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5
「ついてこなくていいわ」
あさとは立ち上がり、慌てて後を追おうとしたノエルを遮った。
「昔のお友達とお話があるの。……すぐに戻るわ」
「それは御許しできません。どなたにお会いになると言うのです」
うんざりするようなアグリの声。
「青州公よ、それも法王様の許可がいるの」
何か反論を返されると思ったが、何故かノエルもアグリも妙に素直に引きさがった。あさとはドレスの裾を翻して、広間の目立たない場所から、ダーシーの姿を探した。
ダーシー。
わずかに視線を巡らせただけで、兄の死後、鷹宮家を継いだ次男の姿はなんなく見つかった。
並外れて背が高く、細い……痩せた死神を思わせる陰気な風貌。死んだ兄と正反対の、暗く翳った険しい眼差し。闇色の髪が、軽くうねりながら顔の輪郭を覆っている。
この見かけのせいで、青州では、概ね弟は兄の引き立て役だった。
が、あさとはよく知っている。ダーシーが見かけを大きく裏切る心根の良さを持っていることと 愚直なほどに誠実な男であることを。
「これは……女皇陛下」
ダーシーは、あさとを見ると一瞬懐かしさに相貌をほころばせ、それでも彼らしく、馬鹿丁寧な一礼をした。
あさとも懐かしさで、胸がいっぱいになっていた。
ダーシーは、「クシュリナ」が青州ゼウスに三年間留め置かれていた間に出来た、 鷹宮ユーリ以外で、唯一信頼できる相手だった。
年齢は二十六歳。先代鷹宮公から最も愛され、彼の城の重臣たちの誰からも好かれていた。
兄を意識してか、常に控え目に振る舞っていたが、何をやらせてもそつなくこなし、武術も乗馬も、その気になれば、ラッセルと対等なのではないか、と思ったことがあるほどだ。
父や重臣たちに、どれだけ家督相続を勧められても、ついに首を盾には振らなかった。
長子相続の掟を破れば国が乱れる。私は兄上をお助けする立場でよい。 それがダーシーの、頑なな持論だった。
あさとはダーシーに強い親しみと好意を覚えたが、ユーリと違い、ダーシーは頑なに臣下としての一線を壊そうとしなかった。だから 友人、と言えるほどには親しくはなれなかったのだが。
「お久しぶりです、ダーシー公」
「このたびは……大変な目にお会いになられたとお聞きしております。かような折に御助力できず、大変申し訳ありませんでした」
外聞を気にしてか、ダーシーは声をひそめてそう言った。本当に、口惜しそうな顔をしていた。
「けれど無事に即位なされたよし。一報を聞き、心より安堵いたしました。すぐにお祝いに伺うべきところ、なかなか青州を留守にすることができず……」
「ご事情は、よく判っています」あさとは遮った。
「私のほうこそ、ダーシー公を案じておりました。……無事に家督を継がれて、何よりです」
ダーシーは初めて、わずかに笑んだ。
「陛下、どうぞダーシーとお呼びください」
彼もまた、美貌と名高い鷹宮家の血を引いているのは明らかだ。表情から、彼を恐ろしく見せるぶっきらぼうな印象を取り除けば、きっとグレシャム以上の社交界の人気者となるだろう。
が、ダーシーが、そういった外面を決して取り繕わないことを、あさとはよく知っていた。
「……ダーシー、今日は……個人的に、聞きたいことがあって」
カンの鋭い男は、すぐに何かを察したらしく、視線だけを何気なく周囲に巡らせる。
「ユーリのことですね」
あさともまた、周囲を気にしつつ、頷いた。
「本当に、ユーリは死んでしまったの?」
「……陛下は、どこまでご存知でおられますか」
「公にされていることは、全部知っているわ」
しばらくダーシーは空を睨むように見つめていたが、ややあって囁く声は苦衷に満ちていた。
「……ユーリは、我が兄を殺害した咎で追われ……罪を認め、自ら命を絶ったのです。私が聞いているのはそれだけで、青州に届けられたのはわずかな遺髪だけでした」
「その知らせを届けたのは、今の法王様かしら」
「仰るとおりです。私は」
真正直な男は、苦しさを隠せない眼で、あさとを見下ろした。「私はそれを、……私を救うための、法王家の計らいだと理解しています」
意味を解したあさとは、はっと唇を震わせ、ダーシーは重たい溜息をついた。
