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3
一週間後、あさとは約束どおり、皇立療養院の滝沢ロイドを尋ねた。
「おっ、来たな」
髪を後ろに束ね、腕まくりをしている彼は、初めて見た時よりずっと清潔そうに見えた。相変わらず、病院自体はひどく不衛生だったが 。
「お前のくれた石で、随分沢山の薬が調達できた、礼を言うよ」
院長室 といっても他の病室と変わりのないほど粗末で狭い一室だったが、あさとに椅子を勧めると、彼はいきなりそう言って、深く一礼した。
「そんな、お礼なんて」
意外だった。あの石を見て、喜んでいたのは、私欲のためではなかったのだ。
あさとは目の覚めるような思いで、なんの躊躇いもなく頭を下げる男を見つめた。
「この前はジュールがいたしな、しゃくに障ったから、礼を言うのはやめにしたんだ」
顔を上げたロイドは髪をひっぱり、少し照れくさそうに言う。
間近で見る彼の肌は意外に若々しく、細く切れあがった眼にもそこはかとない気品がある。カタリナ修道院は名門貴族が子を預ける場所である。もしかするとロイドも、卑しからぬ身分を持っているのかもしれない。
「ジュールが、嫌い?」
少し可笑しくなってあさとは聞いた。先日の二人のやりとりがどこか微笑ましく思い出される。ロイドはとぼけたように肩をすくめた。
「嫌いじゃないけど苦手だな。男の癖に口やかましいし、何かにつけて俺のことを子供扱いする」
「あなたって……いくつなの?」
出されたお茶に手を掛けながら、素直な疑問を口にしていた。この男もジュールも、一体いくつなのか、年齢が分からない。ひどく老けて見える時もあれば、若く感じる時もある。
ロイドは、少し不満そうな顔になった。
「こう見えても俺はあんたの亭主と同い年だぞ。カタリナに集められたのは、殆ど同年の奴ばかりだったからな。 ジュールだけが一番年上で、四つばかり年が上だ」
と、言うことはジュールは二十八くらい まだ、そのくらいだったんだ。
さすがに内心驚いていた。あまりにも落ち着きがあるから、ジュールはもう少し年上だと思っていたのだ。
「カタリナには、何人くらいの人がいたの?」
あさとはさらに聞いてみた。「ディアス様のおられるカタリナ修道院……ロイドも、そこにいたんでしょう?」この機会に、カタリナ修道院のことを色々教えてもらいたかった。
『カタリナ修道院』 アシュラル、ラッセル、そしてダーラが共に学んだ場所。
『千賀屋ディアス』というどこか謎に包まれた男を中心に、彼らはそこで 何を学び、何を志していたのだろうか。
ジュールが教えてくれないことでも、この男なら気安く喋ってくれそうな気がする。
案の定ロイドはあさとの問いに、殆んど何の躊躇もなく語り始めた。
「何人くらいいたかなぁ、最初は全員、シーニュの森にあるあのでっかい修道院に集められたんだ。そっから一人二人と選ばれて、……ディアス様のところへ連れて行かれた」
「カタリナ修道院って、そもそも、……なんなの?」
「何っていきなり、そんな深いところから入られても」
ロイドは眉をあげたが、指で顎をこするようして話し出した。
「カタリナってのは、シーニュを護った四神、ディアスの作った修道院なんだそうだ。その院長が代々ディアスの名称を継ぐ、そいつは知ってるか?」
知の神ディアス。
それはすでに、神話時代の人物だ。
「じゃあ……本当にすごく昔から、あるってこと?」
「らしいね。古すぎて今のディアス様にも正式な系譜は判らないらしい。法王庁より古いんだから相当なもんだ。今、庇護しているのは法王庁だが、ルーシュ様もディアスには頭が上がらない。まぁ、知ってるだろうが、アシュラルもだ」
「……なんのために、そんな修道院が存在するの?」
「さぁな。そいつはディアス様だけが答えられる質問だ」
ロイドは笑って、腕を組み直した。
「ディアス様のもとに集められた連中は結構いた。子供ばかりで十人くらいかな。でもいつのまにか、一人減り、二人減り……。最終的に残ったのは、アシュラルとジュール、ラッセル、それから俺、あとは、ジョーニアス、……」
「それは、三笠ジョーニアス卿?」
「ああ、よく知ってるな。堅物だけど酒が入ると人が変わるんだ。知ってるか?」
「いや、そんなとこまでは」
「俺たちの上にも、下にも、ディアスの元で師事した連中は結構いるよ。枢機卿の真中シルビエ、中嶌カイル。パシクプレミアの有働サジ、土師キリュウ……ああ、保科ガイ、あんたの親父さんの側近だ。あのあたりが一番古いんじゃないかな。先代のディアス様の教え子だ」
ロイドは指を折り折り、あさとでも知っている名前を数人挙げた。
それは名門貴族、あるいは僧籍の位を持ち、貴族院の要職や、枢機卿職についている者たちの名ばかりだった。
法王、近衛隊、貴族院、枢機卿、そして、皇室の側近。
こうしてみれば、国を動かす要所要所に、必ず一人はカタリナの出身者が置かれていることになる。彼ら全てが、師である千賀屋ディアスを信奉しているとしたら、それは ディアスの意思ひとつで、国の大事が決められてしまう、ということになるのではないだろうか?
