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11
「知っていて止められなかった、俺も馬鹿だがな」
俊敏に腰から抜きさった長剣を閃かせ、アシュラルは皮肉な口調で呟いた。
「生きるか死ぬかね、アシュラル」
サランナはドレスの裾を翻した。
あさとの首に腕をからめて自分の前に突き出すと、右手に掴んだ短剣の切っ先を、抱き取ったあさとの胸の下に押し付ける。
鋭い痛みが右の乳房の下をかすめ、あさとは苦痛に顔をしかめた。それでもまだ 今の状況が信じられない。受け入れられないままでいた。
「この回廊は私の手下が護っているわ。しばらくは誰も入ってこない、あなたの頼りにしている黒竜隊も、そしてジュールも」
「君の、手下」
「……役立たずのドゴンの連中など、ものの数分で皆殺しにされるわよ」
何かを察したのか、アシュラルの目に険しいものが掠める。
「君の方が、俺より上手だったということか」
「お姉様は連れて行くわ。あなたの、二度と手の届かないところに」
「俺が、それを許すとでも思っているのか」
アシュラルは身構える。けれど、一歩も動けないままでいる。
「あなたが馬鹿なのよ、アシュラル」
あさとの背後でサランナはくっきりと笑みを浮かべた。
「私を捕縛するなら、時間の余裕など与えず、さっさとそうすればよかったのに。逃がそうとしてくれたの? 最後まで女には甘いのね、法王様」
さらに強く刃の先が押し付けられる。
「クシュリナを離せ」
男の唇に、初めて焦燥の色が滲んだ。
「彼女を傷つけてみろ、君は助からない、俺が君を仕留めるからだ」
けれどその口調は苦しげだった。男の迷いを理解しているのか、サランナは余裕の表情を崩さない。
「判っているでしょう? 私には失うものは何もない。死ぬことなんて怖くないの。ここでお姉さま殺して、あなたに殺される……嬉しいわ、ぞくぞくするほど愉快な結末ね」
サランナ……。
あさとは初めて、妹の心に巣食う、闇の深さを思い知らされた。それは、実際あさとの理解をはるかに超えたものだったのだ。
「アシュラル……あなたの妻になることだけが、私の夢だったのよ」
けれど、サランナの声は、突然寂しげなものになった。
「愛しているのよ……アシュラル。子供の頃から、ずっと、ずっとあなただけだったのに……」
すぐそばにある妹の頬に、涙が伝う気配がする。
サランナ……。
あさとは堪らなくなった。自分のしていること しようとしていることが、どれだけ他人を傷つけているか、痛いほど思い知らされていた。
アシュラルもまた、苦しげに眉を寄せる。けれど彼が口にした言葉は、あさとの思いとはまた別のものだった。
「サランナ、君は俺を愛していると言う、何度も言う……。でも、俺は君に愛されていると感じたことは一度もない」
「卑怯な言い訳ね、あれだけ何度も私を抱いて」
「君は、俺のことなど愛してはいない。……自覚していないのか、サランナ、君が本当に愛しているのは」
「 言わないで!」
ぞっとするほど低い声が、厳しくアシュラルを遮った。
「あなたを愛しているから……最後にひとつだけ、機会をあげるわ、法王様」
その恐ろしい声のまま、サランナはそう言い、ひとつ息を吐いた。
「あなたの持っている剣で、あなた自身を罰しなさい」
意味が理解できないまま、あさとは視線だけで背後にいる妹を見つめた。さらに強く、首に絡んだ腕が締まる。
「その剣であなた自身を貫くのよ、アシュラル。急所を外すことは許してあげる。助かるか助からないかはあなたの持っている強運しだい」
「ばっ……」
あさとはもがいた。「馬鹿なことはやめて、サランナ!」
「お姉さまは黙ってて!」
激しい声。サランナはさらに刃を深く胸元に沈める。
「生きるか死ぬかよ、アシュラル。そうすればお姉さまもあなたも許してあげる。どう? あなたにそんな馬鹿げた真似が出来るかしら?」
アシュラルの表情は動かない。真直ぐな瞳は揺らいでもいない。
「言っておくけど、今、あなたとお姉様を殺すくらいのことは、簡単にできるのよ。それだけじゃないわ。私の合図ひとつで、大広間は血の海になるわよ」
