法王帰還の知らせがないままに、予定されていた舞踏会の夜がきた。
 どこで調達してきたのか、カヤノが用意した深紅のドレスは、見事な仕上りだった。
 負けん気の強いカヤノのことだ。絶対にサランナに見劣りしない物をと、最後の意地を振り絞ったのだろう。
 触れた指先が溶けてしまいそうなほど、鮮やかな焔の色。
 イヌルダにあって、戦いと、そして勝利を意味する赤。
 オルドの鏡の前で、そのドレスを肩に合わせながら、あさとは複雑な気持ちになった。
     戦うこと、そして勝利すること。
 それが、今のアシュラルの望みなのだろうか。
 戦場で幾多の命を奪い、血濡れた行軍を続けるあの人が    常に生死の境に立つことを余儀なくされているあの人が、本当に今、心から戦いと勝利を望んでいるのだろうか。
 本当は    ひどく繊細で、子供のように傷つきやすい心を持っているあの人が……。
 薫州戦は泥沼化しており、州境で双方がにらみ合いを続けていると言う噂だった。
 味方の将は、貴族院の真中シルビエ、中嶌カイル、枢機卿の有働サジ。彼らがカタリナ修道院の出身貴族だと、ロイドからかつてその名を聞いたことのあるあさとには判った。
 いったん金波宮に戻ったとしても、アシュラルもまた、休む間もなく再び戦場へ赴いていくのだろう。 
 今夜の舞踏会に彼が出席するかどうか、それもあさとには判らない。
 もう、会えないかもしれない。
 会えたとしても、今夜が    夫婦としての、最後の夜になるかもしれない。
「クシュリナ、何やってんの、そろそろ時間よ」
 部屋の外から、カヤノの忙しい声がする。
 あさとはじっと鏡を見つめ、それから、ドレスに手を伸ばした。
 赤のドレスではない、その隣にある    純白の、婚礼の衣装に。
 
 
                  
 
 
