10
セルジエに連れて行かれたのは、騎士の溜まり場にある、薄暗い地下の一室だった。
室内にいたのは数人足らずだが、全員が黒竜軍の幹部クラスである。
なに……?
訝しく、勧められた椅子に腰を下ろしたあさとだったが、その場に連れてこられた女を見て、驚鼓のあまり席を立っていた。
「ルシエ……?」
「クシュリナ様」
顔をあげた女 松園ルシエの水青の瞳に、みるみる涙が溢れて滑り落ちる。
そのまま肩をふるわせ、ルシエは長い髪を揺らすようにして顔を伏せた。
「ルシエ……、いったい」
変わり果てた、かつて美しかった人の無残な姿に、あさとは衝撃で声も出ない。
むろん、彼女の今の立場は、あさともよく知っている。
皇都に背き、アシュラルを窮地に陥れた薫州公松園フォードの一人娘。……つまるところは、謀反人の娘。
が、それでもルシエのような身分の女性に、いったい何があったのだろうか。着ている衣服は泥に汚れ、手足には至る所に擦り傷ができている。頬はこけ、唇に血の気はなく、細い体は今にも倒れてしまいそうだ。
長く美しい髪だけが、以前のルシエのままたったが、その髪色もこころなしか色褪せている。
あさとは駆け寄ろうとしたが、周囲を取り巻く黒竜騎士が、それを制するように前に出た。
「薫州公のご令嬢……松園、ルシエ様にございます」
わかりきったことを重々しく告げたのは、政変後、新しく武官長に就いた有働サジだった。
二十四歳。逞しい体躯と健康そうな若々しい肌を持っている。短いくせ毛と顎にたくわえた薄い髭が、いかにもファッション雑誌に出てくる若者のようで それは、この世界では異相と呼ばれる部類に入るのだが、あさとは内心、勝手な親近感を覚えていた。
ジュールの信頼が最も厚い男は、迷いを帯びた目で、あさとの前に膝をついた。
「先日、単身で薫州より逃げのびて来たと……そう申しております」
「すぐに、医術師を呼んで」
あさとは、震えを堪えながら、言った。
「ルシエにこのような扱いをするなんて、ひどすぎるわ。すぐに衣服も用意させて」
「陛下、我々は今」
押し殺した低い声で、サジは続けた。
「薫州公と戦をしているのです。いくら公爵の令嬢とは言え、謀叛人の娘をむざと金羽宮に迎え入れるわけにはまいりません」
「その通りですわ、姫様……」
涙を払い、それでも凛とした眼差しをあげたのはルシエだった。
「父は、イヌルダに叛旗を翻したのです。その罪の重さは、私が一番よくわかっております」
「ルシエ……」
その憐れな姿に、あさとは声も出てこない。
「命惜しさに、イヌルダに参ったわけではございません。父の罪を、少しでも償いたいと思ったからこそ、生恥をさらす覚悟で、私は金羽宮に戻ってきたのです。陛下、どうか我が父フォードを御許しくださいませ」
「ルシエ!」
サジが、厳しい声で、罪人がごとく膝をつく女を遮った。
「お前の望みどおり、陛下をこのような場所までお連れした。繰り事はいいから手短に申せ、いったいこなたは、何のために、この皇都に戻ってきたのだ」
「クシュリナ様を……そして、アシュラル様をお助けするために」
潤んだ聖母のような瞳で、ルシエはひたとあさとを見上げた。
アシュラルを……?
