5
こんなに……この人のことが好きなのに。
鬱蒼とした木々に囲まれ、昼間でも薄暗いシーニュの森。
前を行くアシュラルの背を目で追いながら、あさとは、今朝感じた迷いのような感情の意味を考えていた。
私の心には、まだ琥珀が残っていて、それを……多分、無意識にアシュラルに求めているんだろう。
だとしたら、それはひどく残酷で、卑怯な感情のような気がする。
もしアシュラルが、琥珀の顔を持っていなかったら? そうしたら私は、果たして彼にこうも心を奪われていただろうか。
なのに今は、むしろアシュラルが琥珀ではない別の誰かの顔であればいいとさえ思っている。彼の顔を見る度に、声を聞くたびに、忘れようとしても……どうしても思い出してしまうから。
アシュラルがわずかに黒斗の速度を緩め、あさとに合わせるように横に並ぶ。
髪が風に踊っている。手綱を操る見事な手さばき。 多分、何をやっても絵になる人。琥珀と同じ眼差しを持つ人。
それでも、 この人は、ここにいるこの人でしかない、決して琥珀じゃ……ないんだ。
もう、彼に琥珀の影を追うのはやめよう。
あさとは、静かに自分に言い聞かせた。
たとえこの人が琥珀の生まれ変わりであっても、そうでなくても。
朝のような迷いを、二度とこの人の前で見せてはいけない 。
「ここだ」
わずか先で、黒斗を止めたアシュラルが呟いた。
あさともウテナを止め、先に馬を降りたアシュラルに助けられて、地面に降りる。
二人の前に、みあげるほど巨大な大樹がそびえている。樹齢はとうに千年を超え 世界の始まりからこの場所にあったという シニフィアンの樹。
それは、あさとの夢のままの光景だった。幹の大きさも、広がった枝も……風に揺れる葉の色さえも。
いや、あれは夢ではなかった。
ここで、私は本当に……。
言葉に詰まったまま、あさとは傍らのアシュラルを見上げた。
「どうして、こんなに簡単に行けちゃうわけ?」
「樹は人を選ぶという……不思議と、俺は一度も、この樹に疎まれたことはない」
アシュラルはわずかに笑った。
「知っているか? 闘神クインティリスは、シーニュの恋人だったそうだぞ」
「えっ、そうなの?」
「そんな昔語りを聞いたことがある……ま、作り話だろうがな」
言いさしてアシュラルは、樹を見上げる。
「法王庁では、ここは世界の果てと呼ばれている。シーニュが生まれ、そして消えた場所だ。この世界と天界を結んでいるとも言われている」
世界の……果て。
あさとの記憶に、緩やかに父の微笑が浮かび、そして消えた。
そうだ。父も……確かにそう言っていた。「世界の果てだよ」
幼い私はそれが怖くて……なんだか、ここが、この世の終わりの場所のような気がして……。
今もあさとは、不思議な怖さを感じ、思わずアシュラルの手を握りしめている。
昔……この樹が……連れて行こうとしていた男の人 。
「私、ね」
「ん?」
差しこんだ夕陽が、ゆるやかに彼の横顔を照らしていた。 懐かしいものでも見るような眼で、アシュラルは生い茂る大樹を見上げたままでいる。
「私、すっごい子供の頃、ここで、あなたと出会った夢を見たの」
思い切って、あさとは言った。
「俺と?」
案の定、驚いた眼で見下ろされる。
「うん」
あれは……夢ではなく、現実だったのかもしれないけど。
落ちていた刀剣に刻まれていた白桔梗の文様 あれはルグレー、コンスタンティノ家の紋章である。当時のあさとは、まだコンスタンティノ家の存在さえ明確に知らなかった。
あさとは、大樹の梢に、そっと手を当てた。
「この木の下で、死んだように眠っている男の子を見たの……。すごく綺麗な男の子だった、私はその子が死んでいるんじゃないかと思って……傍に近づいて」