あさとがそう聞くと、ロイドは少し意外そうな顔で頭を掻いた。
「そうだなぁ、……もともと俺たちがカタリナに集められたのは、コンスタンティノ大僧正とハシェミ公の企みで、 終末の予言書どおり、あんたとアシュラルを結婚させて その子供を護るためだって話だったが、結局は違う方向に流れちまったしな」
「……違う方向?」
「今はアシュラル自ら、この世界を救うつもりなんだろ? そういう意味じゃ、ディアス様はコンスタンティノ大僧正の信頼を裏切ったってわけだ。大僧正様は、アシュラルに子供だけ作らせて、用が済めばさっさと切り捨てるつもりだったからな」
大僧正、コンスタンティノ・ルーシュ。 アシュラルの養父。
緑がかった黒髪、碧眼の聖職者。
「そんな、……ひどい、それじゃ」
本当の意味で、アシュラルは 彼は、「子を作るためだけの存在」ではないか。
「コンスタンティノ大僧正は、アシュラルをガキの頃から嫌っていた。養子にしたのはディアスの進言があったからで、おそらく一度も一緒に暮らしたことはないはずだ。まさかそのアシュラルに法王職を譲ることになろうとは、さすがの大僧正様も想像してもいなかったろうがな」
ロイドは腕を組み、遠くを見るような眼になった。
「アシュラルは、そういう意味じゃ、随分上手く立ち回ったよ。あんたとの結婚をわざと延ばして、騎士の旅に出ると見せかけ、ジュールやカタリナの仲間を使って法王軍を根底から掌握した。大僧正の手駒のひとつが、いまや彼の立場を踏襲して法王様だ。 今、このシュミラクールでアシュラルの名前を知らない者は誰もいない」
あさとは不安になった。
アシュラルは 何処へ向かおうとしているのだろう。それが正しい道なのだとしても、彼の志が、いつか究極的に民を救うことになるのだとしても……。
養父を裏切り、欺き 何よりもアシュラルは余りにも沢山の血を流しすぎた。彼の未来が、このまま明るく開けていくとは思えない。
ふと顔を上げると、ロイドがにやにやしながらこっちを見ていた。
「……やっぱ、女皇って言っても女の子だね。興味あるんだ、ダンナ様の昔話に」
そんなんじゃないけど……。
「さっきから、目がきらきら輝いてるぜ。もっとアシュラルのことを教えて〜って」
あさとは吹き出した。張り詰めた緊張がたちまち解ける。
でも実際、もっとカタリナ修道院のことが知りたかった。ラッセルのことも アシュラルのことも。それから。 。
「……ダーラって……いたと思うんだけど、」
「ダーラ?」
ロイドは、少し驚いたように眉をあげた。一瞬迷うような眼をしたものの、すぐに懐かしそうな顔になる。
「ああ、いたな。あの剣術がやたら強かった女の子だ。綺麗な子だったね。みんな彼女に惚れてたんじゃないかな。結局、彼女が誰を好きだったかは、わからなかったけど」
ふっとあさとは、ロイドの反応の不自然さから察している。
この人もまた、ダーラに恋をしていたのではないだろうか。 。
「ダーラが、……死んだことは」
「知ってるよ。ラッセルもだろ。あいつららしい死に方だとは思ったけどね」
ロイドの楽しそうな顔を見て、あさとは胸が苦しくなった。
そうか、ロイドも知っていたんだ。二人が……私のために……。
あさとが黙ったままでいると、ロイドは急に優しい口調になった。
「お前さんが気にすることはない。こんな言い方をしたらあれだがな、カタリナに集められ、そして最後まで残った者たちは皆、この世界を護るためなら死ぬことも厭わない奴らばかりだったんだ」
「彼らが護ってくれたのは、私よ」
あさとは皮肉な口調で言った。この世界のためではない、 ダーラも、ラッセルも、私の……貞操を護るために。
