第六章 恋の螺旋
 
 
 
                   
 
 
 顔を差す日差しで、目が醒めた。
     ここ……どこ?
 あったかい。
 全身にぬくもりが満ちている。でも    すっごい腰が痛い。
「………?」
 あさとは、ようやく我に却って跳ね起きた。
 白い陽射しに包まれた室内    最初に眼に飛び込んできたのは、半分に砕けた神像だった。ひび割れた壁、転がった椅子の山、痛んで朽ちかけた柱。
 低い唸り声    ぎょっとして振り返った。
 背後で、黒斗が気持ち良さそうに目を閉じている。一瞬混乱したものの、すぐに記憶は鮮明になった。
 ――そっか、夕べ、私……。
「いった……」
 動いた途端、腰に鋭い痛みが走った。無理な姿勢、しかも固い床の上で寝ていたせいだろう。肩も腰も、相当にぎしぎしいっている。
 一人きりだった。朝の光が窓から差込み、室内に舞う埃をきらきらと輝かせている。
     アシュラル……?
 周囲を見まわしたが、一緒にいたはずの男の姿はどこにもいない。
 あさとは立ちあがり、ようやく自分が    まだ彼のクロークを羽織っていることに気がついた。
 少し……移り香が残っている。彼の香りだ。髪に残る、独特の香り。
 なんだろう、この気持ち。私……私、昨日。
 彼と、キスしてしまった。
「クシュリナ様!」
 息せきった声がして、扉が激しく開かれた。
 黒斗が驚いて、はげしく嘶き、前足を起こす。
「お、落ち着いて、黒斗」
 あさとは慌てて、そのたてがみに手を差し込む。一夜を共にした気安さを馬なりに感じてくれたのか、黒斗はすぐに大人しくなった。
「黒斗のことなど    かまっている場合ですか!」
 飛び込んできたのは鉄面皮ジュールだった。額に汗を浮かべ、髪を乱して立っている。目には激しい憤りの色がある。昨夜療養院で見た時と同じ服装のままだ。
    あなたと、いうお方は   
 言葉を失い、彼は長々と息を吐いた。「ご無事だったから……、よかったようなものの」
「本当に、ごめんなさい」
 あさとは素直に謝った。心底、彼には    いや、昨夜駆け付けてくれた者たちには申し訳ないことをしたと思っていた。それは痛切に悔いている。
「夕べ……誰か、怪我とか」
 おそるおそる聞いてみる。ジュールは嘆息しながら首を横に振った。
「こちらに怪我人は出ませんでした。ロイドも、一緒にいた女児も無事です」
     よかった……。
 思わず安堵の吐息が漏れる。
「……全く、あなたのご気性を予測できなかった、私の失策です。とんでもないことをなさるお方だ、信じられない」
 そう言って、ジュールはむっとした眼で口を結んだ。想像するまでもないが、相当、怒っているらしい。
「本当にごめんなさい、でも、私、どうしても」
「もういいです」
 厳しい顔のままで、彼は、手にしていた一抱えの布袋をあさとに渡した。
「アシュラル様のご指示で、着衣をご用意してまいりました。申し訳ありませんが、ここで御召かえを」
     ああ、そうか。
 クロークの下の服。とてもじゃないけれど、こんな格好では宮殿に戻れない。
「……ア…」
「……?」
 変……、昨夜もそうだったけど、どうしても、その名前が口に出せない。あさとは詰まりながら言った。
「あ、あの人は、何処?」
「あの人?」
「だから    ア、……」
「?……アシュラル様なら、私と入れ替わりに、金波宮に戻られましたが」
「戻った……?」
「ええ、夜明けと共に、だからこうして私が迎えに来たのですよ」
「………」
 そっか。
 不思議な寂しさを感じ、あさとはそのままうつむいている。
「じゃあ……ジュールは、夕べ、金波宮に戻ったんだ」
「療養院で夜を明かし、明け方になって戻りました。月が出てから、アシュラル様とクシュリナ様の行方もお捜したのですが、どうもロイドの言う場所とここは、違っていたようで」
「違う?」
 ジュールはそこで、腹立たしげに舌打した。
「おそらくロイドが、故意に我々に別の場所を告げたのでしょう。あの男には昔からそういうところがある」
 そう言い棄て、そして初めて気づくような顔になって、ジュールは、あさとの着替えのために退室してくれた。
 包みを開きながら、名状し難い不愉快な気持で、あさとはなかなか気持を落ち着けることができないでいた。
 信じられない。何も、一言も言わずに、こんなところに置き去りにして帰るなんて。
     あんな奴……冷たくて、最低で、女好きで、しかも無理矢理ひどいことまでした奴なのに。
     なのに……。
 感情の欠片がまだ唇に残っている。あさとは自分の耳が赤らむのを感じた。
 なんであんなキス……したの? 
