ジュールに言えば、必ず反対されるのは判っていた。
 夕方、あさとはノエルを伴って、厩に向かった。
「どこへ?」
「宮内で、久々にウテナを走らせてみたいのよ。一緒に来てくれる?」
 昼間放っておかれたことを不服に思っていたらしいノエルは、一も二もなく頷いてくれた。
 ノエルさえ連れて行けば、アグリは基本、干渉しない。フラウオルド内のどこにでも自由に行き来できるのは知っている。
 オルド全体が、法王の帰還を間近に控え、どこか浮き足立っている感じがした。
 おそらく本殿では、サランナが、法王を出迎えるために入念な準備をしているのだろう。
    これは、クシュリナ様」
 厩の木戸を軽く叩くと、クシュリナが子供の頃から厩番をしているジャムカが、驚いて飛び出してきた。
「少し、夕涼みに宮内の馬場を走らせたいのだけど、ウテナは大丈夫?」
 あさとは何気ない口調で言った。
「へぇ、いつでもご用意できますが」
 そう言い差して、ジャムカは不安そうに空を見上げた。
「もう直、法王様がお戻りとききましたが……このようなお時間に、大丈夫なので?」
「ええ、近衛隊の人も一緒だし、本殿の許可も得ているのよ」
 あさとは嘘を言った。どうせ、出迎えならサランナが盛大にやってくれる。そういう意味では、確かに楽な立場である。アシュラルのところになら、明日にでも顔を出せばいいだろう。
「陛下、馬場はあちらで、ございますが……」
「ねぇ、西門から藍河の畔まで行ってみない? すぐに戻ってこられるわ」
 戸惑うノエルを尻目に、あさとは黒竜軍が守る門を次々に超えて行った。
 空は、雲がたちこめている。
 正直言えば、忌獣のことが一番不安だった。でも、まだ日没までには多少の余裕がある。
 どちらにしても、急がなくては    最後の門扉を抜けた瞬間、あさとは思いきり鞭を打った。ぼやぼやしていると、何もかも手遅れになってしまう。
「あっ、へ、陛下?」
 ノエルには悪いが、ウテナの俊足について来られるほどの馬は、まず、いない。
 ケープの下は、昼間ジュールに渡されたままの衣装を身につけていた。乗馬には不向きだが、自分で都合できるものはそれしかない。
「行って、ウテナ!」
 あさとは叫んだ。
 衝動的に沸き起こる行動力。不思議だった。    クシュリナには絶対にできない決断は、まぎれもなく「瀬名あさと」のものだった。
 あさと自身にも、今、「自分」が置かれた状況がよく判らない。けれど自分の中で、「クシュリナ」が強くなるときもあれば「あさと」が強くなる時もある。ふたつの人格が、いつも激しくせめぎあっているよう気がする。
 けれど    今、この瞬間、この身体と心は間違いなくあさと自身のものだった。 
 門の外は、まだ金波宮の敷地内である。橋の向こうに藍河が広がり、そこに軍船の群れが見えた。アシュラルかもしれない    ウテナは、放たれた矢のように広大な大地を駆けた。
 追手の気配を感じたのは、最初だけだった。
 ウテナはアシュラルの黒斗に及ばないまでも、稀代の名馬であり、そして何よりもあさとは彼らより身軽だ。
 追撃者たちはたちまち彼方に消え去り、金波宮の敷地を抜けたあさとは、城下に向って一心に鞭を振るった。
 
 
                 
 
 