    女皇陛下の御成りでございます」
 楽隊が、先触れの鼓笛を鳴らした。
 あさとの衣装のことは、すでに婦人たちの耳にするところだったらしく、ざわめきと、含んだ笑い、非難の囁きが一斉に広がる。
 レースと真珠、そして白銀の刺繍に縁取られた純白のドレス。
 白    死者を悼み、祈りを捧げるための色。
 永遠の愛を祈る色。
 燃え立つような深紅のドレスが、ずらりと広間にひしめく中、あさとは凛と顔を上げ、まっすぐに自分の席に向って歩き出した。
「お姉様」
 席についたところで、サランナが、金扇で口元を隠しながら、歩み寄ってきた。背後には、取り巻きたちをずらりと引き連れている。
 眼にも鮮やかな濃赤色のドレス。胸元と裾には、金とパールの飾りがふんだんに施されている。
 燃え立つような妹の眼に、冷たいあざけりがこめられていた。
「アシュラルが戻ってこられなくて、本当によかったわ。もしかして、三鷹ミシェル様とのご婚約がご不満でいらしたのかしら」
「………」
「それとも、婚礼が待ちきれなくていらっしゃるの? ナイリュの国司の方々も驚いていらっしゃったわ。何を勘違いなさっているのかは知りませんけど、今夜、三鷹ミシェル様は来られませんことよ」
 取り巻きの婦人たちの間に、嘲笑が満ちる。
 あさとはじっと、妹を見つめた。よく動く形良い唇。もう憎しみを隠そうともしない瞳。
「……自分勝手なお姉様、どうやら今夜は、本気でアシュラルに恥をかかせるおつもりでいらしたのね」
 あさとは黙っていた。サランナとは色んなことがあった。でも、妹とこうして向き合うのも、これが最後になるかもしれない。そう思うと、不思議に心は穏やかだった。
「……サランナ」
 あさとは妹の眼をまっすぐに受け止めて、そしてゆっくりと頭を下げた。
「お父様のこと、……よろしくお願いします」
「………」
 何故かサランナは、頬を殴られた人のような顔になり、よろめいて一歩後ずさった。
 あさとが驚いてその眼を見ると、戸惑ったように視線が逸らされる。
 いつもどこか余裕を滲ませている妹。彼女がここまで動揺している姿を、あさとは初めて見たような気がした。
「驚いた、何を言い出すかと思ったら、おかしなことをおっしゃらないで」
 けれどすぐに、いつものサランナの声が戻る。
「お父様は    、お姉様だけのお父様じゃないのよ」
 顔を横に向けたまま、サランナはそう言うと、ついっと裾を翻した。
 背を向けたサランナを、慌てて周囲の婦人たちが追う。
 遠ざかっていく妹の後ろ姿を見送りながら、あさとは不思議な安堵を感じていた。
 自分がいなくなった後、寝たきりの父がどうなるか……それだけが心配だった。ルナのことは、カヤノが何とでもしてくれるだろうし、本人が望めば、ナイリュへ連れて行けばいい。
     もう、思い残すことは何もないわ……。
 あさとは静かな気持ちのまま、大広間の天井に視線をむけた。
 ずっと、この光景が、クシュリナとして生きてきたあさとの全てだった。
 ずっと、自由になりたいと思っていた。子供の頃から牢獄のようだと思っていた金波宮。どうして、今になって気づくのだろう。最初から、ここがあさとの居場所だったのだ。
     さよなら……。
 さよなら、私の、金波宮……。
 さざ波のようなざわめきが起こったのはその時だった。
 なに……?
 広間にいる者全ての視線が、開かれた扉の向こう、その一点に集まっている。
 あさとは眼を細め、その方角に視線を向けた。
 誰かが    近づいてくる。まっすぐに。
 深紅の薔薇の群れが、驚いたように道を開けている。
 薔薇園に舞い降りた白鳥のような、真っ白なクローク。白銀のチェニック、緩やかに巻かれた白絹のボゥ。艶めく髪が、歩くたびに煌いて揺れる。
「あれは……三鷹様?」
「では、本当に今夜、クシュリナ様とご婚礼を?」
 遠巻きに見守る婦人たちの間に、囁きが広がっていく。
     ユーリ……?
 あさとは、近づいてくる人影に向けて目を凝らした。
 確かに以前、この広間で、舞踏会の夜、一人ぼっちの私の手を取ってくれた人がいた。
 彼は    ユーリは、優雅に、私の前に膝をついて。
「………」
     でも、ユーリの……髪は……。
 そんな    そんな、馬鹿な。
 いつの間にか、ざわめきさえ途切れ、広間の中は、水を打ったように静まり返っている。
 眩しいばかりの白い衣装に身を包み、彼は、静かにあさとの目の前に膝をついた。
 あさとには信じられなかった。
 彼が    自らの意思で、自分の前で膝を折ったのは初めてだったから。
「私と踊ってくださいますか」
 艶めく黒髪が額に落ちる。
 見上げる漆黒の瞳、綺麗な唇。形良い輪郭。
「女皇陛下、クシュリナ様」
「……喜んで」
 あさとは差し出された彼の手を取った。
 左手の薬指に刻まれた赤い沁み。
 手を取り合ったかりそめの夫婦は、互いを見つめ合ったまま、中央に進み出る。
 楽隊が、それに合わせたかのように、円舞曲を奏で始めた。
「おかえりなさい、アシュラル」
 あさとは言った。顔を上げた途端、涙が零れそうになった。
「初めて俺の名を呼んだな」
 アシュラルはかすかに笑った。
 
 
               
 
 
