アシュラルが戻ってきている   
 そう思うだけで、何故か、むしょうに落ち着かない気持ちになる。
 苛々するような、気が滅入るような、泡立つような不思議な感情。
 あさとは寝室の長椅子に腰掛けたまま、窓辺を見つめ、ただ夜が更けていくのを無意に眺めていた。
 この部屋からは見えない緋薔薇オルド。そこに今、彼は妹といるのだろうか。
 目の眩むような嫉妬を感じ、思わず額を抑えていた。
     私……何を考えてるの。
 彼は琥珀じゃない、ラッセルでもないのに。……
「どうしたの、クシュリナ」
 就寝前のお茶を運んできたルナが、心配そうに声をかけてくれた。
「顔色悪い、眠れないの?」
 日向ルナ    彼女はこの一月あまりで、見違えるほど優雅な少女に変身していた。
 あれほど頑なに拒んでいたあさとにも心を開き、少しずつではあるが、自分のことも語ってくれるようになっていた。
 ヴェルツの残党に襲われた夜。あさとはルナだけは逃がそうとした。幼い少女は、少女なりに、心のうちではそのことを感謝しているらしい。
「心配かけてごめんね。……大丈夫よ、ちょっと疲れただけだから」
 あさとはルナの痩せた肩を抱き寄せ、その滑らかな頬に軽くキスをした。そして、ふと眉をひそめた。
 カップの横に、小さな銀杯が置いてある。
「……これは?」
「法王様のお土産!」
 ルナの目がたちまちきらきらと輝いた。少女は、襲われた夜以来、どうもアシュラルに執心している。あの場に颯爽と現れた男に対し、子供らしい憧れを抱いているらしい。
「ウラヌスの珍しいお酒なんだって、クシュリナに飲んで欲しいって」
「……誰が?」
「法王様の御使いの人が持って来たって、アグリ様が」
「そう」
 あさとは少しほっとした。
 もしかしたらサランナが、これみよがしに送って来たのかもしれないと思ったのだ。
 アシュラルが、    直に自分に届けるように言ってくれたのだろうか。
 ほんのりと赤い透明な液体。鼻を近づけると、甘い果実の香りがする。
「ありがとう、ルナ、もう寝てもいいよ。カヤノの部屋に行ってごらん」
「カヤノ、今日は家に帰っちゃったんだ」
     あ、そうだ……。
 あさとは思わずはっとしていた。
 今朝、カヤノが血相を変えてあさとを探しに来て    「千賀屋ディアス」が旅先で倒れ、カタリナ修道院へ戻ってきたと告げたのだ。
 カヤノは、その足で修道院へ帰ってしまった。あさとは明日にでも、見舞いがてら、修道院に行ってみるつもりだった。
 そう、明日になれば、千賀屋ディアスに会えるのだ。アシュラルのことで、ぐずぐず悩んでいる暇はない。
「カヤノはいない。……一人で寝るの、寂しいな」
 幼い少女は、あさとの腕に頬を寄せたまま呟いた。
     ルナ……。
 あさとには、それがまるで自分の声のように聞こえた。
 アシュラルはもう、眠ったのだろうか。思い直した端から、気がつけば、そんなことばかり考えてしまっている。
「じゃあ、ルナ、今日は私と一緒に寝ようか」
 そう言うと、ルナの顔が、ぱっとほころんだ。「本当に? クシュリナ、」
「アグリに言って、自分の部屋で支度をしておいで。待っているから」
 あさとは微笑して少女を送り出すと、銀杯を手にして、唇につけた。
 甘くて    少し苦い。それは染みるように舌を濡らし、喉を滑った。
     結構、きついな……。
 飲み干してから、あさとはわずかに眉をしかめた。
 この世界のアルコール度数はかなり低い。子供でも平気で口にするほどだ。だからつい、安心してしまっていた。異国の飲み物だから、こんな妙な味がするのだろうか。    でも……すこし、変だ。
     なに……?
 心臓が、動悸を早めている。床が柔らかくねじれ、視界が緩やかに回りはじめる。
「だ……」
     おかしい。
 誰か。
 伸ばした手で、カップに触れようとした。
 身体が動かない。
     毒? まさか、でも。
 義母のアデラもまた、毒殺された。その運命が自分に降りかからないと    どうして言いきれるだろうか。
 心臓が、苦しいほど鼓動を早めている。こんな時に限り、女官のアグリも他の侍従たちも引き払っているのか、隣室からは人の気配がない。
「くっ……」
 とにかく誰か呼ばなくては、誰か、ルナ   
 精一杯の力で震える指先を伸ばし、カップに触れようとした。カップを落とせば    物音で、誰かが異常に気づいてくれるかもしれない。あと……少しで。
 その手を、ふいに上からやんわりと掴まれた。
     ……?
 もう顔を上げることさえできなかった。視界が滲み、身体を支える力がなくなっていく。
     誰……?
 近づいてくる、ぼんやりとした顔の輪郭。アシュラル……ではない。ラッセル    ? まさか、そんなはずはない。
 コロンだろうか。少しきつい、柑橘系の香り。違う、彼はこんな香りをしていない。では誰?    誰?
 ふわり、と横抱きに抱き上げられる感覚。その途端、視界がふっと暗くなる。
 柔らかく、そのままベッドに下ろされる。腕が解け、誰かが    上から見下ろしている。
「クシュリナ様……」
 どこかで聞いた声だった。誰    ? やめて、私に。
「触らない…、で……」
 ようやく声が出た。まるで自分のものではないような、ひび割れてかすれた声だった。
 腕に触れていた手が、吃驚したようにひっこめられる。
「すいません……。でも、僕も仕方ないんです」
 この声    。 
 あさとはようやく思い出していた。すこしおどおどしたその声は、第一騎士、ノエルのものである。
「……もうすぐ、何もお感じにならなくなります。それまで、お待ちしますから」
     何のこと? 何をするつもりなの?
 この状況はなんだろう。ひどくよくない予感がする。
「とにかく、奥方様に子供を……アシュラル様の    ……ご命令……」
 ようやく聞き取れた声に、あさとは初めて愕然とした。ノエルのしようとしていることが、絶望的な状況で理解できた。
 アシュラルの?    そんな、そんな、そんな恐ろしいこと。
 嘘だと思いたい、けれど。
 好きな男の子供を産め。それは彼自身が言ったことだ。お前のお気に入りの騎士。それもノエルを指して彼が言ったことだ。
 でも、こんな    こんなやり方、汚すぎる、酷すぎる!
 あさとは必死で抵抗しようとした。自分をどうしようもなく襲う睡魔に。痺れるような陶酔に。カヤノさえ傍にいてくれたら、絶対に、こんなことにはならなかったのに。
 唐突にルナのことが思い出された。
 ルナはどうしただろう。子供一人で、この場に入ってきたところでどうしようもない。むしろ、危険だ。ルナが   
 こんな場面を目にしたら、殺されてしまうかもしれない。
 その不安が、あさとの意識をぎりぎりの所で引き戻した。
 最後の気力を振り絞る。自らの歯で    思いきり口の中を噛みきった。
 鋭い痛みで、一瞬意識がはっきりする。口の中に、ぬるい銅の味が広がる。感覚だけが頼りだったため、かなり深く噛み切ってしまった    生暖かいものがくちびるから溢れて   
「うわっっ……」
 どすん、と何かが床に落ちる音、ばたばたという忙しない足音。
「た、大変だ」
 遠くから聞えるノエルの声が、耳に届いた最後だった。
     よかった……。
 あさとは目を閉じた。もう限界だった。
 このまま死んでもいい、ただ、眠りたかった。
 
