「ここにいたぞ!」
 声が背後に迫っても、ウテナを繋いでいたはずの木の幹を見つめたまま、あさとは動くことができなかった。
 駆け寄ってくる群集。病んだ香りが密集している。怒りと欲望と呪詛の眼差し。あさとは後ずさり、木に背を阻まれ、そのまま彼らに取り囲まれた。
 見下ろしている顔、顔、顔。
 憎悪と、そして、集団の暴走で自制心を失った顔。
「……部屋の中に戻って」
 あさとは震えながら、それでも言った。咄嗟に一瞥して見たが、この群集の中には、先ほど鋭い眼差しであさとを睨んだ刀痕の男はいないようだった。
「月が消えたら、忌獣が……出るのよ」
「嘘をつくな!」
 怒声が飛んだ。
「そうだ、エライ奴らは、嘘ばかりだ」
「この土地には、もう何年も前から忌獣が出てる、なのに、あんたたちが何をしてくれた」
「忌獣に襲われたと、一言でも言えば、牢獄行きだ。だからわしらは、狼に襲われたと言わねばならんかった」
「この世に、もう神などいない」
「あんたたちの所業を罰するために、神が忌獣を遣わしてくれたんじゃ!」
 彼らにとって、あさとが本当にクシュリナ姫かどうかは、最早関係ないようだった。
 零れ落ちた宝石の類が、彼らの鬱屈した怒りの矛先を、その持ち主に向けさせてしまったのかもしれない。
 誰かの手が伸びて、あさとの髪を引っ張った。
 それが合図のように、彼らは一斉に手を伸ばした。引っ張られるスカート、袖、襟。
 恐怖で身がすくむ。現実的に逃げられないわけではない、それでもあさとは動けなかった。足がすくみ、手が震えた。それは彼らの呪詛を一身に浴びることへの恐怖だった。
「やめ……っ」
 びりり、と袖が破れた。
     知らなかった。
 皇室とは、クシュリナとは、
「お願い、許して……!」
 これほどまでに恨まれていたのだ    貧しきものたちに。
「おいおい、そこまでにしとけ、お前ら」
 聞こえてきた声と共に、不意に腕を掴まれて、あさとは恐慌の中心から引き上げられた。
     誰……?
 震えながら顔を上げる。
 声だけはのんびりとしていたが、その声の主は意外に俊敏に人の輪を押しのけた。
「ったく、何を血迷ってるんだ。この女がクシュリナ様のはずがないだろうが」
 あさとは強張った顔を、自分の傍らに立つ男に向けた。
 それは先ほど、野卑た笑みとともにあさとから石を受け取った    滝沢ロイドという医術師だった。
「ロイド様、でも」
「この女は、あんな高価な石を持ってたんだ」
「ロイド様もキンパの奴らは許せないって言ってたじゃないか」
 まだ人々の興奮は収まらない。口々に言い募る。
 ロイドは、あさとを自分の背に回しながら低く笑った。
「あのなー、あの程度のもんなら、ちょっとした下級貴族でも持ってるんだよ。いいじゃないか、お前ら、それを頂いちまったんだろ? それとも、キンパの持ち物だからって腹を立ててお返しするつもりか?」
 ざわめきが、潮を引くように静かになる。
「さ、病室に戻った戻った。これ以上元気な様を見せつけられたら、全員とっとと退院してもらうからな」
 このロイドという医術師が、ここにいる者全ての尊敬と信頼を得ているということは、すぐに判った。
 彼の冗談めかした一言で、群集の興奮はたちまちに冷め、気まずそうな顔が、一人二人と消えていく。
「ルナはだまされないよ」
 残ったのは、蒼白な顔をした    雅に似た少女だけだった。
「ルナ……、ルナというの? あなたは」
 あさとは呼びかけた。ルナはべっと唾を吐くような仕草をした。
「あんたはクシュリナ様だ、ルナはちゃんと聞いていたんだから。背が高くて、髭のある人が、あんたのことクシュリナ様って呼んでたんだから」
 あさとは何か言おうとした、が、それよりも早く、ルナは睨むような視線を残し、素早くきびすを返していた。
「待って!」
 呼びとめたが、小さな背中はすぐに薄闇の中に溶け込んでいく。
「……あんたも、今夜一晩、入院して行きな」
 それまで黙って二人のやりとりを聞いていたロイドは、あさとのケープを拾い上げながらそう言った。
「今から金波宮に戻るのは、ちょい無謀だ。今夜は雲が多い、絶好の忌獣日和というやつだ」
     この人。……
 彼の口調は、彼が最初からあさとを「女皇」と認識していることを感じさせた。
     この人……何者?
