アシュラルのいない金羽宮の日々は、穏やかに過ぎて行った。遠い地で、未だに激戦が繰り広げられていることが信じられないほど、日々の暮らしはいつも通りだった。
 あさとは療養院の手伝いと、そして他の地域に同様の施設を作るための準備に追われ、日々忙しく立ち働いていた。
 自分を忙しく追いこむことで、ともすれば迷いの穴に陥りそうになるのを、厳しく律し続けていたのかもしれない。
     私は今、法王アシュラルの妻なのだから。
 琥珀を思い出しそうになる度に、何度も自分に言い聞かせた。もう二度と、迷うことのないように。
「少し、ウテナの様子がおかしいのだけど」
 その日、厩で、いつものようにウテナの毛並を手入れしながら、あさとはふと口にしていた。
 心なしか愛馬の動きが鈍い、全体的に、疲労した感じがする。
「さすがクシュリナ様、鋭くていらっしゃいます」
 その言葉を聞きつけたのか、ジャムカは、楽しそうな笑顔を見せた。
「ウテナは子を宿しているのです、女皇陛下」
「まぁ」
 さすがに驚いて、たてがみをくしけずる手を止めている。
「管理が行き届かない点、お許しください。けれど父親は間違いなく、アシュラル様の黒斗だと思います」
     ……そうなんだ。
 目が覚めるような思いで、あさとはウテナの澄んだ瞳を見つめた。
「両親ともに美しい血統に恵まれて、一体どのような名馬がお生まれになられるのか、……今から楽しみでなりません」
 ジャムカは本当に楽しみでならないといった風に、眼を細めてウテナを見守る。
「お前……母親になるのね」
 あさとは、愛馬の首筋を優しく撫でた。
 どんな気分なのだろう。子を宿し、母になるというのは。
「先を越されてしまったのね、私」
 うらやましい気もするし、そのくせ怖い気持ちもする。
 あさとは自分の、平らにそげた腹部を見つめた。    私も、いつかは……。
 あの人の子供を産む時が来るのだろうか。アシュラルの、血を引く子供を。
 それは、夢のように幸福な想像だった。好きな人の子供を宿し、産み、慈しんで育てる。
 父親になったアシュラルは、どんな目で我が子を抱き、愛するのだろうか。
     ダーラも……。
 幸せな夢想は、現実を思い、ふと翳った。
 ダーラがどれだけ子供を産みたかったか、ようやくあさとにも判った気がした。
 どれだけ    口惜しかっただろう。どれだけ死にたくなかっただろう。それなのに……それなのに、彼女は。
「クシュリナ」
 厩を出たところで、背中から声をかけられ、あさとは少し驚いて顔を上げた。
「カヤノ……?」
 振り返るとカヤノがそこに立っていた。まだ外出用のケープを肩に羽織っている。彼女は今朝から、ディアスの看病のために、カタリナ修道院へ行っていたはずだった。
 その顔色が、ひどく悪い。
    どうしたの?」
 あさとは眉をひそめた。まさか、ディアス様の身に、何かあったのだろうか。
 千賀屋ディアス。
 カヤノの父で、カタリナ修道院の院長。神託    天の<声>を聞くことが出来る男。
「お父様なら大丈夫、……今日も、一度もお目覚めにならなかったけれど」
 カヤノは、青白い顔色のままで肩をすくめた。
 ディアスは、病に倒れた日から、一日の大半を眠り続けているという。ロイドに聞いた話では、大抵の<黒血病>患者は、一旦眠ると容易に眼を覚まさず、昏々と眠り続けるらしい。
 だから未だ、あさとはディアスと会えないでいる。
「……そんなことより、あんたに話があるの」
 うつむいたままで、カヤノは言った。
「どうせジュールに聞いても、まともに答えてはくれないもの。……こんなことあんたに聞くの、よくないって判ってるんだけど」
 わずかに逡巡する気配を見せて、カヤノはようやく顔を上げた。
「ラッセルは本当に死んだの?」
     え……?
