「お前も成長したな、ダンロビン」
 アシュラルは蜀台を傍らに置いて腕を腰に当てると、少し楽しげに苦笑した。
「あの時は、彼女の肩を抱くだけで精一杯だった。今は……なるほど、あと一歩だったというわけか」
     この男……。
 助かった、と思ったのもつかの間で、あさとは別の意味で、腹立たしいものを感じていた。
     今の状況、本当にわかってるんだろうか、この男は。
「これはこれは」
 しかしダンロビンも負けてはいなかった。ゆっくりと身体を起こすと、長身のアシュラルを見上げるように対峙した。
「間男の登場ですか。あの時も、確か私の母上と密会の最中でしたな。それがもとで国外追放の憂き目に遭われた、間抜けな御仁だ」
 アシュラルもまた、薄く笑む。
「全く、お前の母上はいい味をしておられた」
「……っ」
 ダンロビンの生白い顔に血が上るのが、くらがりの中でもはっきりと判った。
「身体だけでなく頭もいい女だった。上手に俺に近づいて、見事な手管で誘惑した」
 楽しそうにアシュラルは続ける。
     なんなの、この人……。
 あさとは、むしょうに不愉快な気持ちになっていた。
 一体この男は、何をしにここまで来たのだろう。
 少なくとも、自分を助けるとか、そういう意味で駆けつけたわけではないような気がする。
「出て行け、アシュラル!」
 うなるような声で、ダンロビンは威嚇した。そして、まだ床にしゃがみ込んでいたあさとの肩を掴み、抱き起こした。
 嫌悪感で身がすくむ。反射的にあさとは逃げようとした。
「いや……っ」
「私に逆らうのか!」
 吼えるような声だった。
「アシュラルは解毒の方法を知らないぞ、お前の父親がどうなってもいいというのか」
「………」
 何も言えない。
 ダンロビンに腕を掴まれたまま、あさとは迷うような眼でかつての婚約者を見上げる。
「好きにしたらどうだ」
 が、信じがたい言葉を、アシュラルは眉ひとつ動かさずに口にした。
「俺は別にその女を助けにきたわけじゃない。が、言っておくが……今夜いくら張り切ったところで、その女はお前の子など孕みはしないぞ」
「な、なんだと?」
 ダンロビンの目が怒りに燃える。
 アシュラルは肩をすくめ、冷たく笑った。
「女には不思議な周期があってな。こんど、母上様にでも聞くがいい。この女と俺は九年越しのつきあいだからな。身体のことなら、お前よりよく、知っているのさ」
 半ば本気で、あさとは、アシュラルを殴りたいと思っていた。
 が、振り仰いだ顔を見た時、はっと息を飲んでいる。
 数年前と同じ、無表情で見下ろされる冷たい眼差し。けれどあさとは、その時初めて気がついていた    アシュラルが、背に回した右手に帯刀していることに。
 暗闇の中、鈍色の微光がかすかに揺らめく。軽口を叩くその裏で、彼がひどく緊張していることに、あさとはようやく気がついていた。
 そうだ、ここはダンロビンのテリトリーで。
 アシュラルは、ダンロビンにとっては宿敵にも等しい相手なのだ。
 何を考えているのか、アシュラルは動かない。帯刀した片手を背にまわしたまま、じっと視線を凝固させている。
「ああ、好きにするさ。だからお前は出て行ってくれ」
 ダンロビンは、荒い息を吐きつつも、ようやく理性を取り戻したようだった。
「間男め、それともそこで、私たちの愛の営みでも見て行くか」
 ダンロビンはあさとを引き寄せると、勝ち誇ったように言い放った。
「お前が何と言おうが、私たちは夫婦になるのだからな。そうだな、クシュリナ」
「………」
 否定も肯定もできない。 
 それが    現実なのだ。
 あさとは迷い、そして力なくうなだれた。今、防げても、いずれはこの男を受け入れなければならないのだ。
 ダンロビンは満足そうに鼻を鳴らした。
「どうやら恥ずかしくて返事もできないらしい。邪魔するな、アシュラル。お前の即位式までには戻してやる。このオルドの者はみな俺の味方だ。ぐすぐすしていると私の兵たちがここへなだれ込んでくるぞ    命が惜しければとっとと出て行け!」
 アシュラルは、最初と同じように呆れたように嘆息した。
 そして言った。場違いに静かな声で。
「クシュリナ、来い」
     え……?