胸打つような不吉な動悸を覚え、あさとは傍らのサジを見ている。
迸るように、ルシエは叫んだ。
「陛下……申し上げます。すでに我が父フォードは、タイランドのクトゥク王と、手を結んでいるのです!」
それは、恐ろしい告白だった。
そもそもタイランドに向かっていたアシュラルは、彼の王と同盟を結ぶために敵地にまで赴いたのだ。
それが、アザル子爵とフォード公、さらにはウラヌス国の裏切りにあい、奥州の南陽に足止めされている。南陽はタイランドとは目と鼻の先にある。もし……今、タイランドが南陽に兵を送ったら 。
いくらアシュラルでも、ひとたまりもない。
「あ……」
アシュラル……。
よろめいたあさとを、慌てた態で、サジが支えた。
「嘘を申すと許さぬぞ、ルシエ!」
厳しい口調で、サジは言った。「ジュール様が、今、クトゥク王に援軍の要請をしておられる。クトゥク王は、アシュラル様を助けるために兵を出されると約束された」
「嘘です。それが父の罠なのでございます!」
ルシエは、凛とした声を高くした。
「我がフォード家が、代々無類の戦上手で知られているのはご存知でございましょう。何もそれは、武の力ではございません。諜報……裏切り、父は闘わずして、戦の勝敗を決める術に長けているのです」
「知っている」苦々しくサジが答える。「ゆえに、我々は、フォード公の娘である、そなたを信じるわけにはいかないのだ」
「私の命で、信頼が得られるのならば、どうぞ、その剣で私を罰して下さいませ」
毅然と言い放つ、ルシエの顔色は変わらなかった。
さしものサジも、うっと黙る。
「陛下」
ルシエは、あさとに向き直った。
「父は、法王家への敵愾心で、頭がおかしくなってしまったのやもしれません。どのような汚い手段を用いても、アシュラル様の御命を断つまでは、戦いの手を緩めはしないでしょう。父は間違っております。どうか父を、シーニュの天罰から御救いくださいませ……!」
そのまま感極まってよろめくように、ルシエはばったりと前のめりに倒れる。あさとは周囲の制止を振り切り、駆けよってその痩せこけた肩を抱き起こした。
「陛下……」
ひし、とルシエがしがみついてくる。
「教えて、ルシエ」
暗い眩暈を堪えながら、あさとは訊いた。「私に、何ができるの。アシュラルを助けるために、何をしたらいいの」
「陛下、その者の言葉を信じてはなりません!」
「黙って、サジ」
あさとは鋭く遮った。
このままでは、アシュラルは南陽を脱することができない。間違いなく、その先には死が待っている。なんでもするつもりだった。アシュラルの命を助けられるなら。
「ナイリュから、再三使者がイヌルダを訪れていると聞いています」
ルシエは、控え目な口調で続けた。
ナイリュから……?
あさとは、眉をひそめて傍らのサジを見上げる。
「父はむろん、ナイリュの三鷹家とも、同盟を結ぶべく謀っております。が、三鷹家は、容易に動かず……それは、国王三鷹ミシェル様が、頑迷にイヌルダとの同盟に拘っておられるからだとお聞きしております」
ユーリ……。
暗闇の中に、一筋の光を見た気持だった。
ユーリ……やはり、ユーリは、昔と変わってはいなかった。未だ逢うことは叶わないけれど、遠い地で、きっと、別れたクシュリナのことを案じているに違いない。
「ナイリュを信じよと申すのか」
サジの声は苦々しかった。「彼の国は、未だ、法王に援軍を出さず、陛下に拝謁さえしていない。かような国の王が信じられると思っているのか」
「三鷹ミシェル様が兵をお出しになられないのは、イヌルダとの同盟に疑念を唱える重臣たちがいるからなのです!」
激しい口調で、ルシエはサジを遮った。
「彼の国との約束を、アシュラル様は反古にされたままにございます。陛下、陛下自らナイリュにおいでになられれば、三鷹様は、必ず兵をお出しになられましょう」
「馬鹿なことを申すな!」
サジが、たまりかねたように怒声をあげる。「もうよい、これ以上は聞くに及ばぬ。誰か、ルシエを連れて行け!」
「サジ!」
遮ったのはあさとだった。何もかもが、初耳だった。知らなかった。ナイリュから、ユーリから、そのような使者が届いていたなんて。
「本当なの、三鷹家から、そのような申し出が届いているの?」
返事を聞くまでもない。むぅ、と黙る男の横顔が、全ての真実を物語っている。
「どうして私に言わないの?」
怒りを堪え、あさとはサジを睨みつけた。「どうしてそんな大切なことを、今まで私に隠していたの?」
「判断を下したのは貴族院です。私にはその権限はございません」
苦しい口調で、サジが答える。
「では、私からジョーニアス卿に確認するわ。それから、ルシエを罪人扱いすることは許しません」
「陛下」
か細い、けれど毅然とした声をあげたのは、引きずられるように腕を引かれたルシエだった。
「もうよいのです。私の役目は終わりました。陛下に、お伝えすべきことは、全て……」
「でも、ルシエ」
友人を引き止めようとしたあさとは、袖の中に違和感を覚え、ふと足を止めていた。
なに……?
