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8
アシュラルが戻ってきている 。
そう思うだけで、何故か、むしょうに落ち着かない気持ちになる。
苛々するような、気が滅入るような、泡立つような不思議な感情。
あさとは寝室の長椅子に腰掛けたまま、窓辺を見つめ、ただ夜が更けていくのを無意に眺めていた。
この部屋からは見えない緋薔薇オルド。そこに今、彼は妹といるのだろうか。
目の眩むような嫉妬を感じ、思わず額を抑えていた。
私……何を考えてるの。
彼は琥珀じゃない、ラッセルでもないのに。……
「どうしたの、クシュリナ」
就寝前のお茶を運んできたルナが、心配そうに声をかけてくれた。
「顔色悪い、眠れないの?」
日向ルナ 彼女はこの一月あまりで、見違えるほど優雅な少女に変身していた。
あれほど頑なに拒んでいたあさとにも心を開き、少しずつではあるが、自分のことも語ってくれるようになっていた。
ヴェルツの残党に襲われた夜。あさとはルナだけは逃がそうとした。幼い少女は、少女なりに、心のうちではそのことを感謝しているらしい。
「心配かけてごめんね。……大丈夫よ、ちょっと疲れただけだから」
あさとはルナの痩せた肩を抱き寄せ、その滑らかな頬に軽くキスをした。そして、ふと眉をひそめた。
カップの横に、小さな銀杯が置いてある。
「……これは?」
「法王様のお土産!」
ルナの目がたちまちきらきらと輝いた。少女は、襲われた夜以来、どうもアシュラルに執心している。あの場に颯爽と現れた男に対し、子供らしい憧れを抱いているらしい。
「ウラヌスの珍しいお酒なんだって、クシュリナに飲んで欲しいって」
「……誰が?」
「法王様の御使いの人が持って来たって、アグリ様が」
「そう」
あさとは少しほっとした。
もしかしたらサランナが、これみよがしに送って来たのかもしれないと思ったのだ。
アシュラルが、 直に自分に届けるように言ってくれたのだろうか。
ほんのりと赤い透明な液体。鼻を近づけると、甘い果実の香りがする。
「ありがとう、ルナ、もう寝てもいいよ。カヤノの部屋に行ってごらん」
「カヤノ、今日は家に帰っちゃったんだ」
あ、そうだ……。
あさとは思わずはっとしていた。
今朝、カヤノが血相を変えてあさとを探しに来て 「千賀屋ディアス」が旅先で倒れ、カタリナ修道院へ戻ってきたと告げたのだ。
カヤノは、その足で修道院へ帰ってしまった。あさとは明日にでも、見舞いがてら、修道院に行ってみるつもりだった。
そう、明日になれば、千賀屋ディアスに会えるのだ。アシュラルのことで、ぐずぐず悩んでいる暇はない。
「カヤノはいない。……一人で寝るの、寂しいな」
幼い少女は、あさとの腕に頬を寄せたまま呟いた。
ルナ……。
あさとには、それがまるで自分の声のように聞こえた。
アシュラルはもう、眠ったのだろうか。思い直した端から、気がつけば、そんなことばかり考えてしまっている。
「じゃあ、ルナ、今日は私と一緒に寝ようか」
そう言うと、ルナの顔が、ぱっとほころんだ。「本当に? クシュリナ、」
「アグリに言って、自分の部屋で支度をしておいで。待っているから」
あさとは微笑して少女を送り出すと、銀杯を手にして、唇につけた。
甘くて 少し苦い。それは染みるように舌を濡らし、喉を滑った。
結構、きついな……。
飲み干してから、あさとはわずかに眉をしかめた。
この世界のアルコール度数はかなり低い。子供でも平気で口にするほどだ。だからつい、安心してしまっていた。異国の飲み物だから、こんな妙な味がするのだろうか。 でも……すこし、変だ。
なに……?
心臓が、動悸を早めている。床が柔らかくねじれ、視界が緩やかに回りはじめる。
「だ……」
おかしい。
誰か。
伸ばした手で、カップに触れようとした。
身体が動かない。
毒? まさか、でも。
義母のアデラもまた、毒殺された。その運命が自分に降りかからないと どうして言いきれるだろうか。
心臓が、苦しいほど鼓動を早めている。こんな時に限り、女官のアグリも他の侍従たちも引き払っているのか、隣室からは人の気配がない。
「くっ……」
とにかく誰か呼ばなくては、誰か、ルナ 。
精一杯の力で震える指先を伸ばし、カップに触れようとした。カップを落とせば 物音で、誰かが異常に気づいてくれるかもしれない。あと……少しで。
その手を、ふいに上からやんわりと掴まれた。
……?
