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「本当に馬鹿ねェ、あなたって人は」
 あさとの話を聞き終わったカヤノは、心底呆れた顔でばっさりと切り捨てた。
 法王領、その森の深部にひっそりと建立されたカタリナ修道院。
 一階にある客室に通されたあさとは、カヤノと向かい合って小さなテーブルに腰掛けていた。室内は午後の日差しを受け、穏やかな空気に包まれている。
「……ディアス様は?」
 暖茶の入ったカップを口元に近づけながら、あさとは聞いた。カヤノの叱責をこれ以上聞くのが辛い。
 昨夜の自分は、確かに心底馬鹿だったと思う。アシュラルにクッションを投げつけた時の様は、思い出したくもない。その後のことは    さすがに口には出せなかったが、なおさら忘れてしまいたい。
「お父様なら、まだ寝てらっしゃるのよ、……病気のせいか眠りが深くて」
 あまり感情を見せない女の無機質な瞳が、不安気な陰りを帯びる。
    軽い風邪なんですって、まったく無理なさるんだから、お父様は)
 あさとが尋ねていった時、開口一番でカヤノはそう言ったが、顔色はうつろで精細がなかった。修道院が抱える病棟周辺には、沈うつな面持ちの修道士が数人、足音をひそめて行き交っている。    その様子を見ただけでも、普通でない気配が察せられた。
     ディアス様……よくないんだ、
 さすがにこの状況で、ディアスと面会したいとは、言い出せなかった。
「やっぱり金波宮には私がいないと駄目ね、あなたにも、それがよくわかったでしょ」
 ふいに顔を上げたカヤノは、冗談めかしてそう言うと、憂鬱な息を吐いてお茶を飲み干した。
 空元気を装っているのが、痛々しいほど良く判る。
「とにかく、今夜にはオルドへ戻ってあげるわよ。あんただけならともかく、ルナに危険が及ぶようなら、黙って見ているわけにはいかないから」
「え、……でも、ディアス様は」
 少し驚いてあさとは聞く。この様子だと、もうカヤノは金波宮には戻らないだろう    そう思っていたのだ。女は黙って首を横に振った。
「お父様がそうしろって言うのよ。それに私がここにいたって、何のたしにもならないから。お父様自身が優秀な医術師だし、ここには医術師の卵たちが沢山いるし……身の回りの世話は、全部セルジエがしてくれるわ」
 カヤノはもう一度、今度は深く溜息をついた。
「お父様の話はよしましょう。それにしてもあんたも馬鹿ね、どうしてノエルをとっとと首にしておかなかったのよ」
「それは……」
 あさとは言いよどんだ。
 そもそもオルドの人事にクシュリナは口を挟めない。しかもノエルは元々法王庁所属である。てっきり、アシュラルの意向で自分の傍に置かれたものだと思っていたのだ。
 がちゃん、と激しい音を立てて、カヤノが手にしていたカップを卓上に置いた。
「あのね、言いたくなかったけど、言ってあげるわ。あなたとラッセル、社交界では結構な噂の種だったのよ」
     えっ……。
 思わず手にしたカップを取り落とすところだった。
 唐突にラッセルの名前が出たことにも驚いたが、そんな噂を、あさと自身は聞いたこともない。
