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9
闇に閉ざされた森の中で、アシュラルは不意に手綱を引いた。
黒斗が暴れ、いなないてようやく脚を止める。
あさとは振り落とされそうになって、慌てて、アシュラルの腕にすがりついた。
「大丈夫か」
見下ろす眼に、厳しい緊張がみなぎっている。
「……どうしたの」
不安にかられて、あさとは聞いた。
どうして こんな恐ろしい場所で、馬を止めてしまうのだろう。
アシュラルはそれには答えず、無言で黒斗から飛び降りた。
そのまま腕を伸ばし、あさとを抱いて、地面に下ろす。
「……来る」
彼は低く呟いた。
「お前は、初めてじゃないな」
……?
初めてじゃないとは どういう意味なのだろう。
訝しむあさとに、さっさと背を向け、アシュラルは、傍らの木から、太い枝を一本もぎ取った。
振り返り、つっとそれをあさとの目の前に突き出す。取れ、とその眼が言っている。
まさか……。
あさとは唖然として、アシュラルの顔をまじまじと見つめた。
「こんなもので、あの化け物に立ち向かえって言うの?」
ふざけてる、そんなの、絶対に無理だ。
けれどアシュラルは眉筋ひとつ動かさなかった。真剣な目をしている。反論する言葉を失い、あさとは彼の手からその木片を受け取った。
「忌獣はな、生きている獣じゃない。お前も見たことがあるのなら判るだろう。あれはな、何かの邪念の塊だ」
あさとはアシュラルを見上げた。彼は厳しい横顔のまま、腰に下げていた長剣をすうっと抜きさった。闇の中でも冷え冷えと冴え渡るほど、 それは見事な剣だった。
氷にも似た刃を見つめながら男は続ける。
「恐怖が忌獣を呼び、形づくる。あれはな、人の恐怖が生み出すものだ。恐怖の念が形になったものなんだ」
「恐怖の……念?」
「恐怖、呪詛、憎しみ……人の負の念であれば、みなを同じだ。だから、恐怖さえ感じなければ、忌獣は絶対に襲ってはこない」
そう言えば。……
あさとの胸に、ふとよぎる記憶があった。
ユーリが、以前、……こんなこと言っていた。忌獣に襲われた人の死に顔……恐怖に心を食われていると。
アシュラルは、剣を一凪させて空を払った。
「とはいえ、この理屈はまだ立証されたわけではない。ある男の受け売りだ。そしてそれは正しいと 俺は勝手に信じている」
「そんな」
あさとは気が抜けるのを感じた。
この土壇場で、そんなの勝手に信じられても。
「お前も信じてやるがいい」
アシュラルは初めて、片頬にうっすらと笑みを浮かべた。
「その男は、二年も前から忌獣の生態を調べていた。命の危険も顧みずにな。忌獣の謎を解くこと、それがこの世界を闇から救う鍵になると、 そいつは信じていたのだから」
それは……。
あさとははっとしてアシュラルを見つめた。彼の面差しに、よく似た男の顔を無意識に探した。
その男とは、多分……二年前に忌獣討伐隊に配属された……。
「人は、自分の恐怖心に食い殺される。だから、それに打ち勝てばいい」
アシュラルはゆっくりと言った。
彼の背後で、闇が、ざわっと膨れ上がる。怖かった。が、それを今、表情にも言葉にも出してはならないのだ。いや、心の中でさえ、思ってはならない。
人の恐怖が忌獣を呼ぶ。
では、この闇は、私が呼び寄せているのだろうか。