 
               
 
 
     もう……助かったと思っていたのに。
 あさとは、夢うつつで、拡散する意識を研ぎ澄ませた。
 誰かに抱きあげられたまま、何処かに連れて行かれるような    ゆらゆらと揺れる、頼りない感覚。
 心臓の音。暖かい胸。仄かな……懐かしい香り。
 ああ……夢を、見ているんだ。
 私、また、琥珀の夢を見ている。
「……琥珀」
 あさとは呟いた。
 涙が一滴、頬を伝って零れるのが判った。
「お願い、もう、……どこにも行かないで……」
 
 
 
     痛い……。
 最初に感じたのは、こめかみを脈打つ鈍痛だった。
 頭、    ズキズキしてる。まるで、飲んじゃった次の日の朝みたい。
「ん……」
 唇を開こうとした途端、今度は刺すような痛みが口元に走った。
    った」
 その刺激で、ようやくはっきりと目が覚めた。
 仰臥したまま、眼だけを見開く。暗闇に視界が慣れない。ここは……どこだろう。
     ……私、何してた……? 今まで。
 おそるおそる身体を起こした。ようやく闇に馴染んだ目で、ゆるゆると周囲を見まわす。記憶が徐々に戻ってくる。吐き気がするほど忌わしい記憶。
 そうだ、私!
 慌てて、自身の身体を点検する。
     助かったんだ。ちゃんと服も着てるし、身体もへんなことになってない。
 ここは    寝台の上だ。天蓋から帳がかかっている……。でも、自分の部屋にあるものと、大きさも色味も、全然違う。  
 ここは、私の部屋じゃない。
「………」
 何も起きていないのに、何かが妙だ。部屋の中は静まり返っていて人の気配は感じられない。今……何時頃だろう。
 あさとはそっと、天蓋の帳を払った。そして初めて理解した。壁に掛けられている法王旗。夜目にも鮮やかな濃紫の法衣。
     ここは。……
 アシュラルの……寝室だ。
 突然、隣室に続く扉が開いた。
 薄闇の中でも、はっきりと判る長身のシルエット。隣室の明かりを背に受けて立っている男。
 夜行獣のように鋭く光る瞳、りりしい口元。戦疲れなのか、頬が少し痩せて憔悴したようにも見える。それは一月ぶりに見る夫、アシュラルの姿だった。
 あさとは無言で彼を見上げた。
     アシュラル様の、ご命令……。
 ノエルの声が、耳元で蘇った。
 アシュラルが、わずかに眉をひそめ、ほっと息を吐く気配がする。長身の影が、こちらに歩み寄ろうと動き出す。
「……気がついたんだな」
 その声を最後に聞いたのは、もうどれくらい前になるだろう。
「クシュリナ様?」
 隣室からジュールの声もした。
 あさとはベッドに横座りになったまま、震える足で後退した。
     アシュラル様の……ご命令で、……。
 ノエルの声が、はっきりと耳に残っている。
「……クシュリナ?」
 訝し気な声が、さらに近づく。
「こないで……」
 卑怯者、人の身体を、人の心を、一体なんだと思っているんだろう。
「どうなさいました」
 扉の向こうから顔をのぞかせたジュールも、驚いたような眼をしている。
 あさとは長身の男二人を睨みつけた。    騙されない、どうせ二人で示し合わせていることなんだ。
「どうした、何をそんなに」
「いや、来ないで!」
 傍らに置いてあったクッションを掴み、手当たり次第に投げつけた。それは驚くアシュラルの肩にぶつかって、弾け飛んだ。
「クシュリナ…?」
「来ないで、馬鹿、最低、大嫌い!」
「おい、何言ってんだ、お前、」
「誰でもいいからってあんなやり方はないじゃない! 卑怯者! 臆病者! 最低男!」
「馬鹿、人の話を聞け」
「だったら最初から結婚なんてしなきゃよかったのよ、人をなんだと思ってるのよ!」
「………」
「大嫌いよ、もう顔も見たくない、あんたのことなんか考えたくない。予言のことなんて信じてないなら、とっとと私と離婚してよ!」
 投げつけられたクッションを肩先で掴み、それを背後に投げ捨てたアシュラルが、ものも言わずに歩み寄ってきた。
 彼の全身から、激しい怒りが滲み出ているのが判る。咄嗟にあさとは逃げようとした。
 けれど、寝台から飛び降りて立ち上がった途端、ものすごい力で両腕を掴まれた。
「俺だって、同じだ」
 見下ろす闇色の瞳が揺れている。怒りともつかない    別の何かで。
