多分、一生忘れない。
 胸が痛くなるほどの、この幸福な瞬間を   
 
 
 
 
 
 
 
第七章  至福
 
 
 
 
 
 
 
                     
 
 
 黄昏が深い。
 あさとが金波宮に戻ると、オルド内の雰囲気が妙に殺気立っていた。
 宮中のあちこちで、黒竜騎士が忙しく行き来している。
 いつもそこかしこに姿を見せる、サランナ取り巻きの婦人たちもいない。
     どうしたんだろ……。
 騎士の待機所をのぞいても、誰もいない。ジュールの姿さえ見当たらない。
 ディアスの病状のことを、ジュールに話すつもりだったのだが、この様子では明日にした方がよさそうだ。
 が、フラウオルドに戻ったあさとが、外出用のケープを紐解くと、居室に続く廊下から、大きな声が響いた。
「クシュリナ様」
 廊下の向こうから、探していたジュールが、血相を変えて駆けてくるのが見える。
「お帰りが遅いので、お迎えに参るところでした」
 そのジュールの表情が、いつになく焦燥している。
 あさとは、眉をひそめていた。
 いつもきちんと整えられている長い髪も、どこか乱れて精細を欠いている。
 漆黒の騎士服を隙なく身にまとった姿は、まるですぐにでも戦場に出て行きそうにさえ見えた。
「何か……あったの?」
 不安にかられてあさとが訊くと、ジュールは微かに息を吐き、重苦しく視線を逸らした。
「アシュラル様が……」
     アシュラルが?
 心臓が高鳴る。ジュールの顔。乱れた髪。
 嫌な予感で、胸がつぶれそうになる。
「薫州、松園フォード公が、ついに反旗を翻したのです。アシュラル様は、ヴェルツ家の残党を討伐するために奥州に赴かれましたが、それは、薫州公の罠でした。法王軍は、奥州イルマ川のほとりで、薫州灰狼軍とコシラ軍の挟み撃ちに遭われ……」
 苦いものを、一気に吐き出すような口調だった。
「全くの奇襲、一晩で、法王軍の三分の一は壊滅したそうです」
 足元が揺れる。目の前の男が何を言っているのか、わからなくなる。
「すぐに援軍を向かわせました。法王軍は、ひとまず無事に奥州を退却したとのこと。ただ……アシュラル様の安否はまだ判ってはおりません」
 よろめいたあさとの肩を、男の腕が抱きかかえた。
「落ち着かれてください」
「大丈夫……」
 その腕を振り解き、あさとは震える自分の体を抱いた。
 心臓が痛い。怖い、どうしたのいいのかわからない。ラッセルだけでなく    このうえ、アシュラルまでも、いなくなってしまったら    私は。
「クシュリナ様……」
 しばらく無言だったジュールは、沈鬱な声で言った。
「実は、ご相談したき儀がございます、後でお部屋に伺わせていただいてもよろしいでしょうか」
 
 
               
 
 
 ジュールが訪ねてきたのは、随分夜も更けてからだった。
「アシュラルは?」
 眠れないまま、その来訪を待っていたあさとは、居間にジュールを通して女官たちを遠ざけると、急くようにして訊いた。
 ジュールは無言で、首を横に振った。端正なその顔に、あきらかな疲れと焦燥の色が滲んでいる。
「……アシュラル様なら大丈夫でしょう。あの方は強運に護られておられる。今、シュミラクール界にあの方が必要とされるのなら、こんな所で死なれたりはしない」
 俯いた横顔は暗く、まるで自分に言い聞かせているような口調だった。
 あさとの勧めた長椅子に腰を下ろし、    ジュールがあさとの部屋で腰を下ろしたのは、それが初めてだったのだが、長髪美髯の男は深く嘆息した。
 何か言いかけて、言えない、そんな感じだ。
「あの人は……一体このイヌルダをどうするつもりなの?」
 あさとは聞いた。
 薫州は、五公の一人、松園フォード公が守る鉄壁の領地である。統制を欠いたヴェルツ一派や小領主の反乱とは規模が違う。部類の戦上手と名高いフォード公が戦を仕掛けてきた以上、イヌルダに本格的な内戦が勃発したことになる。 
「アシュラル様は……この細分化されたイヌルダを、皇室の手によって統一なされようとしておられるのです」
 ジュールは静かな口調で言った。
「イヌルダは皇室を中心とする単一国家ですが、その実、沢山の諸侯の手によって分断されています。皇室や法王の領地は年々失われ、その力が形骸化する一方で、歯止めをなくした諸侯は好き勝手に税を増やし、富を蓄え、民を苦しめている」
「………」
「民の不満が皇室や法王への不信につながり、世は乱れ、この世界の秩序そのものが失われてしまった。まるで、天の怒りように……です」
 ジュールはそう言うと、上着の内側から一枚の洋紙を取り出して、ゆっくりとあさとに差し出した。
「終末の予言書です。コンスタンティノ様のお許しを得て、写しをいただいてまいりました」
「……いいの?」
「お読みください。そのためにお持ちしたのです」
     これが、終末の書……?
 あさとは震える手でそれを受け取った。
 
