの勝ちにございます」
クロウ 闇から抜け出した死神が、地を蹴ると同時に、諸手から刃を滑らせた。
「ラッセル!」
あさとが叫ぶより、ラッセルのほうが速かった。
がっきと、空で刃がかみ合う。
が、もう片方の腕から伸びたクロウの剣が、動けないラッセルの胸に襲いかかる。
転瞬、ラッセルは身体を交わして避け、クロウの腕を掴んで止めた。
「互いに、護る星のもとに生まれた宿命……」
何故か、不思議な微笑を浮かべ、クロウが低く囁いた。
「生き伸びたほうが男ならば、ここで殺すのが私の役目」
じりじり、とラッセルが押されていく。
均衡は、突然崩れた。ラッセルが一歩後退した刹那、鋭い金属音をあげ、刃と刃が、離散する。クロウの腕が振り下ろされ、悲鳴をあげたあさとの視界から、ラッセルが消えた。
が、身を沈めたラッセルは、闇の中に自らぶつかるように飛び込んだ。
何が起きたか判らなかった。気づいた時は、はねあがったラッセルの長剣から血が滴り落ち、クロウの刃が、腕ごと、地面に転がっている。
「ラッセル!」
あさとは叫び、ラッセルはその一瞬だけ動きをとめた。彼の前に、クロウが膝をついている。
ラッセルの剣が閃いた。
「 殺さないで!」
闇が瞬いた。咆哮と爆音。悲鳴と、瓦礫の崩れる音。
刃が空を切った時、すでにクロウの姿は消えていた。
「あの者を生かせば、また、沢山の犠牲者が出ます」
振り返ったラッセルの声が怒っている。が、彼が最後の刹那に迷ったことを、あさとはよく知っていた。
「今は、誰も殺さないで、サランナの 思ったとおりになってしまう!」
その腕を掴みながら、あさとは叫んだ。
「それより、早く攻撃を止めて! このままじゃ、法王軍は全滅するわ」
ようやく判った。
ユーリは、……サランナは、この時を待っていたのだ。
間隙的になり続ける爆音、法王軍は、まだやみくもに攻撃を続けている。忌獣は巨大な闇となり、その陣を覆い尽くそうとしている。
「アシュラルはいない。いいえ、仮に彼が戻っていたとしても、今、法王軍を制止できるのは、あなただけよ」
男は緊張した顔を上げた。その目が、戸惑いを浮かべている。
あさとは自分の服の袖を破り、有無を言わせず彼の右目に巻きつけた。
「行って、あなたが本当の法王かどうかは、私にも見破れない。完璧な身代わりよ。 行って! この攻撃をやめさせて!」
「………」
「私はこのまま、アシュラルを探す、ううん、止めたって絶対に探す。でも、あなたは、ここにいてはだめ」
「陛下 」
「沢山の人が死ぬわ、その前に攻撃止めて、 行くのよ、ラッセル!」
「………」
彼はしばらく、強い眼差しで、じっとあさとを見つめていた。そして自らの腕に添えられた手を、力強く握り締めた。
「行きます」
あさとは頷いた。
ラッセルは、あさとの手を引くようにして立ちあがった。
「攻撃を命じたのは、アシュラルではありません」
「………」
「弟は、この場面であれを使えるような男ではない。おそらく、まだ、天摩宮に囚われたままになっているはず」
ほんのわずか、二人の視線が強く絡み、そして離れた。ラッセルは静かに手を離した。
「私の大切な……弟です」
暖かな指が最後に離れた時、あさとは もう二度と、この手にすがれないことを知っていた。
「彼を、救ってやってください」
それが最後の言葉だった。
さようなら。
あさとは心の中で呟いた。
さようなら、私の、大好きだった人。
黒煙の間を駆けていく背中は、一度も背後を、振り返らなかった。
あさとは潤んだ眼を拭い、歩き始めた。
さよなら、琥珀。
目が霞むのは、悲しいのか、煙のせいなのか、自分でも判らなかった。
今度こそ、本当に 。
さようなら 。
|
|