アシュラルが帰城するとの知らせを受けたのは、翌々日の夕暮れだった。
 知らせは、ジュールが放った使者からもたらされた。彼は国境を超えた法王を出迎えるため、すでに金波宮を出立していた。
 それまでも、敗走してきた法王軍がぞくぞくと戻ってきており、その凄惨な状況は、目を覆わんばかりだった。片足のちぎれた者、顔半分を切り裂かれた者   殆どの被害は敗走中、忌獣によってもたらされたらしい。
 長い距離を一気に駆け抜け、たどり着いた途端に息絶えた馬、人。死臭と血の香りが美しい中庭に満ち、黄金の城を血塗られた場所に変えてしまっていた。
     法王様が戻ってくる。
 知らせはすぐに全オルドを駆け巡り、待機していた騎士たちの顔にも緊迫したものがみなぎった。門扉には煌煌とかがり火が焚かれ、出迎えの騎士たちで埋め尽くされる。
 あさともまた、カヤノと共に、門扉前の広場に赴いていた。
「絶対、無事なはずがないわ」
 カヤノは、心配のあまりか、もともと蒼い顔をさらに蒼白にさせていた。
「アシュラルは昔から身体が弱いの、こんな無茶な生活、絶対に無理だって反対したのに!」
 その時だった。
「まぁ、随分弱気な女官をお持ちですこと」
 冷ややかな女の声がして、あさとは思わず顔を上げた。
「そんな不吉なことを言うくらいなら、こんなところまで出てこないでくださる? 皆の士気にかかわるわ」
 それは多くの女官を引き連れてやってきた、サランナの一団だった。よく通る声でそう言い放った妹は、そのままふいっと顔を逸らすと、人の輪を押しのけるようにして最前列に陣取った。
 彼女もまた    明らかに冷静さを欠いている。
 普段なら文句のひとつも言い返すはずのカヤノは、蒼ざめて口も聞けないままだった。
「……大丈夫よ、アシュラルなら絶対に無事だから」
 あさとはカヤノを慰め、震える肩を抱きしめた。
     絶対に、無事だから。
 カヤノを励ましながら、自分自身にその言葉を言い聞かせていた。そうでなければ、正直、立っていられそうもない。
 夜はますます更けて行く。月が出ているとはいえ、決して安全な時間ではない。それなのに、門扉前の小さな広場には、まだぞくぞくと黒竜騎士や法王軍が集まり続けている。
 その数と、彼らの眼に宿る一種異様な輝きに、あさとは自然に気圧されていた。彼らはみな、彼らにとっての軍神である、アシュラルの帰還を待ち詫びているのだ。
 その時、城門が開き、法王旗と紋章をつけた騎馬の一群が現れた。
 どよめきと小さな歓声が漣のように広がる。
     アシュラル。
 あさとは、思わず両手を握りあわせていた。
 法王アシュラル。彼は、全軍の先頭で、黒斗に騎乗していた。
 銀の甲冑の兜だけを外し、艶めく黒髪が顎のあたりまで垂れている。目立った怪我もなく、顔色は白々として、むしろ、美しくさえ見えた。
 凛とした力強い眼差し、引き結ばれた唇には、不屈の闘志が宿っているように感じられる。
「出迎え、ご苦労」
 ざっと周囲を見まわし、アシュラルは短く言った。
 いつもの、彼の声で。
 あさとは心底ほっとしていた。よかった……彼は生きて、そして戻ってきてくれた。それだけで、怖いほど安心している自分がいる。
 その場に黒斗を止めると、馬上のアシュラルは、背後の軍勢を鋭く見据えた。誰もが敗走の疲れを滲ませ、覇気のない顔をしている。
 厳しい視線を留めたまま、彼は、鮮やかに腰の剣を抜き払った。
「我々は死地から脱することができた」
 凛とした声だった。白々と輝く刃に、燃え盛るかがり火が反射している。
「これは神の加護以外のなにものでもない。そのことを決して忘れるな、予言の闇は我らが切り裂く、未来は、我らと共にある!」
 腹の底から魂を震わすような、力強い声と眼差し。