 あさとに向かって差し伸べられた手。その指先に薄く巻かれた包帯が、闇に白く映えている。
「もう茶番は終わりだ。お前は十分時間を稼いでくれた」
「な、何を言ってるんだ、貴様」
 ダンロビンがわめいた。それを全く無視したまま、強く底光りする瞳が、まっすぐにあさとを見つめている。
「お前なら、一人でここまで来られるはずだ」
 のみこまれそうな強い光。闇に指す光明のように    力強く、気高く。
「お前が決めろ。俺の手か、こいつの手か」
 私が……決める。
 自分の中で何かが解けたような気がした。
 あさとの右手は、自然に一度離れた短剣の束を掴んでいた。どうしてそうしたのか、自分でもよく判らない。
 鞘が外れ、解き放たれた白い刃に、おののいたようにダンロビンが身を引いた。その刹那、ようやくあさとは自由になっている。
「クシュリナ、ハシェミがどうなってもいいのか!」
 ダンロビンの雄叫びがした。
「お前は父親を見捨てるのか、言っておくがそいつは悪魔だ、いずれ必ず、イヌルダを滅ぼす男だぞ!」
 それもまた、不思議な真実を言い当てているような気がした。
 お前が決めろ   
 アシュラルの目が、そう言っている。
 父への情を取るか、ここにいる男の運命を取るか。
 あさとは、歩き出していた。
 ただ、アシュラルの眼から視線を逸らすことができなかった。どうしてもできなかった。
 あさとの手が、アシュラルの指先に触れた。冷たくて   
 彼の指が、あさとの手を強く握った。    暖かい。
「行くぞ」
 アシュラルはきびすを返した。
 手を引かれ、あさとも彼の後に続いた。
 
     
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「アシュラル様」
 暗い地下道の向こうから、慌しい足音と共にジュールの声が響いてきた。
「ジュール、遅い、甲州公は奥の部屋だ」
 即座にアシュラルの厳しい声がそれに答える。
「申し訳ございません」
 暗がりの中から姿を現したのは、ジュールと、そして何名かのバートル騎士たちだった。彼らの武装した姿を見て、あさとは一瞬息を引いた。各々帯刀し、防具まで身につけている。
「中にはダンロビン様がお一人だ……おそらくな」
 その言葉で、あさとは、アシュラルが室内にいたであろう警護か見張りの騎士を、ひそかに屠ったのだと理解した。
 蝋燭明かりが届く距離まで近づいて来たジュールは、いつにない焦燥をその目にあらわにしている。
「お急ぎを、ヴェルツ公爵が法王に即位式の中止を申し出ておられます」
 早口で彼は主人に囁いた。
 アシュラルは小さく舌打ちをする。そして「行くぞ」強くあさとの手を引いた。
「え、うん」
 まだ事態がよく飲み込めない。けれどあさとはそのまま、アシュラルに手を引かれるままに彼の後について走り出した。父のことは大丈夫だ    こうして助けが来たのだから、そのことだけは安堵していいはずだ。
 が、解毒云々の話がダンロビンの言う通りなら、自分はあの時    いや、今も、父ではなく、この男を選んだことになる。
 聖将院コンスタンティノ・アシュラル。
 すれ違いざまに、ジュールの強い視線を感じる。
 けれど足を止めることも視線を向ける余裕さえも、手を引いている男は与えてはくれなかった。
     私……何やってるんだろ。
 アシュラルが次々と扉を開けていく。闇から光へ、さらに次の光へ、薄紙を剥がすように視界が鮮明になっていく。
 カーディナルオルドまで戻って、あさとはさらに驚愕した。オルド内にはバートル隊と法王軍が溢れていた。それらに取り押さえられる女官、そして逃げまどう侍従の姿も見える。
「アシュラル……」
 問ってみても、先を行く背中は何も答えない。
 居住区を抜ける。階段を降りて、広いギャラリーを駆け抜ける。時折すれ違う女官や客人たちが、皆驚愕の眼差しで振り返っていく。
 それはそうだ。
 あさとは恥ずかしさで視線を下げた。つい先刻、即位したばかりの女皇が、こんなに髪を乱して、ドレスの胸も袖も破れたままで   