 
 
 青き月、欠けることなき暗黒の時代。
 陰と陽が解け、闇が永き眠りから目覚める。
 黄金の国は力を失い、人獣が地を支配する。
 竜の時、世界は黒塵と消えるであろう。
 
 民よ、祈れ。
 天の年。
 ユリウスの蛟に生を受けし乙女。
 地の年。
 クインティリスの獅子に生を受けし子。
 二つの血を受け継ぐ者が、シュミラクールに永き平安をもたらすことを。
 
 
 
「人獣とは、忌獣、黄金の国とはまさに、このイヌルダのこと。そして竜の時とは……リュウビの時」
 ジュールは静かな声で続けた。
「終末の書とは、今から約四百年前、ヴェルレイユという名の神官が、天の<声>を聞き取って書き留めたものなのだそうです。その内容があまりに不吉だったため、長年に渡って法王庁が、極秘に隠してきたと言われております」
「……天の、声?」
「……記録が正しければ、ヴェルレイユ・ディアス。何代も前のディアス様です。当時のディアス様は、代々皇室の神官を務めておられたのです。彼の書は、正式にはヴェルレイユの書と呼ばれています」
 ……声。
 あさとは不吉な予感を抱いたまま、その洋紙に綴られたわずか十行の文章を目で追った。
「すごく……曖昧な文章だわ」
「その通りです。ゆえに法王庁では、幾通りの解釈がなされています。解明されていない曖昧な個所もあり……むろん、予言そのものを懐疑的に捕らえる向きもございます。が、そういったなかで、予言書を補ってくださるのが、ディアス様の聞く、<声>なのです」
     声……。
 あさとは、怖いものでも見るような目で、ジュールを見上げる。
「ディアス様は申されました。その<声>はこう告げた。       急げ、時間がない、リュウビの年、この世界の全ては忌獣に覆われ、終わりのない闇に転じる」
「………」
「その前に、そうなる前に、    この私を解き放て、と」
     解き放て……?
 あさとは眉を寄せ、ジュールを見る。
「私にも、そしてディアス様にも、無論、その真の意味は理解できません」
 ジュールはゆっくりと首を横に振った。
「けれど、確かなのは、世に蔓延る忌獣をなんとかしなければ、この世界に未来はないということです。そして忌獣とは、人の恐怖が呼ぶ邪気の塊。    すなわち、人心から恐怖を取り去ってしまえば、忌獣は消える」
「ラッセルは……、忌獣のことを、調べていたのね」
 あさとが聞くと、冷静な男は、わずかに眉宇を動かし、顔を背けた。
「ラッセルは……、生前、蒙真にこそ忌獣の謎を解く鍵があると、言っていました」
「蒙真……?」
「こたび、ディアス様が向かわれたのも彼の地にございます。蒙真では三鷹家の再興が叶い、先日、正式に国名をナイリュに戻すよう、イヌルダに申し入れがございました。……ラッセルやディアス様が気にとめておられたのは、蒙真半島。もともと、蒙真族が生まれ、住み暮らしていた南端の島でございます」
「その島に、何があるの」
「忌獣が……一番最初に発生した場所だと言われております」
「…………」
「その時は、今から百年も昔にさかのぼります。……蒙真が、ナイリュの王、三鷹家を滅し、彼の国を支配するに至った時期です」
 どういう、意味だろう……。
 あさとは、黙って眉を寄せる。
 重たい口調で、ジュールは続けた。
「忌わしき記録はすべて、五国にあっても、蒙真にあっても闇に葬りさられました。それを、二年の間、頻繁に蒙真に赴いたラッセルが探り当てたのです。……百年前、蒙真が三鷹家を滅した背景には、忌獣を操る異能力者の存在があると……蒙真半島には、そのような言い伝えが根強く残っているのです」
 忌獣を操る異能力者……。忌獣を操る者   
 まさか、雅?……
 まさか、あり得ない。
 それでもあさとは、自分の顔が白くなっていくのを感じていた。
「ラッセルが、謎に包まれていた忌獣の秘事を少しずつ明らかにしていきました。彼の獣が、人の意思に左右される存在であることも、ラッセルが……自身の命を賭して、実証してみせたことです」
 私は、忌獣を見たことがありません。
 そう言って、微笑したラッセルの横顔が、鋭く胸に突き刺さる。
「例えば、青州です」
 ジュールは続けた。
「青州は、グレシャム公が支配しておられた頃、イヌルダ一忌獣の多い州でした。けれど今は違います。残忍なグレシャム公が亡くなり、誠実なダーシー公がその後をお継ぎになって以来、忌獣の被害は激減しているのです」