「教えてやろう、俺はダーラを愛していた」
「………」
    お前のために死んだ女だ、それくらい覚えているだろう」
 その告白は、鋭い楔だった。あさとは射止められ、呼吸すら止まった気がした。
「俺たちは約束していた……。俺が、自分の運命を棄てられる時がきたらと」
 まるで研ぎ澄まされた牙のように、彼の言葉のひとつひとつが胸をえぐる。
 アシュラルの眉宇が、きつく寄せられた。まるで過ぎた日々を痛切に悔いるように。
「だけど俺には棄てられなかった。彼女はラッセルを選んだ……。俺にはどうしようもなかった、引き止めることすら出来なかった」
 初めて   
「俺自身が彼女を棄て、自分の宿命と向き合う生き方を選んだのだから」
 初めてアシュラルが、殻を脱ぎ捨て、剥き出しの本心をぶつけてくれている。
「ダーラは」
 込み上げる感情を必死でこらえながら、あさとは言った。
「ラッセルを、愛していたのよ」
「知っている。……でも、ラッセルは」
「…………」
「ダーラではなく、最後の最後で、お前を選んだ」
「…………」
「俺はそれが、どうしても……どうしても許せなかった」
 あさとは、あの豪雨の夜の、アシュラルの行為の意味が初めてわかったような気がした。
 あの夜、彼は大切なものを失ったのだ。その怒りを    ラッセルにぶつけ、私にぶつけた。あれは、子供を作るための行為ではなかった。彼の    剥き出しの怒りが……。
 ダーラへの愛が……。
「きらいよ……」
 あさとは呟いた。涙か一筋零れ、頬を伝った。
「大嫌い、初めて会った時からあなたがきらい、大嫌い、大嫌い、死にたいくらい大嫌いよ!」
「ああ、俺もだよ」
 感情をむき出しにした声。そして掴まれた腕が、さらにきつく握り締められた。
「俺もお前が嫌いだったね。お前を初めて見た時から、気に食わなかった。こんなガキが存在したために、この俺が」
 見下ろす男の眼差しに、あさとは心臓が止まりそうになった。
 嫌いなら、なんで、どうして。
「やっかいな運命を背負い込むことになったんだ。贅沢三昧で何も出来ないお姫様、お前を見る度に、むかついてどうしようもなかった」
     どうして、そんな私を目で見るの?
「お前なんか……」
 なんで   
「大嫌い……」
 あさとは最後に呟いた。
 触れ合う唇から、血の味がした。
    俺は、お前を、……好きにならないって、決めたんだ」
 言葉とは裏腹な、口の傷をいたわるような、優しくて甘いくちづけだった。
「俺の人生は俺が決める、……予言に、振り回されるのは、もう沢山だ」
 彼の声が、掠れている。
 いつも冷めた声が、少しずつ乱れ始めている。その声に、あさとの心も乱れている。
 あさとは自分の心臓が、痛いほど鼓動を早めているのを感じていた。頭の芯がくらくらする。立っていられないほど    長くて、情熱的な、それでいて優しくいたわるような   
「………」
「………」
 ようやく、アシュラルの唇が離れた。
 自分で立つことができないのは、まだ薬が効いているからだと、あさとはそう思おうとした。
 揺らいだ身体は、彼の両腕の中に抱きすくめられる。
「嫌いなら……こんなキス、しないで」
「……うるさい」
 首筋に当てられる唇。
「わかんない、もう……」
「……俺も、わからない」
 それから、もう一度見つめられて、寄せられる唇。最初から深いキスは、わずかに残る理性や怒りや戸惑いを、跡形もなく溶かしていった。
     あ……。
 時折離れる唇の間で、互いの呼吸が乱れている。強い眼差し。抱かれる腕の温みと強さ。
 苦しいくらい、ドキドキしている。頭の中が、痺れてしまって感覚がない。
 立っていたはずの身体は、何時の間にか彼の腕の中に深く沈み、ゆっくりと背中に柔らかな敷布が触れる。
 アシュラルはそのまま片腕で、自分の着ていたシャツを脱いだ。
 弾かれそうに滑らかで、均整の取れた締まった身体。
 嫌いなのに、大嫌いなのに   
 身体に重なる重みを感じた時、あさとは思わず眼を閉じていた。
 熱い……唇も……指も……彼が触れているところは、全部……。
 言葉と身体がうらはらになって。
 溶けていく。   
「クシュリナ…」
「あ……」
     アシュラル……。
 その時だった。
「アシュラル」
 軽いノックと共に、ジュールの声がした。
    
