第五章 彷徨う心
 
 
 
                     
 
 
「お疲れではありませんか」
「ううん」
 ジュールの声に、あさとは首を振りながら、被っていたケープを少しだけ下げた。
     暑い。
「クシュリナ様、まだ、お顔を出されてはなりません」
 たちまち厳しい声とともに、睨むような眼差しが向けられる。
「……あ、ごめん」
 あさとはしぶしぶとケープを被りなおした。湿気のせいか蒸し暑い。額に汗が滲んでいる。夜は寒いのに、日中は汗ばむほど暖かい。つくづく不思議な気候だと思う。
 今日   
 あさとはジュールと二人、早朝から連れ立って馬に乗り、皇室領を一通り見て回っていた。領地内の視察は、あさと自身がかねてから希望していたことでもあったが、まさかこれほど早く実現するとは思ってもみなかったし、ジュールがわざわざ同行してくれたのも予想外だった。
「ここからは、徒歩で向かいましょう」
 ジュールの指示で、森の木陰で馬を降りる。
「……ウテナ」
 あさとは、数ヶ月ぶりに再会した愛馬の首を撫でた。
 今日、一番の喜びは、こうしてウテナの無事を確認できたことだった。ジャムカと共にフラウオルドに戻ってきたウテナは、再びあさとの手元に返された。
 宮内であれば、自由に乗馬してよいとの許可も得た。それがアシュラルの許可というのが癪に障るが、素直に喜ぼうとあさとは思った。
 ウテナは、この世界でのあさとのただ一つの足である。そして、唯一心安らげる友でもある。
「このケープ、すごく暑いんだけど」
「我慢なさいませ」
 先を行くジュールは、用心深く周辺を見回している。
「陛下の御顔は、他と明らかに違いますゆえ……用心に越したことはございませぬ」
 そんなに違うかなぁ……?
 納得できないまま、あさとはジュールの後に続いて、森から畦道、そしてぼつぼつと民家が並ぶ邑のような場所に入って行った。
 ジュールの頑なな要請で、今日のあさとは、つぎはぎだらけの色褪せた衣装を身に着け、頭から剛布で出来た分厚いケープを被らされている。靴は、粗悪な革を繋ぎ合せたような粗末なもので、歩くたびにごわごわと足の裏が痛んだ。
 ジュールもまた、概ねあさとと同じような衣装を着ていた。
 が、ぬっと伸びた足といい、いかにも曰くありげな口髭といい、明らかにあさとより似合っていないし、不自然だ。
 分厚いケープの下には、大刀が隠されている。ジュールは宮を出る直前、皇都内に巣食うヴェルツの残党について、あさとに説明してくれた。
 
    難を逃れた薬師寺家の者が、多数皇都に紛れこんでいるのです。アシュラル様を暗殺するために)
 
    ヴェルツ公爵夫妻は金波宮の地下牢から、何者かの手引きによって脱出しました。まだ、行方は判っておりませぬが、薫州公がその後ろ盾となっている可能性もございます。いずれにせよ、未だヴェルツの脅威は根強く残っているのです)
 
 ジュールは続けて、そう説明してくれた。話を聞いて、あさとはようやく理解した。あの夜    何故アシュラルが激しい剣幕で怒っていたのかを。
 ヴェルツ公爵の件は気がかりであったが、それでも、あさとは嬉しかった。ジュールが、少しずつでも自分を信用し始めてくれている。それが、なんとなく判ったからだ。
 
    ダンロビン様の死にも、ご不審な点が残ります。なんにせよ、油断なされない方がよいでしょう)
 