 びっくりするくらい優しい、まるで子供がするようなくちづけだった。
     馬鹿みたい、あんなキス、全然あいつらしくないじゃない。
 あさとは胸に押し寄せる気持ちを振り払って、手早く着替えをすませ、髪をまとめた。
     そうよ、あんなの、多分あいつにとっては、挨拶みたいなもんだったのよ。何も気にすることはないんだから。
 なのに、どうしてこんなに腹立たしいんだろう。思わず乱暴に扉を開けていた。「お待たせ!」
「………」
 ジュールは、かすかに首をかしげ、不思議そうな顔であさとを見ている。
「……何?」
「いや……アシュラル様と、何かご喧嘩でもと思って」
「な、なんで」
 動揺を隠し切れずに口ごもってしまっていた。
「アシュラル様も、今朝、ひどくご不快そうでしたから」
「……そう、なの…?」
     不快……?
 なんでだろう? 何気なくジュールから眼を逸らしつつ、あさとは少し困惑していた。
     何か……アシュラルが腹を立てることでもあったんだろうか。それとも、あのキスのせい?あれから彼は、一言も口を聞かずに、背を向けてしまったから……。
 漠然と、不安な気持ちになる。
「ア、……あの人、じゃない。ジュールたち、どうして昨日、来てくれたの?」
 その不安を無理に振り払い、夕べから気になっていたことを、あさとは訊いた。
 アシュラルが背を向けてしまった後、眠れないまま考えていた。    気がつけば、いつもそうだった。
 いつも、あわやと言う時には、アシュラルが来てくれる。
 ダンロビンの時も、二度助けられた。彼にそんな気は全くなくて、結果的に助けられただけなのかもしれないけれど。
 何故だろう。三度繰り返された偶然。それが    すごく、不思議な気がする。
 ジュールは嘆息しながらも口を開いてくれた。
「あなた様が城を出られた直後、すれ違いで法王軍が御戻りになられたのです。正門で騒ぎがあったようでしたので、同行していた私が問いただしました。話を聞いて    アシュラル様が、すぐにそれはウテナだろう、と聞き咎められまして    それで、私が、昨日療養院で起きたことをお話したら、黒斗に乗って出て行かれると」
     アシュラルが。
 あさとは呆然としながら、その意味を考えていた。どうして    行軍から戻ったばかりの彼自身が、出る必要があったのだろうか。
「お止めしても聞き入られる方ではございませんから、……あれで、アシュラル様の身に何かあったらと思うと、今でも生きた心地がいたしません」
 ジュールは眉をきつく寄せたまま、再度深く溜息をついた。
 そうか。
 そこまで聞いて、あさとは少し肩をすくめた。    ジュールは、とにかく、アシュラルが心配だったんだ。……まぁ、私のことも、ついで程度には心配してくれていたんだろうけど。
「今のイヌルダにとって、あの方は、かけがえのないお方ゆえ」
 あさとの顔色を察したのか、鉄面皮の男は繕うように言い添えたが、それもまた、彼の本音なのだろう。
「なんだ、あんたら、まだそこに居たんだ」
 ふいにのんびりとした声が背後から聞えた。
 あさととジュールは、同時に振り返った。
 少し離れた木陰からのぞいている榛色の美しい髪、丸眼鏡。
 濃い緑が影になって男の姿を半分隠しているが、それは一度見たら忘れられない容姿    皇立療養院の医術師、滝沢ロイドだった。
 ロイドがゆっくりと木立の間から姿を現すと、かすかに、馬の    聞きなれた懐かしい息遣いが聞えてきた。
 あさとは、はっとしてロイドの傍に駆け寄った。
 ロイドの、その手の先に、一頭の白馬が引かれている。
「ウテナ!」
 あさとは叫んだ。そして、主人の姿を認め、いななく愛馬をひしと抱きしめた。