もう顔を上げることさえできなかった。視界が滲み、身体を支える力がなくなっていく。
誰……?
近づいてくる、ぼんやりとした顔の輪郭。アシュラル……ではない。ラッセル ? まさか、そんなはずはない。
コロンだろうか。少しきつい、柑橘系の香り。違う、彼はこんな香りをしていない。では誰? 誰?
ふわり、と横抱きに抱き上げられる感覚。その途端、視界がふっと暗くなる。
柔らかく、そのままベッドに下ろされる。腕が解け、誰かが 上から見下ろしている。
「クシュリナ様……」
どこかで聞いた声だった。誰 ? やめて、私に。
「触らない…、で……」
ようやく声が出た。まるで自分のものではないような、ひび割れてかすれた声だった。
腕に触れていた手が、吃驚したようにひっこめられる。
「すいません……。でも、僕も仕方ないんです」
この声 。
あさとはようやく思い出していた。すこしおどおどしたその声は、第一騎士、ノエルのものである。
「……もうすぐ、何もお感じにならなくなります。それまで、お待ちしますから」
何のこと? 何をするつもりなの?
この状況はなんだろう。ひどくよくない予感がする。
「とにかく、奥方様に子供を……アシュラル様の ……ご命令……」
ようやく聞き取れた声に、あさとは初めて愕然とした。ノエルのしようとしていることが、絶望的な状況で理解できた。
アシュラルの? そんな、そんな、そんな恐ろしいこと。
嘘だと思いたい、けれど。
好きな男の子供を産め。それは彼自身が言ったことだ。お前のお気に入りの騎士。それもノエルを指して彼が言ったことだ。
でも、こんな こんなやり方、汚すぎる、酷すぎる!
あさとは必死で抵抗しようとした。自分をどうしようもなく襲う睡魔に。痺れるような陶酔に。カヤノさえ傍にいてくれたら、絶対に、こんなことにはならなかったのに。
唐突にルナのことが思い出された。
ルナはどうしただろう。子供一人で、この場に入ってきたところでどうしようもない。むしろ、危険だ。ルナが 。
こんな場面を目にしたら、殺されてしまうかもしれない。
その不安が、あさとの意識をぎりぎりの所で引き戻した。
最後の気力を振り絞る。自らの歯で 思いきり口の中を噛みきった。
鋭い痛みで、一瞬意識がはっきりする。口の中に、ぬるい銅の味が広がる。感覚だけが頼りだったため、かなり深く噛み切ってしまった 生暖かいものがくちびるから溢れて 。
「うわっっ……」
どすん、と何かが床に落ちる音、ばたばたという忙しない足音。
「た、大変だ」
遠くから聞えるノエルの声が、耳に届いた最後だった。
よかった……。
あさとは目を閉じた。もう限界だった。
このまま死んでもいい、ただ、眠りたかった。
9
もう……助かったと思っていたのに。
あさとは、夢うつつで、拡散する意識を研ぎ澄ませた。
誰かに抱きあげられたまま、何処かに連れて行かれるような ゆらゆらと揺れる、頼りない感覚。
心臓の音。暖かい胸。仄かな……懐かしい香り。
ああ……夢を、見ているんだ。
私、また、琥珀の夢を見ている。
「……琥珀」
あさとは呟いた。
涙が一滴、頬を伝って零れるのが判った。
「お願い、もう、……どこにも行かないで……」
痛い……。
最初に感じたのは、こめかみを脈打つ鈍痛だった。
頭、 ズキズキしてる。まるで、飲んじゃった次の日の朝みたい。
「ん……」
唇を開こうとした途端、今度は刺すような痛みが口元に走った。
「 った」
その刺激で、ようやくはっきりと目が覚めた。
仰臥したまま、眼だけを見開く。暗闇に視界が慣れない。ここは……どこだろう。
……私、何してた……? 今まで。
おそるおそる身体を起こした。ようやく闇に馴染んだ目で、ゆるゆると周囲を見まわす。記憶が徐々に戻ってくる。吐き気がするほど忌わしい記憶。
そうだ、私!