 一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。
「あなたは、彼の臨終に立ち会ったんでしょう? お願い、本当のことを言って、彼は本当は」
 カヤノの眼が燃えている。
「本当は、生きているんじゃないの?」
     何……。
 あさとは二、三歩後ずさった。カヤノの剣幕に圧倒されていた。でも。
「何言ってるの……そんなこと、あるわけないじゃない」
 あの時。   
 あさとは、唇を噛んでうつむいた。
 あまりにも悲しい思い出、それが喉元まで溢れ出す。
「ラッセルは、確かに死んだわ、……呼吸も止まって……心臓も…」
 鼓動の音さえ聞こえなくなった。あさとの腕の中で、静かな、……まるで眠るような死に顔だった。
 泣いてすがるあさとを、駆け付けたジュールが無理に引き離した。
 その脇をすり抜けるようにして、ラッセルの傍に駆け寄ったのは    ひどく背が高くて、形良い背中の    そう、アシュラルだった。あの時のあさとには、それをアシュラルと認識して、何かを考える余裕さえなかったのだ。
 それから後の記憶は、ラッセルの死という衝撃が強すぎて、殆んど曖昧にしか残っていない。
 アシュラルはラッセルの身体を横たえ、瞳を開き、口元に指を当て、心音を確認しているようだった。
    ジュール!)
 アシュラルが呼ぶ声。駆けていくジュール。
 背中を向けたままの大きな肩が、細かく震えている。
    ダーラの傍に埋めてやりましょう……)
 悲痛に満ちた声。
 あさとが見ることができたのは、そこまでだった。
 ほとんどまともに立てなかったあさとは、そのまま別の誰かに抱き支えられるようにして、馬車に押し込まれ、バスティーユ城へ連れ戻された。
 曖昧にして鮮烈な記憶の欠片。けれどひとつ、はっきりしていることがある。    ラッセルは、確かに息を引き取ったのだ。
「彼は間違いなく死んだわ、……私はあの後、彼の遺体が、カタリナへ運ばれたとばかり思っていたけれど」
 あさとの話を聞き終えたカヤノは、怖い顔で黙り込んだ。
「カヤノは……ラッセルを見ていないの?」
 堪りかねてあさとは聞いた。
「……私は、バスティーユで待機していたのよ。    昼になって、彼が死んだと聞かされるまで、私はそのまま、馬鹿みたいに城で待たされてた。……戻ってみたら、もう埋葬は済んでいて……」
「お葬式は   
 と、言いかけてあさとは口をつぐんだ。
 ここでは、高貴な身分の者にしか葬儀の習慣がない。腐敗を防ぐため、すぐに火葬か土葬にしてしまうのだ。
 カヤノの眼は、もうあさとを見てはいない。どこか遠くを見据えている。
「クシュリナ……私、金羽宮を降りるわ」
「カヤノ」
「……あなたを惑わせることになるかしら? でも私、今日修道院に来た客人に聞いてしまったの、青州から来たという旅の男に」
     何を……?
 カヤノが次に言う言葉が恐ろしかった。
 カヤノは、あさとから眼を逸らした。
「ラッセルを……いえ、アシュラルにとてもよく似た男を、ナイリュの港町で見たと」
 
 
                  
 
 
 カヤノと別れた後、自分がどうやってオルドに辿りついたのか、あさとには判らなかった。
 まさか、と思った。
 ラッセルは確かに死んだのだ。それだけは間違いない。他人の空似か見間違いか、いずれにしてもあり得ない、あり得るはずがない。
 そう思う一方で、    ナイリュにいたというその男が、もしかして琥珀ではないかという期待の気持ちが、胸を奥底から震わせている。
 アシュラルに似た男    つまりそれは、琥珀に似た男ということなのだ。
 部屋の扉が、慌しく叩かれた。
「クシュリナ様」
 扉が開いて、現れたのは、黒竜隊士の隊服に身を包んだジュールだった。
 岩にも似た大柄な男は、あさとを確認して、わずかにほっとしたように見える。
「今日、私も黒竜(ドゴン)隊を率いて奥州に赴くことになりましたので、その、ご挨拶に参りました」
 言葉は穏やかだったが、どこか無理に作ったような無表情な眼差しに、普段の彼とは違う違和感がある。
 何か、異変があったのだ、とすぐに察せられた。