 踊りの間中ずっと、アシュラルはあさとから眼を離そうとしなかった。
 情熱的な、痛いほどの    恋をしていることを、隠そうともしない眼差しが、逸らされることなく注がれている。
     胸が……苦しい。
 うつむいてしまった視界に、彼の腕と、指先だけが揺れている。
 見つめられているだけなのに、それだけで、もう息苦しいほどに胸が切ない。
     アシュラルの……腕。
 暖かい。そして、優しい。
 優雅に腰を抱き、そして、優しくエスコートしてくれる。
 目の前にある彼の顔。
 こわごわと顔を上げる。
 睫が長くて、……肌が綺麗、……触れてみたい。
 躊躇無く見つめられる視線に耐えかね、あさとは再び眼を伏せていた。多分、アシュラルには判っている。私の気持ちが   
 こんなに動揺して、耳まで赤くして、心臓も壊れそうなほど高鳴っているのだから。
 初めてこの人と出会ってから、一体何年たつのだろう。婚約してから、どれほどの時が過ぎたのだろう。初めて彼と踊っている、初めて彼と    向き合っている。
 自分の手を取り、そっと支えている指。その、指先の傷跡。
 ふいに胸が締めつけられるような気持ちになった。
「あなたは、私が忌獣に襲われるのが、初めてではないと知っていたわね」
 あさとは訊いた。
 アシュラルは答えなかった。
「あなたは知っていたのね、いいえ、あれはあなただったのね。私が白蘭オルドで初めて忌獣に襲われた時、私を庇って傷を負ったのは    あれは、あなただったのね」
 ずっとラッセルだと思っていた。彼と余りに良く似た輪郭、良く似た唇、繋いだ手の温かさ。
 ラッセルは、最初からその正体を知っていた。そして   
 あさとは、込み上げてきた涙を堪えた。
 彼がどんな思いで自分をアシュラルに託そうとしたのか、ようやくその想いの深さが理解できたような気がしていた。そうだ、最初から、ラッセルは繰り返し言っていた。
     アシュラル様を、信じてお待ちくださいと……。
「あなたは、いつも私のために、傷を負っているのね」
「お前はやっかいな女だからな」
 不意にいつもの口調に戻り、アシュラルは少し窮屈そうに視線を逸らした。
「俺がお前を放っておけないのも、宿縁というやつだろう」
「それだけ?」
 あさともまた、いつもの自分を取り戻している。
「え?」
「それで片付けられても納得できない」
「なんだと?」
「先に……言ってくれたら、私も言う」
「……なにを」
「…………」
 やや、むっとしたアシュラルが、ふと思いついたように彼らしい笑みを浮かべた。
「もう一度誓ってやろうか。俺はお前を好きにならない」
 今度は、あさとがむっとしてアシュラルを見上げている。
「何を言わせたいか知らんが、俺は自分から女に言い寄ったりしない」
 …………この、意地っ張り男。
「私だって、同じよ」
 それでも、アシュラルの子供っぽさが可笑しくなって、あさとは自然に笑っていた。大嫌いだった男の前で、初めて心の全てを開いて笑っている。
「お前の笑った顔を、まともに見たのは初めてだな」
 彼もまた口元に微笑を浮かべた。初めて見るような、優しい笑い方だった。
 ふと、その眼から笑いが消える。
「もっと、見たいな……」
「………」
 指先が、頬に触れた。
     もっと、知りたい。
     もっと、触れたい。
 多分、同じだ。……求めているものは。
     もっと、感じたい。この人を、身体ごと、心ごと。
「判ってたの……?」
 押し寄せる感情に苦しくなって、あさとはうつむいたままで訊いた。どうしてだろう。嬉しいのに、苦しい。
 苦しくて、切ない。
「私が、今夜、この衣装を着るって……」
「お前が、俺を理解してくれればいいとは思っていた」
 アシュラルは、頬に笑みを残したまま、静かな眼差しをあさとに向けた。
「……俺のこの手には、何百人もの罪なき民の命と呪詛が沁みついている。彼らの犠牲に対して俺が出来ることは、遠い将来    変わらぬ平和と平穏をこの国にもたらすことだけだ」
 あさとは彼の顔を見上げた。
 白    死者の魂を弔う色。
「そうすれば、この世界から忌獣は消える、闇は必ず消えるのだから」
 不思議だった、何年も前から、彼の答えが判っているような気がした。
 見下ろされる眼差し。激しい情熱を秘めた双眸。もう、絡んだ視線から逃げられないし、逃げたいとも思わない。
 薄くてきれいな唇、襟元からのぞく首筋。
 触れたい、もっと、この人に触れたい、心の中で震えるほどに欲している。
 円舞曲が終わりに近づこうとしている。
 この曲が終われば    この一時が終われば。
 彼の手は、他の誰かの手を取ってしまうのだろうか。
 他の……誰かの身体に触れるのだろうか。私のつけた傷、彼の指、私がつけられた傷。
「……いや」
 長くて綺麗な指。絡んだ指を、もう、離したくない。
「誰にも触らないで」
 あさとは呟いて、自分の言葉に頬を赤くした。
「この指で、わ、私以外の誰かに触らないで……」
 曲が終わった。
 両腕が背中に回され、あさとは彼の胸に引き寄せられた。
     心臓……。
「誰にも触れない……」
 耳元で低く囁く声。静かな熱を湛えた唇。
「お前だけだ」
     心臓、壊れそう……。
 例えそれが、一夜限りの嘘でもかまわない。
 もう、止められない。この人が    好き、苦しいくらい、大好きだから。
 私は今夜、彼の妻であるために、この衣装を着たのだから。
「行こう」
 が、ひとときの抱擁の後、ゆっくりと身体を離したアシュラルは、どこか沈うつな横顔を見せて促した。
「お前に……許しを得なければならないことがある」
 その眼は、わずかな哀惜を漂わせている。
     許し……?
 彼の腕に身体を預けたまま、あさとは大広間を後にした。
 