「……アリュエスの、爪か」
「さすがね。ご存知でいらしたの、そう、爪がずっと私を護っているのよ」
あさとには意味が判らなかった。が、アシュラルは、眉を険しく寄せている。
「さぁ、裏切り者の法王様、私たちには時間がないわ。 あなた自身を罰するか、今ここでお姉さまが死ぬのを見るか。選ぶのはあなたよ」
アシュラル……。
「そうだな……」
アシュラルは、静かに長剣を抱く腕を持ち上げた。
「確かに俺は、君にも、そしてクシュリナにも、詫びなければならない」
「何を言ってるの、やめて、アシュラル!」
あさとは叫んだ。男はゆっくりと首を振る。
「クシュリナ、アデラ女皇の件では、俺は薄々サランナの企みを知っていた。知っていて……見て見ぬふりをし続けていた。俺にとっても、あの人の存在は邪魔だったからだ」
「………」
「それが……サランナが俺のために犯した罪なら、それはやはり、俺自身の罪だろう」
「アシュラル、やめて!」
そうだとしても。
そうだとしても、彼が彼自身を傷つけるなんて、そんな そんなこと、絶対にさせるわけにはいかない。
「あなたの命はそんなに安いものだったの!? 言ったじゃない、自分は、こんなところで死ぬわけにはいかないって!」
鋭い痛みが胸を突き、うめいたあさとは言葉を失った。
鮮血が白のドレスの裾に飛び散る。
「……黙っててと言ったでしょう…」
どす黒い声が耳元で響く。
わずかに皮膚を切り裂いた刃が、薄い血を滲ませていた。
「サランナ……」
アシュラルの唇から歯軋りが聞こえるような気がした。彼は必死で、その感情を噛み殺しているようだった。
「俺は強運に恵まれている、心配するな、クシュリナ」
アシュラルが刃を持ち上げる。
「 言っておくけど」
あさとが何か叫ぶ前に、口を挟んだのはサランナだった。
「ご自分を傷つけて、あなたが動けなくなってしまえば」
「………」
「私はこのまま、お姉さまを刺し殺すかもしれない」
「………」
「あなたに止めをさすかもしれない」
「………」
「最初から最後まで、あなたは私を信じてはいなかった、そうでしょう? アシュラル、私は平気で嘘がつける女だものね」
そう言い放つサランナの声が、そこで途切れた。
「なんなの、その眼は……」
アシュラルの鋭い双眸には、今、憐れむような色が浮かんでいた。それは、かつて、かりそめにも愛した女への憐憫なのか。すでに怒りも憤りも、その眼差しから消えている。
「君の言う通りだ、サランナ」
男の声は静かだった。
「俺は一度も……君を信じたことはなかった。信じたいと思ってはいたがな」
そして、手にした長剣を閃かせ、自身の胸に向けた。
「本気じゃないでしょう?」
サランナの声に、あざけるような笑いが滲んだ。
「私の嘘を知ってて、それでもそんな危険な賭けに乗るおつもり? 法王様。この女に、そこまでする価値があるの?」
「………」
答えないアシュラルは、静かな微笑を口元に浮かべる。
「なんのために? まさか愛だなんて、ふざけたことを言うおつもりじゃないでしょうね。あなたは誰も信じないし、愛さない。そうやってあなたは、今の地位を手に入れたのではなかったの?」
刃が胸に押し当てられた。
あさとは叫びだしたかった。けれどまた、今が アシュラルとサランナ、二人だけの対決の時だとも理解していた。
ここでは、あさとは完全に部外者なのだ。
「そんなに、この女を愛しているの?!」
初めて妹の声に、余裕がなくなった。
「どうしてなの? なんのために? あなたは、ご自分が一番愚かだと思うもののために、身を滅ぼすおつもりなの?」
アシュラルの表情は変わらなかった。ものも言わず、彼の腕が持ち上がる。自身を護るはずの長剣は、今や主人を滅ぼす兇刃に変じている。
「そんなの……真似だけよ」
背後で、動揺を隠せない声がした。
「ごまかしよ、嘘よ」
けれど、あさとは、彼がその兇刃を、間違いなく自分の胸に受けるような気がしていた。
あさとを護るためにではない。ここにいる サランナのために。
あの夜、指を噛み切られるままになっていたように、彼はそのまま、サランナの怒りを我が身で受けるに違いない。
馬鹿……っ!