ふくらんだ袖の内側に、小さな筒のようなものが転がる感触がある。
ルシエの目が、熱を帯びてあさとを見上げ、そして静かに下げられた。
「おわかりでございますか、陛下」
その意を解したあさとは、ざわめくような動悸を感じながら、袖を押さえた。
そうか、しがみつかれた時、ルシエが、何かをそっと滑らせたのだ……。
ルシエを信頼しているはずなのに、何故かその刹那言いようのない不安を感じ、あさとは眉をひそめていた。
11
「クシュリナ様、お手が汚れてしまいますよ」
「いいのよ」
ジャムカの声を笑顔で制し、あさとは、ウテナの白毛を、丁寧に水ですすいでやった。
公務の時間の合間を縫って、こうしてウテナの世話をすること、それが、今のあさとの大切な日課となっていた。
アシュラル、……きっと喜ぶわ。
無事に、ウテナに子供を産ませたい。アシュラルが帰ってくるのが先か、子供が産まれるのが先になるのか、それは判らないけれど。
いずれにしても、彼はとても喜ぶだろう。彼の反応、優しい笑顔が、すぐにでも想像できる。
ウテナは気持ち良さそうに鼻を鳴らし、機嫌良く主人に甘える。その眼が、どこか寂しそうに見えた。
「黒斗に会いたい?……早く帰ってくるといいわね」
大丈夫……私が、絶対に、アシュラルを助けるから。
ウテナに寄り添いながら、あさとは自分に言い聞かせた。
ナイリュに東下することを、あさとは正式に貴族院に申しいれた。
任期中の女皇が皇都を離れるなど前代未聞である。 当然、許可は難航しているだろう。が、ルシエの言葉が本当だと言うことは、一向に法王軍の援護に向かわないタイランドの態度からも明らかなようだった。
あさとは、既に、賛成派の三笠ジョーニアスらと謀り、密かにナイリュに向かう準備を進めている。
もし、アシュラルが帰ってきたら……。
あさとは、ウテナのたてがみに頬を寄せた。
私も、子供が欲しいと、彼に頼もう。……なんか、微妙なお願いになるけど……本当に、私……。
あの人の、子供が欲しい。
あの闇の、光になりたい、安らぎになりたい。
彼がどうしても生きたいと願う、希望になりたい。
遠い南陽の城で篭城を続けているアシュラル。夜はちゃんと眠れているのだろうか、体調を崩したりはしていないのだろうか。
彼のことを考えると胸が痛む。苦しくてたまらなくなる。誰がなんと言おうと、アシュラルをあんな目にあわせてしまったのは私なのだ。
私さえ ダンロビンと結婚していれば。
想像しただけで身震いがするけれど、一月か二月、彼が他国の支援を取り付けるまでの……その時間を稼ぐ手助けができていたら。
そして ユーリの求めに応じ、ナイリュに嫁いでいたら。
アシュラルが、ああも無理な行軍を続けることもなかった。敵地を通る危険を推して、あえてタイランドを目指す必要もなかったのだ。
私のせいで……。
「ウテナ……」
しばらく無言のまま、あさとはウテナを抱きしめていた。主人の心を察したのか、ウテナは不安そうな声をあげる。
「 元気でね」
揺れる想いを振り切って、まだ名残惜しそうなウテナに別れを告げると、厩を後にした。
ルシエに渡された小さな木片の中には、幾重にも折りたたんだ紙が収められていた。あの夜、オルドに戻り、それを広げたあさとは愕然とした。
そして、はっきりと決意したのだった。
どんな手を使っても、ナイリュに行かなければならない。
自身の過去と対峙するために。アシュラルに あの人に、もう一度逢うために。
親愛なるお姉様へ。
突然の手紙に、驚きになられたと思います。
ルシエを、私の密使として送りました。お姉様の信頼が厚いルシエならば、あるいはお姉様のお傍に近づくこともできるのではないかと思い、危険を承知で私の手紙を託しました。
