「ここは、皇室が資金援助して作らせた医術施設です」
 すすけたような門扉に、皇立療養院と刻まれている。ジュールが指差した先には、平たい長屋風の建物が列を連ねて並んでいた。見るからに年季の入った建物で、敷地は    相当広いようだ。なのに死んだように静まりかえって、まるで生の気配がない。
「……なんの、匂い?」
 思わず眉をしかめ、鼻をケープで塞いでしまっていた。
 つん、と鼻をつく異臭がする。甘臭い何かが焦げる様な……すえた匂いが周囲一面に漂っている。
「……火葬場が近いのですが、追いついていないのでしょう」
 ジュールは短く説明した。追いついていない、とは死体の処理が滞っているという意味なのだろう。あさとはそう理解し、口元を覆う手を強張らせた。甘く、生臭い匂いは、かいでいると吐き気を催しそうだ。
「中の様子を見てみますか」
 あさとは頷いた。
 施設の中は、惨憺たるものだった。汚い、……まるで、塵だまりの中にいるようだ。こんな所で、本当に医療行為ができるのだろうか。
 病棟には、いたるところに、病み果てて倦んだ顔がのぞいている。
「医術師の数が足りません、薬も、寝台も」
 ジュールは説明しながら先に立って歩いた。「ここは、皇室が作った施設ですが、予算は年々減らされて、その分患者の負担が増えています。ここで診てもらえるのは、まだ恵まれた者たちです」
「人手も……足りていないのではないの?」
 歩きながらあさとは聞いた。医術師もいないというが、看護師らしき人の姿も見えない。しかも、余りにも汚れ具合が酷すぎる。掃除すら満足にされていないのは明らかだ。
「そうです。……その通りです、風評が、ここを駄目にしているのです」
 ジュールは苦い口調になった。
     風評……?
「クシュリナ様はご存知ないのですか? このシュミラクールに広がる、忌わしき死病のことを」
「……死病?」
 あさとは足を止めていた。
「その病にいったん取り付かれた者は、ただ血を吐き、死を待つしかないのです。昔この療養院はその奇病    <黒血(コクチ)病>と呼ばれておりますが、その病に倒れた者ばかりを強制的に収容し、死の瞬間まで世間と隔離するための施設でした。当時……黒血病は触れただけで感染する病だと信じられていましたゆえ」
 どこかで聞いた話だとあさとは思った。そうだ    日本にも似たようなことがあった。それで社会問題にもなっていたはずだ。
「黒血病は伝染する病ではありません。心臓の病などと同様、誰でも潜在的になりえる病気なのです。けれど、まだ頑なな差別意識が残っていて、皆、どうしても敬遠してしまうのでしょう。ご覧のとおり施設は荒れ果て……今では貴族院からも、療養院を取り潰してはどうかとの声がでているくらいです」
 それは、今では治る病なの?
 そう訊こうとしたあさとの視線が、開け放された通路の窓越しに止まった。荒れ果てた中庭、伸び放題に伸びた草木の中    その中央で、風に揺れている長い髪。
 ”彼女”の姿を見た瞬間、あさとは凍りついたように動けなくなっていた。
     嘘……だ。
「クシュリナ様?」
 ジュールの声も耳に入らない。
 建物の間を仕切る庭の中央あたりに、ひどく痩せた、小柄な少女が立っていた。きつく両手を拳に握り、じっとあさとを見上げている。
「みや、び……?」
 あさとは呟いた。夢    ? 現実    ? 思考の中で、夢と現実が目まぐるしく混乱する。
 それは雅だった。まだ頬に幼さを残した、中学生くらいの雅だった。足が自然に震え出す。あさとは身じろぎ一つできないまま、その少女に視線を貼り付けて立ちすくんでいた。
「陛下のお知り合いですか?」
