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 12
 
 
 「こいつは、クシュリナ様に狼藉を働いた」
 声の主は全開した扉の前に仁王立ちになり、蒼ざめた顔に汗をいっぱい浮かべている。
 あの混乱の中からどうやって抜け出したのか。おそらく走ってここまで辿りついたのだろう。それは
    ダンロビンだった。場内に大きなざわめきが広がった。
 「女皇の衣装を見ろ、あれは、この男がやったんだ」
 ダンロビンは呼吸を整えながら、さらに激しく言い放った。指で、まっすぐにアシュラルを指している。
 アシュラルは動じない。静かな表情のままゆっくりと膝を伸ばして立ちあがり、壇上に上がってあさとの隣で足を止めた。一瞬だけ視線が合う、けれどアシュラルはすぐに前に向き直った。
 階下にいるダンロビンを、高みから見下ろすようにして冷笑する。
 見下ろされた男は、冷静さを欠いた口調でさらに言い募った。
 「俺の妻になる女に、あいつは乱暴をはたらいた。そして、法王の誓約書に署名するよう、脅迫したんだ!」
 きりきりという歯軋りの音まで聞こえてくるようだった。
 「この戴冠式は無効だ、私の婚約者に対する不義密通の咎だ。誰か、アシュラルを捕縛しろ!」
 息子の言葉が終わると同時にヴェルツもいきりたつように振り返り、背後に控えているコシラ兵に向かって声を荒げた。
 「わが息子の言う通りなら、捨ててはおけぬ。ひとまずアシュラル様を拘束しろ」
 「違うわ」
 あさとが言いかけるのと、
 「ヴェルツ公爵、残念だが拘束されるのは、俺ではない」
 アシュラルが口にしたのが同時だった。
 よく通る声だった。緊張の頂点にあった場内は、こわいくらいに静まり返っている。
 隣に立つ男はゆっくりと続けた。
 「何故なら、俺とクシュリナの
    不義密通などありえないからだ」「いや、」
 ダンロビンは肩をいからせて食い下がった。「私は見たんだ、私の目の前で、お前ははクシュリナと抱き合っていた」
 私は見たんだ
    そう繰り返し、残虐な笑みを、その厚い唇にやんわりと浮かべた。「残念だったなアシュラル、昔と一緒だ、また騎士の旅にでも出てみるか」
 「残念なのはお前の方だよ。この少女趣味の変態野郎め」
 「な、なにぃ」
 辛らつなことをさらっと言い、アシュラルの横顔が静かに笑んだ。
 「この俺とクシュリナは、
       すでに正式に結婚した夫婦なのだから」
    え?あさとは驚愕して眼を見開いた。
 彼が何を言っているのか、理解できなかった。
 「何しろ九年も婚約していた。その上、待ちかねた結婚式は土壇場で流されて、これ以上我慢も限界というやつだ。先日、カタリナ修道院で式を挙げ、俺たちは正式な結婚許可を受けている。騎士の称号を得た立会人二人の署名も」
 アシュラルは、懐から一枚の洋紙をとりだし、眼の先で掲げた。「この通りだ」
 それは
    確かに正式な結婚許可証だった。法王のみが発行できる、皇族の結婚許可証。あさとはアシュラルからその洋紙を奪い取った。署名がある。驚くべきことに、コンスタンティノ大僧正の確かな自筆で。そして、立会人の
    。そんな。
 そんな馬鹿な。
 洋紙を握り締める指が震える。息が止まりそうな気がした。
 
    では、あれは……あの時のことは。何かが不自然で、しっくりこないと思っていた。「神かけて」そう言って立ちあがったジュールとラッセル。
 では
    。胸の中に、静かに落ちて行くものがあった。
 