確か、叫んだ。 行かないで、戻ってきて、と。
「そうしたらね、その子、ふっと目を開けたの」
アシュラルは黙っている。
恥ずかしくなって、さすがにそれ以上は言えなかった。
樹から手を離し、振り返ったあさとはアシュラルを見上げた。
「私が隠れた後、沢山の人がその子のことを探しにきたの。で、みんなが……その子のことを」
まだ、アシュラルのことなど知らなかったし、知らされてもいなかった。
「アシュラル様って、呼んでたの」
これが……これを、運命というのなら。
「クシュリナ……」
見下ろす彼の目が優しい。優しくて、そして……寂しい。
あさとは急に不安になった。
昨日もそうだった。再会した時、駆け寄った時、彼の眼差しは嬉しいというよりは寂し気に見えた。
「……俺は、子供の頃、よくここまで遠乗りに出かけた」
懐かしげにそう言って、アシュラルは視線を、枝がからまる高みに転じた。
「 俺は覚えていない。でも、それは……夢ではないのかもしれない。そうやって、もし出会っていたとしたら」
その続きを、彼は口にはしなかった。
きっと、私と同じことを考えている。あさとはそう思いたかった。これが、二人の運命なのだと。
不意にアシュラルは振り向き、腕を伸ばした。
抱き寄せられて、柔らかく唇が塞がれる。優しい口接けが、ゆっくりと、心を溶かすようにしばらく続いた。
「アシュラル……」
「黙っていろ」
やがて立っていられなくなって、気がつけば、彼の腕にすがるようにして、横抱きにされている。
そのまま膝をついたアシュラルは、樹に背を預けるようにしてあさとを支え、深く、情熱的なキスを続けた。
「あ……、アシュラル」
苦しさというより、切なさから、あさとは首をよじって逃げた。
彼の熱から逃げられない。このまま、深いところまで流されてしまうような気がする。
「だめ、お願い」
「何故だ」
「だ、だって、そんな」
「何を心配している。俺がそんな獣だと思うのか」
口元に浮かぶ微笑は、まるで、あさとの心の揺れを知って、楽しんでいるようにも見える。
けれど、アシュラルは素直に唇を離すと、その代わりに強い力であさとを抱きすくめた。
そのまま……何も言わない。
「どうしたの……?」
やっぱり、今日のアシュラルはどこかおかしい。
まだ、昼間のことを引きずっているのだろうか。それとも、今朝、私が……ひどく拒絶したから。
「俺は、子供だな」
髪に頬を埋めたまま、アシュラルは呟いた。
「お前の全部に嫉妬している。正直に言えば、心の中で、何度ダンロビンや鷹宮ユーリを殺していたか判らない」
「もう……」
あさとは笑おうとした。けれど、次の言葉が、口元を凍りつかせた。
「お前は、俺が足に触れるのを嫌う」
「………」
やはり、彼は気づいていたのだ。アシュラルと結ばれた最初の夜も、二度めの夜も、あさとは彼の指や唇が右足に触れる度に、全身を強張らせて、それを拒否した。
その時は、自分でも無意識で、どうしてなのか判らなかった でも、全てが終わってから気がついた。
足首に押し当てられた冷たい唇 あの冬の海。琥珀の、キス 。
あさとは震える瞼を閉じた。アシュラルになんと言っていいのか判らなかった。
「俺の知らない、お前の過去にも嫉妬している……」
アシュラル……。
ごめん、ごめんね。今はまだ、あなたに全てを話せるほど、心の整理がついていない。でも、いつか、琥珀のことも、ラッセルのことも……全部あなたに……。
話せる日が、……話さないといけない日が……来るのだろうか。
自信がなくなり、あさとは開きかけた口をつぐんだ。黙ったまま、涙が滲みそうになるのに堪えた。
こんなに……。
「クシュリナ?」
