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7
もう嫌だ、もう我慢できない。
フラウオルド。自室へ続く廊下を駆け足で急ぎながら、あさとは涙が滲み出るのを止められなかった。
こんな所、一秒だっているものか。私がいてもいなくても関係なしにこの世界は動いている。もう、私なんて必要ない。いる意味なんて、全然ない。
子供を産むためだけだなんて、冗談じゃない。
しかも、あんな最低男の子供なんて。
「クシュリナ様」
興奮の余り、背後から自分を呼ぶ声に、しばらく気がつくこともできないでいた。
「クシュリナ様 、お待ちを」
「……?」
あさとは立ち止まり、慌てて眼をこすってから振り返った。
てっきり無神経男ノエルだと思ったが、そうではなかった。
「どうか、そのままお待ち下さい」
それはジュールだった。真新しい黒竜の隊服を身に付け、指揮官の証である濃紺のマントを右肩から垂らしている。式典のためか長い髪を後ろに束ねており、随分印象が違って見えた。
「ジュール……」
なんだか、随分久しぶりにこの鉄面皮と向き合うような気がする。あさとは鼻をすすって、泣き顔の残骸を打ち消した。
「……何の用」
そう言った自分の声が、少し掠れている。
ジュールはわずかに顎をしゃくり、後から慌てて追い付いてきたノエルらに下がるように命じた。アグリは不服そうだったが、結局は全員が引き下がり、蝋燭の明かりだけが照らし出す通路で、あさとはジュールと向き合った。
ややあって、美髯をたくわえた男は唇を開いた。
「お怒りになっておられたご宣下の件ですが、お許しいただければ、と思います」
「……しょせん、あなたもあいつの味方なんだ」
言い訳なら聞きたくない。あさとは顔を背けていた。ジュールは微かに嘆息した。
「あなた様は、政治のことは何もご存知ない。知ったところで、それをどうこうなさるだけの才覚もない」
抑揚のない声で、ばっさりと言われた。あさとは一瞬ジュールを見上げ、それから悔しさでうつむいた。本当に泣いてしまいそうだった。ほんの少し、彼に心を開いていただけに、その口から言われる言葉は心底こたえる。
「この世界は、今、重大な瀬戸際にございます」
けれど冷静な男は、変わらない口調で続けた。
「今、改革を行わねば手遅れになる。アシュラル様は自ら悪鬼となって、それを断行なされるおつもりなのです。今までの貴族本位の有り方から、人民本位へと、この世界の制度そのものを作り変えようとなされているのです」
「………」
貴族本位から
人民本位……?
あさとはようやく、気持ちを沈めてジュールの顔を見上げた。
「それは……、革命でも起こすということなの?」
「正確には違います。というよりは、民の革命が起きる前に、永きに渡って歪められてきた政道を、もとへ あるべき姿へ戻そうとしていらっしゃるのです」
彼の片方だけひきつれた瞳が、意外なほど綺麗な輝きを有していることに、その時あさとは、初めて気がついていた。それは どこかで見たことがある、記憶の中の誰かに似た輝きだった。
ジュールは続けた。
「あなたが以前、道端で子供に指輪を与えた時、私は柄にもなく感情的になってしまいました。……その時は上手く説明できませんでしたが、こう言いたかったのです。あなたはその子を救うことができても、同じような境遇に喘ぐ大勢の貧民を救うことはできない」
胸の奥に、ひとつひとつ沁みこむような言葉だった。