    ラッセルは、……知っていたんだ。あの日が「クシュリナ」とアシュラルの結婚式だったということを。
 「卑怯者、恥をしれ、アシュラル。クシュリナ様の顔を見ろ、心底驚いていらっしゃる。そんなもの無効だ!」
 ダンロビンはしつこくわめいた。
 「クシュリナ」
 前を向いたまま、アシュラルは言った。
 「お前は俺を、一生憎むと誓った」
 左手の
    薬指の傷。「そして俺は、お前を生涯好きにならないと……誓った」
 この傷が、いつも彼への憎しみを呼び覚ますように。
 「それが誓いの言葉だ、俺たちは結婚した。
    そうだと言え」それが、……それを誓いというならば。
 あさとはアシュラルの横顔を見上げた。
 その視線につられるように、彼もまた、あさとを見下ろした。
 不思議なくらい静かな感情が、ゆっくりと自身を満たしていく。
 私は、あなたの傍にいたいのかもしれない。
 あなたが、琥珀の生まれ変わりかもしれないから。
 あなたが
    。「私たちは、結婚しました」
 あさとは言った。前を見て、はっきりと宣言した。
 「法王、聖将院コンスタンティノ・アシュラルは、私の夫です」
 
    あなたが……。余りにもラッセルに似ているから。……
 
 
 13
 
 
 その後の騒ぎは、身の毛もよだつほど凄惨なものだった。
 なだれ込んできたバートル隊、そして法王軍の一団が、ヴェルツ公爵とダンロビン、そして夫人エレオノラをあっという間に拘束した。一軍を指揮していたのは無論ジュールで、法王軍は新法王の命に恐ろしいほど忠実だった。
 悲鳴を上げて逃げ惑う夫人たち。踏み荒らされる祝いの花々。砕け散る銀杯。主人を護ろうとして、切り殺される騎士。怒声と、血しぶき。そして悲鳴。
 あさとは立ち上る震えと闘いながら
    この神聖な場所が、暴徒と化した騎士たちによって踏みにじられる様を見つめることしか出来なかった。この瞬間、時代は確かに変わったのだと、しかも恐るべき速度で急速に変容しようとしているのだと
    嫌が応でも思い知らされないわけにはいかなかった。それら惨たる光景を目の当たりにして、アシュラルは轟然と構えていた。もがきわめくダンロビンの呪詛の眼差しから思わず目を背けようとしたあさとは、夫となった男の横顔を見て確信した。
 これは
    着実に計画されていたことのひとつなのだと。彼は最初から、この場でヴェルツ公爵を捕らえ追放するつもりだったのだ。ヴェルツがアシュラルの即位を妨げようとしていたのと同様に、アシュラルもまた、ヴェルツ勢力を一掃する機会を狙っていたに違いない。おそらく彼らの唯一の杞憂はハシェミの身柄をヴェルツが押さえていたということにあったのだ。
 「アシュラル、この騙り者の悪魔め、お前こそが忌獣の化身そのものだ!」
 捕縛されたダンロビンが、法王軍の囲みを振り切り、悪鬼の形相でアシュラルを指してののしった。
 「私は知っているぞ、そうだ、ハシェミ様が漏らされた、お前は」
 その時だった。まるで疾風のように駆けたアシュラルが、ダンロビンの前に舞い降りた。
 もの言わず左下からすくいあげられた一閃、怪鳥のような悲鳴をあげたダンロビンが、のけぞって腰をつく。
 あさとは咄嗟に目を覆い、エレオノラとヴェルツの悲鳴が左右からあがる。
 が、ダンロビンは生きていた。恐ろしい断末魔の悲鳴をあげてのたうちながら、それでも凄まじい呪詛の目でアシュラルを睨みつけた。
 顔を縦に斬られたのだろう。鼻はふたつに裂け、唇は四つに割れている。ぺちゃぺちゃと何かを叫んでいるが、もうその声は獣同然にしか聞こえない。
 「この程度で死なせはしない」
 長剣の血をはらい、ぞっとするほど冷やかな声で、アシュラルは言った。
 「お前が殺した女と、同じ目にあわせてやる。ダンロビン、その手足を八裂きにして、腸を引きずり出してやるからそう思え!」
 「アシュラル、貴様!」
 いまにも掴みかからん形相で叫んだのは、それまで落ち着いた態で縛についていたヴェルツだった。
 「貴様、ただで済むと思うなよ。必ずだ、必ず俺が、貴様を地獄に送ってやる!」
 「アデラ女皇暗殺の罪だ、ヴェルツ」
 そう言い放つアシュラルの顔は、まるで鬼神か何かのようだった。
 「お前の妻が大量の蛇薬を所蔵していた。お前の別宅で、すでに証拠品は押さえてある」
 「外道め……」
 ヴェルツは歯がみしつつも、さすがにそれ以上抗うことなく縛についたが、ダンロビンはまだわめいていた。多分、自分には関係ない、そう言っていたのだろう。
 あさとが耳を塞ぎたくなったのは、むしろエレオノラが捕縛された時だった。
 「これは何かの間違いよ、アシュラル様、ねぇ、お願い」
 夫が囚われ、息子が顔を割られたというのに、彼女は恥も外聞もなく、甘い声をこの捕縛劇の戯作者に向けた。
 「あれほど私を愛してくださったじゃありませんの、あなたは私が男にしてさしあげた方ですもの。ねぇ、アシュラル様、どうか私をもう一度お調べになって、あなた様ご自身の手で」
 この凄惨な場面で、初めてアシュラルの片頬に笑みがかすめた。
 「無論、あなたを忘れたことはなかった、エレオノラ」
 そして、信じ難いことにこう続けた。
 「いずれ会いに伺おう。それまで大人しく待っているがいい」
 