 あさとは、はっと眼が覚めるような気持ちで顔を上げた。
 そうか、そうなのだ。人の心が、人の恐怖が、忌獣を呼ぶのなら   
「アシュラル様は今、イヌルダを単一国家に戻し、世界の秩序を元に戻そうとなされています。諸侯の暴力と圧制を廃し、民の心に平穏とかつての信仰心を取り戻そうとしておられるのです。改革には多くの血が流れます。けれど、民の心にしっかりと根付いてしまった支配者への畏怖を砕くことができるのは、それ以上の恐怖をもってでしかない。
 最初、確かに人々は恐れ、忌獣は一時的に増えましょう。けれどその後民は知る、もう    彼らを虐げるものはどこにもいないのだと。そして取り戻した平穏と信仰の心が、忌獣を一掃するのです」
 あさとはようやくアシュラルの全てを理解したと思っていた。彼の理想、志。けれどそれはなんと険しく、残酷な道なのだろうか。恐怖に恐怖を持って相対する。本当に    他に取るべき手段はなかったのだろうか。
「アシュラル様は……自らの運命と戦っておられるのです」
 あさとが黙っていると、ジュールは苦しげな口調で続けた。
「あの方が、コンスタンティノ大僧正のご養子だということは、知っておられますね」
 主人思いの忠実な騎士は、少し寂しそうに目を伏せた。そして、しばらく黙った後、思いきったように顔を上げた。
「あの方の御出自は、貴族でも僧侶でもないのです。あなたがどう思われるか、誤解を恐れずに申し上げれば、あの方は、イヌルダの貧民街でお生まれになられました」
 あさとは一瞬驚いて、目の前の美しい眼をした男を見返した。
「それは、私も同じことです。それがどのような暮らしなのか、もう、あなた様にはお分かりのことだと思います」
 信じられなかった。あの誰よりも優雅で、気高いアシュラルが   
 ただ、そのことが、少しも彼の価値を損ねないことを、あさとは知っていた。彼の価値は、彼が持つ輝きと人間性の全てなのだから。
「アシュラル様がコンスタンティノ様に拾われた理由はただひとつ、あの方が、地の年、クインティリスの獅子の運命を背負って産まれてきたからです。ディアス様が聞いた<声>に導かれ、コンスタンティノ様とハシェミ様が、アシュラル様を探し出しました。そして、そのために、    あの方はご家族や兄弟と引き離され、出自の秘密は永遠に封印されたのです」
 ジュールは辛そうな顔になった。
「封印……って?」
「家族はみな分断され、父親は収容施設に送られ、母親も軟禁された上、病死したと聞いています」
 あさとは言葉を失った。そんな    ひどいことが行われていたなんて、しかも多分、それは。
 あさとの父、ハシェミも知っていたことに違いない。
「……お父様も、それを知っていらしたのね」
 声が震えた。
 ジュールはそれには答えなかった。
「アシュラル様は、いずれ産まれるクシュリナ様の夫となり、強き将として国を支え、そして……救世主となる子供を産むためだけに育てられたのです。それがどれだけ、あの自尊心の高い方を傷つけたか……おわかりになりますか」
 同じだ。
 あさとは胸が痛むような思いで、ようやく理解した。
 自分とアシュラルは同じ思いを抱いていたのだ。同じ運命に苦しみ、傷ついていた。
「今、あの方は、自らのお力でこの世界を変えようとなされている。予言に言う子供などには頼らずに    ご自分で、この世界を闇から救おうとなされている。私たちは、もともとアシュラル様をお守りし、予言書の内容を実現するために集められました。けれど、ディアス様に啓蒙され、この国の行く末を憂い……何よりアシュラル様の類稀なる才能を信じているからこそ、あの方の理想に従い、命を捨てようと覚悟を決めたのです」
     お願いがございます。
 ジュールはいったん言葉を切ると、あさとに向き直った。ひどく暗い眼差しをしていた。
「先日、アシュラル様ご帰城の折、実はナイリュ国より、一通の書状が届いておりました」
「ナイリュ……?」
 あさとは呟いた。
「旧蒙真。が、今や、蒙真王朝は壊滅いたしました。ナイリュ、と呼ばねばなりますまい。三鷹家と皇都が、長年敵対関係にあることは、ご承知でいらっしゃいますね」
「…………」
 マリスを信仰する国、ナイリュ。
 そのために百年の昔、イヌルダは軍を送ってナイリュの三鷹家を滅ぼしたのだ。