「そして、アシュラル様は、その子一人をあの場で救うことはできない。けれど、もっと大きな流れの中で、 数万の民を救うことができる」
そこまで言うと、ジュールは少し眉根を寄せて視線を伏せた。
「以前も申し上げましたが、私はお二人の婚姻には反対でした。奥向きをまとめ、夫人たちの心を掌握することに関してましては、サランナ様ほど見事にこなせるお方はございません。私は初めから、アシュラル様にはサランナ様とご結婚なさるようにと、勧めておりました」
同じ言葉に、以前には感じることのなかった悔しさを覚え、あさとは唇を噛んでいる。
「いえ、それだけが理由ではない。……私は、忌わしい予言書などに、アシュラル様を縛られたくなかったのかもしれません。あんなものがあったばかりに 」
言葉を切ったジュールの、凛々しい眉が、わずかに歪んだ。
「アシュラル様の人生は、他人の思うように弄ばれてきた。終末の書にある一文で、傷ついているのはあなただけではない。アシュラル様もまた同じだということを、どうかお忘れにならないでいただきたいのです」
あさとは、何も言えなくなった。口の中で、反論したいことは山ほどあった。でも、それは一つも言葉にはならなかった。
「アシュラル様御自身は、予言に関しては否定的に解釈されておられます。それなのに、あの方は、あなたと結婚する道を選ばれた。ディアス様の勧めもありましたが、最終的にはご自身で決断された。……その意味がお分かりですか」
あさとは顔を上げた。それはアシュラル自身が言っていた。 政治的に利用できるからだと。
「あの方と木刀を交えるあなたを見た時」
ジュールは、今度ははっきりと微笑した。
「ひょっとしたらこの方は、私どもに欠けている何かを補ってくださるのではないか、 この方とアシュラル様の気性を受け継いだ子供なら、確かに世界を変えることもできるのではないか 私は初めて……予言を受け入れる気になったのです」
ようやく、あさとにも理解できた。ジュールは今、私を励ましてくれている。ここで、この場所で、頑張れと言ってくれているのだ。
ジュールはゆっくりと頷いた。
「奥向きのことはクシュリナ様がお気になさることはない。サランナ様に任せておけばいいのです。ただし、情報を得る術をお持ちなさい。それから、政治のことはアシュラル様に一任されることです。あなたには、あなたにしか出来ないことがあるのですから」
私にしか、できないこと……。
なんだろう。
多分、私はそれを漠然と知っている。何をすべきか、しなければならないか 。
私にしかできないこと。今、私にできること。
「アシュラル様は、闇です。自身が光になることは決してない」
ジュールは目をすがめた。どこか寂しげな口調だった。
「クシュリナ様、あなたが彼の……闇を照らす光になってください」
8
女官たちが行う寝室の支度が、その夜は特に念入りだった。香を焚き染め、掛け布団も全て新しい物に取り替えられている。
白大理のテーブルの上には、酒席の支度まで整えてある。
ここまであからさまに用意されると、さすがに居心地は最悪だった。
本当に、来るつもり……?
それでもまだ、あさとは半信半疑だった。
あれだけ酷いことを言っておいて、あれだけ酷い言葉を受けておいて、あのプライドの高い男が、わざわざやってくるだろうか。
しかも、サランナの女官たちの目が光るこの部屋まで 。
が、女官が先触れを告げ、結婚して以来、一度も訪ねてこなかった夫は確かにその夜やって来た。
嘘でしょ?