    この人にとって……。唖然としたあさとは、やがて呆れて、戻ってきたアシュラルの眉目端正な横顔を見つめた。
 
    この人にとっての結婚って、一体どういう意味があるんだろう。多分、
    感情の面では、何ひとつ意味などないのだ。立場、地位、権力。彼が欲しかったのは、最初からそれだけだ。それでも、彼はダーラの復讐を果たしてくれた。それを……喜ぶべきなのか、忌むべきなのか、ダンロビンの獣じみた叫び声が、あさとの胸を重苦しく塞いでいる。
 
    あ。その時、ようやくあさとは、サランナの存在に思い至った。
 慌てて周辺を見まわした。妹の姿は、何処にもなかった。
 
 
 14
 
 
 
    サランナ……。その夜、全ての騒ぎが収まった後。
 懐かしい青百合オルドに戻ることが許されたあさとは、一人で夕食をとった後、カナリーオルドに戻ったはずの、妹を訪ねることにした。
 ずっと敵対関係にあった妹のオルドに足を踏み入れるなど、即位前は考えられないことだった。が、今となっては、互いにけん制しあう必要はないはずだ。
 とにかく、誤解を解きたかった。
 アシュラルの企みを、自分が事前に知っていなかったことだけでも伝えたい。せっかく、何年ぶりかに心を通わせることができた妹なのだ
    。が、あさとの行動は、自分が思うよりも厳しく制限されていた。
 フラウオルド内に、かつての侍女や騎士たちは数えるほどしかおらず、その殆どが見慣れぬ顔ぶれに一新されている。彼らはあさとの申し出に、一様にこう答えるだけだった。
 「法王様の、ご許可がいります」
 オルド内は、あさとの居住区を含め、至る所に黒地に白十字
    アシュラルの法王軍が闊歩している。どうやら今後は、何処へ行くにも、法王の許可と彼らの同行が必要なようだった。
    これって……。かすかな憤慨を感じつつ、あさとは、その「許可」が下りるのを待ち続けた。
 まるで、金波宮全体が、法王庁の支配下に置かれてしまったかのようだ。いや、ようだ
    ではなく、実際そうなってしまったのだろう。パシク・バートルがすでに法王庁の指揮下に置かれていると察したあさとは、なんとも言えない思いでそう理解するしかなかった。それも、また、あさと自身が選んでしまった道の顛末なのだ。
 あの時、あさとは、迷うことなくアシュラルの手を問ってしまったのだから。
 アシュラルもジュールも、自らが引き起こした「政変」の事後処理に忙しいのか、何処へ行ったかさえ判らない。随分な時間を自室で待たされ、ようやく夜更けすぎになって、あさとの申し出は認可された。
 「……私、何処へ行くにも法王様の許可を得なければならないの」
 先を行く法王軍の騎士たちに、あさとは皮肉混じりの声をかけた。
 「アシュラル様に、決して陛下をお一人にするなと、固く命じられております」
 「まだ、城内にヴェルツ一派の残党がひそんでいるやもしれませんから」
 事務的な返事が、判でついたように返される。
 