考えるより、身体が先に動いていた。
あさとは、サランナの右腕を力いっぱい掴んだ。
「クシュリナ!」
「お姉様?」
そのまま、自分の胸に押し付ける。強く、深く。
衝撃とともに、右脇の下から胸元にかけて、痺れるような痛みが走る。
あ……。
悲鳴が聞こえた。
そして、激しい物音と共に、入り乱れる足音が聞こえた。
抱きかかえる腕、自分の名を繰り返し呼ぶ声。
喧騒の中、痛みが次第に薄らいで行く。
アシュラル……。
護りきれたという充足感で、あさとは安堵して眼を閉じた。不思議と、このくらいの怪我で死ぬはずはないと確信していた。
クシュリナ……。
自分を呼ぶ彼の確かな声が、心地よかった。
12
「よし、こんなもんだろ」
薬を浸した布を交換し終えると、ロイドはあさとの肩に上着をかけた。
「ありがとう、ロイド」
カーテンの陰に隠れ、あさとは脱いだ衣服を身に着けた。
十センチほど肌を裂いた傷は、先日抜糸を済ませたばかりだ。
今日は最後のつもりで、念のためロイドに診てもらった。必要ないと思ったが、意外に神経質な医術師は、抜糸痕に丁寧に塗薬した後、こう言った。「傷自体は浅くても、細菌感染で命取りになることがあるからな」 ラッセルがそうだったように。
狭い診療室には、どこか甘い杏の匂いがたちこめている。
「……これで、随分沢山の怪我人の命が救われたんだ」
カーテンの向こうで、ロイドの呟きが聞こえた。
「もう少し早く出来ていたら……よかったのかもしれないけどな。アシュラルが手に入れた蛇薬を使って、ディアス様がお作りになられた。忌わしい毒薬が恐ろしいほど効き目がある薬になるなんて、俺には想像もつかなかったよ」
アシュラルが所持していた薬 あさとの傷を癒してくれた薬。服用しても塗布してもいいというその液体には、成分は判らないものの、多分、強い消毒効果が含まれているに違いない。
もう少し……早くできていれば、ラッセルは助かったのかもしれない。
胸にかすかに残る杏の匂いを感じながら、あさとは胸苦しい悲しさを感じている。
が、過去の痛みと思い出は、もう胸の中に収めておくと、決めた。
ようやく改築が終わり、診療再開にこぎつけた皇立療養院に、ここ数日、あさとは毎日通っている。あさとだけでなく、カヤノもルナも、連日ロイドの手助けに駆り出されている。
先日始まったばかりの児童を対象とした無料検診に、今日も沢山の子供たちが押し寄せて来ていた。殆どがその場で配布されるお菓子目当てなのだが、それでも、健康に問題がある子供を、早期に発見し、適切な処置を施すことができる。
一時の気休めだとロイドは馬鹿にしていたが、それでも、開設に当たって誰より尽力してくれたのは、この口の悪い医術師だった。
「大分よくはなったが、……そうだな、少し痕が残るかもしれないな」
カーテンを開けると、振り返ったロイドが、少し口惜しげに呟いた。
「そう……」
不思議と、それが哀しくも口惜しくもなかった。あさとはそっと、右乳房の下を押さえた。ここに……傷がある、彼を護るために傷ついた証が。
気づくと、ロイドが呆れたような目で見下ろしている。
「どうでもいいけど、そこで嬉しそうな顔になるのは、いったいどういう了見なのかねぇ」
「べ、べべ、別に、嬉しそうになんか」
ふん、とロイドは肩をすくめて、医術用具を片付け始める。
「それにしても、前の何倍も忙しくなったっつーのに、医術師が全然足りない。このままだと俺は間違いなく、疲れ果てて死んじまうぞ」
そして、いつもの口調になってぼやく。
「アシュラルに、たまには手伝いに来いと言っといてくれ。あいつは医術にも秀でていた……まったく、どこまでも嫌味な奴だ」
あさとはくすくすと笑った。
「そろそろ戻って来る頃だと思うけど、……本当に来てもらう?」
「冗談じゃない」
ロイドは心底嫌な顔をして眉を上げた。
「言っとくが、お前さんの傷の手当てを俺がしているなんて、死んだって亭主に言うなよ。あいつの嫉妬をまともに受けたら、何年あっても寿命が足りない」
「嫉妬って」