その背を、ロイドは軽く叩いた。
「それが世界を終焉の時から救うことになる、ダーラもラッセルも、そう信じていたんだろうよ。あんたはユリウスの乙女だろう。あんたが死んだら、救いなんてどこにもなくなるじゃないか」
「じゃあ、ロイドも、あの予言を信じているのね」
丸眼鏡の下の細い目がふと影った。
「実物を見たことはないがね。あと数年で、この世界が忌獣に支配されるようになるって話なら、耳が腐るほどディアス様に聞かされたよ」
「そのために、私が子供を産まなくちゃならないことも知ってるの?」
当然、とでも言いたげに片眉が上がる。
「救世主誕生のことだろ。知ってるさ。でもその件に関しちゃ、ディアス様とアシュラルが、どこまで本気で考えてたのか俺にはわからない。実際アシュラルは、子供などに頼らず自分の力でこの世界を救おうとしてるし……ディアス様もそれを支持してる。ま、傲慢なアシュラルらしい発想だよ」
あさとは眉をひそめてうつむいた。
「……アシュラルは、今、各地で血を流してばかりしているわ。諸侯を挑発して、もっと大きな戦を待っているみたいなの。私にはよくわからない。それがどう 忌獣から世界を救うことにつながるのか」
「さぁね……。凡人の俺にはさっぱり判らん。ただ、それがアシュラルの私欲でないことは確かだし、ディアス様の意思が絡んでいるのも間違いないよ」
「……私欲じゃないって、どうして言えるの?」
誰だって、権力の座につけば人が変わる。アシュラルは今、シュラミクールの大半を手にいれようとしている。彼がこの先変わらないと、どうしてそう言い切れるだろう。
が、ロイドは迷う素振りさえ見せずに、あっさりと言い切った。
「アシュラルに限って、それは絶対ないからさ」
「…………」
どういう根拠なんだろう。
それだけロイドは、アシュラルを知っているし信頼しているという意味なのだろうか。
アシュラルのこともそうだが、黒雲のように澱んだ不安が胸から離れない。
本当に この世界はあと十数年であの恐ろしい<獣>に支配され、人の世は滅びてしまうのだろうか。
ロイドもジュールも、そしてアシュラルでさえも、そんな非現実的な予言を当たり前のことのように受け入れている。それがどうしても理解できない。
「ロイドは本当に……世界に終りが来ると思うの」
「予言の真偽はわからないがな。ディアス様がそう仰るなら、そうなんだろうよ」
ロイドは当然のようにそう言うと、彼の癖なのか首筋を掻いた。
「 どうして?」
あさとは不思議な気持になった。そう言えば、アシュラルもそんなニュアンスのことを言っていたような気がする。<ディアスがそう言っていることが問題なのだ>と。
千賀屋ディアスとは、――あの痩せた小柄な男とは、一体何者なのだろうか。
アシュラルも、そしてコンスタンティノ大僧正ですら、単なる修道院長に過ぎないディアスに一目置いている。
「デイアス様は、<声>を聞くことができるのさ」
何でもないことでも口にするように、ロイドは言った。
「声?」
意味が判らず、あさとはそのまま聞き返した。
榛色の髪を持つ医師は、再び面倒そうに首筋に手を当てる。
「この世界を導く者の<声>なんだとよ。その<声>は今までも、飢饉や病気の流行、そして予言に言うクインティリスの獅子の誕生まで、すべてデイアス様に教えてくれたらしい」
「……声…?」
「そしてそれは、恐ろしいほど的中するのさ。俺も詳しくは知らないがね、あの不信心なアシュラルでさえ、ディアスが聞く<声>に関しては信じているようだからな」
声……?