   
                10
 
 
「どこへいらっしゃるの? アシュラル」
 本殿の回廊を抜けたところで、冷やかな声が、背後から二人を呼びとめた。
「……サランナ」
 アシュラルは振り返って呟いた。あさとは彼のクロークの影に隠され、素早くその背に回されていた。
 前に立つ男の背がひどく緊張している。それが少し異常な気がした。
 あさとは彼の肩越しに妹の姿を認めた。
 そして、    息をのんでいた。
 サランナは、場違いなほど楽しそうに微笑している。
 天使のように無邪気で優しい、心に染み入ってくるような可憐な笑顔。妹の笑顔をこんなにも美しいと思ったのは、あさとにとってもはじめてだ。
 柔らかな弧を描く眉、慈愛を帯びて潤んだ瞳。朱を刷いたような淡い唇。
「どうしたのアシュラル、随分怖いお顔をしてらっしゃるのね。そんな衣装……あなたには似合わないわ」
 ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる    サランナは一人だった。それも珍しいことだった。
 静まりかえった回廊に、三人の影だけが蝋燭灯りに揺れている。
 少女のような微笑を愛らしい唇に浮かべたまま、妹はゆっくりと首をかしげた。
「さぁ、私と行きましょう、アシュラル。着替えを手伝ってさしあげるから。ナイリュの国司がずっとあなたを待っているの。早く用件をすませましょう」
「……サランナ…」
 アシュラルの横顔が苦しげだった。
「もう、君との話は終わったはずだ」
「なんのことかしら?」
 燐を帯びて輝く瞳が、潤みを払うように瞬きを繰り返す。
 あさとは思わず、アシュラルの肩を覆うクロークを掴んだ。
 まるでこの世のものではないほど、妖艶かつ可憐な笑みを浮かべた妹が、このまま    せっかく掴み取ったアシュラルの心を、奪い去っていくような気がしたのだ。
 サランナは、潤んだ笑顔を顔中に広げた。
「あなたの気の迷いを本気にとるほど、私は子供ではないつもりよ。    アシュラル、あなたには私が必要なの。これから先、本当に私の助力なしに、シュミラクールを統一できるとでも思っていらっしゃるの?」
 サランナは距離を詰め、柔らかな手が、そっと男の腕に添えられる。
 アシュラルは拒まなかった。身動きさえできないようだった。
「これから先も、私の力は必要なはずよ……アシュラル、わかっているでしょう?」
 それは哀願というより、むしろ目の前の男を憐れんでいるような眼差しだった。
「わかっているわよね。今、私を手放すとどうなってしまうのか」
「俺は」
 アシュラルは呟いた。一度も視線を向けはしなかったが、彼の横顔があさとを意識しているのは明らかだった。
「俺はそれでもかまわないと言ったはずだ」
「……アシュラル」
 サランナが苦笑する。「本当にあなたってまだ子供なのね。ナイリュとの同盟はどうするの? ウラヌスやタイランドだって、まだ法王軍の味方になるとは限らないのよ」
 一見華奢な指は、しっかりとアシュラルの腕を掴んで離さない。
「私が、全てを台無しにすることだってできるのよ」
「サランナ」
 初めてアシュラルの声が鋭くなった。彼は、妹の手を振り解いた。
「そして言ったはずだ、サランナ。俺はもう、君のしていることを    これ以上、黙って見過ごすことはできない」
     何……?
 二人の会話についていけない。ただ、サランナの優しい笑顔から滲む異常な迫力と、アシュラルの全身から感じられる緊張が、怖いほどあさとにも伝わってくる。
 まるで、刀を向け合って対峙しているような    緊迫した空気。
「確かに君には世話になった。ここまでの助力には感謝している。けれど、……君をこれ以上、見逃すこともできない」
「なんて御立派な法王様!」
 唇に手を当て、サランナは心底可笑しそうに笑った。「そう、結局あなたは、最後まで利口な男にはなれなかったのね」
 手を離したサランナの目に、初めて険悪な憎悪が浮かんだ。