あさとは呆れてロイドの丸眼鏡を見上げた。「傷の手当てで? あのアシュラルが?」
ロイドは苦笑する。
「お前さんは、まだ男の独占欲の怖さを知らない。自分の惚れた女が、 それが例え医術師相手でも、他人に触れられるのは嫌なものなんだよ」
そうなのかな。……
あさとは自分の頬が赤らむのを感じた。
判らない。それでもあの彼が、それくらいで嫉妬するなんて……ちょっとあり得ないような気がする。
「クシュリナ様」
診療室の扉が開いて、顔を出したのはジュールだった。
「ジュール!」
あさとは驚いた。ジュールは、アシュラルと共に青州へ赴いていたはずだ。顔を合わせるのはおよそ半月ぶりになる。
ジュールが戻って来ている、ということは……。
「アシュラルは?」
「私と一緒に戻られました、すぐにこちらにも顔を出されますよ」
慌てて訊くあさとが可笑しかったのか、ジュールは微笑を浮かべていた。
あさとが傷を負った夜から、彼は長い髪を、肩まででばっさりと切り落としていた。
このタイミングが、また妖しいのよね……。
あさとはそう思ったが、やはりそれも口には出さなかった。少なくとも、アシュラルにその気がないことだけは判っているし 。
「……フォード公と……薫州と、無事に協定を結んだと聞いたけれど」
ジュールと肩を並べて外へ出ながら、あさとは訊いた。
「ええ、無事、とは言い難いですが……ひとまず、休戦となりました。これも青州公殿のおかげです」
ジュールの口調は苦かった。そこに至るまでにどれほどの犠牲があったのか、あさとには想像もできないし、知る術もない。自分は、ただ、信じて……待つしかない。愛する人の信念と誇りを。
「……青州公の仲立をもって、無事にナイリュとの同盟も成立しました。……その同盟がなければ、薫州も引きはしなかったでしょう」
苦い口調でジュールは続ける。
ナイリュ ユーリ。
実のところ、あさとには、それが一番気がかりだった。
結婚の話を白紙に戻した上で、アシュラルは再度の同盟をナイリュに申し入れたらしい。彼の詭弁を後で訊いたあさとは、驚くと同時に唖然とした。
(私の妻は妊娠している。 今さら、三鷹家に嫁がせるわけにはいかない)
ユーリはどう思ったのだろうか。
ダーシーの仲立で、ひとまず同盟を結ぶことになりはしたけれど、彼は……私を、許してくれるだろうか。
「ご心配は、ごもっともです」
あさとの顔色を読んだように、ジュールは続けた。
「ナイリュとイヌルダに、真の同盟が結ばれるかどうかは、今後の両国の関わり合い次第となりましょう。が、ナイリュも愚かな国ではない、今、イヌルダと正面きって争うような真似だけはしないはずです」
「……私、ユーリを……裏切ったんだわ」
呟くあさとを、ジュールは励ますような眼差しで見つめた。
「鷹宮ユーリ様が、かように心の狭いお方であるなら、ナイリュに未来はございません。あなたの御親友は、そのような方でございますか」
「…………」
違う……。ユーリなら、大丈夫……。
ユーリの優しさを、あさとは誰よりもよく知っている。
だから……辛い。でも、彼なら、きっと判ってくれるだろう。いつの日かきっと彼に再会できる。その時、私の本心を彼に伝え、できることなら許してもらいたい。
風が、涼やかにあさとの髪を揺らしている。
「……サランナは…?」
その質問には、逆にジュールの眉が陰るのが判った。
「依然、お行方は知れません」
「 そう……」
「サランナ様には、オルド内に沢山のお味方がおられます。その手引きで皇都を脱出されたのでしょう」
アリュエスの……爪。
あれは、どういう意味だったのだろう。アリュエスとは、シーニュを護る四神の一人で、義神と称されている。その……爪? 初めて聞く言葉だし、意味がまるで判らない。
サランナにもまた、ユーリと同じ、不思議な秘密の匂いがした。が、アシュラルが何も語ってくれない以上、ジュールが語ることもないだろう。
「……カナリーオルドにいたはずのヴェルツもエレオノラも、姿を消していました。おそらく……サランナ様は、すでにお覚悟を決め、皇都を出られる準備をなされていたのでしょう」