 何よりアシュラルは美しかった。髪は波立ち、焔を映した瞳は燐光を放って輝いていた。もし闘神というものがいたのなら、それは確かに今の彼を指すのだろう。
 広場には歓声と掛け声が怒号のように放たれ、敗走の軍はその瞬間、凱旋の軍に変わった。
     これが、アシュラルの……力なんだ、
 あさとは呆気に取られ、そして理解した。彼が今の法王軍を、そしてこの国の行く末全てを背負っていることを。
 彼だからできたのだ。
 彼でなければ駄目なのだ。
     アシュラル……。
 胸が痛んだ。苦しかった。
 つまり、それがとれだけ艱難辛苦の地獄だろうが、アシュラルだけは    決してこの戦いから、降りることが許されないのだ。
 果てしない喧騒の中、全軍の将はクロークを翻して黒斗から飛び降りた。
 扇を口元に当てたサランナが、ゆっくりと彼の傍に歩み寄ろうとする。
「ジュール!」
 しかしアシュラルはいきなり叫んだ。数歩先まで近寄っていたサランナは、さすがに驚いたのか足を止めている。
「ジュール、どこにいる!」
 あさとは眉をひそめた。場違いにひどく苛立った声、その横顔は影になって、表情まではよく見えない。
 気がつくと、ジュールが、速やかに駆け寄ってきていた。アシュラルはその耳元で一言囁き、そのまま、長身の男に護られるようにして、門扉前の広場から城壁を隔てた騎士溜まりへと姿を消した。
「まぁ……」
「どうなされたんでしょう、サランナ様がお出でだと言うのに」
 女官たちの間から、不満の溜息がもれる。
     アシュラル。
 あさとは、その背中を追って駆け出した。
「ちょっと、クシュリナ」
 カヤノの困惑した声も気にならなかった。
     嫌な、予感がする。
 この観衆の目の中で、女皇である自分が、走って彼の後を追う    それが、いかに恥ずべき行為であるかはよく判っている。
 サランナのきつい視線を背中に感じる。そんなことさえどうでもよかった。
「アシュラル!」
 扉を開けて、兵士溜まりに続く廊下に出ると、あさとは自分の予感が的中したのを知った。
 アシュラルは、ジュールに抱きかかえられていた。力なく落ちた腕、暗い影に覆われた横顔。
 その眼だけが、鋭くあさとを認め、睨みつける。
「……お前は来るな」
 乱れた髪、髪際に苦悶の汗が滲んでいる。
「怪我なの…? 大丈夫なの?」
 たまりかねてあさとは聞いた。
「来るなと言っている!」
 癇のある声だった。全身で、あさとを拒んでいるのがわかった。
 それ以上何も言えなかった。あさとはうなだれ、去って行くジュールとアシュラルを見守った。
 
 
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「クシュリナ様?」
 アシュラルの自房の扉が開いて、姿を見せたのはジュールだった。彼はさすがに、深夜の来訪者の顔を見て、眉をひそめた。
「このような時間に、お一人で出歩かれてはなりません」
 厳しい口調だったが、あさとはひるまなかった。一晩たち、何の知らせもないまま待ちつづけた。限界だった。どうしても、アシュラルの容態が知りたい。
 幸い、毒酒事件以来、フラウオルドの全権はアグリからカヤノに移された。
 再び第一女官となったカヤノのおかげで、あさとは随分自由にオルド間を行き来できるようになっていた。
「……彼は?」
 あさとは訊いた。「怪我なの? それとも」
 ジュールは静かに、首を左右に振った。
「ただ、お疲れがたまっただけです。元来それほどお強い方ではないゆえ」
「病気でもないのね」
「むろん」
 きっぱりと否定される。
 ほっとしていた。肩から力が抜け、張り詰めたものが、一気に緩む。
「クシュリナ様……」