 先に立って歩いていた大きな背中がふいに止まった。
「着きました。こちらの家です」
 ジュールが指し示したのはひどく粗末な家だった。黒っぽい木でできた壁に、藁ぶきの屋根がかけられている。入口の高さは、身をかがめなければ入れないほどに低く、軒には農耕具やら干した野菜だのがひっかかっている。
 人の……住む家?
 あさとは、ジュールを振り返ったが、男は黙ったまま、頷いた。
 柱木は、朽ちて黒ずみ、かしいだ家屋は今にも倒れそうに見えた。そして    何の匂いかは判らない、家全体から強烈な異臭が漂っている。おそらく排水設備が整っていないせいだろう。
 ここだけではない。あさとは周辺に視線をめぐらせた。    この辺りに建っている建物は、みんな似たような形態をしている。
 空は濁るような灰色で、寒々しい田地が周囲一面に広がっていた。
「刈りいれの時節が終り、農村に住む大半の者は、都市部に職を求めて出張っているのです」
 ジュールが、低い声で説明してくれた。
 確かに時折あぜ道ですれ違うのは、目ばかりが大きく、ひょろりと痩せた子供ばかりで、大人の男の姿を見ることは一度もない。
「この地方は、どういったわけか土地が痩せ、収穫はいつも田量に満ちません。作物から得る収入だけでは、到底生きてはいけないのです」
 家の中から、痩せた女が飛び出してきた。
 あさとたちを見咎め、ぎょっとした態になるが、何か物忘れでもしたのか、慌てた風にち田のほうに駆けて行く。
 顔は牛蒡のように黒く、服は使い古しのボロ雑巾のようだった。靴から飛び出した足の……伸びきった黒い爪が、いつまでもあさとの脳裏に焼き付いている。
 年は、多分同じくらいだった。……少女といっていいくらいの年齢だ。
 あさとはケープを深く被りなおした。今の段になって、あさとは初めてこの剛布を強引に被せてくれたジュールに感謝していた。
 今、身につけている衣装。それをジュールが持ってきてくれたときには、ひどいボロだと内心思った。けれど    民の暮らしと比較すると、それはなんと贅沢な衣装だったのだろうか。
「……顔色がお悪いようですが」
 振り向いたジュールは、あさとの表情を見咎めて眉をひそめた。
「大丈夫」
 あさとは笑ってみせた。本当は、笑う気分ではなかった。自分だけが恵まれているという居心地の悪さ、不条理さが、否応なしに胸を衝く。
「やはり、ここの空気は女皇陛下にはお合いにならない。早々に帰りましょう」
 心配げに見下ろしている眼差し。あさとは慌てて首を振った。
     そんなんじゃない、合うとか、合わないとかじゃなくて。
 どう言えばいいのだろう。上手く、自分の気持ちが表現できない。
「ねーちゃん? あんときのねーちゃん?」
 その時、家の中から、飛び出してくる小さな影があった。あさとははっとして顔を上げた。
 足を    不器用に引きずって、満面の笑顔で駆けてくる少年    シリュウ、確かそういう名前だった。
     足……。
 あさとは胸を衝かれ、言葉を失っていた。
「やっぱりそうだ、あの綺麗なねーちゃんだよ、おかあ、おかぁ来てごらんよ」
 あさとを見上げる、豆みたいな真っ黒な顔、その中で唯一白く輝く    澄み切って可愛らしい瞳。
「……足、治らなかったんだね」
 無邪気すぎるシリュウの笑顔に、同じ笑みを返すことはできなかった。
 苦い気持をぐっと堪え、少年の傍にしゃがみ込み、彼の肩を両手で抱いた。
「お医者さん、行かなかったの?」
「うん、ほっときゃ治るってさ、お父が言ったもんだから」
「………」
「今はこんなだけど、もっと俺が大きくなれば、ちゃんと治るよ。そうだろ、ねーちゃん」
「………」
     多分……。
 もう、治らないのだろう。不自然にくっついてしまった足の骨。
 整形手術は、この世界では多分    出来ない。
「どうして……」
 あさとは呟いたきり、続く言葉を失っていた。
「ねーちゃん?」
 どうして早く、医術師に見せなかったのだろう。この子の父親は、どうして…… 。
「でもよかったよ、ねーちゃん、やっぱ、お姫様じゃなかったんだろ」
 シリュウは、嬉しそうに黒ずんだ鼻をすすった。
「え?」
あさとには、一瞬意味が判らなかった。
「こないだの時だよ。邑の奴らが、ねーちゃんのこと、クスリナ様に違いないって言いやがるんだ。だからおれ、言ってやったんだ。あんないい人が、クスリナ様のはずはないって」
     それは。
 何と答えていいか判らなかった。
 クスリナ様とは、私のことなのだろう、多分。
「キンパ宮の吸血鬼が、あんないい人のわけないって、言ってやったんだ。そうだろう、ねーちゃん」
 足元が揺れるような思いをこらえ、あさとは少年に向き直った。
「シリュウは、……その、クスリナ様が嫌いなのね」
「大ッ嫌いさ」
 シリュウは即座に頷き、ぺっと唾を吐きだした。
「キンパの奴らはみんな嫌いだ。俺たちが働いて作ったもんを、根こそぎ持ってって、俺たちには何もしてくんない」
「………」
「クスリナ様は、その城のお姫さんで、こないだ一番エライ人になったんだって。一番エライ人が何もしないから、俺たちの暮らしは、悪くなる一方なんだって、そうだろ、ねーちゃん」
 シリュウは、涼しい顔で続けた。
「隣の家のとーちゃんは、こないだの夜、忌獣にやられた。夜に畑見に行ったばっかに、死んじまった。もう税金が払えねーからって、みんな、いなくなっちまったよ」
「……いなくなった?」
「知らない、遠いとこ行って、もうゆっくり寝れて、そこには忌獣もいなくて、マンマも腹いっぱい食えるんだって。なぁ、ねーちゃん、おれもそこに行ってみたいんだけど、誰も行き方を教えてくんねーんだ」
 もう、これ以上、シリュウの話を聞くことができなかった。
 あさとは立ちあがり、ケープで自分の顔を覆った。
 背後のジュールはどんな顔をしているのだろう。そう思った時だった。
「ねーちゃん、今日は何くれるの」
 無邪気な声で、シリュウは垢だらけの手を差し出した。
「こないだもらった指輪、すっげー高く売れたんだって、俺、ひさしぶりに白いマンマとパンを食べたよ。ねぇ、ねーちゃん、またなんかくれよ」
     あ……。
 視界が揺れて、あさとは立っていられないような気持ちになった。
 私、……私がしたことが。
 こんな形になるなんて。   
 あさとにも、ようやく判った。理解できた。あの日、ジュールが血相を変えて怒った意味が。
「ごめんね……」
 あさとは震える声で言った。「今日は、何にも、持ってきてないの」
 シリュウの笑顔が、ふっと曇った。
 ちぇっ。
 たちまちふくれっ面になった少年は、足をひきずりながら、家の中に消えた。
 