「今、何より肝要なことは、一刻も早くイヌルダ国内を統一することにあります。そのためには、一日でも早く他国の王と同盟を結ばなければならない。シュミラクール4国の内、ウラヌスとはいまだ確たる同盟がならず、タイランドは現在静観を決め込んでいます。法王軍と同盟を結んでいるのはゼウス一国のみ。その中にあって、青州と隣接するナイリュがどういう立場を取るか……それは、非常に、重要なことなのです」
 説明されるまでもなかった。
 松園フォード公が明確に敵に回った以上、皇都の、いやアシュラルの苦戦は目に見えている。
「アシュラル様が各国の王と謁見を重ねているのと同様に、松園フォード公も、独自に他国との接見を試みているはずです。万が一、ナイリュのような強大な国家が、薫州公の後ろ盾となり、イヌルダに叛旗を翻すようになれば……、この内戦はあっという間に世界戦争に発展するでしょう」
「………」
「……それはまだ、早すぎます」
 ジュールは低く呟いた。
 あさとは、ふと、疑念を感じている。その言い方は、ジュールがあらかじめ、世界戦争をも視野に入れていることを意味しているような気がしたからだ。
 が、今は何より、無益な争いを避け、イヌルダ国内を統一することが先決だった。
「それで……ナイリュの書状って、何だったの」
 あさとは訊いた。
「……ナイリュの三鷹王家に対し、アシュラル様は早くから同盟の使者を送っておりました。今回の書状はその返答でした。すなわち」
 ジュールは言葉を切った。少しの間があった。
「同盟の条件として、彼の国の次期王、三鷹ミシェル様の妻として、イヌルダの姫いずれかを貰い受けたいとのご返事でした」
 それが何を意味しているのか、あさとにはしばらくわからなかった。それは   
「サランナを、ナイリュ王室へ嫁がせるということなの……?」
 どうして、ジュールはこんなに……泣きそうなほど、暗い顔をしているのだろう。
「繰り返しますが、イヌルダの姫いずれか    です」
 ジュールは重たい口調で繰り返した。
「そして、アシュラル様は、サランナ様を決してお手放しにはなれないでしょう」
     それは、では。
 あさとは呆然とした。まさか、想像もしていなかった。すでに結婚している私が   
 自分の周りの物が、急に動きを止めたような気がした。
 ジュールの声も、ひどく遠くから聞こえてくる。
「アシュラル様がサランナ様をお傍に置かれるのは、決してあなた様が思うような理由からではないのです。サランナ様は    あの方は、あまりに沢山の秘密を知りすぎておられる。それにあのご気性、敵国に嫁がれれば、必ずイヌルダに災いをもたらされる」
     カヤノもそんなことを言っていた。ああ、そうか……どちらにしても、アシュラルにとって必要なのは、私ではなく、妹なのだ。
 そして、別の意味で、アシュラルは、私がナイリュに嫁ぐことを必要としているのだ。
「あなた様と離婚された上、ナイリュへ嫁がせるよう、アシュラル様に進言したのは私でございます。……今の情勢では、最早それが最善だと……判断せざるを得なかったからです」
「予言のことは? 私とあの人の子供は、もう必要ないってことなの?」
「それは    また、別の問題です」
 ジュールの口調は苦しかった。
 さすがに込み上げる怒りが、あさとの指先を震わせた。
「どういうこと? また、ダンロビンの時のように、ほとぼりが冷めたら、私を三鷹ミシェルと離婚させるつもりなの?」
「……そうではないのです……。こと、三鷹ミシェル様に関する限り……そのようなことをする必要はないのです」
「もう、いい」
「いずれ……お分かりになるでしょう、三鷹ミシェル様とは」
「本当にもういい、聞きたくない」
 あさとはうつむいた。    もう、いいよ、ジュール。本当にもういい。もう何も聞きたくはない。
「お怒りになられるのは最もです。ただ……、三鷹家に嫁ぐこと、それがあなた様にとっての幸せになると    私個人はそう判断いたしました」
     私の……幸せ?
 あさとは顔を上げた。ジュールは、それでもひどく哀しい眼をしていた。
「三鷹ミシェル様とは」
 彼は、ゆっくりと言った。
「鷹宮ユーリ様なのです」
 
 
 
 
 
 

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