あさとの脳裏に閃いたのは、自分が聞いた雅の「声」のことだった。
不思議と <声>から<雅の声>を連想し、そのイメージが胸騒ぎのように離れなくなる。無論、雅がディアスに囁くなど そんなことはあり得ない仮定なのだが。
いずれにしても、ディアスにもう一度会ってみよう。あさとはそう決心していた。
「俺から、ひとつ聞いてもいいかい?」
「え、ええ」
「この前の騒ぎの夜、ジュールから聞いたんだ。ラッセルとダーラが、結婚してたってのは、本当の話か」
「………」
ドキッとした。内心の動揺を抑えて、あさとは頷く。「ええ……本当よ」
「ふぅん……」
ロイドは肩にかかる髪を払いながら立ち上がると、どこか附に落ちないという風に、首をかしげた。
「どうしたの?」
「少し意外だったからさ。あの生真面目なラッセルに、そんな度胸があるなんて思わなかった」
「度胸って?」
「ダーラに手を出すってことだよ」
あさとは黙ってうつむいた。
それは、あまり考えたくない光景だった。死んだ二人に嫉妬したところで始まらない。なのに 想像するだけで胸が重苦しく塞がれる。
「好きなら、別に度胸とかいらないんじゃないの」
「そうじゃなくて……。なんていうかな、カタリナ時代、アシュラルもダーラにご執心だったから」
……。
さすがに驚きで、息を引いていた。
そうなんだ。
「カタリナでアシュラルに逆らえる奴なんて誰もいなかった。なんたって法王の息子だし、予言書に言う獅子の子だ。仲間と言っても他の者はその他大勢。アシュラル様を護るための捨て駒みたいなもんだ。でも、それだけじゃない、……そうだな、あいつはやっぱり特別な存在だったから」
ロイドは、かすかに眉を寄せ、いやなものでも見るような眼差しになった。
「頭がいいんだ。異常なくらいいい。ディアスやコンスタンティノの常識さえ遥かに超えている。神童っていうのは大げさでもなんでもない例えだった。あいつは正真証明天才だ。何かを成し遂げるために神がこの世に送り出した 怖い話だが、そうとしか思えなかった」
そして、暗くなった雰囲気に気づいたのか、取り繕うように肩をすくめて皮肉気に笑んだ。
「ま、とにかく、アシュラルはなにかにつけて特別だった。あの男がダーラを好きになれば、みんな彼女を諦めるしかなかったのさ」
アシュラルが。
ダーラを……。
あさとは、妙な気持ちのまま黙り込んだ。
ラッセルがダーラを好きだったのは知っているし、もう、事実として受け止めている。でも、まさかそこに、アシュラルが絡んでいようとは、想像してもいなかった。
あさとの沈黙をどう解釈したのか、ロイドはからかうような口調で続けた。
「ただ、ダーラはどっちが好きなんだろうって、俺はよく他の奴らと話していたね。彼女は、アシュラルにもラッセルにも、正直どちらにも揺れているように見えた。女ってのは判らないもんだ」
あさとは、内心はっとしていた。
それは そのまま、自分のことを言われているような気がした。
慌てて自身でそれを否定する。そんなことはない、私は、別に、……あの男のことなんて。
「まぁ、ラッセルとアシュラルは気味悪いほどよく似てるからな。ダーラが迷うのも判らないでもないよ」
「………」
「出逢った最初の頃は、少し感じが似てるって程度だったのが……、十五を過ぎた頃から、後姿なんか見ると、見分けがつかないくらい似てきたね。不思議なもんだ、赤の他人のはずなのにな」
「そう、なんだ」
「 おい、さっきから全然元気がないぞ、お前さん」
最後に励ますように言って、おしゃべりな医術師はにやっと笑った。
「余計なことまで喋りすぎたかな? だんなの過去話、意外に辛かっただろ」
どう答えればいいのだろう。あさとは複雑な気持ちだった。
「ま、せいぜい、今夜は派手に夫婦喧嘩でもやってみな。俺はアシュラルの困った顔を見るのが生甲斐なんでね」
最初からそれを期待していたのか、ロイドは楽しそうだった。
あさとは顔を背けていた。
自分は何に苛々しているんだろう。何に……? ラッセルに? ダーラに? それとも、アシュラルに?