こんなに、……好きなのに。
アシュラルの胸に顔を寄せて、あさとは眼を閉じた。
暖かい胸、心臓の音、こうしていると本当に落ち着く。ここが、間違いなく自分の居場所なのだ心からと思う。この人に逢うために、私は産まれてきたのだと。
「きれいな髪だな……」
「………」
「お前の髪は好きだ……絶対に切るなよ、全部俺のものだから……」
「……うん…」
子供のような独占欲。可笑しくて、そして愛しかった。それをどう、口で表していいのか判らないほどに。
そのまま、しばらく静かに髪を撫でていたアシュラルが、不意に呟いた。
「……今朝、久しぶりに夢を見たんだ」
「夢……?」
「ひどく幸せで……それなのに哀しい。子供の頃から同じような夢ばかり見ている。……だからかな、昔から、楽しい時にきまって寂しくなる癖がある。どんな幸福も次の瞬間終わることを、俺は知っている。 ダーラの話をしてもいいか」
「………」
「嫌ならしない」
「聞かせて」
あさとは眼を閉じたまま、そう答えた。
一瞬ゆらぐように感じた身勝手な嫉妬。自分自身は、彼の腕で琥珀を無意識に思い出していたくせに。 。
アシュラルは、腕に抱く女の心を察したのか、頬に軽く唇を寄せた。
「彼女が俺を好きだと言ってくれたとき、嬉しいと言うより、不安だった。……怖かった。どれだけ好きと言われても、……いずれ彼女を失うことが、ずっと前から判っていたような気がしたから」
「……どうしてなの?」
「 わからない」
アシュラルは低く呟き、首を横に振った。
「でも、その通りになってしまった。……最後にはお互いを傷つけあい、俺たちは別れた。どうしようもなかった。判っていても 夢と同じことを繰り返している」
「夢?」
「そう 夢だ」
淡い日差しは、彼の輪郭を浮き立たせ、黒髪に煌いた。
「そして俺は、今も不安に思っている」
「………」
「お前を、失うことばかり考えている」
「何言って……」
あさとは言葉を詰まらせた。
昨日から不思議だった彼の表情の正体が、ようやくわかったような気がした。
どう言えば伝わるのだろう。安心して ? ずっと好きだから? 私は変わらないから?
違う。人の気持ちに永遠はない。アシュラルの寂しさがあさとには判った。
昨夜、あれだけ一つになりながら、今朝、彼が離れて行った瞬間に感じたもの。変わらない気持ちなどない。例え共に年老いても、幸福の瞬間はその時のものでしかない。
あさとは彼の締まった身体を抱きしめた。こうするより他に、今の気持ちを言い表せなかった。
「馬鹿ね、あなたって本当に見かけ倒しよ。頼りなくて、一人にさせるのが心配になる……」
「そうだな」
アシュラルはわずかに苦笑する。あさとはその頬を抱いた。
「どんな夢を見ているの?……何が、あなたをそんなに不安にさせているの?」
「………」
唇から笑みが消え、男はわずかに目を細めた。
「……上手くは言えないが不思議な夢だ。俺は夢の中で、俺ではない別の誰かになっている。……そう、俺はロイドのような、医術師の真似事をやっているんだ。ここではない、何処か……そうだ、ひどく平和な別世界で」
……。
「色んな顔が出てくる、ジュールによく似た顔もある。……ダーラに似た女もいた。 そうだな、彼女が年老いたら、ああいう感じになるのかもしれない。そして、みんなが俺の名前を呼んでいる。 でも、夢の中で、俺が何と呼ばれているのか、……どうしてもそれが、思い出せない」
あさとは眼を見開いた。手が、自然にアシュラルから離れていく、 震えのために。
夢の中の名前。
どうしても思い出せない自分の名前。
「まっ…」
待って。
「その、ダーラに似た人は……」
なんて呼ばれていたの?