    このオルドの主は誰なの……?口まで出かかった皮肉を、あさとはかろうじて飲み込んだ。
 すでに近衛隊は、バートル隊をのぞき崩壊したも同然だった。全てが法王軍
    いや、アシュラルによって統制されている。馬車を降り、カナリーオルドへ続く渡り廊下を抜けると、サランナの侍従が恭しく出迎えに現れた。
 彼は主人に客人を通していいのか伺いに戻り、そしてすぐに現れた。
 「こちらへ……」
 気のせいか、初老の侍従はどこか戸惑った顔をしている。自分の来訪が珍しいせいだろうか…? あさとはけげんに思いながらも、法王軍の騎士二人を従え、侍従の後についてサランナの居室の扉をくぐった。
 「あ……」
 一瞬驚いて、足がすくんでしまっていた。
 室内で
    背中を向けたサランナは、立ったまま男の腕に抱かれていた。白いドレスで覆われた背に、浅黒い腕が回されている。
 長身の腰をかがめるようにして、妹にくちづけている整った怜悧な横顔、その額に零れる黒髪。
 
    アシュラル?彼の目が、ちら、とこちらを見たような気がした。
 長く、そして情熱的なくちづけ。まるで、互いを強く求め合うように。何もかも
    相手の全てを奪い尽くすように。眩暈がして、あさとは顔を背けることも出来なかった。付き添いの侍従と法王軍の騎士二人は、さすがに顔をそむけている。
 「……お姉様」
 ようやく唇が離れ、振り返ったサランナの頬は、幸福の余韻で紅潮していた。
 アシュラルは乱れた髪をかきあげ、横を向く。
 「来てくださったのね。嬉しいわ」
 サランナは微笑して、傍らの男の腕に頬を預けた。
 
    ……心配する必要など、最初からなかったのだ。あさとはようやく、自分の馬鹿馬鹿しい杞憂を知った。
 アシュラルの横顔はあさとを見ようともしていない。彼はサランナの手をおしやり、素っ気無い口調で言った。
 「悪いが忙しい、もう俺は行くぞ、サランナ」
 「ええ、また……お待ちしているわ」
 甘えた声でそう言い、妹はそっと唇を上向ける。アシュラルは寄せられた口元に軽いキスを返し、すっと彼女の傍を離れた。
 
    この人、ほんっとに最低だ。あさとは、胸が悪くなるほどむかむかしている自分に気がついた。
 
    絶対に琥珀じゃない、琥珀の皮を被った悪魔だ。怒りに任せて見上げた視線が空で絡まる。逸らされると思ったが、アシュラルは逸らさなかった。平然としている。
 先に逸らしてしまったのはあさとの方だった。
 「余り、勝手に出歩くな」
 彼が言ったのはその一言だけだった。かっとして、口から零れかけた嫌味や皮肉や反論は
    サランナの存在を意識することで、かろうじて押し留めた。靴音が遠くなり、背後で扉が音を立てて閉まる。
 「……そんなお顔、なさらないでね」
 改めてあさとに向き直ったサランナは、にっこりと優しげな微笑を浮かべた。
 どんな顔をしているというのだろうか。あさとは怒りとも羞恥ともつかない感情で、思わず眼を伏せている。
 「きっと私のことをご心配くださっているのね、お優しいお姉さま。でも…そんな必要、全然ないから」
 優しい、穏やかな口調、なのにどこか棘を感じてしまうのは
    意識しすぎているせいなのだろうか。サランナはゆっくりと傍らの長椅子に腰を下ろした。その椅子に、薄紫の上衣が無造作に投げられている。
 妹はその衣装を愛しげに手にとり、そして柔らかく唇を寄せた。それはまるで
    情事の名残を惜しんでいるように見えた。「お姉さまとアシュラルの結婚のこと……私、ちゃんと承知していたから……だから、いいのよ」
 夢見るような口調でそう言い、顔を上げて嫣然と微笑む。
 その微笑が恐ろしかった。意味が分からず、あさとは呆然と妹を見詰めた。
 