 皇立療養院に着いた時には、空は暗褐色に染まっていた。
 迷う間はない。門扉の内側に飛び込んだあさとは、ウテナから飛び降りると、回廊を突っ切って病棟に向った。
     どこ……?
 走る足元に埃が舞う。あの少女はどこだろう。まだ、間に合うのだろうか。
「なんだ、お前は、どこから入った」
 ふいに背後から声がした。
 あさとは息を引いて立ち止まり、そしてゆっくりと振り返った。
 白い    と言っても、かなり汚れた割烹着にも似た服。その衣服に身を包んだ男が、けげんそうな眼をして立っている。
「こんな時間に何の用だ。見舞いの時間はとっくに過ぎてるぞ」
 男は鼻にかかる丸眼鏡を指で押さえた。その下にある切れ長の目をすがめ、疑うような眼差しであさとを見ている。
 肩まで垂れた榛色の髪が、きついウェーブを描いていた。どこもかしこも薄汚れているのに、不思議と髪だけは綺麗な男だった。まだ若そうに見えるが、同時に、ひどく疲れた顔をしている。
「今日、……十二くらいの娘が、堕胎のためにここへ来たと思うんだけど」
 あさとは用心深く、考えてきた嘘を言った。
「今日、ここを訪れた篤志家が、あの子を引き取りたいと言っているの。あの子に会わせてもらえないかしら」
「……篤志家?」
 男はあきれたように眉をしかめる。
「あんた、誰」
 さらに疑いをこめた眼でこちらを見て、首筋を掻く。汚れた指、爪の先が黒い。
「私は、その方の使いの者なの。……日が暮れる前に、あの子の身柄を預かりたいと思っているんだけど」
「篤志家ねぇ」
 男は無遠慮にじろじろとあさとを見回した。まるで    値踏みするような眼差しだった。
「私の名前は、ア、アサトといいます」
 不快な気持を噛みしめながら、誤魔化すつもりで、つい本名を名乗っていた。男は答えない、鋭い目をますます細め、どこか好奇の眼差しを向けたまま、微動だにしない。
 あさとは、少し苛々しながら言った。
「あなたは誰? ここの人なら、名前を名乗ってもらえない?」
「俺は、滝沢ロイド、……ここの医者で、責任者」
 ぞんざいな言い方だった。そして、虫でも追い払うように手を振った。
「悪いけど、帰って、そんな嘘信じられないから」
「嘘って」
「あんたもあれか? あの子の身体を食い物にしようっていう輩か? 悪いが、叩き出されない前に、俺の前から消えてくれ」
 細くすがめられた目は、一転してひどく冷たかった。あさとは唇を噛んだ。
「だったら、せめて教えて、あの子の手術は」
 堕胎の方法がどんなものなのか、そもそもあさとは知らないのだが、他にどう聞いていいのか判らなかった。「……どうなったの」
「今、寝てるよ」
 ロイドはそっけない口調で答える。「なんたって若いからね、数日すれば、元通りだ」
     遅かった……。
 あさとは、眉を寄せて目を閉じた。
     可哀想に……あんな、子供が……。
 雅に似ている。それが全てだった。どうして、放っておくことができただろうか。オルドに戻った瞬間からこうしようと、あさとは心の内で決意していた。
 あの年で、売春、そして……堕胎。
 呪うような気持で、平然と首を掻き続ける不潔極まりない男を見る。
 この世界では、こんな男が……医者なのだ。
     今、あの子はどんな気持ちでいるのだろうか。私なら、絶対に耐えられそうもない運命。あの少女が受けた傷に比べたら、今の自分の境遇を嘆くことが、馬鹿馬鹿しいとさえ思えてくる。
「あの子は、……どうなるの」
 気持をふりしぼってあさとは訊いた。ロイドはふん、と鼻を鳴らした。
「明日、保護者の親父が迎えに来るだろうさ」
    そんな、それじゃあ、あの子は」
「十日は客を取らせないように、言ってはやるがね」
「………」
「なんにしたって、あんたには関係ない話だろう」
 ロイドはきつい眼差しで、あさとを一瞥した。
「俺のことを随分非難がましい目で見ているようだが、あの子の行く末まで、俺が面倒みるわけじゃないんだぜ」
「それは、……そうだけど」
「あんた、……まぁ、あんたのご主人にしておこうか。そいつが何を勘違いしてるのかしらないが、今の世の中、あの子みたいなのはごまんといるんだ。珍しくも何ともない。同情するならせいぜい金でもめぐんでやれ」
     ひどい。
 悔しさと憤りで息が詰まった。
「とにかく、一目だけでもあの子に会わせて」
 怒りを押さえ、あさとは食い下がった。せめてあの少女と会って話がしたかった。自分で出来ることなら、何か力になってあげたかった。
「帰れ、面会は常に謝絶なんだ」
「お金なら、払うわ」
「おいおい、動物園に、見物にでも来たつもりなのか?」
 振り返った男は、冷やかに笑った。あさとは思わずはっとしている。その厭味な笑い方が、どことなく記憶の中の男と重なって見えた。
「……小田切、……さん?」
    は?」
「あの……、もしかして、夢で私と会ったことない?」
「………」
 不思議そうに眉をひそめた男は、指で、自分のこめかみあたりを指してくるくると回して見せた。
 気が触れているのか? とでも言いたいのだろう。
 なんて馬鹿なことを聞いてしまったんだろう。
 あさともまた、場違いな干渉に囚われたことを後悔しつつ、不快な気持をぎりぎりで抑えて、用意していたものを取りだした。
 この男が小田切であろうがなかろうが    それは、大切なことだけれど、今はそんなことに拘っている場合ではない。
「……これを」
 あさとがケープのポケットから掴み出したものを見て、眼鏡の男は眼を丸くした。
 卑怯な手だとは思ったが、こういうことを予想して、オルドから持ち出してきたものだった。
「こりゃあ……たまげた、随分、高価な石じゃないか」
「あなたにあげる……。とにかく、彼女と話をさせてもらえないかしら」
 ロイドは、石とあさとの顔を交互に見比べていたが、やがて、へっと野卑た笑い方をした。
「この奥の、三号室だよ」
 これが    医者なのか。
 あさとは絶望しながら、廊下を駆けた。
 