言葉が舌で凍りつく。その続きを聞いてはいけない。頭の中で、警鐘が鳴っている。
「ああ」
けれど、アシュラルは質問の意味を悟ったのか、少し懐かしそうに微笑した。
「彼女は俺の上役のような存在で、俺はとても彼女を信頼している。……よく判らないが、セナ先生と呼んでいた、それが彼女の名前なのだと思う」
セナ先生。
眩暈がした。
瀬名先生。瀬名、瀬名志津子。
「俺には妻がいる。とても大切な……宝物のように大切な女だ。俺は彼女をシズナと呼んでいる。結婚しているのに 愛しているのに、その女の心が掴めなくて苦しんでいる。喧嘩ばかりして、言い争って、傷つけあって……そして俺のところから去って行く女を、壊れていく様を、ただ、見つめることしかできないでいる」
「………」
「シズナは、俺の母親だった人に似ているような気もするし、お前に似ているような気もする……。でも、判らないな、幻のように、眼が覚めるとその面影さえ忘れてしまうから」
あなたの、名前……。
「お……」
あさとは、自分の唇が震えるのを感じた。
今朝、彼が目覚めた時、その表情が誰のものに見えたのか、ようやくその理由を理解していた。
最初から判っていたような気もするし、全く判らなかったような気もする。いや 。
想像してもみなかった。想像していたら、果たしてこんな関係になっていただろうか。琥珀の顔と身体を持ち、同じ眼差しで自分を見つめる、この男の中に 。
「……クシュリナ?」
小田切さんがいるなんて!
それは覚醒の衝撃にも似た確信だった。
混乱しながら、あさとは今までの記憶を辿っていた。
雅は何て言っていた? 小田切さんも琥珀も、私と同じようにこの世界に存在していると言っていたはずだ。私は それが、ラッセルだと思ったこともあった。
頭の中で、あの夜の雷鳴の音がした。
「どうした……? 顔色が悪いな」
「……ごめんなさい……なんだか、気分が」
見下ろしている漆黒の瞳。琥珀の顔、琥珀の眼差し。
あさとは顔を背けていた。
まだ、「小田切直人」は覚醒していない。あさとがそうだったように、今はただ、アシュラルの下層意識としてのみ存在しているに違いない。
けれど、 いずれ、覚醒は唐突に訪れる。
そうしたら、……。
彼の目に、「雅」の顔をした「クシュリナ」はどう映るのだろうか。
私は この人を、そしてこの人は、私を。
お互いを、……それと知りつつ、愛していくことが出来るのだろうか。
「……風が出てきたな、そろそろ戻ろう」
「……ごめんなさい」
「何をさっきから、謝っている?」
「………」
あさとは顔をあげられなかった。今、どんな顔をして夫を見ていいのか判らなかった。
アシュラルの声が翳っている。彼が、妻の態度に不審を覚えているのは確かだった。それが判っていても、 言葉はやはり出てこない。
「……行こう」
「…うん……」
そして 。
馬上で風を受けながら、あさとは、愕然たる思いに、じっと耐えた。今にも叫び出してしまいそうだった。
もう、疑う余地はない、おそらく 琥珀は。
ラッセルの中にいたのだ。
ようやくあさとは確信していた。
小田切と琥珀はどこかが似通っていた。小田切の中に琥珀の影が滲み、琥珀の中にも小田切の色が浮き出ていた。
その運命が、この世界から続いていたものなのだとしたら。
いや、そんなことより、これほどまでにアシュラルとの宿縁を感じながら、あれほど琥珀に恋焦がれながら 。
それでもラッセルに惹かれ続けている自分の矛盾した感情が、 全てを物語っているような気がした。
獅子堂ラッセルが琥珀だった。
そして琥珀は、ラッセルと共に死んでしまった。
おそらく、自身を琥珀と知らないまま。クシュリナが雅で、そして私の心を持っていると知らないまま。
死んだ……? 琥珀が?