ルシエは、実の父親を裏切る覚悟で、法王軍の危機を伝えるために薫州を落ちたのです。
彼の者と私が邂逅を果たしたいきさつは後述いたします。まずは私に、お姉様に謝罪する機会をお与えください。
お姉様がお元気になられたとお聞きして、私がどれだけ歓喜したか 別れてからこのかた、後悔の涙を流さなかった夜がないことを、お姉様はお信じになってくださるでしょうか。
私は幼い頃から、お姉様に強い憧れを抱いておりました。けれど同時に、お母様から、お姉様にだけは決して負けてはならないと、厳しくいい含められて育ちました。
それゆえでしょうか。お姉様より美しくなければならない、お姉様がお持ちになっているものは、全部手に入れなければならない……いつしか、そんな風な、歪んだ敵愾心を抱くようになってしまったのです。
だから、アシュラル様も、お姉様から奪い取ってしまいたかった。それが正直な気持ちだったのかもしれません。
こうして一人になって 今、不思議なほど心が落ち着いています。
本当の私は、アシュラル様のことなど愛していなかったのかもしれない……、そんな風にさえ、今では思えてしまうのです。
最後のあの夜、私がお姉様に申し上げたことは、全て嘘です。
アシュラル様がそのような恐ろしい企みをなさるはずもなく……、全ては、ヴェルツ侯爵様がお企みになったこと。そして私は、お姉様からアシュラル様を奪いたい一心と、そしてこれから申し上げるのっぴきならない様々な事情から、ヴェルツ夫妻の罪に加担してしまったのでした。
いえ、それでも罪は罪です。本当は言い訳などしたくない……どのような理由があろうと、私のしたことは、決して許されることではございませんから。
けれど、今は、少しでも私のことを信じていただくために、 私ではなくお姉様のために、このような言い訳めいた手紙をしたためる無礼を、お許しいただければと思っています。
私が何をしたか、お姉様はもうご存じでしょう。
いつだったか、まだアシュラル様とご結婚する前のお姉様に、ひそかに蛇薬を渡したことがありましたね。まずは最初に、この件について真実を告白させてください。
あれは、ヴェルツの企んだ罠でした。
ヴェルツは、その時すでにお母様を毒殺することを決めており、その罪をお姉様にかぶせようとしていたのです。
もちろん、その時の私にはそんなことまで想像もできず……ただ、アシュラル様とお姉様の結婚を止めさせたい一心から、浅はかにも、ヴェルツの誘いに乗ってしまったのです。
後日、あの薬のために、お姉様は随分追い詰められ、お苦しみになられましたね。なのにお姉様は、一言も私のことを、お漏らしにはならなかった……。
当時から、ジュールはひそかに私のことを疑っていて、あれこれ私の身辺を探らせていたのです。お姉様が一言ジュールに訴えていれば、私はすぐにでも金羽宮を追放されていたでしょう。
あれほどお姉様を追い詰めた私なのに 今思っても、お姉様のお優しさには、胸がいっぱいになり、頭が下がる思いです。
なのに私は、どうしても幼い頃からの対抗心が捨てられず、その後も、アシュラル様をめぐって、お姉様と対立し続けていたのでした。
次に、ダンロビン様がおなくなりになった件について、です。
あの方は、私とお母様が蛇薬を用いていたことを知っていましたし、ご存じのとおり思慮の浅い男です。だから 私が口を封じたと、そんな風にアシュラル様が思われても仕方のないことだと思います。
なれど、それは悲しい誤解なのです。
私に、真偽のほどはわかりませんけれど、彼の人の命を奪ったのが、アシュラル様でなければ、それは、彼の両親である、ヴェルツ夫妻であったとしか言いようがございません。