「アシュラルに何があったの?」
 恋する者の直感が、夫の危機を敏感に感じ取っていた。ジュールは、今まで何があっても、いったん留守を任された以上、アシュラルを追って戦地へ赴くことだけはしなかったからだ。
「何かあったのね、ジュール」
 ジュールは眉をしかめ、軽く唇を噛む。
「……いずれ、お耳にも入ろうかと存じます」
 あさとは心臓が高鳴るのを感じた。ジュールの、次の言葉を待つわずかな間で、息が止まってしまいそうに思えた。
「薫州公が休戦の盟約を破り、同時にウラヌス軍が寝返りました。丁度、奥州南陽を行軍しておられる際のこと、アシュラル様の軍隊は灰狼(アッシュウルフ)軍に退路を断たれ、今、州境のダルマティア城で、籠城戦をなさっておいでです」
「………」
「四方をウラヌスと薫州の軍勢に囲まれ……、ヴェルツ一派の残党もそれに加勢しています。あまり、戦況は芳しいとは言えません」
 あさとは咄嗟に立ち上がっていた。
「私も連れて行って!」
「馬鹿な」
「ここで、ただ待つなんてできない、私も彼のために何かしたい」
「なりません、今、あなた様に万一のことがありでもしたら」
 ジュールは厳しい目の色で言った。
「それこそ、アシュラル様の手足に枷がつけられることになる。よろしいですか、私が留守の間は、決してこの城から外へ出ないと、お誓い下さい」
「あなたが行けば、彼は助かるのね?」
「………」
 ジュールはそれには答えなかった。
 それは、絶望的な結末を、彼自身がある程度予測していることを意味している。
「……ジュール」
 眩暈を感じ、あさとは卓に手をついて自身を支えた。「お願い、あの人を……助けて」
 サランナはなんと言っていただろう。
 ウラヌスもタイランドも、まだはっきりと味方についたわけではない。私が……全てを台無しにすることもできるのよ。
 そう言ってはいなかったろうか。
 だとすれば、あの夜、アシュラルの手を解いてサランナの手を取ってしまった私のせいで    いや、それより何より、アシュラルの進退を迷わせてしまった私のせいで……。
 沈鬱な表情のまま、ジュールは自らの懐に手を差し入れた。
「これを」
 卓上の上に置かれたのは、細身の短剣だった。シンプルな銀製で、表面にはなんの飾りもない。
 手に取ると、驚くほど軽かった。新しいものではない、綺麗に磨きこまれているが、どことなく使いこまれた重みのようなものが感じられる。
「アシュラル様が……出立の朝、私にお預けになられたものです。あなた様に渡すようにと」
「…………」
 そういえば、以前もらった宝剣はアシュラルに返したままにになっている。
 あさとは黙って、鈍い光を放っている剣を見つめた。
 出立の朝……。私が……部屋に引きこもって顔さえ出さなかった別れの朝……。
 よく見れば、その表面には薄っすらと文様が刻まれている。
     桜……? あさとは消えかけた模様を指でなぞった。
月白桜(コライユ)……アシュラル様のご生家の家紋にございます」
「…………」
「亡くなられたお母上より、賜わられたもの。これは、あの方が今まで、肌身離さずお持ちになっておられたものなのです」
 ジュールの言葉の意味が、あさとにも苦しいほどによく判った。
 この剣が、アシュラルにとって、どれだけ深い意味を持つのかも。   
「もっと早くお渡しすべきでした……。何かこれが、アシュラル様の御遺言のような、そんな不吉な予感がしたものですから」
「馬鹿なことを言わないで」
 初めて弱気な言葉を吐くジュールを、あさとは厳しく叱責した。
 本当は、ジュールがそう言ってくれなかったら、あさと自身が泣いていたかもしれなかった。
「アシュラルは大丈夫よ。彼がこんなところで終わるはずがない。……死ぬはずがないもの」
「……あと、少しで…」
 ジュールはうつむき、歯ぎしりでもするような声を出した。
「あと少しの時間があれば、この世界の戦術を根本から覆せる新型の兵器が完成していたのです。アシュラル様は何年も前からこの状況を見越し、ずっと戦術の構想を練られていました。ただ……遅すぎた。全てを準備するには、時間がかかりすぎた」