慌てて、自身の身体を点検する。
助かったんだ。ちゃんと服も着てるし、身体もへんなことになってない。
ここは 寝台の上だ。天蓋から帳がかかっている……。でも、自分の部屋にあるものと、大きさも色味も、全然違う。
ここは、私の部屋じゃない。
「………」
何も起きていないのに、何かが妙だ。部屋の中は静まり返っていて人の気配は感じられない。今……何時頃だろう。
あさとはそっと、天蓋の帳を払った。そして初めて理解した。壁に掛けられている法王旗。夜目にも鮮やかな濃紫の法衣。
ここは。……
アシュラルの……寝室だ。
突然、隣室に続く扉が開いた。
薄闇の中でも、はっきりと判る長身のシルエット。隣室の明かりを背に受けて立っている男。
夜行獣のように鋭く光る瞳、りりしい口元。戦疲れなのか、頬が少し痩せて憔悴したようにも見える。それは一月ぶりに見る夫、アシュラルの姿だった。
あさとは無言で彼を見上げた。
アシュラル様の、ご命令……。
ノエルの声が、耳元で蘇った。
アシュラルが、わずかに眉をひそめ、ほっと息を吐く気配がする。長身の影が、こちらに歩み寄ろうと動き出す。
「……気がついたんだな」
その声を最後に聞いたのは、もうどれくらい前になるだろう。
「クシュリナ様?」
隣室からジュールの声もした。
あさとはベッドに横座りになったまま、震える足で後退した。
アシュラル様の……ご命令で、……。
ノエルの声が、はっきりと耳に残っている。
「……クシュリナ?」
訝し気な声が、さらに近づく。
「こないで……」
卑怯者、人の身体を、人の心を、一体なんだと思っているんだろう。
「どうなさいました」
扉の向こうから顔をのぞかせたジュールも、驚いたような眼をしている。
あさとは長身の男二人を睨みつけた。 騙されない、どうせ二人で示し合わせていることなんだ。
「どうした、何をそんなに」
「いや、来ないで!」
傍らに置いてあったクッションを掴み、手当たり次第に投げつけた。それは驚くアシュラルの肩にぶつかって、弾け飛んだ。
「クシュリナ…?」
「来ないで、馬鹿、最低、大嫌い!」
「おい、何言ってんだ、お前、」
「誰でもいいからってあんなやり方はないじゃない! 卑怯者! 臆病者! 最低男!」
「馬鹿、人の話を聞け」
「だったら最初から結婚なんてしなきゃよかったのよ、人をなんだと思ってるのよ!」
「………」
「大嫌いよ、もう顔も見たくない、あんたのことなんか考えたくない。予言のことなんて信じてないなら、とっとと私と離婚してよ!」
投げつけられたクッションを肩先で掴み、それを背後に投げ捨てたアシュラルが、ものも言わずに歩み寄ってきた。
彼の全身から、激しい怒りが滲み出ているのが判る。咄嗟にあさとは逃げようとした。
けれど、寝台から飛び降りて立ち上がった途端、ものすごい力で両腕を掴まれた。
「俺だって、同じだ」
見下ろす闇色の瞳が揺れている。怒りともつかない 別の何かで。
「教えてやろう、俺はダーラを愛していた」
「………」
「 お前のために死んだ女だ、それくらい覚えているだろう」
その告白は、鋭い楔だった。あさとは射止められ、呼吸すら止まった気がした。
「俺たちは約束していた……。俺が、自分の運命を棄てられる時がきたらと」
まるで研ぎ澄まされた牙のように、彼の言葉のひとつひとつが胸をえぐる。
アシュラルの眉宇が、きつく寄せられた。まるで過ぎた日々を痛切に悔いるように。
「だけど俺には棄てられなかった。彼女はラッセルを選んだ……。俺にはどうしようもなかった、引き止めることすら出来なかった」
初めて 。
「俺自身が彼女を棄て、自分の宿命と向き合う生き方を選んだのだから」
初めてアシュラルが、殻を脱ぎ捨て、剥き出しの本心をぶつけてくれている。
「ダーラは」
込み上げる感情を必死でこらえながら、あさとは言った。
「ラッセルを、愛していたのよ」
「知っている。……でも、ラッセルは」
「…………」
「ダーラではなく、最後の最後で、お前を選んだ」
「…………」
「俺はそれが、どうしても……どうしても許せなかった」
あさとは、あの豪雨の夜の、アシュラルの行為の意味が初めてわかったような気がした。
あの夜、彼は大切なものを失ったのだ。その怒りを ラッセルにぶつけ、私にぶつけた。あれは、子供を作るための行為ではなかった。彼の 剥き出しの怒りが……。
ダーラへの愛が……。
「きらいよ……」
あさとは呟いた。涙か一筋零れ、頬を伝った。
「大嫌い、初めて会った時からあなたがきらい、大嫌い、大嫌い、死にたいくらい大嫌いよ!」
「ああ、俺もだよ」
感情をむき出しにした声。そして掴まれた腕が、さらにきつく握り締められた。
「俺もお前が嫌いだったね。お前を初めて見た時から、気に食わなかった。こんなガキが存在したために、この俺が」
見下ろす男の眼差しに、あさとは心臓が止まりそうになった。
嫌いなら、なんで、どうして。
「やっかいな運命を背負い込むことになったんだ。贅沢三昧で何も出来ないお姫様、お前を見る度に、むかついてどうしようもなかった」
どうして、そんな私を目で見るの?