あさとはほぞを噛むような気持で考えた。
冷静なアシュラルの眼差しは、すでに闇の中に蠢くものを見据えている。全てを理解している彼なら、きっと恐怖など感じることもないだろう。
「剣術で言えば、居合に似ている。気合で負けた方が負けだ。先に眼をそらせば、簡単に呑みこまれる わかるな?」
さすがにその声は切迫していた。闇はもう、二人の周辺を色濃く包み、徐々に形を変えつつある。
背中併せになり、二人は闇に対峙した。
「お前が恐怖に呑まれれば、俺も助からない。言ってる意味わかるだろうな。 俺は今、こんな所で死ぬわけにはいかないんだ!」
背中から響くアシュラルの声。
あさとは初めて、胸を衝かれる思いがした。
この男が、法王として成そうとしていること それが何なのか、終局的に何処へ向かっていこうとしているのか、まだあさとにはよく判らない。
が、彼のしようとしていることは、まさに今日、あさとが見てきた人々を根本から救うことに 繋がるのではないだろうか。
あさとには、決して彼らを救えない。救えないどころか、呪詛ひとつ受け止めることができない。
アシュラルは違う。どれほど憎まれようが呪われようが、彼ならやるだろう。彼の目的を果たすために やり遂げるだろう。
だったら。……
あさとは、唇を切れるほど強く噛み締めた。
私は……本当に馬鹿だった。何もわかっていなかった。この人の足を引っ張ってばかりだった。
「判った。私、今、本当にすごくよく判った」
あさとはきっぱりとした口調で言った。
「信じて、 私、絶対にあなたを死なせないから!」
「よく言った」
闇が急速に膨らんだ。
禍々しい臭気がした。……白蘭オルドで体験した、あの夜と同じ匂い。風がすりきれるような、地底の奥底で響くような、陰々と不気味な雄叫びが聞こえる。
それは、魔界の声だった。この世のものならぬ魔の遠吠えだった。
あさとは、じっと、目の前の闇を睨み続けた。
いや、睨んでいるのは……己の心の闇だった。
時間が……自分の周辺だけ、ねばるようにして停まる。名状しがたい不思議な感覚。まがまがしい邪念が闇の中から溶け出してくる。
怖い 。
一瞬、心が折れて自然に一歩下がっている。その肩に暖かな背が触れた。
アシュラル……。
肩越しに男の体温が伝わってくる。恐怖が消えた。一人ではない、戦うときも、きっと、死ぬときも。
不思議だった。あれほど近くに寄られるのが嫌だった男と、ただ、肩が触れただけで安心している。
水のように静かな心で、あさとは闇に蠢くものと対峙し続けた。睨むことさえ、いつしか忘れていたのかもしれない。
そのまま どれくらいの時が立ったのだろうか。
時間の流れが、ふいに穏やかに感じられた。気づけば景色が、元の夜に戻っている。
終わった……?
ひどく長かったような気もするし、一瞬だったような気もする。
汗が、はじめて額から落ちて眼に零れた。木刀を持つ手は強張り、棒のように固まっている。
足元に、二つの影が重なっている。二人の頭上を、月が煌々と照らしていた。
アシュラルが、長く息を吐く気配がした。
「よくやった……」
その声で、あさとはようやく肩の力を抜いた。
静寂が周辺を包んでいる。闇は明けていた。頭上に輝く月光 。森はいつもどおりの様相を取り戻している。
黒斗のいななきが背後で聞える。
終わったんだ……? でも、本当に?