「なぁんだ、せっかくこの馬をお城に届けて、褒美をもらうつもりだったのに」
 ロイドはふざけた様にそう言うと、ぼりぼりと首を掻く。
「ウテナ……」
 嬉しげに鼻を鳴らすウテナを、あさとは抱きしめ、そして何度もたてがみをなでた。涙で自分の眼がかすんでいる。
     よかった。無事だった。もしかして、忌獣に殺されてしまったのではないかとも思っていた。忌獣が人以外を襲うことは滅多にないことだけれど……。
 しっかりと鬣に腕を回して抱きしめる。今ウテナがいなくなったら、どうしたらいいかわからない。ウテナは「クシュリナ」の一番幸福だった時を、唯一知っている友だちなのだ。
 そんなあさとを横眼で見ながら、ロイドはぶっきらぼうな口調で続けた。
「こんな目立つ馬を、あのまま置いてちゃ、盗まれるのは目に見えてたからな。だから俺が隠しておいてやったんだよ」
「……ありがとう…」
 この人は、いい人なんだ。
 無論、信用できない側面はある。けれど彼があの場で庇ってくれなければ、アシュラルの助けもぎりぎりで間に合わなかったのかもしれないのだ。
 ロイドはあさとから視線をあげると、ふいににやりと笑って片手を挙げた。
「よう、ジュール、結局アシュラル様は見つからなかったのかい」
「……ロイド、お前……」
 ジュールの低く呟く声。あさとは驚いて振り返った。再び怒りを露にしたジュールが、拳を細かく振るわせている。
 あさとは仰天したまま、そんなジュールとロイドの二人を、交互に見た。
     この二人って、まさか知り合い?
 そう言えば、昨夜ロイドはアシュラルを呼び捨てにしていた。昔からの    友人のように。
「悪いな、実はこの森には礼拝堂が二つあってね。俺にもそのどちらに法王様がおられるか、全く判らなかったのさ」
 皮肉屋の医術師は、ジュールの怒りをまともに浴びても平然としている。
 すっかり血が上った方の男は、怒りを噛み殺しながら言葉を繋いだ。
「それはまぁ、いいとしよう。しかしロイド、貴様は何だって、ヴェルツの残党などに手を貸した。国家反逆罪で処刑されても文句は言えんぞ」
「俺は医師だ、あんたらみたいな、公僕じゃないよ」
「皇立療養院の院長は、立派な公僕だろうが」
「皇室にあれこれ口を出されるくらいなら、いつだって辞めてやるさ」
 その一言で何故かジュールは悔しげに口をつぐみ、ロイドは肩をそびやかした。
 あさとはますます驚いていた。このロイドって    何者なんだろう。あの口煩いジュールを黙らせてしまうなんて。ただ者ではない。
 そのただ者ではない男は、あさとの方をちらっと見ると、嬉しそうに口元を歪めた。
「ま、いいじゃないか。おかげで面白い見世物が見られた。アシュラルの焦った顔なんて滅多に見られない。あいつにあんな顔させるなんて、なかなかの良妻だね、おじょうちゃんも」
 揶揄するような細い目があさとを見つめる。なんと答えていいか判らなかった。
「身体の方も大分よくなってるし、それもひょっとして」
      黙れ」
 ふいにジュールの口調に、触れれば切れそうなほどの殺気が滲んだ。
 冷ややかな怒りが、傍にいるあさとにも感じられる。
「……ああ、悪い」
 ロイドは、少し真面目な顔になって肩をすくめる。
 あさとは、二人の様子に、主としてジュールの剣幕に、ただならぬものを感じた。 
    身体の方も大分よくなってるし……)
 会話についていけなかったあさとにも、その言葉だけは引っかかっていた。
 それは……誰のこと? アシュラルのこと    ? なんだろう、あの人、病気か……それとも怪我でもしているんだろうか。
 ジュールは、苦々しく舌打ちして、ロイドから視線を逸らした。そして、ようやくあさとの存在に気がついたような顔をした。