「お前なんか……」
なんで 。
「大嫌い……」
あさとは最後に呟いた。
触れ合う唇から、血の味がした。
「 俺は、お前を、……好きにならないって、決めたんだ」
言葉とは裏腹な、口の傷をいたわるような、優しくて甘いくちづけだった。
「俺の人生は俺が決める、……予言に、振り回されるのは、もう沢山だ」
彼の声が、掠れている。
いつも冷めた声が、少しずつ乱れ始めている。その声に、あさとの心も乱れている。
あさとは自分の心臓が、痛いほど鼓動を早めているのを感じていた。頭の芯がくらくらする。立っていられないほど 長くて、情熱的な、それでいて優しくいたわるような 。
「………」
「………」
ようやく、アシュラルの唇が離れた。
自分で立つことができないのは、まだ薬が効いているからだと、あさとはそう思おうとした。
揺らいだ身体は、彼の両腕の中に抱きすくめられる。
「嫌いなら……こんなキス、しないで」
「……うるさい」
首筋に当てられる唇。
「わかんない、もう……」
「……俺も、わからない」
それから、もう一度見つめられて、寄せられる唇。最初から深いキスは、わずかに残る理性や怒りや戸惑いを、跡形もなく溶かしていった。
あ……。
時折離れる唇の間で、互いの呼吸が乱れている。強い眼差し。抱かれる腕の温みと強さ。
苦しいくらい、ドキドキしている。頭の中が、痺れてしまって感覚がない。
立っていたはずの身体は、何時の間にか彼の腕の中に深く沈み、ゆっくりと背中に柔らかな敷布が触れる。
アシュラルはそのまま片腕で、自分の着ていたシャツを脱いだ。
弾かれそうに滑らかで、均整の取れた締まった身体。
嫌いなのに、大嫌いなのに 。
身体に重なる重みを感じた時、あさとは思わず眼を閉じていた。
熱い……唇も……指も……彼が触れているところは、全部……。
言葉と身体がうらはらになって。
溶けていく。 。
「クシュリナ…」
「あ……」
アシュラル……。
その時だった。
「アシュラル」
軽いノックと共に、ジュールの声がした。
!
まるで魔法が解けたように、あさととアシュラルは身体を離した。
「言いにくいんだが時間だ。出発しなければ、間に合わん」
扉の向こうから事務的な口調が、淡々と聞こえる。 ジュールが、ずっとそこにいたんだ! あさとは全身が赤くなるのを感じた。それなのに、それなのに、私ったら!
「……ジュール、お前は…」
アシュラルは半身を起こすと、額に零れる髪をかきあげ、長く息を吐いた。
や、やだやだ、私ったら!
真っ白になっていた頭に、途端にそれまでのことが蘇る。とんでもないところまで流されてしまう寸前だった。あさとは慌てて、彼に背を向けて立ち上がり、乱れた髪を急いで整えた。
背後から強い視線を感じる。恥ずかしい、この人の前で、私は今、何をしようとしていたんだろう。
「行きなさいよ。は、早く行かないと、間に合わないんでしょ」
「………」
アシュラルは疲れたように嘆息した。
「……女は、わからん」
「え…?」
「いや、いい。もう、お前は部屋に戻れ」
「う、うん」
気のせいだろうか。アシュラルの声がひどく冷たい。
扉に向かって歩き出した途端、再度背中から声が掛かった。
「次から、毒味させない物は口にするな。同じような目にあいたくなければな」
先ほどとは別人のような、冷たいというよりは、他人ごとのような冷めた口調だった。
さすがにあさとはむっとした。そして、腹立たしさを感じながらも、彼のその言葉に安堵していた。
「言われなくても、気をつけるわよ」
では、あれは……アシュラルの命じたことではなかったのだ。
じゃあ、誰が?