膨らんだ闇は、結局形にならないまま霧散したのだと 初めてその時理解できた。
いったい忌獣とは何なのだろうか。もし、もう一度白蘭オルドに出てきたようなものに出くわしたら、正直、心の平静を保ちきる自信はない。
そういう意味では……今夜、二人を救ったのは、月光なのだ。
腕から力が抜け落ちる。いまさらのように、足が震え始めている。
アシュラルは、厳しい目で、あさとを促した。
「来い、とにかく森を抜けよう、次は防ぐ自信がない」
10
「雲が多い、 また、来るな」
アシュラルは天を見上げて呟いた。
彼の緊張した声を聞くと、あさともまた不安になる。まだ、夜の恐怖は終わってはいない。
「ロイドが言っていた……礼拝堂があるはずだ」
彼は周囲に視線をくばりながら馬を進めた。
それはすぐに見つかった。
平屋のような木造建物で、普段人が使っていないのか、扉の閂にかび臭い埃が溜まっている。
アシュラルは、その閂を長剣の束で叩き折ると、あっという間に扉を開けた。
中は、暗闇に等しい状態だった。礼拝堂とは名ばかりなのか、歩く度に埃が足元に舞うのが判る。ようやく 闇に眼が慣れてきた。
たくさんの椅子が、埃を被って転がっている。壊れたシーニュ像。ひび割れた壁。
あさとにも判った。民はもう 神など何一つ頼りにしていないのだ。その惨状は言い換えれば、明白な皇室への叛旗の念に他ならなかった。
「ここなら、安心だな」
そういったことは一切気にならないのか、アシュラルは黒斗も中に引き入れ、扉をぴったり隙間なく閉めた。
室内は、たちまち明度を失って暗がりに引き戻される。
再び不安にかられ、あさとは男の背に訊いた。
「ここに……、いつまでいるつもりなの」
「朝日が出るまでだ。当たり前のことを聞くな」
「……そう」
この薄暗がりの中、厭わしい男と二人きりなのだということを初めて強く意識していた。
少しだけ後退し、心持ち彼から遠ざかった。けれど、もう心では 男を拒否する気持が薄れてきている。
「それにしても、すごい埃だな」
呆れたようにそう言いながら、アシュラルが、窓を覆うカーテンを払いのけた。
月明かりが眩しいほどだった。窓越しに、薄明かりが室内に満ちる。
「外にいた方が、安全なんじゃない?」
室内の暗さのほうが、むしろあさとには恐ろしい。
アシュラルは答えず、カーテンを片端から払いのけている。
「 ……全く、お前のせいで、今日ほど怖い思いをしたのは、初めてだ」
そしてようやくあさとに向き直った男は、苛立たしげに髪をかき上げて呟いた。露わになった形よい額に、薄く汗が滲んでいる。
アシュラル……?
「今……怖いって聞えたけど……」
あさとはおそるおそる訊いてみた。
「当たり前だ、俺をなんだと思ってるんだ。でなきゃ、忌獣なんて出てこないだろうが」
無愛想にそう言うと、彼はようやく剣を収め、黒斗を地面に座らせた。
「こっちへ来い」
「……え」
「ばか、妙なことを考えている場合か、こいつに寄りかかると、少しは暖かいだろうが」
苛立った声でそう言い、彼はさっさと愛馬を背にして腰を下ろした。
確かに、礼拝堂の中は、底冷えするほど寒かった。
アシュラルの目が、じっとこちらを見上げている。
な、何?
彼の隣に座ろうとしたあさとは、少し、ドキっとして足を止めた。
「お前、すごい格好しているな」
「え……あっ」
思わず耳まで赤くなった。
最低、ひどすぎる。胸元は破れて、スカートも半分ちぎれている。髪は全部ほどけて、だらしなく肩に流れている。しかも……泥だらけだ。
「ひど……」
あさとは改めて、民衆の怒りの深さを思い知った。ふと見ると腕の内側に紅い引っかき傷が刻まれている。いまさらのように、足が震えて動けなくなる。
「本当に世話のやける女だよ、お前は」
舌打ちして立ちあがると、アシュラルは羽織っていたクロークを脱いだ。きれいに締まった腰のラインが、やっぱり琥珀によく似ていて あさとは目を逸らしていた。
「着ろ」
「あ、」
暖かな温みを肩に感じた途端、緊張も恐怖も解けて、足の震えも収まっている。
不思議だった。忌獣の時もそうだった。肩が触れた途端、私は すごく、安心して……。
「見せてみろ」
アシュラルの腕が、あさとの傷ついた腕を取った。
冷たい指を肌に感じた時、あさとは驚きとは別の感情で手を引こうとしたが、アシュラルは力を緩めなかった。