 
            7
 
 
 薄汚れた病室には、粗末な寝台がひしめき合っていた。
 探していた少女の姿はすぐに目に止まった。
 昼間と同じ服装のまま、入口に一番近い寝台に仰臥して、ぼんやりと天井を見つめている。
 ベッドは満床で、横になっている誰もが、病み疲れた顔をしていた。殆どが老人だ    いや、老人のように見えた。ごっそりと痩せ、顔中に皺を刻み、力ない目で空を仰いでいる。
 あさとが入ってきても、誰一人関心を示そうともしない。咳と、そして重苦しいため息だけが室内に響いている。
「……私のこと、覚えてる?」
 少女の傍らに歩みより、あさとはそっと声をかけた。
 虚ろな眼が、ぼんやりと焦点を合わせていく。
 ようやく輝きを取り戻した眼であさとを見つめ、少女は不思議そうな顔をした。
「今日、会ったよね。一緒にいたのは、お父さん?」
 少女は答えない、ただ、怖いほど雅と酷似した眼差しで、一心にあさとを見つめている。
「ひどいこと……されてるんじゃないの?」
 そう言ってあさとが、ベッドに広がる髪に触れようとした時だった。突然、    少女のひび割れた唇が、低くうめいた。
「あんた    クシュリナ姫だろ」
 あさとははっとした。
 少女は、別人のような素早さで起きあがった。
「昼間見た時から、そうだと思ってたんだ。みんな、こいつがクシュリナだよ、みんなが憎んでいる、キンパの吸血鬼だよ」
 ざわっ……。
 病室にざわめきが広がる。ベッドから身を起こす者、顔だけをこちらに向ける者、乾いた笑み、ため息、微かな嘲笑。
 殆どが信じていない様子だった。反応としては、それが当たり前だろうが、それでも少女は呪詛の口調で言い募った。
「アタシは知ってるんだ、こないだシリュウを車で跳ねたのもこの女だ、アタシは近くで見てたんだ!」
 あさとは後ずさった。
 この少女の、憎悪の目が怖かった、受け止められなかった。
 それは雅の眼差しだった。あの夜の    雅の。
「傍にいた人が、この女のことをクシュリナ様って言っていたんだ。この人、きれいなドレス着て、シリュウに気前良く指輪をやったんだ、それで済まして逃げて、そのままだよ」
 ざわめきと、少し大きな笑い声が入り混じる。
 騒ぎは、隣の病室にも広がっていた。すでに入口は、一人二人と集まってきた見物人たちで塞がれている。
 あさとの視界の端に、その輪の向こうから、二人ほど    ひどく体格の良い男がこちらに歩み寄ってくるのが見えた。
 一人は濃い顎鬚を生やし、右頬に深い刀痕を残している。互いにボロを着てはいるが、あさとを見つめる視線が、異様に鋭い。
     誰……?
 あさとは彼らを知らない。けれど彼らの眼差しは、確かにあさとの正体を見抜いているような気がした。
 漠然とした危険を感じ、逃げ場を模索しながら後退しかけた時だった。
 自分の言葉を信じてもらえないことに、かっときたのか、少女はいきなり寝台から飛び降りると、身体ごとぶつかるようにして組みついたてきた。
「だまされるな、こいつがクシュリナなんだ!」
 あさとは反応できなかった。
 組み伏せられるままに床に倒れ、解けたケープの中から、持ってきていた宝石がいくつか床に散らばった。
 途端に、わっと    まるで昆虫が一斉に飛び立つような、異様なざわめきがした。
 何が起こったのか判らなかった。群がってきた病人たちに組み伏せられ、ケープをひっぱられ、衣服を首のところから引き裂かれた時、初めて、恐怖でパニックになった。
「やめて……っ、離してっ」
 腕を引っ張る者。足を踏みつける者。
 彼らは、ただ何か金目のものを得ようとしていた。どうやって、    その修羅のような喧騒を抜け出したのか、あさとには判らない。
「あの女が逃げた!」
 叫んだのは、あの少女だった。
「追っかけるんだ、まだ、何か持っているかもしれないよ!」
 他の病室からも、人が出てくる気配がする。
 あさとは追いすがる腕を払いのけ、元来た道をひた走ると、かろうじて外にまろび出た。
 療養院の入り口近くで、待たせていたウテナの姿を忙しなく探す。
     ウテナ……?
 いない。
 愕然とした。
 ウテナを繋いでいた木から、闇を照らすほど白い愛馬が、影も形もなくなっている。
 背後に、追いかけてくる人々の気配が近寄る。
     どうしよう。
 あさとは空を見上げた。
 もう、すっかり暮れてしまった空。
 雲に覆われた朧月がそこにはあった。
 
 
 
 
 

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