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すぐに眠れるとは思っていなかったが、実際、同じ部屋にアシュラルがいると思うと、わずかの眠気も沸いてはこなかった。
あさとは何度か目の寝返りを打った。
天蓋から帳がかかっているため、アシュラルの姿は、蝋燭が揺らすシルエットでしか見えない。
もう……寝たのかしら?
気になって仕方がない。どうにも、彼が先に寝てくれるまでは、しかも熟睡してくれるまでは、緊張して眠れそうもない。
そっと帳の隙間からのぞいて見ると、長椅子の上、片腕を枕にして、仰向けに寝ている長身が見えた。長い脚がどうにも収まりきらないでいる。見るからに窮屈そうだ。
せめて、枕でも、貸してあげればよかったかも。
落ち着かない気持で考えながら、もう一度自分も仰向けになって目を閉じた。
別にあいつのためなんかじゃなくて、一刻も早く熟睡してもらうために。
でないと私が眠れないから。
それに……。
ぱっちりと目を開けたあさとは、再度、隙間から様子を窺い見た。
ああいう寝方をすると、絶対、朝には筋肉痛になってそうな気がする。
加えて、夜は結構冷えるんだった。……毛布くらい渡してもよかったかな。
それは、あいつのためなんかじゃなくて、私が安心して寝るために。
「…………」
再び仰向けになったものの、もう一度眼を開ける。
そろそろと、再度、様子を窺い見る。
どうしよう……頃合いを見て、上に何か掛けてあげようか。下手に風邪なんか引かれて、後でサランナに厭味を言われるのも、なんだか嫌だし。
いやいや、放っておけ、寝よう寝よう。あの男が風邪を引こうと筋肉痛になろうと知るものか。
もう一度仰向けになって、寝がえりを打つ。次第に腹が立ってきた。男にではなく自分にだ。どうしてこんなに、あの最低男のことが気になるのだろう。
あの男が自分にしたことを 思い出して、もう一度腹を立てて、眠ろうとした。
でも。 。
( 他人の思うように弄ばれた。終末の書にある一文で、傷ついているのはあなただけではない。アシュラル様もまた同じだということを、どうかお忘れにならないでいただきたいのです)
思い出されるのは、ジュールの言葉だけだった。
その意味することは、即座に理解できていた。
あさとは今まで 予言のことを聞かされてからずっと、自分のことを「子供を産むための道具」なのかと卑下し、存在に虚しさを感じていた。
それは、アシュラルにとっても同じだったのだ。彼もまた「子供を産ませるためだけの道具」ではなかったのか。自分と同じように 彼自身も、そのことではかなりの葛藤を感じていたのではないだろうか 。
「眠れないのか」
思わず跳ね起きる所だった。
呼吸が止まるほど驚いていた。
「ね、寝てるわよ、とっくに」
「ふぅん」
「…………」
「さっきから黙って見ていれば起きたり寝たり、落ち着きのない女だな」
あさとがむっとして何か言いかえそうとするのと、アシュラルが低く笑うのが同時だった。
「お前、俺のことを意識してるだろう」
「ばっ、馬鹿なこと言わないでよ」
「おかしな奴だな。何もしないと言ったが、何かして欲しいんなら話は別だぞ」
かっとして枕を掴んで……投げようとした手を、かろうじて留めた。
「もういい、……二度とそのへらず口を聞かないで」
アシュラルが欠伸をする気配がした。
「お前は二度とするなが多すぎる。いい加減、忘れてしまいそうだな」
「………」
心底腹が立った。 枕も、毛布も貸してあげるものか。風邪でも筋肉痛でも、勝手になればいい。
布団を首までひきあげて眼を閉じる。
「………」
が、眠れない。
意味もなく羊を数えたり、昔よくやった円周率を思い出したり……してみても、無駄だった。
どうしても眠れない。多分、苛々しているからだ。あの男の存在そのものが、私を苛々させるから 。
アシュラルが、窮屈そうに足を動かす気配がした。あさとは、身体を起こしていた。
「起きてる?」