「他に怪我は」
「多分……それだけ」
無言のまま、アシュラルは懐から小さな瓶を取りだした。中には透明な液体が入っている。
なんだろう……この世界で消毒といえば、アルコールくらいだけど……。
傷に液体を振りかけると、アシュラルはあっさり手を離して、馬の腹に背を預けた。
不思議な、杏の匂いがした。
「傷が炎症を起こすと命取りになることもある。まぁ、気をつけるんだな」
ありがと……。
言わなければいけない言葉なのに、なんだか照れくさくて出てこない。
「寝ろ」
「えっ」
「なんでいちいち驚くんだ。俺が起きているから、お前は寝ろと言ってるんだ」
「………」
分厚いクローク、公式行事に用いられる勲章付きの上着。今、彼が着ているのは、おそらく、旅から戻ってきたそのままだ。
アシュラルのほうが……絶対疲れているような気がするのに。
「お前も小心な奴だな、まだ怖がってるのか」
あさとが無言でうつむいているのをどう解釈したのか、アシュラルが馬鹿にしたような声で言った。
少しむっとして、彼のクロークを頑なに身に巻きつけている。
自分だって……怖かったって言ってたくせに。
厭味を口にしようとして その時、ふと気づいて腰に手をあてていた。 ない。
「嘘」
「何?」
アシュラルが、驚いたように半身を起こす。
「……あ、ううん」
「なんだ、気持悪い奴だな」
「………」
ない……。ごそごそとクロークを脱ぎ、もう一度、腰のあたりを探ってみる。持ってきたはずの、ジュールからもらった短剣がなくなっている。
あれだけの騒ぎだ……落としたのかもしれないし、奪われてしまったのかもしれない。
それでも、政変以来ずっと自分を護っていた剣を失くしてしまったことは、あさとの気持をがっくりと沈ませた。
「お前……」
気づくと、アシュラルが呆れた目で見あげていた。
「俺を誘っているのか? さっきからいったい何をやってるんだ」
「 !」
ぎょっと耳まで赤くなり、あさとは慌ててクロークで身を覆った。しまった、本当に何をやってるんだろう、私ったら!
アシュラルが、横を向いて肩をすくめる。
「安心しろ。そんな貧相な身体をみても、却って気の毒になるだけだ」
「………」
「とっとと寝ろ、横で起きていられても眼ざわりだ」
ほんっとに……腹がたつ。
どうして、もっと優しい言い方ができないんだろう。本当は……そんなに……冷たい人じゃ……。
私も、一言……ありがとうって、言えばいいのに。
「ア……」
「ん?」
「…………あのさ」
「は?」
男の声に、あからさまに険がこもる。
「ほ……、本当に、怖かったの?」
黒斗の腹に背を預けながら、あさとはの口は、先ほど出なかった厭味の続きを言っていた。
「何が」
傍らに座る男は、腕を首の後ろに組み、面倒そうに目を閉じている。
「だって、さっき、怖かったって言ったじゃない、こんなに怖い思いをしたのは初めてだって」
「………」
「言ったよね?」
「…………」
「本当にあなたも怖かったの?」
正直、あれは意外な言葉だった。忌獣が人の恐怖に呼び寄せられるのなら、あの時、忌獣を呼んだのは、間違いなく自分だと思っていたから。
アシュラルは目を開けようともしない。 無視してるんだ……。
かちんときた。
「ふーん、本当は、怖かったんだ」
「………」
「えらそうなこと言ってるけど、本当はけっこう怖かったりしたんだ。へー」
「………」
「私には忌獣は見えなかったけど、ひょっとして自分には見えてたりしたんだ」
「うるさいな、お前は」
アシュラルは苛々した様子で目を開けた。
「さっきから何が言いたいんだ。言っておくが、俺一人なら忌獣など怖くはない、今日はお前がいたから」
「……私?」
「………」
目の前の男はふと、黙った。
それは、どういう意味なんだろう。
あさとはアシュラルの顔を見上げた。
彼もまた、それにつられるように、あさとの顔を見下ろした。
窓越しに差し込む月光に照らされた綺麗な輪郭と 闇のような瞳。
まだ、心臓がドキドキしている。
怖かったから、本当に怖かったから、気持が普通じゃないのかもしれない。
だから。 。
近づく唇に、そのまま吸い寄せられるように。
あさとは、アシュラルとキスをしていた。
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