恐ろしい可能性を考え、思わず眉をしかめた時、再びアシュラルの声がした。
「何も、口を噛むほど抵抗する必要はない。かわいそうに、あの男、腰を抜かしていたぞ」
平然とそんなことを言う、冷淡な声。
あさとは戸惑った。男の態度の変化が理解できない。あんなキスをして、どこかで分かり合えたような気がしていたのに。
「お前が好んで傍においていた男だろうに 女はわからんな」
なんて言い方!
さすがに我慢できなかった。強い怒りにかられて振り返っていた。
アシュラルは背を向けて、シャツに袖を通している所だった。
まるで鞣革のような滑らかに締まった背、その 右の肩甲骨から腰にかけて、引き裂かれたように残る傷痕。
……それは。
無造作に羽織られた白いシャツが、ふわり、とその傷を覆い隠した。
「……その、傷」
あさとは呟いていた。
( ……クシュリナ様、ひとつ、申し上げたいことがございます。)
ラッセルの声が、どこかで聞こえたような気がした。
( 私の身体に刻まれたこの傷と同じものが、ある方の背中にも刻まれています。)
「傷? ……ああ、騎士の旅で残った傷だ。それがどうした」
「……別に」
( その方も、命がけであなた様をお守りになられた。いつか、その方の背中を見られたとき、きっと、あなたにもお判りになる。)
そんなはず、ない……。
あさとは首を振って否定した。自分が信じていたもの全てが、根本から崩れていくような気がした。
馬鹿だ、私……関係ない、偶然よ。
「じゃあ、……行くから」
あさとはきびすを返した。
アシュラルの返事はなかった。広い背は振り返りもしなかった。
どうしてこの人とは、こんなにも判りあえないんだろう。廊下を走りながら、あさとは哀しくて、涙が滲みそうになった。
10
「クシュリナ!」
オルドに戻ると、ずっと待っていてくれたのか、溜まりかねたようにルナが飛びついてきた。
「ルナ」
あさとはほっとした。実際、ルナのことが一番気がかりだった。
あさとの身体にしがみつき、幼い少女は興奮気味にまくし立てた。
「吃驚した、心配した、部屋に戻ったら、ノエルが怖い顔をして中に入って……アグリ様が、部屋の前で見張りをしているようだったから」
アグリ、……そうか、そういうことだったのか。
あさとは眉をひそめた。あの女官にサランナの息がかかっていたのは知っていたが、まさか彼女がこんな汚い真似までするとは、予想もしていなかった。
「何かあったんだ、と思って、すぐにジャムカと一緒にジュール様の所に行ったんだ。そうしたら法王様がいて……ご一緒に来てくださったんだ」
「ルナ……」
あさとはルナの額に手を置いた。
この子は本当に頭がいい。あの場で下手に騒いでいたら、この幼い命の方がむしろ危なかったのだ。
ルナは、美しい目をうっとりと輝かせ、あさとを見上げた。
「ルナはクシュリナがうらやましい。あんなに法王様に大切にされている」
えっ……。
「法王様は、ご自分でクシュリナの血を綺麗に清められた。クシュリナを抱きかかえて、大切に運んで行かれた。ジュール様が手を貸そうとしても、お断りになられた」
アシュラルが ?
本当に?
あさとは唇をそっと押さえた。 そんな、信じられない。あのアシュラルが。
「ルナには判る、法王様、クシュリナのことが好き、大好き。目がそう言っているもの」
「ルナ」
あさとは、自分の頬が赤くなるのを感じた。子供の思いこみだろうが、そんな言われ方をされると気恥ずかしい。
「それは、ルナの勘違いだよ、彼はそんな人じゃないもの」
「違うよ」
ルナは子供らしく、少しむきになって言い募った。
「クシュリナが判っていないだけ。今日も、法王様、随分苦しそうだった、ご病気みたいだった。なのに、ジュール様が反対したのに、クシュリナを自分で抱いて連れて行かれた」
「………」
病気……?
苦しそうだった ?
アシュラルが?
「ルナには判ったよ、ルナは子供だけど、クシュリナよりは沢山恋を知っているもの。法王様は恋をしている。だから、他の誰にも、クシュリナを触らせたくなかったんだ」
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