あさとは自問した。
死んだのはあくまでラッセルの肉体であり、琥珀ではない。
肉体が死んでしまえば宿った心もまた死んでしまうのだろうか。例えばクシュリナが死んでしまえば、……私はどうなってしまうのだろうか。
雅の声は、あれから一度も聞こえてはこない。
「琥珀」の心は「ラッセル」を離れ、元の世界に戻っているのかもしれない……。
その疑念は悩ましく、あさとの頭の中から離れなかった。
アシュラルは無言だった。何を感じたのか、考えているのか 彼もまた、オルドに戻るまで一言も口を開こうとしなかった。
6
「クシュリナ、彼が行ってしまうわよ」
早朝 。夜も明けぬ前から何度も部屋を訪れたカヤノが、ついに焦れたように天蓋の帳を払いのけた。
あさとは枕に顔を埋めたまま、……どうしていいのか判らなかった。
「本当にどうしたのよ……」
枕もとに立ったままのカヤノが、溜息をつく気配がする。
それでも、顔さえ上げられなかった。
言えるはずがない。
アシュラルの顔を見るのが怖いなんて、どんな眼で、彼を見ていいのかさえわからないなんて。
万が一、彼の中の、小田切が覚醒した時のことを思うと 。
彼の夢の続きを、それがひどい悪夢であることを、あさとはよく知っている。
シズナという女は小田切の妻だ。そしてシズナは 妊娠中に、殺されたのだ。
もし……もし、夢の因果が この世界に繋がっているのだとしたら。
「カヤノ……」
自分の声が、ひどく遠くから聞こえてくるような気がした。
「……ダーラが」
言いかけて言葉が続かなかった。
考えてみないこともなかった。「クシュリナ」の身代わりとなって死んだダーラ。
最後に見た時の彼女の腹部。あれはどう見ても、結婚前の妊娠を意味していた。
むろん、そうであっても不思議なことは何もない、いや、だからこそ、ラッセルは急いで彼女と結婚したのだと思いこんでいた。
でも、ラッセルの性格を考えると、 以前から、あさとには一抹の疑問が残っていた。
当時、ラッセルは、騎獣討伐の任務で、殆ど休むことなく近郊諸侯を巡っていたはずだ。そうでなくても、あの彼が 職務に忠実で常に自らに犠牲を強いる彼が クシュリナの結婚問題が緊迫する情勢の中で、……ああいう振る舞いに及ぶだろうか。
もちろん、実際のところは判らない、惹かれあう男女の想いの深さ、激しさは、今のあさとにならよく判る。
でも 。
「ダーラがどうしたの? まさか、そんなカビの生えそうな過去のことで、アシュラルと喧嘩でもしたんじゃないでしょうね」
カヤノの声が苛々している。
「アシュラルも馬鹿ね、正直に何もかも話さなくてもいいのに。確かに一時、あの人はダーラを追いかけていたわよ。でもね、結局、ダーラが選んだのはラッセルだったんだから」
そうだろうか。……本当に?
きっとダーラも、今の私のように、どちらにも心を惹かれ、引き裂かれそうになっていたのではないだろうか。
アシュラルには、クシュリナという婚約者がいた。そしてラッセルにも、クシュリナという護るべき相手がいた。
ダーラにとってクシュリナとは、……因業以外の何者でもない相手だったのではないだろうか。まるであさとと 雅のように。
今さらのように、様々な記憶の欠片があさとの脳裏に蘇る。
ダーラとラッセルの結婚式の日、二人は何か言い争っていた。
( どうして、こんな突然の結婚を承知したの?)