ラッセルがダーラと愛し合っていたのは知っていたし、あの女たらしの最低男が、ダーラに興味を持っていたとしても、全然意外な話じゃないのに。
「ああ、そうだ、これを返そうと思ってた」
不意にロイドが、思い出したように、自らの衣服を探りだした。
「これ、おじょうちゃんの持ち物だろ」
目の前に差し出されたのは、失くしたとばかり思っていた碧の宝玉で飾られた短剣だった。あさとは目を輝かせた。
「これ……どうしたの?」
あの日、奪われたものは、結局何ひとつ戻ってはこなかった。
他にものには未練はひとつもなかったが、この短剣だけは 別だったから。
「売り払われる寸前で、俺が気づいて取り戻した。あててやろうか、これは、すごく大切なものだろ」
「え……うん」
にやにやと、妙に意味深な目で見下ろされる。
「アシュラルは手先が器用だからな。久々に見たよ。昔はこういった小細工を凝らした武具を、よく作ってたんだ、あいつ」
「…………」
アシュラルが……?
「ん? どうした、怖い顔をして」
違う。そんなこと、……絶対にあり得ない。
「違うわ」あさとは素っ気なく言って、短剣を、手にとった。
「これはジュールが作ったの。アシュラルは関係ないわ」
反応が心外だったのか、ロイドは不思議そうに眉をあげる。
「そんなことより、相談したいことがあるの。少し話を聞いてもらえないかしら」
まだ、先ほどの会話の余韻が、胸の底にささくれだって淀んでいる。
アシュラルが……ダーラを……。
何を苛立っているんだろう、私。
あいつが誰を好きになろうと、私にとっては、どうでもいいことなのに。
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「病院ねぇ……」
あさとが持ちかけた病院設立の話に、ロイドはどうやら気乗りがしないようだった。
「あんたを信用しないわけじゃないけど……。昔から皇室は金の支出には細かいし、なんたって今は戦時下だ。そうそう上手く行くとは思えないけどな」
あさとはロイドと肩を並べ、埃の積もった病棟の廊下を歩いていた。
ルナ あさとが今日、金波宮へ連れ帰る少女のいる病室を目指している。
「まずは、ここの施設をもう少し、充実させることから始めようと思ってるの」
あさとは辛抱強く繰り返した。
「子供たちを無料で診れるような 例えば年に一度、健康診断が出来るような……そんな制度をこの病院から始めたいのよ」
ロイドは肩をすくめて足元の紙くずを蹴飛ばした。
「先日、手伝いのばあさんが急に流行り病で死んじまったからな。ここだって普段はもうちっとマシなんだ」
そんな理想よりも、まずここをなんとかしてくれ、彼の態度はそう言っているようにみえた。
「新しい人は来ないの?」
二人の傍らを、割烹着にも似た白い服 おそらくこの療養院の制服なのだろう。その衣服に身を包んだ老婆が二人、大鍋を抱えて通り過ぎていく。
鍋の中味は昼食なのか、老婆が通り過ぎたあとの廊下に、スープの香りが残っている。ロイドは耳に指を突っ込みながら言った。
「ここはいつでも人手不足だよ なかなか若い人が居つかなくてね」
「ジュールが言っていたけど」
なんていう病気だったっけ、あさとがそう言いかけた時だった。
あさとのすぐ傍の病室。その木戸がいきなり開いた。
「せ……、先生」
呻き声と共に、その内側から伸びてきた棒切れのよう腕。
震える指が、力なく木戸を掴んでいる。よろめくように出てきた老人は、骨と皮だけと言っていいほどにやせ衰えていた。
それより何より、あさとは老人の様相に声を失った。眼の下が真っ黒に変色している。そして、枯れ果てた皮膚のどこから滲み出ているのか、玉のような脂汗を額にびっしりと浮かべている。
「大丈夫か」
ロイドがすかさず、老人の傍に歩み寄る。抱え込まれた細い身体に痙攣のような震えが走った。あさとは一歩も動けなかった。
「は、…ぐっ」
鳥の喉がつぶれるようなくぐもった音がして、老父は身体を九の字に折った。たちまち うつむいた彼の顔のあたりから、滴るような黒い液体が床に飛散する。
「 っ」