 あさとはジュールを見つめた。口髭に隠された男の苦悩と口惜しさが、痛いほどに伝わってきた。同時に、思い知らされずにはいられなかった。アシュラルは……今、本当に生死の境のぎりぎりの場に立たされているのだ。
 ジュールの絶望は、同時に夫の絶望でもあった。
「私が……」
 あさとは、悄然と呟いた。
 ジュールが以前言っていた言葉が、鋭い刃のように、再び胸を刺し貫く。
 私が、アシュラルの進退を誤らせている……。
「私のせいね、ジュール」
「クシュリナ様」
 ジュールが、驚いたように顔をあげる。
「サランナの件では、私があの人の足を引っ張ってしまったから。いえ、そもそも私が、ダンロビンと結婚さえしていれば」
「それは違います」
 きっぱりと、力強い声で遮られる。
「あなた様は余計な心配をなさってはいけない。どうか私に代り、この金羽宮と皇都をお守りください。今宵は、それを申し上げきたのです」
 ジュールはそう言うと、深く沈んだ眼であさとを見つめた。
「……希望を捨ててはなりません、何があっても、自らお命を絶たれるような真似だけはなさりませんよう。あなたにとっては、生きていることそれ自体が、ご自身の義務なのだと知ってください」
「………」
「そのために、ラッセルもダーラも命を捨てた。今では私も信じています。あなたはかけがえのないユリウスの乙女、この世界の希望の全てなのですから」
  
  
                   
  
  
 ジュールがいなくなって数日経った頃から、金羽宮に、敗走した法王騎士たちが続々と戻り始めるようになった。
 生存者の口から報告される戦場の様子から、あさとにも、ようやく詳しい事情が判ってきた。
 皇都を出たアシュラルは、タイランドと同盟を結ぶために、同国に一番近い港がある奥州南陽に向っていたのだ。
 南陽領主アゼル子爵は、薬師寺家没落後、いち早く法王軍に寝返り、薫州攻めにも力を貸した人物である。
 今回のタイランド行きにも、アゼル子爵が州境まで出迎え、彼らの助けを得て、法王軍は危険な領内に足を踏み入れた。
 そして、    行軍の途中、それは南陽の只中だった。前方に薫州灰狼軍が現れ、同時に背後のアゼル軍が怒涛のごとく襲いかかってきたのだ。
「あの時の法王様の恐ろしさは、今思い返しても背筋が凍るようでございます」
 戦況を伝えた騎士は、そう言って身震いした。
「普通であれば、そのまま後退する場面でございました。けれど後退すれば、おそらく全軍は壊滅していたことでしょう。……ウラヌス軍が薫州公と示し合わせ、あらかじめ退路に潜んでいたのです」
     アシュラルは……。
「まさに鬼神の勢いで、法王軍は、向かう灰狼軍の正面に斬り込んで参りました。法王自ら敵の首を薙ぎ払い、敵陣深くまで討ち入って、そのまま、南陽の城ひとつを落としたのでございます。黒斗共々髪の先まで血の雫を浴びながら、眉ひとすじ動かさず、まるで天魔のごとくでございました」
 あさとは眼を閉じた。
 アシュラルは    あの人は、生来の破壊魔なのだ。
 天が彼に、この世界での役割を与えたのだとしたら、それはまさに闇を破壊することにあるのだろう。
 その先は……果たしてその先が、彼の未来にあるのだろうか。
 あさとは、こみあげてくる不安に立っていられなくなった。眩暈すら感じていた。
「アシュラル様はそのまま、南陽の城で籠城戦を続けておいでです」
 報告の騎士は続けた。
「青州鷹宮家の援軍がすぐに南陽に入りましたが、当地で灰狼軍と睨み合ったまま、引くことも進むこともできずに膠着しておいでです……。今は、ジュール様が活路を開かれるのを、ただ祈るばかり」
 状況が極めて悪いということは、説明されるまでもなく想像がついた。
 そもそもアシュラルにとっては敵地である奥州で、フォード公、ウラヌスと立て続けに裏切られ、青州からの援軍も断ち切られた。
 あさとが聞く限り、ナイリュやゼウスといった同盟国が動く気配はなく、こたびの遠征で同盟を結ぶはずだったタイランドも、どうやら静観を決め込んでいるらしい。
 それどころか法王軍が不利とみれば、これまで味方についてきた諸侯たちも簡単に寝返るだろう。
     アシュラル……。
 怖かった。
 全ては、彼の言う通りになってしまっている。
(……信じたところで、裏切られる。)