 カヤノは冷たい眼差しのまま、口調を強めて言い募った。
「皇女の慰み者、いない婚約者の代用品。ラッセルのことを差して、みんなそう噂してたの。あなたは何も知らなかったでしょうけれど」
「………」
「旅から戻ってきたアシュラルだって、それは当然耳にしていたはずよ。彼は二年も前から金波宮に出入りしていたんだから」
「それは……」
 あさとは軽く唇を噛んだ。
 確かにアシュラルは、自分とラッセルの間に、何かあると確信している。以前も、そんな皮肉を言われたことがあったから。
 でも、嫌な思い出だが、逆に言えば彼だけは知っているはずだ。自分とラッセルが潔白であったことを。
「そのあなたの傍に、死んだラッセルの面影を残した騎士がいる……どう思う?」
 カヤノはそこで言葉を切り、するどい眼差しであさとを見上げた。あさとは眉をひそめていた。
「ラッセルのって、なんのこと?」
「馬鹿ね、ノエルのことよ。彼、感じが少しラッセルに似てるじゃないの。あなたがラッセルのことを忘れられずに、ノエルと夜を過ごしているって    今度はそれが噂になっているのよ」
     そんな。
 愕然とした。そんな馬鹿なこと、あるはずがない。ノエルがラッセルに似ているなんて、それ自体を強く意識したこともないのに。
 カヤノは呆れたように嘆息する。
「あなたは、その噂がどれだけアシュラルを苛立たせているか……。それを想像したこともないでしょうけれど」
「………」
 苛立つ? アシュラルが? ノエルとのことで? そんなこと    あるわけがない。私のことで、アシュラルが……。
 だってあいつには、サランナがいるのに。
 あさとが混乱したまま黙っていると、目の前の女は寂しそうな顔になった。
「彼は、あなたが思うよりずっと繊細な人よ。そういう意味では、ラッセルの方が、よほど彼より強いかもしれない……見かけはまるで逆なのにね」
 何も言えなかった。まだ頭が混乱している。
     本当に……? そうなのだろうか。
     アシュラルが、私のために?
「で、あの第一騎士、ノエルのことだけど、あなたが、自分で選んで傍においたの?」
 気を取りなおしたようにカヤノは続けた。あさとは慌てて首を振った。
「まさか。私はてっきり、……法王庁の方で決められたものだと」
「やっぱりね、サランナよ」
 あさとは黙った。それはアグリが絡んでいると判った時点で、漠然と予感していた。
「あなたも薄々感づいてはいるんでしょう。今回、誰がこんな薄汚いことを仕組んだのか」
 毒物を口にした可能性を匂わせつつ、アシュラルはそれ以上何も言おうとしなかった。それが全てだと思った。サランナがやらせたことなら、彼も口をつぐむしかないのだろうと。
「……アシュラルは、あんなに冷淡なのに、一度自分が情をかけた女の人には、少し弱いところがあるから……」
 カヤノは悔しげに唇を噛んだ。
「最初はアシュラルがサランナを利用してた。でも今は、逆にあの女に縛られている。アシュラルが彼女を正式に妻にしない限り、どういう形をとっても、いずれサランナの存在はイヌルダの禍根になるわね」
 