 
                   
 
 
「あの少年の父親が、悪いわけではないのです」
 再び、馬上の人となったジュールは、静かな声で話し始めた。
「……少年の父親は、この一年余り税金を滞納していました。このままだと、父親は収監され、イヌルダの都で懲役刑につくことになります」
 説明を続ける横顔は厳しく、眼差しはどこか辛そうだった。
「そうなれば、あの一家は働き手を失って全滅します。隣家のように、一家で首をつるしかなくなる。父親は、息子が生涯足をひきずることよりも、……指輪を税金に換える方を選ぶしかなかったのです」
     父親が悪いわけではないのです。
 ジュールは、そう繰り返した。
 あさとは黙って聞いていた。では誰が悪いのか。税を課した皇室なのか。が、社会がそう単純な仕組みで成り立っていないことは、あさとの一般常識からも理解できる。
 道路、治水、住居、福利、厚生、……公の立場で為さなければならないことは沢山ある。税というのは、いついかなる社会においても必要な要素だ。
「例えば、この地方ですが」
 苦い声で、ジュールは続けた。
「皇室へ収める税金の他に、彼らは領主への納金、地主、僧侶への課金と、四重の税を担う仕組みになっております。搾取の仕組みは長年の慣習によって培われ、大きな……例えば自らの血肉を断つ覚悟を持って改革に挑むほか、彼ら貧困層を救う途はございません」
 あさとは、ただ黙っていた。
 その大きな改革を……血濡れた刃をもって断行しようとしているのが、アシュラルだとでもいうのだろうか。
「が、彼らを、貧困層に留めている要因は、他にもございます」
 二人を乗せた馬は、緩く続く傾斜を上がって行く。
 次にジュールが目指す場所は知ってはいたが、あさとはもう、現実を直視する勇気をなくしかけていた。自分には何もできない……何も、してあげることができない。
「彼らは、まず、教育というものを受けたことがございません。無知であることが貧困を呼び、全ての悪習の原因となっているのです」
     貧困と……教育。
 あさとは胸の中で呟いた。
「収めた税金がどのような用途で使われているか、彼らは全く知りません。水害を防ぎ、畑の収穫をあげるためにはどうしたらよいか、窮状を脱するにはどうしたらよいのか。彼らは知りようがないのです。折れた足を放っておいたらどうなるか、……それも、彼らは知りません」
 淡々と語られる一言一言が、冷たく胸に突き刺さった。
「どうすれば効率よく作物を収穫できるのか、どうすれば病をあらかじめ防ぐことができるのか、物乞いすることが何故恥ずかしいことなのか    彼らは知らない、知る必要がないから誰も教えることはありません。何故なら彼らは」
 ジュールは深く息を吐き、ゆっくりとあさとを見た。
「彼らは、生産階級で、ただ、作物を作ることとだけが、彼らに課せられた義務だからです」
 その制度を作り、制度の上で贅沢な暮らしをしているのが   
 私たちなんだ。
 あさとは、目の前が暗くなる思いだった。
 先日、金波宮で行われた、眼もくらむばかりの華やかな戦勝会。
 それは    全て、彼らの血涙とともに吸い上げられた産物だったのだ。
     キンパ宮の吸血鬼。
 それは的を得た揶揄だった。実際そのとおりだった。民を苦しめているのは諸侯だけではない    皇室自身、あさと自身だったのだ。知らなかった、それがなんの言い訳になるだろう。
「……とりあえず、今日のところは帰りましょう、随分お疲れのご様子です」
 そう言って、ジュールはゆっくりと疲労の滲んだ横顔を向けた。
「待って」
 あさとは、残る気持ちを振り絞って言った。
「予定どおり……全部、見て回るわ。私なら大丈夫だから」
 
 
 
 
 
 

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