「ここであなたの犯した罪を、全部、お姉様にお話してもいいのよ。あなたが私に何をしたか。あなたがどれだけ汚い男なのか」
「言いたければ言うがいい、俺は構わないといったはずだ」
 サランナはくすっと笑むと、肩越しに隠れているあさとを一瞥した。
「お姉様、……ばかね、本当に人を見る目がないのね。どんな甘い言葉でたぶらかされたのか知らないけれど、ずっとその男に騙されていたのが、まだお姉様には判らないの?」
 あさとは何も言えなかった。ただ、黙って、動かないアシュラルの手を握りしめる。
「お母様を殺したのも、お父様に蛇薬を飲ませたのも    そして、獄中のダンロビンを病死と見せかけて殺したのも……みんな、アシュラルが仕組んでやらせたことよ」
 一瞬、身体が凍りつくかと思っていた。
 あさとはアシュラルの横顔を見上げた。毛筋ひとつ変えない冷静さで、彼は黙って、サランナの言葉を聞いていた。
「あの三人は、法王様の、決して知られたくない秘密を知っていたのよ。だから口を封じた、そうなのでしょう?」
 アシュラルは答えない。
「それだけじゃないわ。白蘭オルドに滞在中のグレシャム公を殺し、その罪を鷹宮ユーリに被せたのもこの男の仕業よ。この男とジュールは、鷹宮ユーリが三鷹家の血を引いていると承知の上で、ユーリの弱みを握り、自分たちの思うように操ろうとしていたのよ」
 サランナはゆったりと微笑すると、挑むように眉をあげた。
「他にも数え切れないくらい沢山の人を、アシュラル、あなたは眉一筋動かさずに殺したのよね。お母様が隠し持っておられた蛇薬を使って」
 サランナが見つめているのは、もうアシュラルではない。あさとだった。
 全てが驚愕と衝撃の連続の中、あさとは、最もあり得ない言葉に耳を止めている。
     お母様が……隠し持っていた、蛇薬?
 どういう意味?
 あさとは、呆然と、笑顔を張り付けている妹の顔を見上げる。
「お姉様も行かれたのでしょう? 緋薔薇オルドのあの地下に。アシュラルが緋薔薇オルドに拘ったのは、あの地下にマリスの蛇薬が隠されていたからよ。お母様を殺した後、蛇薬は全てアシュラルが手に入れたわ。そう、この男こそ、忌わしい蛇薬の愛好者だったのよ」
 あさとは、黙っていた。
 そんなの、嘘だ。信じられない。
「……純度の高い蛇薬は、甘い杏の匂いがするわ。お姉様はお気づきになったことはない? アシュラルは強度の蛇薬依存症よ。常に蛇薬の小瓶を肌身離さず持っているわ。……毒にも薬にもなるあの秘薬は、男女が交わる時、最高の快楽を与えてくれるのだそうよ」
 アシュラルの手を掴む、自分の指がわずかに震えた。
「そうやってこの男は、エレオノラを夢中にさせ、他にも幾多の女たちを虜にしてきたのよ。さぁ、お姉様、それでもアシュラルを信じるおつもり?」
 あさとは黙って、唇を震わせた。
 杏の匂い……、一度、腕に怪我をした時、確かにアシュラルはそんな匂いのする小瓶を取り出して    でも、まさか、そんな。
 震える手を、不意に強く握り返された。
 アシュラルが指をからめ、あさとの手をしっかりと握りしめる。違う    あさとは、彼の心の声を聞いた気がして、同じように、その手を強く握り返した。
「サランナ……確かに全ては否定しない。俺は、アデラ様が蛇薬を隠し持っていたのを知っていたし、ずっと手に入れたいと思っていた」
「そうね、アシュラル、だからあなたは、私に近づいたのでしょう?」
「否定しない……でも、それは、君が思う理由とは別の理由でだ」
 前を見ている彼の表情は判らない、けれど、声はとても冷静に聞こえた。
「けれど、今のは、君の告白だと思っていいのか。    ダンロビンの件でも、アデラ女皇の件でも、俺はずっと君を疑っていた。けれど、確たる証拠がなかった。ハシェミ公に関しては……信じられない、本当に君がやったことなのか」
 甲高い哄笑で、サランナはそれを遮った。
「驚いたわ。いまさら全てを私のせいになさるおつもり? お姉様の前だから? 驚いた、綺麗なお顔をして、随分卑怯なことなさるのね、法王様も」