初めて見るような剣幕で、ダーラはそう言っていた。
( だって、私は、あの)
何か言いかけた彼女に、あさとの目の前でくちづけをしたラッセル。
見間違いではない、あの時、確かにラッセルの眼は、あさとがその場にいることを認めていたのだ。一瞬確かに眼があって、 そして。
彼はキスで、ダーラが言いかけた言葉を塞いだのではないだろうか。何故ならその言葉が その言葉が……私を傷つけることになると、知っていたから……。
キスの直後、すぐに追いかけてきてくれたラッセル。
あの時、彼は どういう気持ちで。
あさとは何も言えなくなった。自分が心に抱く疑念。それを口にすることさえ出来なかった。
因果が巡り、同じ運命を人が辿って行くのなら。
ダーラの、……死んだ、お腹の子供の父親は 。
「彼のことだから、あなたには何も言っていないでしょうけど」
カヤノは深い溜息をついた。
「戦況は余り芳しくないのよ。ナイリュは同盟したと言っても一向に兵を出さないし、薫州公は虎視眈々とアシュラルの首を狙っているの。甲州は、まだヴェルツ派の反抗がひどくて、駐留中の法王軍と激戦が続いているし……」
言葉を途切らせ、うつむいたカヤノは唇を噛んだ。
「アシュラルは、タイランド国の王と謁見するために国境まで出向くらしいけど、 いずれにせよ、危険な地域を行軍していくことになるわ」
あさとは、震えながら眼を開けた。怒りを含んだ女の声が頭上から刺さる。
「判ってるの? 生きて再び会える保証なんてどこにもないのよ! ささいな喧嘩で、顔を合わせたくないというのなら、私、絶対に許さないから」
わずかな沈黙の後、遠ざかる足音がして、扉が激しく閉められた。
アシュラル……。
あさとは寝台の掛布を握り締めた。
アシュラルが自分の前からいなくなる。 それは、耐え難い苦痛だった。
確かに自分は今、誰よりも、あの闇をまとった男に恋をしている。こうしているだけで、乾くほどに彼の全てを求めている。
けれどその一方で、琥珀のことが忘れられない。
ラッセルの言葉、眼差しのひとつひとつが、もうあさとには、物苦しいほど恋しくて、苦しくてたまらない。琥珀はずっと、私の傍にいてくれたのだ。あんなに近くにいて、あんなに彼を恋しながら、それが琥珀だと気づかないままでいたなんて 。
どうしたらいいの。
寝台には、一昨夜、夫として過ごした男の移り香が残っている。彼の笑み、そして、私だけに向けられる優しい眼差し。抱きすくめる腕の温かさ。
好きなのに、大好きなのに。
「 どうしたらいいの、私!」
どうして今、こんな残酷な事実に気がついてしまったのだろうか。どうして。
心が 裂けてしまいそうだ。
その時、法王軍の出発を告げる楽隊の銅鑼が、開け放った窓の外から聞こえてきた。
行ってしまう。
あさとは反射的に跳ね起きた。
天蓋を払い、急いで寝台から飛び降りる。
外から行進の足音が聞こえてきた。露台に出ると、幾重にも列を組んだ黒の隊列が、宮庭を進んで行くのが見えた。
翻る黒地の白十字 法王旗。足並みを揃えて進む騎馬の隊列。
その先頭に彼がいる。ひときわ大きく風になびく法王旗。多分、その下に彼がいる。
もちろん、ここからでは遠すぎる。声を限りに叫んでも届かないのは判っている。
「……アシュラル……」
ごめんなさい……。
うつむいた頬に涙が零れた。幾筋も零れた。自分の身勝手さ、わがままさが、許しがたいものに思えて、あさとは唇を噛み、眉を震わせた。
あれほど心を開いてくれた彼に、まるで許しを乞うように何もかもさらけ出してくれた彼に 私は。
ごめんなさい、アシュラル、私は誓ったのに、あなたの傍で、あなたを待つと誓ったのに。
あなたが、戻ったら いいえ、戻るまでに。
琥珀のことは忘れるから、忘れるように頑張るから。戻ってきて、もう一度私を抱きしめてほしい。全ての過去を忘れさせて欲しい。
こんなに……あなたを愛しているから。
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