「クシュリナ様、この男は先日訪れた皇立療養院の院長、滝沢ロイドと申します。以前お話した、カタリナ修道院で私と一緒だった男です」
「よろしくね、おじょうちゃん」
 ロイドはふざけた様に肩をそびやかし、にやっと笑った。
 カタリナ修道院の、    ああ、そうか。ようやくあさとは得心した。そういう関係ならば、頷ける。アシュラルともジュールとも旧知の仲だということが。
「ディアス様は、医事にも通じたお方でいらっしゃいました。このロイドは、デイアス様に医術を学び、兵法や武術よりは、そちらの方に才を発揮した男です」
 ジュールがそう続けると、榛色の髪が美しいその男は、少し照れたように鼻を掻いた。
「ま、つまるところ、俺は人殺しはごめんなのさ。虫も殺せないほど気が弱くてね」
 照れ屋なんだな、とあさとは思った。悪い人ではないどころか    あさとは、この短いやりとりの間に、このロイドと言う男にかなり好感を持つようになっている。
 何よりも、アシュラルを呼び捨てにしているのが小気味よい。
「ロイド、あの……昨日の女の子のことだけど」
 あさとは思いきって、言ってみることにした。
    何?」
 突然ロイドは嫌なものでも見るような目になり、そっけない横顔を見せた。
 この人も、根本の発想はジュールと同じなんだ。そう、あさとは理解した。貧しき者に戯れに手を出すことを、許せないと思っているのだろう。
     ほんっとにカタリナ出の男の人って、……ディアス様はどういう教育をしたのかしら。見事に全員、性格が歪んでるじゃない。
 そう思ったが、それは口にはしなかった。
「ロイド、私、あの子を」
「クシュリナ様」
 ジュールが、非難がましい声で遮ろうとする。
「どうすんの? あんたが引き取って、一生背負い込むつもりなの?」
 ロイドは鼻で笑って言った。
 あさとは一瞬躊躇して、そして、考えていたことを一気に口にした。
「あの子を、私の女官として傍に置きます。給金は相応なものを支払うので、それをあなたから、彼女の父親に伝えておいて欲しいの」
    クシュリナ様!」
 ジュールの声を無視して、さらにきっぱりと言い切った。
「これは、個人の頼み事ではありません。女皇としての命令です」
「ふぅん」
 ロイドは頬を指でこすると、珍しいものでも見るような眼で、じっとあさとを見下ろした。
「俺に、命令は効かないよ。俺は誰の命令も聞かない事にしてるんだ。でも、まぁ……そうだな」
 少し考えてから、彼の細眼が微かに笑った。
「じゃ、一週間後、あの子が退院する時に迎えに来なよ、あんた一人で。    そうしたら、あの子をあんたに渡してやるよ。女皇陛下様」
 
 
                 
 
 
    全く、冗談ではない!」
 金波宮に戻っても、ジュールの機嫌はなかなか直らないようだった。
「どうするつもりなのです、あんな……行儀作法も知らない娘を宮中に入れるなんて、前代未聞だ」
「ジュール、お願い、その話は後に出来ない?」
 一晩ぶりにオルドに戻り、あさとはようやく自室でくつろぐことが出来ていた。 着替えを済ますと、猛烈な眠気が襲ってきた。夕べは明け方になってようやく眠れたのだから無理もない。 
 しかし、寝室に入る前に、ジュールがやって来た。今朝、ロイドと約束したことを、彼はなんとしても思い直させたいらしかった。
「いいえ、聞いていただきます」
 頑固な男は、立身したまま頑なに繰り返した。
「お聞きとは思いますが、今、各地で小領主の反乱が続いています」
 知っている。それを鬼神の勢いで誅しているのがアシュラルだ。夕べ自分を救ってくれた彼の腕には、おそらく何百という命の返り血が沁みついている。
「あの方は破壊の魔王と称されています。戦場においては神懸り的な力があると……そして、その風評が、同時にあの方を支えている」