あさとは反応に窮して身構えた。
アシュラルは濃い緑のローブを羽織り、モスリンのシャツをゆったりと身に着けていた。均整の取れた長身は、蝋燭の明かりだけが頼りの薄闇の中、息を引くほどに美しい。
洗い髪なのか、黒い髪が艶やかに濡れている。
何か一言、嫌味でも言おうと思ったのが、何も言えなくなっていた。あさとは長椅子に腰かけたまま、彼を出迎えることも立ち上がることも出来ないでいた。
アシュラルもまた、何も言わない。入ってきた扉に肩を預け、軽く腕組みしたまま、冷めた眼差しをあさとの方に向けている。
どうしよう。
心の準備ができていないとか、それ以前の問題として、 あさとは彼が、自分に手を出しはしないだろうと そんな風にたかをくくって、思いこんでいた。
あれだけ情熱的にサランナとキスしていた、あの唇で、彼が 。
思わず長椅子の手すりを握り締めている。思い出されたあの夜の光景が、あさとの心を凍りつかせた。
「何しに来たの」
冷たい口調で、そう言っていた。
「予言書通りに子供を作りに来たってわけ、ご苦労なことね、お疲れでしょうに」
「わかっているなら」
アシュラルは軽く舌打ちして、濡れた髪をかきあげた。
「さっさとお前も協力しろ」
冗談じゃない。
咄嗟に身を翻し、立ち上がった。部屋を出て行こうとした。しかし、唯一の出入り口には、彼が背を向けて立っている。
あさとは仕方なく、長椅子の後ろに回った。
「私は嫌よ 絶対に、嫌」
「お前、結婚の意味、判ってるのか」
「判ってないのは、あなたの方じゃない」
あれだけ散々、目の前でサランナといちゃついておいて 。
「あなたなんかに、指一本触れて欲しくないのよ!」
アシュラルは、それには答えず横顔を向けると、黙って羽織っていたローブを脱いだ。
薄い夜着を通して、滑らかに締まった体が薄明かりに映える。
「だったら、俺を別の男だと思え」
こちらに向って歩みだす彼の脚。あさとは後ずさった。耳元で、あの夜の雷鳴が聞こえた。
「俺は、お前のお気に入りの騎士より、あいつに似ているつもりだが」 なに……?
「あいつの名前を呼んでも許そう 俺に抱かれろ」
まさか、ラッセルのことを言っているの?
頭に血がのぼり、眩暈にも似た感覚がした。
ひどい、許せない。彼のことをそんな風に言うなんて。
あさとは自らアシュラルの傍へ歩み寄った。そして、思いきり腕を上げた。
振り下ろした手首は、あっけなく大きな手のひらに掴まれる。間近に迫る顔、喉、胸元。それでも、気持は少しもひるまなかった。
「最低ね、あなたって」
「なんだと」
「自分が最低なことばかりしてるから、他人もそうだと思いこんでいるのね かわいそうな人よ、あなたは」
見下ろす眼に、怒りが揺れている。あさとはその腕を振り解いた。
「好きにすればいいわ、どうせ力じゃかなわないもの。そんな風に暴力でしか女性を思い通りにできない、気の毒な方ですものね、あなたは」
ここまで言うつもりじゃないのに。
言いながらあさとは後悔していた。
ジュールの話を聞いて、少しアシュラルに対する見方を変えようと そう思っていたばかりだったのに。
「誰が、お前なんか、好き好んで……」
アシュラルは悔しそうにうめいた。
「じゃあ、勝手にしろ、いいか、俺だって死んでもお前には指一本触れないからな」
「勝手にするわよ!」
どうしてこの人が出て行かないんだろう、そう思いながら、あさとは出口の扉に駆け寄ろうとした。
その腕を、アシュラルが素早く掴んだ。あさとはびっくりして身を引いた。
「ここにいろ」
少し低い声だった。
「何もしない、だから、朝まではここにいろ」
「な…、なんで」
闇を抱いた瞳。まっすぐに見つめられると、不思議な胸騒ぎがして動揺する。あさとは思わず眼を逸らした。
「なんでもいい、説明するのが面倒だ。とにかく、俺とお前は監視されている」
監視……?
「俺はこの長椅子で寝る、お前はベッドを使え、…そんな顔、しなくてもいい」
アシュラルは、初めてわずかに笑みを浮かべた。
「本当は俺もほっとしている。…疲れていたからな。お前みたいな子供を抱くほど、暇じゃない」
本当に、一言多い人なんだから。
あさとは嘆息して、ようやく肩の力を抜いた。
「うそつき」
そして呟いた。
「なに?」
怒ったような目が上から向けられる。
「指一本触れないって言ったじゃない」
「…ああ、いや、これは」
アシュラルは、少し動揺した顔で掴んでいた腕を離した。あさとにとっては、始めてみるような親しみのある顔になった その一瞬だけ。
「… 細かい女だな」
肩をすくめ、そう言って背を向ける。
何故、自分で彼の腕を振りほどけなかったんだろう。あさとはそのことを考えていた。
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