 
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「よう、来ていたのか」
 ふいに聞きなれた声がした。
 あさとは吃驚して顔を上げた。奥庭の渡り廊下から現れたロイドが、白衣を脱ぎながらこちらに歩み寄ってくる。
「ロイドこそ    来ていたの?」
 夕闇が近づいていたため、あさとは黒竜軍の用意してくれた馬車に乗り込むところだった。すぐに飛び降りてロイドの傍に駆け寄った。
「ディアス様のお見舞い?」
「……まぁな、というよりは診察だ。俺はあの人の一番弟子だし」
 冗談めかして言う、その口調に影がある。
「それに黒血病に関しては、あの人をのぞけば、俺が一番詳しいからな」
 あさとはさすがに言葉を失った。    では、ディアス様の病とは、ただの風邪ではなく……。
「……もう、助からないの?」
 カヤノの辛そうな眼差しが、痛々しく蘇る。
「馬鹿なことを言うな、望みはあると言ったろう」
 ロイドの横顔は厳しかったが、口調には強いて明るく振舞おうとする彼らしさが滲んでいた。
「ディアス様はまだ初期の段階だ。あの病気の末期は、吐く血が鮮血状になる。そうなれば時間の問題だがな。……ディアス様は、まだ、持ち直されるかもしれないんだ」
「………」
「どうした、お前さんが深刻な顔をする必要は何も無いぞ。カヤノならともかく」
「……あの」
     アシュラルの身体……。
 ふいにそのことが連想のように閃いた。
 昨夜のルナの言葉が、どうしてもひっかかる。
「ひょっとして、あの人も、どこか……身体の具合を悪くしているの?」
「あの人?」
「前、ロイドがジュールにそんなことを言ってたじゃない。身体の調子がよくなったとか、どうとか」
 ロイドは怪訝気な顔で目をすがめ、すぐにああ、と頷いた。
「なんだ、アシュラルのことか? 確かにあいつは少し身体が弱い。でもそんな深刻な病気じゃないぞ」
「……弱いって…?」
「子供の頃から、風邪をひきやすいし、疲れやすい体質なんだ。悪いと言ってもそれだけだ」
     それだけ……?
 昨夜から胸の内で張り詰めていたものが、ゆるやかに解けていく。
「まぁ、あいつの立場では、風邪ひとつが命取りだかなら。ジュールもぴりぴりしてるんだろう。気にするな」
 なんだ……。
 あさとは呆けたように、天を仰いだ。
 心配して馬鹿みたいだった。そんな、ことだったのか。
「……あんたも、つくづく」
 ロイドは拳を口元に当てると、くっくっと笑った。
「惚れてるんだねェ、あの男に」
「ちっ、ちが、違うから、それ。すごい誤解だし」
「もっと教えてやろうか、アシュラルのこと」
「いい、知らない、もう」
 あさとはうつむいたまま呟いた。    本当にもう、アシュラルのことなど考えたくもない。
「……それにしても、因果だねぇ…」
 ロイドの口調が、ふっと寂しげなものになった。
「俺、あんたのこと、知ってたよ。随分前から」
 あさとはロイドを見上げた。どこか遠くを見ている彼の目は、針のように細くはあったが、いつもよりひどく綺麗に見えた。
「まだあんたが、青州に行く前だ。いつもラッセルと一緒だった。あんたはとても幸せそうで、ラッセルも珍しく楽しそうに見えた。まるで、一対の夫婦鳥のように綺麗だった」
「………」
     ラッセル……。
 彼と過ごした日々。思い出が一時に押し寄せる。
 忘れたことなど無論なかった。
 思い出せば苦しいだけだ。だから    故意に胸の奥に封印している。
「アシュラルとラッセルは、昔から不思議な縁で結ばれている。単に顔つきが似ているだけじゃない。アシュラルが怪我をすれば、ラッセルも同じ箇所に傷を負う。片方が恋をすれば、もう片方も同じ相手に恋をする……」
 鼓動が激しく脈打った。
 ロイドは、じっとあさとを見つめていた。
「……今までは、ラッセルが全て、アシュラルに勝ちを譲ってきた。あんたなら知ってるかな。……ラッセルは、本当はかなりの激情家だ。怒らせて本当に怖いのは、むしろアシュラルでなくて、ラッセルのほうかもしれない」
 あさとには何も言えなかった。少なくとも……あさと自身は、そんな彼の姿は何も知らない。
「ラッセルは昔から、いつもアシュラルに遠慮していた。常にアシュラルの影に回り、自分を殺し続けてきた。これも似すぎているゆえの皮肉だろうな。俺の勝手な思いこみだが、奴はある意味、アシュラルを超える大器だよ。穏やかに見えるが、秘めている感情は激しいし、相当に頭もきれる。……本人にその気があればだがね。でも、アシュラルが太陽ならラッセルは月だ。ラッセルは影に徹した。決して陽の領域を侵そうとはしない、常に、つかず離れずで陽を守る」
「………」 
「だから正直、俺にはまだ信じられない。そんなラッセルが死んでしまったなんてな。アシュラルが生きている限り、あいつも何処かで生きている。……そんな気がするんだよ」
 
 
 
 
 
 

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