    こちらでも、不倫というのは、一応まずいことなのではないだろうか。平然としているサランナもアシュラルも、あさとには理解できない。
 「言ったでしょう? 私、愛人でも構わないって」
 あさとの表情を窺いながら、サランナはくすり、と笑う。
 「アシュラルが、結婚した方が都合がいいと判断したんですもの、仕方がないわ。もともと、お姉様は彼の子供を産まなければならないのだし」
 そう続けて、肩にかかる髪を優雅に払う。
 「……どういう、こと?」
 妹の言った言葉の意味が、あさとにはわからなかった。サランナはけげんそうに、が、どこかわざとらしく眉を寄せた。
 「まだ、お聞きになっておられないの? お姉様はね、どうでもアシュラルの子供を産まなければならなくて、結婚は、そのためだけのものなのだって」
 
    え?なんの……話なのだろう。
 「だからダンロビンと結婚したところで、いずれアシュラルは、ダンロビンとお姉さまを離婚させていたはずよ。少なくともお姉さまがヴェルツ家の後継者を妊娠する前までには」
 胸の中に、冷たいものが満ちていく。自分の知らないところで
    何か忌まわしい謀が動いている。あさとは微動だできないまま、ただ妹の目を見つめ続けていた。「……ジュールに、聞いたとばかり思っていたけれど」
 妹の大きな瞳に、憐れむような色がありありと浮き上がる。憐れみと
    そしてあからさまな優越感が。「何も知らないなら教えて差し上げるわ。法王庁にはね、この世の終焉を予言した極秘の文書が収められているの。ずっと長い間、封印されていたその予言書には、忌獣の出現も、月が満ち欠けを止めてしまうことも、全て記されているそうよ」
 
    終末の書。あさとが思わず口に出して呟くと、サランナはゆっくりとうなずいた。
 「予言書によると、いずれ、この世界は滅び、全ては分解して闇になってしまうのだそうよ。そしてそれを救うことができるのが、クインティリスの獅子に生を受けた男子、ユリウスの蛟に生を受けた乙女……この二人が産んだ子供なんですって」
 