 異変を察したのか、ジュールの声が緊張している。その声が、ようやくあさとを我に返らせていた。
「ううん……」
 冷静になれ、首を振りながら、あさとは自分に言い聞かせた。
     雅……じゃ、ない。雅のはずがない。
 雅ではない。当たり前だ。中学生だった頃の雅は、もうどこにも存在しないのだから。
「昔の友達に似ていて……それで、少し驚いただけ」
 ようやく冷静さを取り戻してみると、少女が雅に似ているのは、その眼の持つ独特の印象だけなのだと気がついた。
 少女はひどく暗い眼差しをしていた。長くのびた髪は、もつれて塵が絡んでいる。灰色に変色した白のワンピース。傷だらけの細い素足。
 十二、三くらいに見えるが、実際の年は違うのかもしれない。
 少女もまた、あさとを見ていた。怖いほど暗く、陰鬱な眼差しで    身じろぎもせずに見つめている。
 その時だった。
「何やってんだ、こっちに来い、このクソガキが」
 ぎすぎす痩せた胡麻塩頭の老夫が、金きり声を上げながら中庭に飛び込んできた。途端に顔をこわばらせ、逃げようとしたその少女の腕を乱暴に掴みあげる。
「いやだ」
 少女は弾かれたように声を上げ、活き魚のように激しく暴れた。
「ルナはもう、客なんかとらないよ、嫌だ、嫌だ」
「さっさと来い。その腹の子、なんとかしなきゃなんないだろうが」
「やだよ、とうちゃん」
 会話の意味は    考えるまでもなかった。
 あさとは顔を背け、口を塞いだ。
 自分の耳で聞き、眼で見たことが信じられなかった。
 少女は売春婦で、しかも妊娠していることが、そのわずかな会話で察せられた。そして、それを    実の父親が。
「ジュール」
 助けを求めるように、咄嗟にジュールを見上げている。
 たまらなかった。ただ幼い子供というだけではない。少女は、その印象だけとってみれば、怖いほど雅によく似ているのだ。
 身体を洗い、髪もきれいに櫛といたら、どれだけ綺麗な娘になるだろう。なのに   
 少女は老父に引きずられるままに、病室内に消えていった。かすかな悲鳴にも似た哀願の声だけが中庭に響く。やがてそれさえも聞えなくなった。
 もう一度、ジュールを見上げた。男は、無言で首を横に振る。彼の目が訴えているのは、先日のシリュウの時と同じものだ。
「雅……!」
 あさとは、駆け出していた。
 むろん、違うことは判っている。成熟した雅そのものの声を聞いたのは、つい数ヶ月前のことなのだ。でも    でも、もし万が一、彼女の中に「雅」がいたら?  いや、そんなことよりも、とにかく、あの子を救わなければ。
「陛下」
 ぐっと、後ろからジュールに腕を掴まれる。
「離して、お願い」
    あなたに、彼女は救えません」
 鋭く押し殺した声だった。
「今、ご自身さえ守れぬあなたに、いったい何ができるというのです」
 あさとは眼を見開き、しばらく唇の震えるような激情に突き上げられたが、結局は無言で顔を伏せた。
 そのとおりだった。少女が雅であろうがなかろうが、少女には少女の世界があり生活がある。たった一時救ったところで、それが何になるのだろう? 明日は? 明後日は? どのくらい沢山のお金を渡しても、結局は少女がまっとうに生きていく術を得ない限り    どうしようもないのだ。
 それでも、あさとは苦しかった。頭では判る、ジュールの言うことは正しい。
 でも、だからと言って、それを放っておいて……眼をつむるべきなのだろうか。私には何もできないからと。
     ねーちゃん、今日は何くれるの。
 無邪気な笑顔と共に、差し出された手のひら。
 あさとは頭を押さえた。
 どうしていいか、どうすべきか    わからなかった。
 