「……では……ユーリは、あえて法王の一派に殺されたのね」
「私には判りません……が、青州を混乱から救うには、それしかなかったことも、また確か」
ダーシーの口調は、控え目ではあったが、きっぱりとしていた。
「追放されたヴェルツ公は、兄殺しの首謀者として、私を亡きものになさらんとしました。コシラを青州に送り、一時的にせよ統治を奪おうとしました。ゼウスで処刑される運命だった私を、御救いくださったのがアシュラル様です。ユーリに関して言えば、ただ憐れな惨い運命だったとしか言いようがなく……」
言葉を切ったダーシーは、あさとから眼を逸らし、苦々しげに言葉を繋げた。
「もし、ユーリが本当に兄を殺したのだとすれば」
「それは違うわ」
遮ると、ダーシーは安堵したような微笑を浮かべた。
「……なれど私は、それも無理のないことかと思っているのです。ユーリを憎んではおりません。兄の、……ユーリへの執着ぶりは、……少し異常でございましたから」
「………」
あさとは何も言えなかった。
多分、ダーシーは知っているのだろう。グレシャムがユーリに対して行っていたことを。だとしたら同時に 知っているのではないだろうか。ユーリの、隠されたもう一つの顔を。
「ユーリは、本当は……どこで産まれたの? 鷹宮の親戚にあたるという話は、本当ではないのでしょう?」
探るようにあさとが聞くと、ダーシーは首を左右に振った。
「ユーリは、兄が旅先から連れ帰った子供なのです。蒙真で、とある高貴な血筋の方から預かった。私には、それ以上のことは判りません」
「……蒙真で、三鷹家と蒙真王朝の争いが起きているけれど」
一縷の望みを託して、あさとは訊いた。「その争いの中で、ユーリの名前が挙がっているということはないかしら」
「ユーリの?」
ダーシーは一瞬けげんそうに眉をそかめ、そして何かを察したのか、わずかに眉をひそめてみせた。
「青州と蒙真は隣国同士、貿易がさかんに行われている間柄ゆえ、彼の国の情報は入ってきます。 蒙真はムガルシャーが亡くなり、その御正室ヨブクル様もご病死なさいました。蒙真王朝は総崩れとなり、政権が三鷹家に渡るのは時間の問題。おそらく近々中に、彼の国は再びナイリュと名を改めましょう」
「ユーリは、三鷹家の血を引いているのではないの?」
ダーシーを信じ、思い切って訊いたことだったが、彼は苦く首を横に振った。
「陛下はご存知ないと思いますが、ユーリの髪色も眼も、彼の国では異端の証」
「…………」
「ユーリが蒙真を追い出されたのも、その容姿が関係していたのではないでしょうか。三鷹家では次期王として、革命を主導したサライ将軍を推しているという話です。……ユーリが……例え三鷹の正当な末裔であったとしても……表舞台に出てくる可能性は、限りなくないといってよいでしょう」
ユーリ……。
あさとは胸が詰まって、何も言えなくなった。
(俺は蒙真へ行く。そして必ず彼の国を手に入れて、戻ってくる)
行かせるべきではなかった。彼の腕を、あの時放すべきではなかったのだ。
(何年たとうと、必ず君を迎えに来る。……その時こそ、君を俺の妻にするとシーニュに誓おう)
あさとは目を閉じた。
もし、奇蹟のようにユーリが迎えにきてくれたとしても、心の中でそれをどれだけ望んでいたとしても 自分はやはり、ついていくことはできないだろう。
この運命から逃れられるとしても、それだけはできない。彼の手を取ることは、逆に、ユーリの愛に対する重大な裏切りになるからだ。
私は彼を、愛してはいないから……。
くちづけを受けた瞬間に、あさとはそれを理解していた。なのにそれを、ユーリに伝えることができなかった。いや、あの場面で伝えることなど、そもそもできるはずがなかった。
そういう意味では、あさとは最後の最後でユーリを騙し、それが二人の永遠の別れになったのだ。
「……法王様は、この国をどこに導こうとしていらっしゃるのでしょうか」
ダーシーが不意に呟いたので、あさとははっとして我に返った。
彼の目は鋭く、広間の中央 人垣の中心にいる、際立って長身の 深紅のクロークをまとった美丈夫の姿に注がれていた。
「諸侯に、妻子を金波宮に留め置き、藍河の河岸工事と、税収の一部を皇室に収めるよう申し渡したそうですね。これは……陛下の宣下になってはいますが」
えっ?