 ジュールが、じっと見下ろしている。あさとは狼狽して顔を背けた。判っている。もう私が、彼のことをあれこれ心配する必要はないのだ。
「ナイリュ行きの件、アシュラル様も、承知なさいました」
「………」
「すぐに使者を、ナイリュへ遣わせます」
「うん……」
 あさとは、曖昧に頷いた。
「……少し、彼と話したいんだけど」
「今、眠っておられます。私は退室するところですが……」
 ジュールはそこで、わずかに眉をひそめた。
「お傍にはサランナ様がついておられますので」
「………」
 一瞬、胸に石がつかえたような気持ちになった。あさとは逡巡して、そして、顔を上げた。
「私が代わる」
 ジュールは何も言わなかった。
「ずっと……考えてた。……この間、ジュールに言われたこと」
「………」
「最後に私の口から、……言いたいことがあるから」
 見上げるほど長身の男は、黙って身を引く。
 男の傍を磨り抜けるようにして、あさとは夫の部屋に入った。侍従の驚く顔をよそに、奥にある寝室へと向かう。
 自分が何をしているのかと思うと、可笑しくなった。きっと、夫の愛人に立ち向かう本妻というのは、こんな悲壮で、なおかつ滑稽な気持ちなのだろう。
「お姉様」
 寝室の扉が開いて、サランナが少し驚いた顔で出てきた。しかし、それはすぐに、嫣然たる微笑に変わった。
「……驚きましたわ、何のご用かしら、こんな時間に」
「彼に話があるの」
 あさとは言った。いまだかつて自分が、こんなに厳しい口調で、妹に何か言うのは初めてだった。サランナは困ったように苦笑する。
「後にしてくださらない? 彼、ひどく疲れているのよ」
「だったら、今夜は、私が彼の傍についているわ」
「………」
 妹の表情に、不思議そうなものが広がる。
「意味が、わからないのだけど」
 くすり、と、ようやくサランナは可笑しそうな笑みを浮かべた。
「いったいどうなさったの? 法王軍の帰還を目の当たりされて、頭に血が昇られたのではなくて?」
 余裕を滲ませた瞳が見上げている。あさとは込み上げる感情にじっと耐えた。
「おかしくてよ。お姉様。全然いつものお姉様らしくないわ」
 かすかに笑ってサランナがきびすを返そうとする。その背に、あさとは言っていた。
「いつもの私ってなに?」
「………」
「私にも、サランナの知らない面があるのよ」
 それは、いつか聞いた雅のセリフだった。
 皮肉なことに、その時の雅の気持が、初めて判ったような気がしている。
「知らない面……ね」
 振り返り、わずかに眉をあげたサランナは、それでも楽しそうにくすくすと笑った。
「そうね……。きっと、嫉妬なされているのね。お姉様にそんな感情があったなんて、確かにはじめて知った気がするわ」
「今夜は、私が彼の傍にいるわ」
 辛抱強く、あさとは繰り返した。
「私は彼の妻だもの。……今夜は、私が付き添うわ」
「そのお立場も、もうすぐ終わりなのではなくて?」
「でも、今は私がこの人の妻よ。サランナ、私と彼を二人にしてちょうだい」
「………」
 二人の女の視線が絡んだ。
 怒りとも憎しみともつかわない眼差しが、がっと宙でぶつかって弾け散る。
「……よろしくてよ、ナイリュの王妃様」
 そう言うと、サランナは別人のような優しい眼になった。優しくて    怖い眼差しになった。
「これからは、国を通じたお付き合いになるのですもの。今回は私が譲って差し上げるわ」
 ドレスの裾が、ゆるやかに翻る。
「ごきげんよう」
 妹と私は    もう、二度と、分かり合えることはないのだろうか。
 優雅な足音を聞きながら、あさとは芯から疲れを感じた。
 
 
 
 
 

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