 
               
 
 
「クシュリナ様、お怪我は」
 オルドに戻ったあさとを、心配そうに出迎えてくれたのは、第一騎士のノエルだった。
「ありがとう、別に何もなかったし、大丈夫だから」
「次回から、外出の時は、ぜひとも私を」
 細かなことまで気を回し、あれこれ気に掛けてくれる優しい男だったが、時折馴れ馴れしくプライベートな空間にまで立ち入ってくるノエルが、あさとは言っては悪いが苦手だった。
 今回も、自分が置いていかれたことが不服なのか、ノエルは珍しく、不満げな色を顕わにしている。
「悪いけど、ジュールと二人で話があるの」
 あさとはそう言い、ノエルが下がったのを見届けてから、ジュールに向き直った。椅子を勧めるが、無論ジュールは座らない。
「ジュール、今日はどうもありがとう」
「いいえ」
 ジュールは低く言って会釈した。農夫の変装を解き、ようやく普段の姿に戻った彼は、どこかすっきりとした顔をしていた。
「忙しいのに、無理を頼んで悪かったわ。今は、あの男がいないから……あなたが、金波宮の責任者なのにね」
     あの男。
 まだそんな呼び方しかできない自分の子供っぽさにうんざりする。それを聞くジュールも内心は穏やかではないだろう。
「今朝方、法王軍の船が藍河に着いたとの報告を受けています。おそらく今夜中にでもご帰還されましょう。今宵は雲が多い、闇になる前にお戻りになられたらよいのですが」
 主人の身を案じてか、ジュールの横顔に陰が落ちる。
「忌獣もそうですが、奥州から紛れたヴェルツの残党もアシュラル様の御命を狙っております。今、皇都は、決して安全な場所ではございません。陛下も、ご心配だとは存じますが……」
 いや、今、心配してるのって、ジュールだけだと思うんだけど。
 突っ込もうと思ったが、やめた。
     この人の頭の中って、本当にアシュラルのことばかりなんだな……。
 あさとは不思議な気持でジュールの整った横顔を見つめた。
 ジュールほどアシュラルが信頼している者は他にはいないし、アシュラルほどジュールが信じきっている者はいないだろう。金波宮では、アシュラルの傍には、必ずと言っていいほどこの長身の大男が付き添っている。
     ちょっと……妖しいんだよね、ジュールの眼。
 実のところあさとは以前からそう思っていたが、流石に口には出さなかった。
 ジュールがアシュラルを見る目は、単なる家臣、という感じではない。もっと    濃い、溢れるばかりの愛情が込められている。そんな気がする。
 アシュラルは、先日から再び金波宮を留守にしていた。
 今度は彼が、北国ゼウスに赴き、同盟の詳細を詰めているのだという。董州との戦に備えて準備を始めている    というのが、オルド内のもっぱらの噂だった。
 ヴェルツを追放し、奥州と甲州をほぼ手中におさめてからというもの、聖将院アシュラルの名は、一気にシュミラクール界に広がった。
 それは    その攻め方が、あまりに残虐を極めていたからだ。
 女子供を含め、奥州を支配していた領主で、彼の軍下に下らないものは、全て虐殺された。
 その骸は道中に晒され、十日の間、奥州の民に恐怖と戦慄を与え続けた。
 その一方で、元奥州公ヴェルツ侯爵とその婦人エレオノラ、そして嫡子ダンロビンの顛末については、一切が公表されていない。むろん、正当な裁判すら行われていない。
 暗黒時代の到来だと、諸侯たちは囁き合った。
 あの恐ろしい男なら、何をやっても不思議はない、と。
 ひょっとすると、アデラ女皇の暗殺にも、アシュラルが一枚噛んでいたのではないか、と   
 無論、その噂はあさとの耳にも入ってきていた。今のあさとは、ノエルを使って、オルド内の噂を探らせている。信頼していい相手かどうか微妙だったが、ノエル以外に頼れる相手がいないのが、実情である。
 それらの噂を聞いて、あさとは、ひどく複雑な思いに囚われた。
 以前の自分だったら、一も二もなくその噂を信じていただろう。でも   
 今は、その醜聞をストレートに信じることが出来ない。アシュラルの意外な素直さや、子供のような笑い声。ジュールを通して耳にした高邁な志と理想。彼自身は爆笑とともにそれを否定したけれど   
 あさとはジュールを信頼している。彼は篤実で真摯な男だ。そのジュールがあれほどまでに信奉するのだから、アシュラルとは、彼自身が語るほど、自分勝手な人間ではないはずだ。
     ひょっとして……けっこう、いい奴だったりするの……?
 その度に、無論、激しい拒絶を持って打ち消す。あの嵐の夜、自分が受けた仕打ちを思い出して。
 なのに時々、彼の指が自分の身体の何処に触れたのか    それを思い出して、怖いというよりひどい羞恥を感じることがある。
     私……おかしい。
 多分、彼の容貌があまりに琥珀そのものだから、そして。
     ラッセルに似ているから。
 どこかで、夢を見ているのだ。失った過去の幻想を、彼の中に追い求めているだけなのだ。
「クシュリナ様」
 ジュールに、そっと囁かれ、あさとははっと我に返った。鉄面皮の男は、周囲を見まわすような眼をしている。
「え、……な、なに」
「? どうなさいました、お顔が」
 赤いのだろう。あさとは慌てて顔をそむけた。いけない    ジュールがまだこの部屋にいたことすら忘れていた。    一体、何を考えてたんだろう、私ったら!
 けれどジュールの双眸は厳しいままだった。
「さきほどの騎士、余りお傍に近づけぬ方がよろしいでしょう」
     え?
 ノエルのことだろうか。
 意味が判らず、あさとは瞬きを繰り返す。
「余計な杞憂かもしれませぬが、決して気をお許しになりませんよう」
「……? うん…」
 曖昧なまま、せかされるように頷いていた。
 ジュールは難しい顔のまま立ち上がった。
「私はこれから、アシュラル様を出迎えに参ります、くれぐれも   
 一瞥する眼差しが鋭い。
 あさとは内心鼓動が高まるのを感じていた。
「くれぐれも、お一人で出歩かれたりなさいませんよう」 
「わかってるわ」
 微笑でそう答えながら、手のひらに汗が浮くのを感じていた。
 オルドに戻る前から、あさとはすでに気持を固めている。
 今夜……アシュラルが戻る前に、もう一度療養院に行ってみるつもりだった。

 
 
 
 
 

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