“ お姉様は私が連れて行くわ。”
あさとはうつむいた。あれは……殺すという意味ではなかったのだ。
胸を刺した後、泣くような悲鳴が確かに聞こえた。間違いない、あれは、サランナの声だった。
アシュラル率いる法王軍が敗走して戻ってきたとき、サランナは確かに動揺していた。いつになく苛立っていた。
全てが……嘘偽りだったとは、思えない。サランナは確かに、アシュラルを愛していたのだ。そして、勘違いでなければ、姉としての私のことも……。
皇都を出て、どこへ消えてしまったのだろう。
聞きたいことは沢山ある、言いたいことも沢山ある。信じられないことも、許せないと思うことも 。でも、どんな真相が出てこようとも、結局、心の底から憎むことは出来なかったような気がする。
楽観的に過ぎるのかもしれないが、話せば、きっと、分かり合えると信じたい。
何時の間にか病棟を抜けた二人の頬に、午後の緩やかな陽射しが降り注いだ。
季節で言えば春なのか、甘い花の匂いが、風に混じって鼻腔をくすぐる。もう病棟内に死の匂いはたちこめていない。
「お母様は……蛇薬を愛好しておられたのね」
「お噂は、随分前からございました」
ジュールの声は、さすがに深く沈んでいた。
「アシュラル様とディアス様は、かねてよりマリスの秘薬が医術に転用できないかと模索しておられたのです。が、マリスの秘薬は、今は手に入れることも作ることもできない……。アシュラル様は、ゆえにサランナ様を……」
利用した。そういうことなのだろう。
あさとは胸が苦しくなって視線を伏せる。が、そんなアシュラルの罪も残酷さも、これからは一緒に背負っていかなければならない。
「アデラ様が、いつからマリス教に手を染めておられたか……ヴェルツ公爵家と同様、それは、今後、法王庁が捜査することになりましょう。このような結果になり、クシュリナ様には、お辛いことと存じますが」
ジュールは、言いにくそうに言葉を切った。
「もう一つ……サランナ様の犯された罪のことですが」
何かを逡巡するように言いかけたジュールを、あさとは、そっと手で制した。
「……私、アシュラルを信じてる。彼が何をしていても、全部、受け止める自信がある」
「ですが」
「何も言わないで、……直接サランナに聞きたいの。いつかきっと、もう一度会えるような気がするから」
「………」
ジュールはしばらく無言のままだったが、やがて静かに微笑した。
「あなたのお心が、あの方に届けばいいと思います」
背後から、騒がしい声がしたのはその時だった。
「ちょっと、何をぼやぼやしてるのよ、クシュリナ」
「あ、カヤノ、ジュール様がいるよ。てことは法王様もいるんじゃない?」
カヤノとルナだった。
二人とも、白衣をつけて、髪を後ろで束ねている。
同じような衣服を着、大きな眼でこちらを見ている二人の姿は、まるで本当の姉妹のように仲睦ましく見えた。
「あのさ。こっちはてんてこ舞いなんだから、あんたもさっさと手伝ってよ。ほら、あっち。あんたは人員整理担当でしょ」
カヤノは顎で、病棟の向こうにある広場を指し示す。白い花をつけた木々が立ち並ぶ小高い丘の下 そこで、沢山の子供たちが、泣いたり喧嘩したり遊んだり、縦横無尽に騒いでいる。
「カ、カカ、カヤノ、お前は何と言う言葉で」
ジュールが、顔を青くしたり赤くしたりしながら、拳を上げる。あさとは可笑しくなって吹き出した。
「いいのよ、ジュール、あなたもアシュラルとは対等に話すじゃないの」
「いや、しかし、それとこれとは」
「いいから、暇ならあなたも手伝って」
あさとは子供たちの渦の中に入り、逃げる子供を捕まえては列を作らせた。誰も自分がクシュリナ女皇だとは知らないだろうし、言う必要もない。
広場の向こうでは、ロイドを始め数名の医術師が、診療台を広げて待機している。傍に立つカヤノが、苛々した様子でロイドに指示を与え、ロイドは苦笑しながら肩をすくめている。
もしかして、けっこう、いい組み合わせじゃないかしら?