 奇異な外見だけでも、嫌が応でも注目が集まる。それに加えて。
 あさとは先を行く男の、すらりとした背を見つめた。
     手を、繋いでいる。
 この男と手を繋いで、駆けている。
 若さに溢れ、そして誰よりも凛々しくて美しい、シュミラクールの次期法王と。
 かつて社交界で誰よりも愛され、賞賛と妬みの的だった男と。
 あさとは、不思議な気持ちで男の横顔を見つめていた。
     どうして、私、この人の手を取ってしまったんだろう。
 あの刹那の、まるで夢の中にいるような感情が、今でもよくわからない。
 自分が、自分でないような    心の底から何かが解き放たれて、突き上げられるような    ひどく不思議で、不確かな衝動。
 カーディナルオルドと金波宮本殿は、通路によって繋がっている。即位式が行われる大広間は目の前だった。アシュラルは足をとめた。わずかに乱れた呼吸を整えている。
 あさとは初めて、彼の袖口と襟に、血痕が飛び散っていることに気がついた。何も聞かなくても理解できた。地下の部屋で、ダンロビンの手の者たちと争った痕だろう。
「悪いが、着替えなどしている暇はなさそうだ」
 鋭い視線を転じたアシュラルが低く呟く。大広間の扉、それが今正に大きく軋み、内側から開かれようとしているところだった。
 
 
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 ゆっくりと扉が開く。
 出てきたのはヴェルツ公爵と、そして並び立つコンスタンティノ大僧正の痩身だった。
 野生の鷹を思わせるヴェルツの眼、それに反して雅人のような優しげなコンスタンティノ大僧正の碧眼。    対照的な二人の視線が、あさととアシュラルに注がれたまま動かなくなる。
 あさともまた、声が出てこなかった。
 奥州公ヴェルツとコンスタンティノ大僧正。社交界では顔を見合すこともないと言われているほどの、犬猿の仲の二人である。
「どういうことでしょう。ヴェルツ公爵」
 表情を変えず、静かに口を開いたのは、すでに冠を外した前法王だった。
「女皇はお倒れになったとお聞きしましたが、随分と血色のよさそうなお顔をしておられるようだ」
 さらりとした口調には冷ややかな棘がある。
 ヴェルツは眉間に皺を刻んだまま唇だけを動かしている。必死で言葉を繋ごうとしているのが傍目にも判る。
 コンスタンティノ大僧正は、その視線をゆっくりとアシュラルの方へと向けた。
「なんというあさましい格好だ、……アシュラル」
 息子に投げかけられた第一声。その言葉には、嫌悪がありありと滲んでいた。あさとはさすがに驚いていた。養親養子の間柄である二人が、こうして対峙する姿を見たのは、そう言えばこれが初めてになる。
「親父どの、あなたの『ご自慢の息子』の風評を汚すようで気が引けるが、    悪いが今から即位式でね」
 アシュラルも感情のこもらない声でそう答えると、あさとの手を引いたまま、さっさと養親の前を通り過ぎようとする。
「アシュラル、一言言っておく」
 背後から、コンスタンティノ大僧正の声が呼び止める。振り返ったのはあさとだけで、名を呼ばれた男は足を止めただけだった。
「……私はお前のしようとしていることまで認めたわけではない。ディアスの依頼だから引き受けただけだ」
 アシュラルの横顔が薄く笑んだ。
「その件に関してだけは、親父どのに感謝していると言っておこう」
「感謝などいらぬ、せいぜいディアスに礼を言っておけ」
 大僧正の口調は息子以上に冷淡だった。
 ディアスとは    先日カタリナ修道院で引き合わされた「ヴェルレイユ・ディアス」という男のことなのだろう。あさとが理解できたのはそれだけだった。
 アシュラルに負けぬほど長身のコンスタンティノ大僧正。頭上で交わされる会話は、固有名詞以外は全く意味が判らない。
 大僧正は冷たい眼を微動だにしないまま、続けた。
「お前を獅子と見込んだ過ちは私の終生の禍根になるだろう    アシュラル……厭わしきわが息子。わずか数時間の運命の皮肉と言うべきか」
     シシ……獅子…?