 あさとは、不審と戸惑いの入り混じった眼で男の背を見つめた。助けてもらったことを感謝していいのかどうか、それさえも判らない。
「何を驚いてるんだ、女皇陛下」
 振り返って、ロイドは笑った。鋭い目が柔和になって、意外に人好きのする笑顔になる。
「ここは皇室がおつくりになった療養施設なんだぞ。俺があんたの顔を知らないでどうすんだ」
    やはり、本物なのか」
 ロイドの声に、野太い男の声が重なった。
 あさとははっとして顔を上げた。
 微かな悲鳴が聞こえた。女の子の声だ。
 淡い黄昏にも似た月明かりの下、滲み出るように数人の男たちが現れた。彼らの先頭で仁王立ちになっているのは、さきほど病室であさとを睨んでいた刀痕の男だ。
 男の背後に立つ者    約十数名。みな、つぎはぎだらけのボロを着ているが、目つきも面構えも尋常ではない。そしてなにより、彼らは全員帯刀している。
     この人たち……騎士だ。
 あさとは唇を噛んで、ロイドの背中越しに彼らを見つめた。
 ヴェルツの残党……ジュールがくどいほど心配していたことが、今さらのように蘇る。
「ロイドっ、助けてよっ」
 再び甲高い声がした。少女の声。あさとは気がついた。男たちの一人が、駆け去っていったはずのルナを、羽交い絞めにするような形で拘束している。ルナは白い手足をばたばたさせ、必死で逃げようともがいている。
「……あんたらか」
 ロイドが、軽く舌打をする。
 男たちは一斉に腰の剣を抜き払った。服装こそひどいものだが、陽にやけた顔はどれも農民のそれではない。低からぬ身分がかもし出す雰囲気と、そして激しい闘気が滲み出ている。
「まいったな……。あんたらがまだいたの、忘れてたよ」
 男たちに剣を突きつけられ、ロイドは両手を上げたまま後ろに下がった。あさとはその背中に隠れるような形で、やはり後ずさるしかなかった。
「こいつら、ヴェルツ家の残党だよ」
 ロイドの背中が囁いた。あさとは緊張しながら頷いた。悔やんでももう遅い、ジュールが恐れていたとおりの展開だ。最悪    とも言える。
「悪いな、けが人を放っておけない性質でね、つい手当てをしちまった」
「いいえ、私が迂闊だったのよ」
 あさとはそう言いながら、ロイドの肩越しにルナの姿を確認した。
 首根っこをつかまれているルナは、痛いのか苦しいのかもう声さえ上げられないようだった。喉がつまるのか空気を求め、苦悶の表情を浮かべている。
     まだ、傷も癒えていないはずだ。……
 助けなければ。あさとはじりじりと後退しながら、そのことを考えていた。助けなければ、あの子を。あの子だけでも、絶対に。
「そこをどけ、ロイド。クシュリナ様には、我々と同行していただく」
 刀痕の男が、冷たい声で言い放った。その口調に皇都の者には見られない訛りがある。
「今からか? 何処へいく? こんな時間じゃ忌獣に食ってくれと言わんばかりだぞ」
 後ずさり    それでもさりげなくクシュリナを庇いながらロイドが答える。
「それでも行かねばならんのだ、クシュリナ様をお連れすれば、公爵もお喜びになるだろう」
     生きてるんだ、ヴェルツは。
 あさとははっとしていた。エレオノラと共に地下牢を脱出したというヴェルツ。彼はまだ、どこかで反撃の機会をうかがっているのだろうか。
     どうすればいい?