 まるで魔法が解けたように、あさととアシュラルは身体を離した。
「言いにくいんだが時間だ。出発しなければ、間に合わん」
 扉の向こうから事務的な口調が、淡々と聞こえる。    ジュールが、ずっとそこにいたんだ! あさとは全身が赤くなるのを感じた。それなのに、それなのに、私ったら!
「……ジュール、お前は…」
 アシュラルは半身を起こすと、額に零れる髪をかきあげ、長く息を吐いた。
     や、やだやだ、私ったら!
 真っ白になっていた頭に、途端にそれまでのことが蘇る。とんでもないところまで流されてしまう寸前だった。あさとは慌てて、彼に背を向けて立ち上がり、乱れた髪を急いで整えた。
 背後から強い視線を感じる。恥ずかしい、この人の前で、私は今、何をしようとしていたんだろう。
「行きなさいよ。は、早く行かないと、間に合わないんでしょ」
「………」
 アシュラルは疲れたように嘆息した。
「……女は、わからん」
「え…?」
「いや、いい。もう、お前は部屋に戻れ」
「う、うん」
 気のせいだろうか。アシュラルの声がひどく冷たい。
 扉に向かって歩き出した途端、再度背中から声が掛かった。
「次から、毒味させない物は口にするな。同じような目にあいたくなければな」
 先ほどとは別人のような、冷たいというよりは、他人ごとのような冷めた口調だった。
 さすがにあさとはむっとした。そして、腹立たしさを感じながらも、彼のその言葉に安堵していた。
「言われなくても、気をつけるわよ」
     では、あれは……アシュラルの命じたことではなかったのだ。
 じゃあ、誰が?
 恐ろしい可能性を考え、思わず眉をしかめた時、再びアシュラルの声がした。
「何も、口を噛むほど抵抗する必要はない。かわいそうに、あの男、腰を抜かしていたぞ」
 平然とそんなことを言う、冷淡な声。
 あさとは戸惑った。男の態度の変化が理解できない。あんなキスをして、どこかで分かり合えたような気がしていたのに。
「お前が好んで傍においていた男だろうに    女はわからんな」
     なんて言い方!
 さすがに我慢できなかった。強い怒りにかられて振り返っていた。
 アシュラルは背を向けて、シャツに袖を通している所だった。
 まるで鞣革のような滑らかに締まった背、その    右の肩甲骨から腰にかけて、引き裂かれたように残る傷痕。
     ……それは。
 無造作に羽織られた白いシャツが、ふわり、とその傷を覆い隠した。
「……その、傷」
 あさとは呟いていた。
 