というのも、あれだけ権勢を誇ったヴェルツがアシュラル様につけいられる隙を与えてしまったのは、全てダンロビン様の軽率さ、お考えのなさのせいだからです。
あの方が、ああもお姉様にこだわったりなさらなければ……いかなアシュラル様とて、金羽宮を奪うことは難しかったとは御思いになりませんか。
また、ダンロビン様が御命欲しさに何かを言うのではないかと、そういう意味で恐れていたのは、ヴェルツも同様でございました。
彼らが実の息子を密かに葬った可能性は、決して無ではないのです。
けれど私は 誤解なさらないでくださいね。決して、アシュラル様を悪く言う意図で、このようなことを申し上げているわけではないのですから。
私は やはりあれは、アシュラル様か、もしくはジュールがやらせたことだと思っております。
その理由は、手紙では申し上げることはできませんけれど、アシュラル様は お姉様が想像もできないほどの、ある重大な秘密を抱えていらっしゃるからです。
それは、彼の出自だとか身分だとか、そういった些細なことではないのです。
いってみれば、彼の立場を根底から覆すような何か 私には、それは、終末の予言書に関わることだとしか想像できませんけれど、おそらく、コンスタンティノ大僧正様とお父様、そしてディアス様であれば、ご存じのお話なのだったのではないか、と存じます。
ご存じのとおり、お父様はダンロビンの手によってあのような残酷な拷問を受け、廃人となりました。
つまり、蛇薬欲しさに、お父様がダンロビンに秘密を漏らした可能性も十分にあり……ゆえに、私は、アシュラル様がダンロビンを生かしておくはずがないと、ひそかに思っていたのです。
なれど、たとえそうであっても、お姉様もそうだと思いますが、私にも、アシュラル様をお恨み申し上げる気にはなれません。
ダンロビンはダーラを……お姉様の大切な人の子を宿していたダーラを……無残にも凌辱し、あのような恐ろしい目にあわせたのですから。
アシュラル様にもジュールにも、ダーラはとても大切な人でした。ダンロビンは天罰を受けたのです。私はそう思っております。
最後にもうひとつ、私がヴェルツ夫妻を匿い、逃がした件についてです。
確かに私は、アシュラル様からヴェルツを奪い、カナリーオルドに匿っていました。
けれどそれにも、卑怯なようですが、どうにもならない理由があったのです。
お姉様もご存じと思いますが、ヴェルツは奥州に沢山の味方がいます。コシラ軍の残党は、奥州だけでなく、甲州、青州、この皇都にもはいりこみ、虎視眈眈と、金羽宮の情勢をうかがっています。
私が自身の身を守るためには、ヴェルツ夫妻を私が庇護し、そして人質として盾にするほかなかったのです。もし金羽宮で彼ら夫妻が殺されたとなると、私とお母様の罪は白日のもとにさらされていたでしょう。
悪いことと知りつつ、アシュラル様をだますような形になったのは、そのような事情があったからなのです。
ヴェルツとエレオノラは、私が捕縛される気配を察すると同時に、カナリーオルドを逃げ出しました。
今、彼らがどこでどうしているか、私には全く判りません。
今、私は金羽宮での日々を心から悔いています。
けれど、どれだけ悔やんでも、失ったものは戻りません。毎日が辛くて、……悲しくて……涙が出ない日はないほどです。
私はあの日、折良く藍河に停留していた青州行きの船に同乗し、青州から密輸船を使ってナイリュに落ち延びることができました。
薫州から逃げたルシエと、偶然にも一緒になったのは、その時です。疲労がたたったルシエは、当時重い病で動くこともできなかったため、私がナイリュに連れて行きました。