あさとは驚愕で声も出なかった。粘着状の液体は、木材の床にその半ばまで吸い取られながら、まだ生き物のように蠕動していた。
「じいさん、しっかりしろ」
ロイドはぐったりと前のめりになった老父を抱え起こす。
病み疲れた老人は、すでに、半ば意識を失いかけていた。
「……先生、殺してくれ」
しわがれた唇がうめく様に訴えた。
「どうせ死ぬんじゃ、もう、苦しいのは我慢できん、早く……早く」
「ばか、なに言ってんだ、治る可能性があると、こないだ言ったばかりだろうが」
ロイドは初めて見るような厳しい眼差しでそう言うと、老父の身体を軽々と抱き上げた。
「じいさん、ベッドまで連れてってやるよ。なに、大丈夫だ、一度発作が起きれば当分は持つさ。もうすぐ昼飯だ。ちゃんと食って、栄養つけとくんだぞ……」
黒血病……。
あさとはようやくその病名を思い出していた。
ジュールに聞かされた、死を待つばかりの 不治の病。
「あんたの話に協力してやってもいいが、まずはここをもうちっとマシにしてくれないか、予算の面でだ」
洗ったばかりの手を拭いながら、病室から出てきたロイドは疲れきった顔をしていた。それは、あさとか最初に彼を見た時と同じ顔だった。
「そんなことさえ実現できないなら、何を考えたって計画倒れだ。あんたをまず、信用させてくれ」
「わかったわ」
あさとは頷いた。そしていたわるようにロイドの横顔を見つめた。
「……この病院が出来た元々の理由をジュールに聞いたわ。今の人、……黒血病なのね」
しばらく黙っていたロイドは、苦々しい口調で言った。
「苦しむだけ苦しんで、……死ぬしかなかった病だよ。長患いが特徴でね、ひどい時は十年も二十年も苦しむことがある。内蔵が内から蝕まれるんだ。壊死して溜まった黒い血液を吐くことから、そんな名前がつけられた」
その横顔は、一気に老けこんだように精細を欠いていた。
「この病も、忌獣と同じく、何十年か前に突然シュミラクールに現れた。差別を恐れて表には出ないが、病人は年々ものすごい勢いで増え続けている」
「……さっき…、治る可能性があるって、言っていたけど」
「……黒血病患者が吐き出す血液は、忌獣の体液ととてもよく似ているんだ。 これを言い出したのはディアス様だがな。ひょっとして忌獣の出現と、この病の流行は、何か関係があるのかもしれない」
「………」
医術師はようやく顔を上げた。彼らしい、不屈の笑みが片頬に浮かんでいた。
「忌獣を消し去ることさえできたなら、この病も治る可能性がある。……奇跡に等しい希望だがね、何もないよりはマシだろう」
療養院を改装するための費用の見積もり。そして、診療に必要な物資のリスト。それらを用意するようロイドに頼み、あさとは療養院を後にした。
帰りの馬車には、例の少女、ルナが同乗した。
少女の正確な名前は「日向ルナ」――ロイドからその名を聞かされた時、あさとは少し驚いていた。この世界で、未婚の女性が苗字を持つことは稀だからだ。聞けば少女は、没落した甲州貴族の遠縁にあたり、金と引き替えに闇に売り飛ばされたのだと言う。 。
ユーリと、似ている……。
あさとはますます、この少女に親しみと愛おしさを覚えた。
小さな手荷物をしっかり抱えた少女は、硬い表情のまま一言も口を聞こうとしなかった。
「ルナ……私はクシュリナ、知ってるわよね」
あさとは優しく声をかけた。ルナは答えない。無表情のまま、じっと空の一点を見つめている。
「今日からあなたは、私の傍で、色々勉強しないといけないの。お互い仲良くして、いいお友達になりましょうね」
少女の白い顔は、ますます強張り、まるで人形のように動かなくなる。
あさとは、そっと溜息をついた。無理もない、この間まであんなに嫌われていたのだから。
ディアス様に、会わなきゃ……。
あさとは馬車の窓から、薄桃色に染まりつつある空を見上げた。
今日はもう遅い、神経質なジュールが怒りを噛み殺している頃だろう。
カタリナ修道院には明日行こうと思っていた。
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