    ……クシュリナ様、ひとつ、申し上げたいことがございます。)
 
 ラッセルの声が、どこかで聞こえたような気がした。
 
    私の身体に刻まれたこの傷と同じものが、ある方の背中にも刻まれています。)
 
「傷? ……ああ、騎士の旅で残った傷だ。それがどうした」
「……別に」
 
    その方も、命がけであなた様をお守りになられた。いつか、その方の背中を見られたとき、きっと、あなたにもお判りになる。)
 
 そんなはず、ない……。
 あさとは首を振って否定した。自分が信じていたもの全てが、根本から崩れていくような気がした。
     馬鹿だ、私……関係ない、偶然よ。
「じゃあ、……行くから」
 あさとはきびすを返した。
 アシュラルの返事はなかった。広い背は振り返りもしなかった。
 どうしてこの人とは、こんなにも判りあえないんだろう。廊下を走りながら、あさとは哀しくて、涙が滲みそうになった。
 
 
                10
 
 
「クシュリナ!」
 オルドに戻ると、ずっと待っていてくれたのか、溜まりかねたようにルナが飛びついてきた。
「ルナ」
 あさとはほっとした。実際、ルナのことが一番気がかりだった。
 あさとの身体にしがみつき、幼い少女は興奮気味にまくし立てた。
「吃驚した、心配した、部屋に戻ったら、ノエルが怖い顔をして中に入って……アグリ様が、部屋の前で見張りをしているようだったから」
     アグリ、……そうか、そういうことだったのか。
 あさとは眉をひそめた。あの女官にサランナの息がかかっていたのは知っていたが、まさか彼女がこんな汚い真似までするとは、予想もしていなかった。
「何かあったんだ、と思って、すぐにジャムカと一緒にジュール様の所に行ったんだ。そうしたら法王様がいて……ご一緒に来てくださったんだ」
「ルナ……」
 あさとはルナの額に手を置いた。
 この子は本当に頭がいい。あの場で下手に騒いでいたら、この幼い命の方がむしろ危なかったのだ。
 ルナは、美しい目をうっとりと輝かせ、あさとを見上げた。
「ルナはクシュリナがうらやましい。あんなに法王様に大切にされている」
     えっ……。
「法王様は、ご自分でクシュリナの血を綺麗に清められた。クシュリナを抱きかかえて、大切に運んで行かれた。ジュール様が手を貸そうとしても、お断りになられた」
 アシュラルが   
 本当に?
 あさとは唇をそっと押さえた。    そんな、信じられない。あのアシュラルが。
「ルナには判る、法王様、クシュリナのことが好き、大好き。目がそう言っているもの」
「ルナ」
 あさとは、自分の頬が赤くなるのを感じた。子供の思いこみだろうが、そんな言われ方をされると気恥ずかしい。
「それは、ルナの勘違いだよ、彼はそんな人じゃないもの」
「違うよ」
 ルナは子供らしく、少しむきになって言い募った。
「クシュリナが判っていないだけ。今日も、法王様、随分苦しそうだった、ご病気みたいだった。なのに、ジュール様が反対したのに、クシュリナを自分で抱いて連れて行かれた」
「………」
     病気……?
 苦しそうだった   
 アシュラルが?
「ルナには判ったよ、ルナは子供だけど、クシュリナよりは沢山恋を知っているもの。法王様は恋をしている。だから、他の誰にも、クシュリナを触らせたくなかったんだ」
 
 
 
 
 

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