 ジュールは厳しい目であさとを見つめた。
「あなたが引き起こした厄介ごとは、そのままアシュラル様の外聞に繋がる。あの方は今、一番大切な時期なのです」
「………」
「皇都の貧民街には、あの娘のような境遇の子供はごろごろ転がっています。それをみんな救い上げて、オルドへ連れ帰るおつもりですか」
「………」
「それが、どれだけ意味のない手前勝手な行為なのか    あなたには……私の気持ちが通じておられないのか、とても残念ですよ」
 あさとが何も答えないでいると、ジュールは嘆息して背を向けた。そしてそれきり、喋らなくなった。
「ジュール、私は決めたの」
 あさとは立ちあがった。
     そうだ、もう、決めた。
「あの子を私の元へ置くのは、それが運命だからだと思っているわ。私は彼女を見てしまった、知ってしまった。放っておいてはいけないと思ってしまった。もちろん、彼女以外にも救わなければならない子供は沢山いる。でも    やっぱり私は、あの子を忘れられないと思うの」
 あの憎悪の瞳、人が変わったように、悪し様に言い募る声。
 何より、あの子は雅に似ている。それが全てだった。
「それが、……人と人との運命のような気がするのよ。なんで彼女じゃないといけなかったのか、それは判らないけれど」
 何故ラッセルでないといけなかったのか、何故アシュラルの手を取ってしまったのか    それと、同じように。
 あさとはジュールを見上げた。彼は何時の間にか、静かな眼差しであさとを見つめていた。
「私、……この国に病院を作るわ。無料の病院、貧しい人々が安心して治療を受けられるような。それから学校……カタリナ修道院のような、子供たちのための学校を作るわ」
 ジュールは答えない。相変わらずその顔から、表情を読み取るのは難しい。
「あなたたちが、大きな流れでこの世界を変えていこうとするのなら、私は身近なところで、少しずつ変えていこうと思うの。私に何ができるかわからないけれど……少しずつ」
 ジュールは、ようやく長い溜息をついた。少し顔を背け、何かを考えるような目になった。
 そして、厳しい口調で言った。
「……口で仰られるほど、簡単なことではありませんよ」
「わかってるわ」
「国費を動かすには、貴族院の承認がいる。……療養院の予算が年々削られていく理由はなんだと思いますか」
「………」
「貴族院の連中が、自分の利益に繋がることしか承認しようとしないからですよ。あの療養院だって」
 顔をそむけ、苦いものを噛むような口調になった。
「今はロイドが、私財を投げうって維持しているんです。皇室は、わずかな補助金しか出していませんから」
「そう、なんだ……」
 あさとは内心驚いていた。自分が差し出した石を見て態度を豹変させた彼が、それほど篤実な男だなどとは、思ってもいなかったからだ。
 やっぱり私には、何も見えていなかったのかもしれない、    少し寂しくそう思った。
「とにかく、もう決めたの。病院のことはロイドに相談するし、学校のことはディアス様に相談してみるわ。この国の地図と、それから人口分布図……できたら、子供の数が分かるもの、用意してもらえるかしら」
「クシュリナ様……」
 ジュールは再度、かなり深い溜息をついた。
「法王の力は頼れませんよ。今、法王軍は膨大な軍費を必要としています。しかもアシュラル様は、明日にも、奥州の反乱を静めに出征されます。今回はおそらく長くなるでしょう。その足で、ウラヌスに向うと言っておられた。少なくとも一ヶ月は戻られない」
「……べ、別に」
 別に、アシュラルがいなくたって。
「それでなくとも、アシュラル様はお忙しい。他のことで手一杯の状態なのです」
「だから、別に私は」