あさとは微笑と共に、そんな二人を見守った。
医療費は、皇室で半分、法王庁で半分を負担することが、先日行われた貴族院会で決定されていた。それは アシュラルと、意外なことにコンスタンティノ大僧正が尽力してくれたおかげだった。
後日、挨拶に伺ったあさとは、お義父さんと呼ぶべきどうか、自身の立場に迷ったものの、コンスタンティノ・ルーシュはアシュラルのアの字が出ただけでもあからさまに不快そうだったので、結局最後まで呼べずじまいだった。
が、なんとなく……冷徹な聖職者の心の底にも、温かなものが流れているような気がする。きっと、いつの日か、アシュラルとも和解できる、そんな気がする。
「おーい、こっちは準備できたから、順番に連れてきてくれ」
ロイドの声がした。
「はーい」
返事をしながら、 これで終わりじゃないと、あさとは自分に言い聞かせた。
活き活きと、楽しそうに駆けまわる子供たち。病で動けない子供を抱え、手を合わせている夫婦連れもいる。
ここからが始まりなんだ、こんな病院を、もっと全国に広げなくちゃ。
「なんかもう、やになっちゃう。私、金波宮を出て、ここの専属になろうかな」
子供たちに識札を渡すために、こちらに近づいて来たカヤノが、ため息と共にそう言った。
「あなたの余裕のある顔、すっごい苛々するのよね。なによ、急に自信つけちゃってさ」
「えっ……?」
私のこと? あさとは少し驚いた。カヤノはふいっと顔を背ける。
「アシュラルと上手く行って欲しいと思ってたけど、実際上手くいかれると結構腹がたつのよね。いっそのことロイドに頼んで、ここに置いてもらおうかな」
カヤノったら……。
あさとは微笑した。
「それは、ロイド的にはかなり嬉しかったりするんじゃない?」
「何? それ」
「……別に」
「別にじゃないでしょ。ちょっと、待ちなさいよ、それ、どういう意味なのよ」
思わぬ図星を衝かれたのか、妙にむきになっている。笑いを噛み殺しながら、あさとは思った。カヤノは本当にいい女だ。あの偏屈ロイドが惚れたとしても無理はない。
「ねぇねぇ、何処行くの」
「お菓子まだぁ」
子供たちが騒ぎ始めた。あさとは慌てて振り返った。
「さぁさぁ、静かに、一列に並んでね。はい、赤い札の子はこっちに来て」
「ねぇ、お姉ちゃん」
先頭の子が袖を引いた。
「見て見て。あそこに立っている男の人。すごく綺麗、まるで絵本の中の騎士みたい」
あさとは顔を上げた。
風が、周囲の木々に咲く白い花片を、雪のように舞い上げていた。
広場の向こう、緩やかな丘陵の上、花曇の空を背に、一頭の黒馬を引いて立つ長身の姿がある。
彼はこちらには気づかない様子で、別の方角をふと見やり、そこから駆けてくる男 ジュールと笑顔で向き合った。
以前より少し伸びた髪が、肩に流れて風に揺れる。法王の象徴でもある紫紺の法衣が、金刺繍を煌かせ、たなびいている。
端整な横顔はわずかに日に焼けていた。彼は何事かジュールと話し合っているようで、時折くちびるに指をあて、何かを思案しているようにも見える。
「アシュラル!」
あさとは声を上げた。彼は弾かれたようにこちらを向いた。
駆け寄るあさとの姿を 本当に驚いたように、ただ、彼は見つめていた。
ようやく再会した夫の腕を取り、あさとは大きく息を吐いた。
「吃驚した、帰って来るなら、もっと早く教えてくれたらよかったのに」
アシュラルの瞳は動かない。その顔が、ひどく……優しかった。優しいというよりは寂し気に見えた。
「……アシュラル…?」
「いや」
視線を下げたアシュラルが苦笑する。「なんでもない」