「……? ああ」
どうして声をかけてしまったか判らなかった。
あさとはそれを 自分が、健やかに寝るためだと、腹を括った。
「寝づらくない?」
「別に」
「寒いでしょ」
「別に」
「そういう寝方しても、平気なタイプ?」
「……? うるさいな、なんだお前、さっきから」
「……別に」
きっと、アシュラルも眠れないんだ。憮然としつつ、あさとは初めてそう思っていた。
それはそうだ。あんなに背の高い人が、小さな女用の長椅子で……。
あさとは帳をそっと開いた。
こんな些細なことが気になって眠れないなら、最初からそうすれば良かったのだ。
「こっちで寝てよ」
「 は?」
「私が、そっちで寝るから……あなたに落ち着いて寝てもらわないと、私が安眠できないのよ」
「………」
闇の向こうで、アシュラルが半身を起こす気配がした。あさとは緊張して動けなくなる。そのまま、しばらく沈黙があった。
「お前……おかしな奴だな」
「あなたに言われたくないんだけど」
アシュラルの笑い声がした。「 それはお互い様というやつだ」
わずかに動悸が高まるのをあさとは感じた。笑い声が とても、優しくて、別人のような気がするのは何故だろう。こんな笑い方をする人だったなんて、今まで知らなかったし、想像すらしていなかった。
彼が、再び長椅子に身体を横たえる気配がした。
「ま、俺は別に構わない、寝台でもどうせ眠れない」
「……そう…?」
どういう意味だろう、疲れていると言っていたくせに。あさとは不思議に思いながらも、自分も寝台に横になった。
「お前、俺から逃げたいとは思わないのか」
不意に静かな声がした。
あさとが答えないでいると、アシュラルはそのままの口調で続けた。
「……俺はあんな嘘臭い予言など、何ひとつ信じてはいない。ただ救世主うんぬんのくだりは、政治的に役に立つ。だから、利用してやろうと思っているだけだ」
「救世主の父親、という立場を利用するってこと?」
無意識に棘を含んだ言い方になっている。アシュラルは否定も肯定もしなかった。
「……あなたは、ほ、本当は」
言いにくい、あさとは言葉を捜しながら続けた。でも、ジュールの言葉を信じるなら、信じていいのなら、この人は 。
「本当は、いい人で、……諸侯の圧制から、民を救おうとしているの?」
「 民を? 俺が?」
一瞬間を置いて、帳の向こうで爆笑が起きた。
「俺がそれほど正義感溢れる男に見えるのか。ジュールに何を吹き込まれたのか知らんがな、そんなごたいそうな御託を並べるのはディアス一人で沢山だ」
こみあげる腹立たしさで、あさとは返す言葉さえ思いつかなかった。
「いいか、月が満ち欠けをやめて、あと十五年で二百年になる。それがリュウビの年で、予言のいうことが本当なら、この世界の終わりの時だ」
「本当なの?」
「青の月とシュミラクールの均衡が崩れ、世界は忌獣が支配するようになる」
そこまではっきりとした終焉を告げられたのは初めてだった。あさとは背筋に重苦しいものが流れるのを感じた。
青の月……最初は忘れていたが、今なら思い出せる。青の月とは、あさとのいた世界のことだ。レオナが確かに言っていた この世界は、青の月と対になっていると。
「あなたは、でも予言を信じてはいないんでしょう?」
「クインティリスの獅子うんぬんの下りはな。あれは法王庁でも解釈が判れ、幾多の説があるからな。しかし親父殿とディアスは信じている……。親父はともかく、肝心なのはディアスがそう言っているということだ」
最後の方は独り言のような口調だった。
どういう意味だろう、あさとは眉をひそめる。ディアスはアシュラルの師筋にあたる。だから 彼の言うことは絶対という意味なのだろうか。
「何も知らないというのは気楽でいいな、お前は予言の書を見たことがあるのか」
「ないけど」
少しむっとして答えていた。
「ならばコンスタンティノのところへでも尋ねてゆけ、禁断の書物は親父どのが抱え込んで離さぬからな」
彼が低く笑う気配がした。