 あさとはようやく理解した。サランナは自分に問っているのだ。挑発しているのだ。
「……ヴェルツ公とエレオノラを逃がしたのも、君の仕業か」
 沈鬱な声で、アシュラルは続ける。
「青州公を殺し、鷹宮ユーリを逃がしたのも、君なんだな」
「ねぇ、だからそれは、いったい何のお話なの?」
 サランナは不思議そうな目をして笑った。
「そんなあり得ないお疑いをかけて、今度は私を捕らえようとしてらっしゃるんでしょう? 卑怯で高邁な法王様、あなたの罪を、全て私に被せるおつもりなのね」
「……俺には君が理解できない。サランナ……君の目的は、一体何なんだ?」
「なんのお話か、全く理解できないわ」
 くすくすと笑うと、サランナはもう一度あさとを見た。哀願するように優しく、そして慈愛のこもった眼差しだった。
「お姉様……こんな恐ろしい男に、これ以上お関わりにならないで。聞いたでしょう? 私たちのお母様を殺したのはこの男なの、ご自分の目的に邪魔だったからよ。お父様がああなられたのも、全てこの男のせいなのよ」
 あさとはアシュラルを見つめた。彼の動かない背を見つめた。
「目的のために私を利用した汚い男よ。私……最初のうちは何も気づかなくて……憧れていたアシュラルと恋人になれたのが嬉しくて……この男に騙されていたと気付いた時には、もう、後に引けなくなっていたのよ!」
 一転して哀しげに潤んでいく瞳。あさとはアシュラルから手を離していた。
 踏み出しかけた足を、咄嗟に伸びてきた男の手が止める。
「行くな」
 横顔がそう言った。「行っては駄目だ、クシュリナ」
「お姉様、お願い、私を信じて」
 それを遮るようにサランナが悲鳴に似た声を上げる。両手を胸で組み合わせ、哀願するように義姉の目を見上げる。
「この男と私、一体どちらをお信じになられるの? お願い、お姉さま、私にはもうお姉さましかおられないの! 一人にしないで、お願いだから私を信じて!」
 慟哭に近い叫び。あさとは動けなかった。
 自分の心のままに信じるのなら、それは考えるまでもなかった。アシュラルはこの場に及んで嘘をつくような男ではない、決してない。彼が本当に犯した罪なら、それは否定せずにうなずくだろう。
 けれど、サランナに掛けられた疑いもまた、あさとには信じることができなかった。サランナが    仮にアシュラルのためだとしても、自らの父母を手にかけたなど    理解の範疇を超えている。
 それに……ユーリのこともそうだった。
 もし、もし本当にサランナのしたことなら、その理由をどうしても本人の口から聞いてみたい。
 あさとはアシュラルの腕を押しのけた。
「あなたを信じてる、アシュラル」
 見上げた男の眼差しが、それでも行くなと言っている。
「でもお願い、今はサランナと話をさせて」
「クシュリナ」
 何か言おうとする険しい唇、伸びてきた腕を寸でですり抜け、あさとは妹の肩を抱き取っていた。
「お姉さま……っ」
 感極まった声をあげ、サランナが柔らかく抱きしめてくる。暖かな胸、甘い香り。あさとは初めて胸苦しいまでの後悔を覚えた。
 妹はやはり    どう憎もうが憎まれようが、あさとにとってはただ一人、護ってやらなければならない存在なのだ。
 妹から……この妹から、私は本当に、愛する人を奪うことが出来るのだろうか。
 あさとを激しく抱きしめたまま、サランナは泣くような声を上げた。
「嬉しい……、私を信じてくださるの? 私を許してくださるの?」
 喉元に、ひやりとしたものが触れた。それが剣の切っ先だと、しばらくあさとには判らなかった。
 アシュラルの舌打ちが聞こえる。
「本当に    馬鹿なお姉さま」
 上目遣いに顔をあげ、サランナは初めて、いつもの彼女らしい笑みを浮かべた。
 
 
 
 

BACK    NEXT    TOP
Copyright2009- Rui Ishida all rights reserved.