そう言うと、彼はいきなり、あさとの身体を抱きしめた。
「ア、アシュラル……?」
ドキドキする。広い胸に頬をあてたまま、あさとは戸惑ってうつむいた。抱きしめられながら 以前にはなかった不思議な感情が、自分を深く包んでいる。
彼の腕も胸も、……もう、全て自分のものだと知っている。彼がどんな眼で自分を見つめ、どんな声を出すのか、あさとだけが知っている。
逆に、あさとの声も、眼差しも、彼は全て知っている。
それは不思議な気持ちだった。恥ずかしさとも違う、嬉しさとも違う 。
が、今は、普通に恥ずかしかった。
「……あの、みんな見てるから」
「構わない、半月会えなかった。毎晩、お前のことばかり考えていた」
「うん……」
それは、嬉しいんだけど。
背後で、ごほん、と軽い咳払いが聞こえる。
あの……ジュールが、軽く牽制しているような気がするんですけど。……。
「明後日には奥州に出かける。今夜しかお前の傍にはいられない」
「…うん……」
胸が、少し切なくなる。判ってはいたことだけれど。
アシュラルはゆっくり顔を上げると、あさとの眼を見下ろした。とても 優しい眼差しで。
「ロイドの手伝いが終わるまでここで待とう。お前と行きたい場所がある」
13
あさとはウテナを走らせ、それに追走するように、アシュラルの黒斗が続いた。
二人の前後を、ジュールら黒竜騎馬隊が囲むようにして追走している。
翳る森を抜け、やがて騎馬の群れは法王領に出た。
新緑に囲まれた広いなだらかな山道を、法王と女皇を護る騎馬隊は、まっすぐにひた走る。
やがて、眼下にカタリナ修道院の緑の屋根が見え始めたころ 、ようやく集団は馬の脚を止めた。
「もどかしいな」
黒斗から飛び降り、あさとの降馬を手伝いながら、アシュラルは端正な目元に苦笑を浮かべた。
「何が…?」
けげん気に見上げた頬に、素早く唇が寄せられる。
「早く二人になりたいからだ」
「あ、あのね」
背後には、ずらりとジュール率いる黒竜騎士が居並んでいる。あさと赤面して、アシュラルの腕を押しやり、囁いた。
「アシュラル、そういうことは、人のいないところで」
「いなければ、この程度で済ませる自信がないぞ」
閉口するあさとを見下ろし、アシュラルは楽しそうに笑った。
「行こう」
彼の伸ばした手を、あさとは取った。
夕焼けが眩しかった。
アシュラルに導かれるまま、緩やかな傾斜を上がり、やがて二人は肩を並べ、小高い丘の上に立った。
「わぁ……」
あさとは、思わず声を上げている。
「ここからは、皇都の全てが見渡せる」
そう言って、まっすぐに伸びた腕が指し示す先。
金色にきらめくシーニュの森の向こう。紫紺、群青、金褐色……様々な色を抱いた大きな夕日が、金波宮に反射して輝いている。茜に染まる藍河、燃える太陽を包もうとしている南海 それは、息を飲むほど壮麗で美しい光景だった。
いつかラッセルと二人で、皇都の丘陵から金波宮を見下ろしたことを、あさとは胸が切ないような気持で思いだしていた。
今、同じような景色を、別の人と手を取り合って見つめている。
「どうした?」
「ううん」
あさとは、アシュラルの手を握りしめて、首を横に振った。
幸福の裡に潜む寂しさがある。でも、それが、私の……クシュリナの運命なのだろう。決して消えることのない思い出を抱えたまま、この人を愛し続けていくのが。
「……この国は美しい。住む人の心も、いつかこの景色に負けないよう、美しくなればいいと俺は思っている」
夕陽がアシュラルの髪を金色に燃え立たせ、美しい輪郭を彩っている。
うん……。