あさとは驚愕して顔を上げた。そんなことは、何も聞いてはいない。
「やはり、ご存知ないことでしたか」
ダーシーはかすかに嘆息した。
「確かに近年、諸侯は余計な力を持ちすぎた。アシュラル様の理想には賛同します。けれど――急激な変化は反発を生むだけだ。おそらく、今夜出席しなかった者たちは、すぐにでも反旗を翻し、法王軍との戦がはじまるでしょう」
あさとは自分の足が震えるのを感じていた。 怒りと、そして言いようのない憤りで。
アシュラルがそんなことを。しかも、私の名前を勝手に使って。
唇をきつく噛んで、中央で歓談し、微笑している男の横顔を睨みつける。妻子を人質にして税を納めさせる? これでは ヴェルツ公爵よりよほど非道い。
視線を落としたダーシーは、憂鬱な口調で続けた。
「奥州、櫓北では、アシュラル様は薬師寺家の残党を皆殺しにしたと聞いています。……まるで鬼神のごとき残虐な所業は、すぐに五州、五国に広がることとなるでしょう」
「…………」
「アシュラル様は確かに稀にみる傑物です。しかし彼は……まだ若い、若すぎるほどだ。あの若さが自身の身を滅ぼさねばよいのですが」
「ダーシー」
あなたは、……どちらにつくの?
そう問おうとした時だった。
「クシュリナ様」
ノエルが、慌てた様子で駆けつけてきた。
「もうじき、ゼウスの苑宮シベール公が御着きになられるそうです。すぐに、拝謁式のお支度を」
え?
あさとは戸惑ってノエルを、そしてダーシーを見上げる。
苑宮シベールは、あさとでも知っている。ゼウスの皇太子である。
いわば国賓が、たかが戦勝会に顔を出すなど……そのような話は、聞いていない。
「ゼウスとイヌルダは、こたび、正式な軍事同盟を結んだのです」
ダーシーが、不思議そうな顔で言った。「……まさか、女皇陛下がご存知ないことはありますまいが……」
6
「……クシュリナ」
戦勝会が終わり、全ての客人が宴の部屋を後にして 自分もノエルと共に広間を出たところで、あさとは背後から呼びとめられた。
振り向かなくても判っていた。アシュラルだ。
あさとは振り返った。彼もそうだろうが、自分も言いたいことは沢山あった。
「 いいか」
靴を鳴らして近づいてきたアシュラルの眼は、まるで怒りを噛み殺しているように、冷え冷えとしていた。
「二度と俺に、人前で恥をかかせるな」
癇癪と苛立ちを、ぎりぎりで抑えたような声だった。
ぐっと唇を噛み、悔しさと情けなさに、あさとは耐えた。
あれは、サランナが。
言うことさえできない。いや、言い訳はしたくない。確かに今日、諸侯の集まる大切な場所で、段取りの悪さを見せつけてしまったのはあさとだった。アシュラルが怒るのも無理はない。でも 。
「アシュラル」
ありったけの勇気を振り絞って顔を上げた。これだけは、言わなければいけない。
「私の名前で、 勝手に宣下を出さないで」
立ち去ろうとしていたアシュラルが、足を止めた。
「なんだ、知っていたのか」
振り返った眼は意外なほど平然としている。口元には冷笑すら漂っている。あさとは押さえていた怒りが指先まで満ちていくのを感じた。
「どういうつもりなの? 皇都に人質を取って税を上納させるなんて、諸侯と、戦争でもするつもりなの」
ひるみそうになる心を励まして、言いきった。「そんなこと、 許さないわ」
「許さない?」
「………」
「何をどう、許さないだと」
アシュラルの目にも怒りが満ちるのが判る。
「アシュラル様」
二人の声を聞きつけたのか、背後からジュールの声がした。
「お二人とも、いかがなされた」
駆けつけてきたジュールは、不安げな眼差しで、睨みあう夫婦を交互に見遣っている。
「いや、……なんでもない。夫婦喧嘩というやつだ」
アシュラルはあさとを横目で一瞥すると、唇の端で微かに笑った。馬鹿にしたような笑い方だった。
肩をすくめ、式典のために着替えた濃紫の法衣を翻す。
「クシュリナ、話は後だ、寝物語にゆっくりと聞こう。どうせ今宵は、お前の部屋で過ごすことになる」
えっ?
身体がすくんで、あさとは顔を強張らせる。
「それとも、今夜は先客があるのか。ダーシー公といい雰囲気で話していたからな」
「な……」
心の底から怒りの塊が込み上げた。この男は どこまで、私を侮辱すれば気がすむのだろうか。
「ダーシーを侮辱しないで」
あさとは燃える眼で目の前の男を睨みつけた。
「彼は、あなたみたいな恥知らずの男じゃないわ」
「俺は干渉しない。ダーシーだろうが、誰だろうが、お前の勝手にすればいい」
アシュラルは、冷めた横顔を向けた。
あさとは怒りで言葉を失ったままだった。
「俺も勝手にしている、お前もせいぜい、好きな男に慰めてもらえ」
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