|
8
「ここにいたぞ!」
声が背後に迫っても、ウテナを繋いでいたはずの木の幹を見つめたまま、あさとは動くことができなかった。
駆け寄ってくる群集。病んだ香りが密集している。怒りと欲望と呪詛の眼差し。あさとは後ずさり、木に背を阻まれ、そのまま彼らに取り囲まれた。
見下ろしている顔、顔、顔。
憎悪と、そして、集団の暴走で自制心を失った顔。
「……部屋の中に戻って」
あさとは震えながら、それでも言った。咄嗟に一瞥して見たが、この群集の中には、先ほど鋭い眼差しであさとを睨んだ刀痕の男はいないようだった。
「月が消えたら、忌獣が……出るのよ」
「嘘をつくな!」
怒声が飛んだ。
「そうだ、エライ奴らは、嘘ばかりだ」
「この土地には、もう何年も前から忌獣が出てる、なのに、あんたたちが何をしてくれた」
「忌獣に襲われたと、一言でも言えば、牢獄行きだ。だからわしらは、狼に襲われたと言わねばならんかった」
「この世に、もう神などいない」
「あんたたちの所業を罰するために、神が忌獣を遣わしてくれたんじゃ!」
彼らにとって、あさとが本当にクシュリナ姫かどうかは、最早関係ないようだった。
零れ落ちた宝石の類が、彼らの鬱屈した怒りの矛先を、その持ち主に向けさせてしまったのかもしれない。
誰かの手が伸びて、あさとの髪を引っ張った。
それが合図のように、彼らは一斉に手を伸ばした。引っ張られるスカート、袖、襟。
恐怖で身がすくむ。現実的に逃げられないわけではない、それでもあさとは動けなかった。足がすくみ、手が震えた。それは彼らの呪詛を一身に浴びることへの恐怖だった。
「やめ……っ」
びりり、と袖が破れた。
知らなかった。
皇室とは、クシュリナとは、
「お願い、許して……!」
これほどまでに恨まれていたのだ 貧しきものたちに。
「おいおい、そこまでにしとけ、お前ら」
聞こえてきた声と共に、不意に腕を掴まれて、あさとは恐慌の中心から引き上げられた。
誰……?
震えながら顔を上げる。
声だけはのんびりとしていたが、その声の主は意外に俊敏に人の輪を押しのけた。
「ったく、何を血迷ってるんだ。この女がクシュリナ様のはずがないだろうが」
あさとは強張った顔を、自分の傍らに立つ男に向けた。
それは先ほど、野卑た笑みとともにあさとから石を受け取った 滝沢ロイドという医術師だった。
「ロイド様、でも」
「この女は、あんな高価な石を持ってたんだ」
「ロイド様もキンパの奴らは許せないって言ってたじゃないか」
まだ人々の興奮は収まらない。口々に言い募る。
ロイドは、あさとを自分の背に回しながら低く笑った。
「あのなー、あの程度のもんなら、ちょっとした下級貴族でも持ってるんだよ。いいじゃないか、お前ら、それを頂いちまったんだろ? それとも、キンパの持ち物だからって腹を立ててお返しするつもりか?」
ざわめきが、潮を引くように静かになる。
「さ、病室に戻った戻った。これ以上元気な様を見せつけられたら、全員とっとと退院してもらうからな」
このロイドという医術師が、ここにいる者全ての尊敬と信頼を得ているということは、すぐに判った。
彼の冗談めかした一言で、群集の興奮はたちまちに冷め、気まずそうな顔が、一人二人と消えていく。
「ルナはだまされないよ」
残ったのは、蒼白な顔をした 雅に似た少女だけだった。
「ルナ……、ルナというの? あなたは」
あさとは呼びかけた。ルナはべっと唾を吐くような仕草をした。
「あんたはクシュリナ様だ、ルナはちゃんと聞いていたんだから。背が高くて、髭のある人が、あんたのことクシュリナ様って呼んでたんだから」
あさとは何か言おうとした、が、それよりも早く、ルナは睨むような視線を残し、素早くきびすを返していた。
「待って!」
呼びとめたが、小さな背中はすぐに薄闇の中に溶け込んでいく。
「……あんたも、今夜一晩、入院して行きな」
それまで黙って二人のやりとりを聞いていたロイドは、あさとのケープを拾い上げながらそう言った。
「今から金波宮に戻るのは、ちょい無謀だ。今夜は雲が多い、絶好の忌獣日和というやつだ」
この人。……
彼の口調は、彼が最初からあさとを「女皇」と認識していることを感じさせた。
この人……何者?