あさとは何も言えずに、ただ、うなずいた。
「そうなれば、いつか人々の心から忌獣は消える。予言の闇は光になる。その日まで お前には苦労をかけるだろう。俺はきっと、いい夫にはなれない。悲しませることもあるかもしれない」
その声が、やはりどこか寂しそうに聞こえた。
「平気……」
あさとは、絡めた指をしっかりと握り締めた。
「私はいつでも、あなたの傍で、……あなたの帰りを待っているから」
「クシュリナ……」
そのまま、かがみこんだアシュラルと唇を重ねる。優しい腕に抱きしめられ、あさとは目を閉じ、広い背に手を回した。
愛しい。……
どうしたらいいか分からないくらい、この人が、愛おしい。
それでも、胸の裡にわずかに残る不安から、あさとは顔をあげ、アシュラルを見上げていた。
「訊いても、いい?」
「ん?」
「私のこと……」
今は、どんな風に思っているの?
一度でいいから、あさとは言葉が欲しかった。態度でも眼差しでも、それはもう判ってるのに……一点だけ、心に不安が残っている。
返事の代りに、アシュラルは額に唇を当ててくれた。
そうじゃ、なくて……。
本当は少し、怖い。
少しだけ、自分のこの姿に嫉妬している。
彼が愛したのは 私じゃなくて、この外見を持つクシュリナなのかもしれないから。
「言って」
「何を」
「何って……その……」
「その?」
「その、……私のどこがよかった、とかよ」
言いながら、頬が熱くなっている。本当に、なんてことだろう。自分の人生で、こんな甘いセリフを吐く日が来るとは夢にも思っていなかった。
「おかしな奴だな」
が、アシュラルは、訝しげに眉を寄せた。
「な、何よ、おかしな奴って」
「悪いところを聞いて直すならともかく、いいところなど聞いて何の意味がある」
「ど、……」あさとは唖然として口を開けた。
「どうして今の状況で、そんなに現実的になれるのよ!」
「どうしてと言われても……」
忘れていた。コンスタンティノ家の至宝は、恋の機微には疎いんだった。
「お願い、言って」
「………」
「言ってくれないと、 ふ、不安なんだもん」
ようやくあさとの気持を理解してくれたのか、かすかに、アシュラルが苦笑する気配がした。
「子供みたいに意地っ張りなところだな」
「な、それって」
あなたのことじゃん。
「ああ言えばこう言う 生意気なところもいい」
唇が、頬に触れた。
「キスした後に、俺を見る眼」
心臓……痛い。
「俺の名前を呼ぶ時の声」
もう……やだ。泣ける、私、完全に参っている。
あさとはアシュラルを抱き締めたまま、眼を閉じた。
「あなたの眼が嫌い、冷たいし、何考えてるかわかんない」
アシュラルの指が、優しく髪に絡んだ。
「その声も嫌い……聞いてるだけで、他のことが考えられなくなる」
額から、頬にキス。
「すぐキスするとこも嫌い、人目を気にしないんだから」
「それから?」
「……その笑い方も、嫌い……」
好き。
「それから?」
「性格も嫌い、歪みすぎてる」
大好き。
「……全部嫌い」
全部、大好き。
この幸せを切りとって、永遠に留めておきたいくらい。
あさとは眼を閉じたまま、彼の身体を抱きしめた。
抱いても抱ききれない、心が伝えられなくてもどかしい。胸が……。
胸が痛くなるほどの幸せを、あさとは初めて知ったと思った。
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第四部 終 |
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