ナイリュの三鷹ミシェル様が、鷹宮ユーリ様だというのは、もうご存知でいらっしゃいますよね。
ユーリ様が逐電された後、グレシャム公の遺体が彼の部屋から見つかったこともご存知でございましょう。
誤解をおそれずに言い訳する勝手をお許しください。あの件もまた、ヴェルツ公爵の陰謀なのです。
ヴェルツは、ユーリ様がナイリュの王位継承者であること知っていました。ユーリ様の弱みを握り、意のままに操れる傀儡としてナイリュへ送りこみ、いずれはナイリュと手を組んでイヌルダ皇室をのっとろうと企んでおられたのです。
私は、ヴェルツ公爵の裏をかいて、ユーリ様をお助けし、あの方が疑われるような痕跡を消してさしあげました。
それがもとで、アシュラル様やジュールは私をお疑いでしたけれど、お姉様だけは信じてくださると思います。シーニュにかけて……なにより、ユーリ様が一番よくご存じでいらっしゃるでしょう。グレシャム公を手にかけたのは、私がさせたことではないのです。
私はユーリ様に心惹かれていました。お姉様が殿方だったら、きっとあのようなお美しい方になるのでしょうね。ですから私、どうしてもあの方をお助けしたかったのです。
そのご縁で、今度はユーリ様が、私を助けてくださることになりました。
今、私は、ユーリ様……いえ、ミシェル様がお暮らしになる天摩宮の一角で、一間を借りて暮らしています。
ユーリ様は、お姉様が興しになられなかったことで、たいそう力をお落としでした。
けれど、今は、ご従姉妹にあたられる京極レイア様とご結婚され、ようやく落ち着かれたご様子です。レイア様におかれましては先日ご懐妊が公表されました。
ユーリ様もお幸せに生活しておいでです。
イヌルダの内戦の様子は、私の耳にも入ってきています。
アシュラル様が奥洲南陽に足留めになり、苦戦なさっているとお聞きしました。食料も尽き、時間を追うごとに敗色の色が濃くなっていると聞いています。
私は何度もユーリ様に、アシュラル様をお助けくださるよう、お願いにあがりました。
イヌルダとの同盟については、大臣諸侯が難色を示されているのはもちろんですが、肝心のユーリ様が、アシュラル様に対して、どこかわだかまりを持っておられるようで、なかなか思いきりがつかないようなのです。
彼は、お姉様と約束されたことを……そして、その約束をお姉様が反古にされたことを……心のどこかで寂しく思っておいでになるのでしょう。
お姉様、なにとぞ手をつくされて、ナイリュへいらっしゃることはできないでしょうか。
ユーリ様のお心を動かせるよう、微力ながら私も説得に努めておりますけれど、あの方の寂しい心の底には、お姉様に信頼されていない……裏切られた……その思いが拭っても拭っても浮き出す沁みのように、深く根付いておいでで、私の力ではどうしようもないのです。
お姉様が、心よりあの方を信頼しているという証さえ御示しになられれば、ユーリ様は、明日にでも援軍を南陽に向けて送り出されるでしょう。
お姉様とユーリ様が和解されれば、イヌルダとナイリュ。二つの同盟国が誕生いたします。
そうなれば、シュミラクールは安泰、イヌルダの内戦もすぐに収束に向うでしょう。
いいえ、綺麗事を抜きにして申し上げます。私はもう一度……どうしてももう一度、お姉様にお会いしたいのです。直接会ってお詫びしたいのです。
どうか、あなたを敬愛する妹に、謝罪する機会をお与え下さいませ。
愛をこめて サランナより。
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