(人間とは、そういうものだ。)
 彼の心は、これでますます閉ざされてしまったに違いない。いや、もともと、あさとの言葉は、彼には必要なかったのだ。
 言葉も心も通じない世界で、アシュラルはただ……戦い続けているのだ。一人きりで、目の前の闇だけを見つめて。
 許されるものなら、今すぐ、彼のもとに行ってあげたかった。
 彼の心を……癒してあげたかった。たとえ、何をしにきたと罵倒されても。それでも。
「クシュリナ様」
 扉が叩かれ、ジュールの出立後、新しくクシュリナの傍につくようになったセルジエが顔を覗かせた。
 十八歳になったばかりの青年は、先月から文官として金羽宮にあがったばかりである。
 今回、カヤノの代わりに、ジュールが指名し、わざわざ文官職を辞させてフラウオルドに呼び寄せた。あさとの身の回りの世話はルナに任せているが、まだ幼いルナに全てを預けるのは心もとないと思ったのだろう。
「武官長のサジ様が、至急陛下においでいただけないかと」
 切りそろえた前髪がどこか初々しい青年は、そう言って恭しく頭を下げた。
「何か、あったの?」
「……投降した捕虜のことで、ご相談があるとのことでございます」
     捕虜……?
 即位して以来、ずっと戦争が続いているが、そんなことで、武官から呼ばれたのは初めてだ。
 が、むろん否やがあるはずもなく、あさとは公式の衣装に着替えると、セルジエについてフラウオルドを出た。
「セルジエ、カヤノのこと……何か聞いていない?」
「申し訳ございませんが、私は何も」
 本当に申し訳なさそうに、生真面目な青年は答えた。
「皇都を出られ、無事に青州に着いたとのご連絡はあったそうです。……北部の戦況は割合落ち着いております。ご心配なされることはないでしょう」
     カヤノ……。
 カヤノのことも、また、あさとの不安のひとつだった。
 あさとに「金羽宮を降りるわ」と言った翌日から、本当にカヤノは姿を消してしまった。
 今、女一人で国境を超えるのは非常に危険だ。彼女が向かうであろうナイリュは、三鷹家の勢力下にあり……同盟を結んだとはいえ、イヌルダにとっては未だ得体のしれない存在である。
 そして    もう一人。
「ロイドの行方も、まだ判らないのね」
 視線を下げたまま、セルジエの答えはなかった。
 急変を告げる皇都で、あさとの前からいなくなったのは、カヤノだけではない。皇立療養院の若き院長、滝沢ロイドもまた、姿を消してしまった一人である。
 後任の医術師も用意し、事後の始末を完ぺきに済ませての出奔だったそうだが、あさとにはむろん、療養院の同僚らにも一言もつげず、    ある朝いきなり自室から消えてしまった。
 理由は誰も知らない。あさとも、セルジエを使って調べさせているが、芳しい情報はひとつも入ってこない。そもそもロイドとはどういう素性の持ち主だったのか    ディアスの推薦で療養院に入ったということだが、それ以前の話になると、誰も詳しいことは知らないらしい。
 人の運命とは本当に判らない。    あさとは改めて実感していた。
 あれほど傍にいて、ずっと一緒だと信じていた人たちの絆。それはなんと儚く、もろいものだったのだろうか。
     私は何故……。
 朝、一人で目を覚ますたびに、後悔で胸がつまった。
 彼が残してくれた銀の刀剣を見る度に、愛しさで涙が溢れた。
 私は何故、あの朝、アシュラルを一人で行かせてしまったのだろうか。
 もう一度会えるのなら、千語を尽くしても、万語を尽くしても、彼に私の心を伝えたい。あなたが好きだと。今の私には、もう、あなたしかいないのだと。
 アシュラルの中の小田切が覚醒したら    そう思うと今でも怖い、正直に言えば自信はない。
 一方で、カヤノが追っていったナイリュの男のことが、気にならないと言えば嘘になる。
 けれど、それが例え、あり得ないことだけれど、万が一ラッセルであったとしても、……琥珀であったとしても。
 追っていったのはカヤノで、アシュラルを待つと決めたのはあさとなのだ。
 ここ数日の懊悩の、それが全ての答えだと思った。
 
 
 

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