あさとは、不審と戸惑いの入り混じった眼で男の背を見つめた。助けてもらったことを感謝していいのかどうか、それさえも判らない。
「何を驚いてるんだ、女皇陛下」
振り返って、ロイドは笑った。鋭い目が柔和になって、意外に人好きのする笑顔になる。
「ここは皇室がおつくりになった療養施設なんだぞ。俺があんたの顔を知らないでどうすんだ」
「 やはり、本物なのか」
ロイドの声に、野太い男の声が重なった。
あさとははっとして顔を上げた。
微かな悲鳴が聞こえた。女の子の声だ。
淡い黄昏にも似た月明かりの下、滲み出るように数人の男たちが現れた。彼らの先頭で仁王立ちになっているのは、さきほど病室であさとを睨んでいた刀痕の男だ。
男の背後に立つ者 約十数名。みな、つぎはぎだらけのボロを着ているが、目つきも面構えも尋常ではない。そしてなにより、彼らは全員帯刀している。
この人たち……騎士だ。
あさとは唇を噛んで、ロイドの背中越しに彼らを見つめた。
ヴェルツの残党……ジュールがくどいほど心配していたことが、今さらのように蘇る。
「ロイドっ、助けてよっ」
再び甲高い声がした。少女の声。あさとは気がついた。男たちの一人が、駆け去っていったはずのルナを、羽交い絞めにするような形で拘束している。ルナは白い手足をばたばたさせ、必死で逃げようともがいている。
「……あんたらか」
ロイドが、軽く舌打をする。
男たちは一斉に腰の剣を抜き払った。服装こそひどいものだが、陽にやけた顔はどれも農民のそれではない。低からぬ身分がかもし出す雰囲気と、そして激しい闘気が滲み出ている。
「まいったな……。あんたらがまだいたの、忘れてたよ」
男たちに剣を突きつけられ、ロイドは両手を上げたまま後ろに下がった。あさとはその背中に隠れるような形で、やはり後ずさるしかなかった。
「こいつら、ヴェルツ家の残党だよ」
ロイドの背中が囁いた。あさとは緊張しながら頷いた。悔やんでももう遅い、ジュールが恐れていたとおりの展開だ。最悪 とも言える。
「悪いな、けが人を放っておけない性質でね、つい手当てをしちまった」
「いいえ、私が迂闊だったのよ」
あさとはそう言いながら、ロイドの肩越しにルナの姿を確認した。
首根っこをつかまれているルナは、痛いのか苦しいのかもう声さえ上げられないようだった。喉がつまるのか空気を求め、苦悶の表情を浮かべている。
まだ、傷も癒えていないはずだ。……
助けなければ。あさとはじりじりと後退しながら、そのことを考えていた。助けなければ、あの子を。あの子だけでも、絶対に。
「そこをどけ、ロイド。クシュリナ様には、我々と同行していただく」
刀痕の男が、冷たい声で言い放った。その口調に皇都の者には見られない訛りがある。
「今からか? 何処へいく? こんな時間じゃ忌獣に食ってくれと言わんばかりだぞ」
後ずさり それでもさりげなくクシュリナを庇いながらロイドが答える。
「それでも行かねばならんのだ、クシュリナ様をお連れすれば、公爵もお喜びになるだろう」
生きてるんだ、ヴェルツは。
あさとははっとしていた。エレオノラと共に地下牢を脱出したというヴェルツ。彼はまだ、どこかで反撃の機会をうかがっているのだろうか。
どうすればいい?