 最初からあの人なんて、あてにしてない    そう言いかけて、口をつぐんだ。
     ああ、……そうなんだ。
 心のどこかに、ふと、寂しいものがかすめていく。
     アシュラル、……また、行ってしまうんだ。一ヶ月も戻らないんだ。それなのに……。
 今朝は一言もなく、私を置いて帰ってしまった。
 あんなことがあった後なのに。
「クシュリナ様、私も自由には動けない。この機を衝いて、奥州、甲州にひそむヴェルツ一派が金波宮を攻めてこないとも限らないため、万全の警備を整えなければならないのです。……そうだな」
 ジュールは腕を組み、しばらく何かを考えていた。
「出歩く時は、私の許可を取ること、それから必ず私の部下を従えて行くこと。それを必ず守っていただければ」
「ありがとう、ジュール」
「フラウオルドには私から話を通しましょう。これは、ご政務なのですから」
 結局ジュールは、何を言っても、最初から手伝ってくれるつもりだったのだ。あさとはますます、この無愛想な男が好きになった。
「この国の地理に詳しい者がおります、早速お傍に参らせましょう」
 そう言って出て行こうとするジュールに、
「あ……あの男って」
 あさとは声をかけていた。昼間から、少しばかり気にかかっている。
「……どっか悪いの? その、身体とか」
「アシュラル様のことで?」
 振り返ったジュールはけげんそうな顔をした。
「いえ、特にお悪いところはないと思いますが……何か、お心あたりでも?」
     なんだ、勘違いか。
 あさとは少しほっとして、「じゃあ、いいわ」と言った。ジュールは一礼し、退室しようとして、ふと足を止めた。
「病院や学校のことはともかく……あの子供のことは、思い直していただけませんでしょうか」
 少し難しそうな眼をしている。彼の表情の意味が判らず、あさとは眉をひそめていた。
「あの子供は、あなた様に似すぎておられる……。似すぎた者をお傍に置くというのは、時に禍根を残すことがありますゆえ」
     ああ、そうか。
 あさとは初めて得心していた。すっかり忘れていた。雅に似ているということは、同時に「クシュリナ」にも似ているということなのだ。
「大丈夫よ、ジュール」
 あさとは微笑しながら言った。「きっと……上手くやっていけるわ、心配しないで」
 険しい横顔を見せた男は、何か言いかけたものの、結局何も言わずに退室した。
     別に、病気とかじゃなかったんだ。
 ジュールが行ってしまった後、妙に晴れ晴れとしている自分にあさとは気がついた。
 アシュラルが病気ではないことに、何故かとてもほっとして    同時にそんな感情を抱く自分に戸惑ってもいた。
     なんで……あんなキス、したんだろ……。
 そしてまた、同じことを考えてしまっている。
     私のこと、嫌いって言ってたくせに、嫌いなのに、あんなに優しい……。
 キス。
 誰にでも、同じようにするんだろうか。    そうだ、きっとそうに決まっている。
 そう思うと、今度はむしょうに苛々する。
 はっきり本人に真意を問いただしてみたかった。でも明日から、彼は一月も宮殿を離れるという。
 女官の雰囲気を見ても、今夜、彼がここを訪れてくれそうな気配は感じられない。
     サランナのところかな……。
 多分、そうなのだろう。城を長期で空けるのだから、サランナと一夜を共にするのは当然のことだ。
     別に……構わない。彼を好きなわけじゃないんだし。
 あさとは立ちあがり、それからまた、意味もなく座った。
 こんなことで苛々している自分に、腹が立って仕方がなかった。
 
 
 
 
 
 
 

BACK    NEXT    TOP
Copyright2009- Rui Ishida all rights reserved.