「なんにせよ、俺は自分の死を座して待つほど度胸溢れる男でもなければ、生まれてくるガキを頼りにひたすら時期を待つ甲州公や親父どののような気の長い男でもない。今自分のやれることをやっているだけだ 民などのためではない、俺自身のためにな」
嘲笑を含んだ声。父を引き合いに出されたことで、あさとは怒りを噛み殺しながら帳の向こうの男を睨んだ。それに アシュラルの語る言葉には矛盾がある。
「じゃあ、あなたは今、忌獣の支配を防ぐために、諸侯をわざわざ挑発して戦争を始めようとしているわけ?」
「……なんだと?」
「私には、あなたが諸侯になり代わって、この世界を支配しようとしているように思えるけど」
「 いいか、忌獣はな」
苛立たしげに何か言いかけたアシュラルの言葉が途切れた。
「まぁ、お前に話しても仕方のないことだ。どうとでも勝手に思っていろ」
気まずい沈黙が降りた。
あさとは言い過ぎたことを後悔した。多分 何か重要なファクターを知らないのは自分で、それでアシュラルの言葉も理解できないのだろう。なにしろあさとは、予言書そのものさえ見たことがないのだから。
悔し紛れに寝返りをうった時、二度と口を開かないだろう、と思っていた相手の声が、静かに響いた。
「いずれにしても、子供さえ産んだら、お前は自由だ。そうはなりたくないのか」
「なりたいけど……って、そのために子供?」
「他にどんな手がある」
アシュラルの声は冷めていた。
「お前と俺は、そのために結婚したんだ。お前が拒んでいる限り、いつまでもオルドに閉じ込められたままだぞ」
「…………」
それが アシュラルにとっては、重要な結婚の意味なのだ。
多分、この世界に生きるクシュリナにとっても。
それでもあさとは、彼の提案を受け入れるわけにはいかなかった。
「それ、別に、すごく急がなくてもいいんでしょ」
「………」
不思議な沈黙があった。アシュラルは答えずに黙っている。
「あなたは平気かもしれないけど……私は、駄目……まだそんな風には割り切れないよ」
「割り切れないとは?」
「子供作ること自体、……無理じゃない」
「どうしてだ」
どうしてって。
あさとは困って、逡巡した。こうも常識の違う人と、どうコミュニケーションを取ればいいのだろう。
「そういうことが……」
「そういうこと?」
鈍い!
本当にコンスタンティノ家の至宝だろうか、この男は。
「あなたが、最初に私にしたことよ!」
「…………」
初めてアシュラルが、言葉に詰まるのが判った。
あさともまた、自身の忌まわしい記憶を、こんな形で吐露したことが信じられなかった。
「……まぁ、そうだな」
「………」
「お前の言う通りだ……別に、急ぐ必要はない」
「………」
なんだろう、今のアシュラルの反応は少し変だ。こんなに素直に人の言うことに頷くなんて、信じられない。
私も変だ。さっきから 二度と口も聞きたくないと思っていたアシュラルと、こんなに自然に話している。絶対に変だ。
今夜は……。
多分、二人とも、どうかしている。
あさとはアシュラルの影に背を向けた。もう、眠ってしまいたかった。これ以上、彼に感情移入したくない。
「お前はサランナに監視されている。それは、知っているのか」
アシュラルの静かな声がした。
「あいつは、どうにもお前に子供を作ってもらいたいらしい」
それで。
あさとは闇の中で眼を見開いた。それで、アシュラルは今夜ここへ来たとでもいうのだろうか。サランナの神経も、そんなことを口にするこの男の神経も理解できない。
「……俺を、受け入れられないならそれでもいい」
最後に、ため息が混じったような声がした。
「俺以外の男でもいい、……とにかく、好きな奴の子供を産め」
……。
「それを、俺の子供にするさ」
何か皮肉を口にしようとして、言えなかった。
どうしてこんなに不愉快なのか、理由もわからず、あさとは黙って眼を閉じた。
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