どうにもならないことだけは確かだった。アシュラルは怒るだろうか? 少なくともジュールは悲嘆し、身勝手な女皇に失望するだろう。けれど、 ここで騒いで、ロイドとルナに迷惑をかけるわけにはいかない。絶対に。
「判った……あなたたちと、一緒に行くから」
あさとは顔をあげて言った。
「だから、今すぐその子を離して。私一人がついて行けばいいことでしょう?」
「そうはいかん」
男の声は冷淡だった。
「金波宮殿に通報されたら万事休すだ。恩を仇で返すようだがな、見られた以上、ロイドも、この娘も、このまま残しておくわけにはいかない」
「ま、そうだろうな」
人事にようにロイドが呟く。話の意味が理解できたのか、ルナが激しく暴れ、男たちの注意が一瞬それた。
途端 白衣の男の足が空を回った。榛色の髪が風をきって揺れ、剣を突きつけていた脅迫者の顔に、その膝頭がめりこんだ。
「うわっ」
たまらず剣を取り落とし、脅迫者は顔を抑えて膝をつく。
「とっとと逃げろっ」
落ちた剣を素早く掴み取り、ロイドは叫んだ。
あさとの頭上で、剣が激しくぶつかり合った。
石が弾け、火花が散る。ロイドは俊敏で、そして何よりも戦いなれていた。その姿に驚きつつも、あさとは言われた通りに逃げようとした 彼らの注意を、ルナから離して自分一人に向けさせるために。
けれど、すぐに剣先が押し寄せる。逃げ場はなかった。あさとはそのまま木の幹に追い詰められた。
ルナは、再び男たちに捕らえられている。
「 くそっ」
必死で応戦するロイドの剣の腕は、悪くはない。けれど、多勢に無勢、長くは持たないだろう。
「やめて!」
喉元に突きつけられる白刃を見つめながら、あさとは必死で声を上げた。
このままだと、ロイドは殺される。ロイドも ルナも。
「お願いだからやめて!」
悲鳴にも似た声が迸った。
みんな……殺される。
あの時のように、私のせいで、ダーラとラッセルが死んだあの時のように。
「馬鹿野郎、何やってんだ!」
どこかで聞いたことのある声がした。
突然疾走してきた黒馬が、剣が乱れ交う輪の中に突っ込んできた。
人の群れが、それに驚いてわっと割れる。
「ほんッとにお前は、始末に負えない大馬鹿女だな」
手綱を操り、荒れる馬 薄闇に黒光りするほど見事な馬、黒斗を押さえつけているのは。
アシュラル……?
あさとは呆然とその姿を見上げた。信じられない、でも、なんで 。
「早く来い!」
馬上から差し出される腕。
アシュラルだ。
黒の立て襟のコートが馬の動きに合わせて激しく揺れる。金刺繍の入ったボディス。乱れた髪が額に落ちて 黒髪の下、焔を抱いた相貌が、怒りを抑えて見下ろしている。
どうして……。
間髪入れず、アシュラルの背後から、激しい土煙と怒声とともに数機の騎馬が走りこんできた。
彼らの先頭にいるのは ジュールだ。長い髪を後ろに束ね、すでに彼は抜刀している。
「クシュリナ様、とにかくこの場を離れてください!」
手綱を引きながらジュールが叫ぶ。飛び降りたドゴンの騎士たちは、一斉に抜刀し、ヴェルツの残党兵と切り結んだ。
「アシュラル、病院の中は危険だぜ。まだこいつらの仲間がうろうろしてる」
誰もが恐れる法王を、敬称なしで呼び棄てにしたのは意外にもロイドだった。
アシュラルは苦い顔で頷いて、そして再度あさとを見据えた。
「来い! お前がいると足手まといだろうが!」
厳しい声が頭上からかかる。
考える余裕はなかった。あさとは立ち上がり、伸ばされたアシュラルの手を取った。鐙を踏み、騎乗の人の胸に飛び込む。
「森の奥に礼拝堂がある。そこへ行け 忌獣が出る前に」
最後に、ロイドがそう言い添えた。
「お前には借りを作ったな、ロイド」
「高くつくぜ、法王様」
アシュラルは、あさとを軽く抱き上げると、そのまま自分の膝に乗せた。返す手で、素早く手綱を振る。黒斗は一声いななくと、向きを変えて疾走を始めた。
早い。
あさとはその鬣にしがみつきながら、凄まじいまでの速度に息を引いた。
景色がみるみる遠ざかる。血なまぐさい喧騒が、療養院とともにたちまち彼方に消えていく。
ウテナとは全然違う。顔に当たる風の勢いからして違う。 息ができない、気を抜いたら、振り落とされてしまいそうだ。
ふいに、背後から身体を強く抱かれ、支えられた。
「……心配させやがって」
耳元で、そんな声が聞こえた気がした。 聞き間違いでなければ。
信じられない、どうして。……
あさとには、まだ信じられなかった。
なんで、 アシュラルが、あの場に。
まだ彼は、帰城のための行軍の途中で、金波宮殿に、帰って来ていなかったはずなのに。
アシュラルの顔がすぐ背後にある。逞しい腕と胸が、自分の身体を抱くようにして庇ってくれている。
「しっかりつかまってろ!」
木立の中を疾走しながら、騎馬を操る男の声は緊張していた。そして彼は耳元で囁いた。
「 気を抜くと、出るぞ」
あさとは、はっとして身構えた。
月は……すっかり隠れてしまっていた。
|
|