    ユリウスの乙女……。あさとは眉をひそめていた。何度か自分を指して、そう呼ばれたことがある。でも、意味が
    意味がまるでわからない。「クインティリスとは」
 サランナは続けた。その目に、不思議な光が煌いていた。
 「……ご存知よね。シーニュを護った四神の一人、コンスタンティノ家の祖にあたると言われている、獅子の称号を持つ闘神よ。彼の神が誕生したのが、旧暦の暦で、七月の二十五日。今でいえば、八月の十九日にあたるわ。その日に生まれた子供が、クインティリスの子として祝福されるのはご存知でしょう?」
 そう言って、ようやくサランナは一息ついて、あさとを見上げた。
 「それがアシュラルよ。地の年は、年号で言う所の地迎の年、二十五代目の女皇の在位期間にあたるから十二年ね。十二年の間、クインティリス生誕の日に産声をあげたのは、むろん彼だけではないのだけど、彼には、その証があったそうなの」
 「……証?」
 「予言の子であるという証よ。私にはそれ以上判らないわ」
 「………」
 あさとは、動揺しながら言葉を探す。それで、私がユリウスの乙女と呼ばれていたのは
    。「天の年は、言うまでもないわね。死んだお母様が即位した年号……天迎の年、お姉様が生まれた年よ」
 それは同時に、クシュリナの生母が死んだ年にもあたる。
 「ユリウスもまたシーニュを護った四神の一人。蛟の称号を持つ愛の女神よ。もう説明は不要でしょう? ユリウスが生まれたという旧暦日に、お姉様はご誕生されたのよ」
 サランナは、まっすぐにあさとを見つめた。
 「天迎の年号はお母様に引き継がれたから、……十七年、もちろん、その間に生まれたのもお姉様だけではないでしょうね。ただ、その運命の子が皇室に生まれることは、もう随分前から決められていたそうなの」
 「……随分、前から?」
 「お姉様が生まれる前から……お父様は最初から、ご自分の子が予言の乙女だとご存知でいらしたのよ。そして、もちろんお姉様にも、証があったという話だわ」
 「証? 証ってなんなの?」
 サランナは、肩をすくめて首を横に振った。
 「お父様とコンスタンティノ様だけがご存知の話よ。……予言の解釈は色々あって、私もはっきり知らされていないわ」
 強い眩暈を感じて、あさとはテーブルに手をついた。
 「お分かりになったでしょう? 忌獣の出現、リュウビの時に来る青の月の干渉、今、この世界が滅びの危機に瀕しているのは、さすがのお姉様でもご存知よね? お姉さまとアシュラルの間に出来た子供
    それが、シュミラクールを来るべき終焉から救う   救世主なのよ」そんな、それでは。
 それでは、私とあの男は。
 「だからコンスタンティノ大僧正はアシュラルという存在を探し出して、自らのご養子に取り立てられたの。いずれ、皇室に誕生するはずの
    ユリウスの乙女と結婚させるためだけにね」それは、もう……、結婚、というよりは……。
 サランナは言葉を切り、少し気の毒そうな笑みを浮かべた。
 「子供を、産む為だけに……と言った方がいいかもしれないけれど」
 あさとの脳裏に、あの嵐の夜、アシュラルが発した言葉、耐え難い行為が闇に瞬く稲妻のように鮮明に蘇った。
 だから
    あの夜、彼は。「わかったでしょう? だから、私は何も気にしてはいないの。ダーラが死んだ夜だってそう。私、お姉さまとアシュラルがなさっていること……ちゃんと知っていたし、聞いてもいたわ」
 吐き気がした。口を押さえた指ががくがくと震えた。
 あれは
    子供を作るための、ただ、そのためだけの行為だったのだ。「これからも、きっとアシュラルは何度でもお姉様を抱くわ。お姉様に子供ができるまではね。でも、お姉様の役割はそこまでだから」
 「………」
 
    この妹は。「それがすめば、私が彼の妻になるの。結婚なんて無意味な形式は必要ないわ。私と彼は愛し合っているんから」
 上目遣いに見上げる眼はいつものように潤んでいて、慈愛と慈しみに満ちているように
    見えはする。けれど、もうあさとには判らなかった。この妹の心の奥底にあるものが。「お姉様の子供は、私が引きうけて育てるから安心なさって。お姉様は
    後はご自由に生きられたらいいのよ」この妹は、私を、慰めようとしているのだろうか、それとも追い詰めようとしているのだろうか。
 「これからイヌルダは大変な時代を迎えるわ。アシュラルがやろうとしていることを、私は助けていくつもりよ」
 サランナはゆったりと立ち上がった。
 「シュミラクール始まって以来の激動の時代になるわ。お姉様にイヌルダの皇室を取りしきるのは無理よ。だって、何もご存知ないんですもの。お姉様は、何も考えずに、殿方に守られて穏やかな人生をお過ごしになるのが似合ってらっしゃるわ」
 立ちすくむあさとを、サランナはそっと振り仰いだ。
 「……そんなお顔をなさらないで、お姉様。私たち、これからも仲の良い姉妹でいましょうね」
 花がほころぶ様に笑む優しい笑顔。
 あさとはそれを
    、もう、天使のようだとは思えなくなっていた。
 
 
 
 
 
 
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