 どうにもならないことだけは確かだった。アシュラルは怒るだろうか? 少なくともジュールは悲嘆し、身勝手な女皇に失望するだろう。けれど、    ここで騒いで、ロイドとルナに迷惑をかけるわけにはいかない。絶対に。
「判った……あなたたちと、一緒に行くから」
 あさとは顔をあげて言った。
「だから、今すぐその子を離して。私一人がついて行けばいいことでしょう?」
「そうはいかん」
 男の声は冷淡だった。
「金波宮殿に通報されたら万事休すだ。恩を仇で返すようだがな、見られた以上、ロイドも、この娘も、このまま残しておくわけにはいかない」
「ま、そうだろうな」
 人事にようにロイドが呟く。話の意味が理解できたのか、ルナが激しく暴れ、男たちの注意が一瞬それた。
 途端    白衣の男の足が空を回った。榛色の髪が風をきって揺れ、剣を突きつけていた脅迫者の顔に、その膝頭がめりこんだ。
「うわっ」
 たまらず剣を取り落とし、脅迫者は顔を抑えて膝をつく。
「とっとと逃げろっ」
 落ちた剣を素早く掴み取り、ロイドは叫んだ。
 あさとの頭上で、剣が激しくぶつかり合った。
 石が弾け、火花が散る。ロイドは俊敏で、そして何よりも戦いなれていた。その姿に驚きつつも、あさとは言われた通りに逃げようとした    彼らの注意を、ルナから離して自分一人に向けさせるために。
 けれど、すぐに剣先が押し寄せる。逃げ場はなかった。あさとはそのまま木の幹に追い詰められた。
 ルナは、再び男たちに捕らえられている。
    くそっ」
 必死で応戦するロイドの剣の腕は、悪くはない。けれど、多勢に無勢、長くは持たないだろう。
「やめて!」
 喉元に突きつけられる白刃を見つめながら、あさとは必死で声を上げた。
 このままだと、ロイドは殺される。ロイドも    ルナも。
「お願いだからやめて!」
 悲鳴にも似た声が迸った。
 みんな……殺される。
 あの時のように、私のせいで、ダーラとラッセルが死んだあの時のように。
「馬鹿野郎、何やってんだ!」
 どこかで聞いたことのある声がした。
 突然疾走してきた黒馬が、剣が乱れ交う輪の中に突っ込んできた。
 人の群れが、それに驚いてわっと割れる。
「ほんッとにお前は、始末に負えない大馬鹿女だな」
 手綱を操り、荒れる馬    薄闇に黒光りするほど見事な馬、黒斗を押さえつけているのは。
     アシュラル……?
 あさとは呆然とその姿を見上げた。信じられない、でも、なんで   
「早く来い!」
 馬上から差し出される腕。
 アシュラルだ。
 黒の立て襟のコートが馬の動きに合わせて激しく揺れる。金刺繍の入ったボディス。乱れた髪が額に落ちて    黒髪の下、焔を抱いた相貌が、怒りを抑えて見下ろしている。
     どうして……。
 間髪入れず、アシュラルの背後から、激しい土煙と怒声とともに数機の騎馬が走りこんできた。
 彼らの先頭にいるのは    ジュールだ。長い髪を後ろに束ね、すでに彼は抜刀している。
「クシュリナ様、とにかくこの場を離れてください!」
 手綱を引きながらジュールが叫ぶ。飛び降りたドゴンの騎士たちは、一斉に抜刀し、ヴェルツの残党兵と切り結んだ。
「アシュラル、病院の中は危険だぜ。まだこいつらの仲間がうろうろしてる」
 誰もが恐れる法王を、敬称なしで呼び棄てにしたのは意外にもロイドだった。
 アシュラルは苦い顔で頷いて、そして再度あさとを見据えた。
「来い! お前がいると足手まといだろうが!」
 厳しい声が頭上からかかる。
 考える余裕はなかった。あさとは立ち上がり、伸ばされたアシュラルの手を取った。鐙を踏み、騎乗の人の胸に飛び込む。
「森の奥に礼拝堂がある。そこへ行け    忌獣が出る前に」
 最後に、ロイドがそう言い添えた。
「お前には借りを作ったな、ロイド」
「高くつくぜ、法王様」
 アシュラルは、あさとを軽く抱き上げると、そのまま自分の膝に乗せた。返す手で、素早く手綱を振る。黒斗は一声いななくと、向きを変えて疾走を始めた。
     早い。
 あさとはその鬣にしがみつきながら、凄まじいまでの速度に息を引いた。
 景色がみるみる遠ざかる。血なまぐさい喧騒が、療養院とともにたちまち彼方に消えていく。
 ウテナとは全然違う。顔に当たる風の勢いからして違う。    息ができない、気を抜いたら、振り落とされてしまいそうだ。
 ふいに、背後から身体を強く抱かれ、支えられた。
「……心配させやがって」
 耳元で、そんな声が聞こえた気がした。    聞き間違いでなければ。
 信じられない、どうして。……
 あさとには、まだ信じられなかった。
 なんで、    アシュラルが、あの場に。
 まだ彼は、帰城のための行軍の途中で、金波宮殿に、帰って来ていなかったはずなのに。
 アシュラルの顔がすぐ背後にある。逞しい腕と胸が、自分の身体を抱くようにして庇ってくれている。
「しっかりつかまってろ!」
 木立の中を疾走しながら、騎馬を操る男の声は緊張していた。そして彼は耳元で囁いた。
    気を抜くと、出るぞ」
 あさとは、はっとして身構えた。
 月は……すっかり隠れてしまっていた。
 
 
 
 
 
 

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