 あさとは眉をひそめている。
 アシュラルは答えない。振り返りもしない。
 彼の養父は最後に吐き捨てるように言った。
「騎士の旅と偽って、私の軍と近衛軍を底辺から掌握したか。賢くて卑怯、そして……恐ろしい男だ、お前は」
 寡黙すぎる聖職者が、初めて顕にみせた激しい感情の一端。あさとは戸惑いながら、再度アシュラルの背中を伺い見る。わずかに垣間見えるその横顔からは、なんの表情も透けて見えない。そして養父に罵倒された息子はようやく唇を開いた。
「残念ながら、親父どのの時代は終わったとしか俺には言えない    何もできない楽天家の平和主義者は、さっさと隠居でもなさればいい」
 投げられた言葉は辛らつだったが、コンスタンティノは眉ひとすじ動かさなかった。
「私はお前を認めない……。しかし、時代がお前のような破壊者を必要としているなら    それもよかろう」
 シュミラクールで一番冷静な男はそれだけ言い、そして紫の法衣を翻してきれいに伸びた背中を向けた。
「私はもう退位した。この式典には不要の存在。先に失礼させていただきます、ヴェルツ公爵閣下」
「そ、それでは話が   
 ヴェルツが慌てて口走り、驚愕の態で後を追おうとしている。
「行くぞ、クシュリナ」
 その二人を冷ややかにやり過ごし、アシュラルは、今度は何の躊躇もなく広間の扉を押し開けた。
     眩しい……。
 あさとは眼をすがめていた。
 まばゆい光が、視界を遮る。
 場内に残っていた者たち全ての視線が    一斉に注がれているのがわかる。驚愕の目、あるいは嫌悪の目、あるいは驚嘆の目が、食い入る様にあさととアシュラルを見つめている。
 中央の壇上に、誓約書と法王の冠が鎮座していた。
 アシュラルはあさとの手を引いたまま、赤檀の絨毯を歩き、そして壇上に上がって、足を止めた。
 場内に、動揺とざわめきがさざ波のように広がっている。
 泥で汚れ、落ちた髪と破れた衣服を着た    新女皇。
 片手に抜き身の剣を持ち、返り血を浴びた    新法王。
「アシュラル様、とにかく    しばしお待ちくだされ」
 慌てた口調で異を唱えたのは、ようやく体裁を繕って駆け戻ってきたのか、やはりヴェルツ公爵だった。
「そのような……ひどい衣装で式典も何もありますまい。あなたは女皇に恥をかかせるおつもりか!」
 アシュラルは、その声を完全に黙殺した。
 手を繋いだまま、彼はゆっくりとあさとを見下ろす。
「クシュリナ、お前の初仕事だ」
 漆黒の眼は、心なしかいつもより穏やかに見えた。
 あさとは無言でアシュラルを見上げた。不思議と、反発する気持も逆らう気持も生まれてはこなかった。
 血を浴びた手を、汚らわしいと思うことも。
「俺に、戴冠を」
 彼はそう言い、ようやくあさとの手を離した。
 そしてまるで    そうすることが運命であるかのように。
 あさとは壇上に上がり、誓約書に自分の名前を書き込んだ。
 書き終えて顔を上げる。アシュラルが、目の前で膝を折り、床に軽く片手をついて頭を垂れた。
 艶めいた綺麗な髪が、額に一房零れている。
     この人の頭……初めて見る。
 見上げてもまた足りないほど長身の彼が、自分に頭を下げることなど、今まで決してなかったから。 
 まるで夢の中にいるような    名状しがたい不思議な気持ちのまま、あさとは彼の頭上に銀の冠を載せた。ついさきほどまでコンスタンティノ大僧正の頭上を飾っていた、その冠を。
「ここに、法王、聖将院コンスタンティノ・アシュラルの誕生を祝福します」
 あさとは宣下し、その瞬間誕生した新法王の顔を見下ろした。
 顔を上げたアシュラルもまた、正面から真直ぐ、宣を下した女皇の顔を見つめている。
 黒い瞳に、燐光にも似た輝きが深く潜んでいる。
     どうしよう。
 次に自分がなすべきことを思い出し、あさとはかすかな動悸を感じていた。
     なんで、こんなに動揺しているの、私。……
 ゆっくりと手をのばし、アシュラルの頬を手のひらで抱く。作法どおりの段取りで、それ以上の意味はない。あさとは自分に言い聞かせる。
 引き締まった男の肌は滑らかで、指先さえ弾かれるかと思うほど張り詰めていた。
「祝福の    キスを」
     こんな、なんでもないキスなのに。なんの意味もないキスなのに。
 アシュラルが眼を閉じる。あさとはそっと、彼の右の頬に唇を寄せる真似をした。
「誰か、アシュラルを捕らえろ!」 
 突然飛びこんだ声が静寂を破ったのは、その時だった。
 
 
 
 
 
 

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