| 
           
          
              
              
                             6 
              
              
             緩やかに、近づいてくる大きな影。 
 あさとはかしづき、頭を下げた。 
 大僧正、コンステンィノ・ルーシュ。法王庁の総領であり、現職法王の位を持つシュミラクール界でたった一人の男。 
             コンスタンティノ家。その血を遡れば、シーニュを護る四神クインティリスに行きつくという。が、アシュラルが彼の本当の息子でないなら、名門の血統はここで途切れてしまうのだろうか。   。 
 膝をつくあさとの前で、最も気高き男は足を止めた。 
             体格の秀でた長身。背の半ばまでうねるように伸びる緑がかった黒髪。澄んだ瞳はくっきりとした碧眼で、若いのか老成しているのか、いつ見ても年齢が読み取れない。紫地に金刺繍のクルスが縫いこまれた法王衣を、肩からすっぽりと被っている。額には銀の王冠。    法王の冠。 
 滅多に法王庁から出ることのないこの男が、公の場所に姿を現すのは何年ぶりかになる。 
             アシュラルの養父     むろん血は繋がっていないのだろうが、その気品、優雅さは血縁よりも濃く、酷似しているように思えた。 
             彼が両手で    うやうやしく支えているのは、女皇の宝冠。 
 創造神の象徴を意味する、青の神石が埋め込まれた神器である。 
「有栖宮クシュリナ内親王、これより、第二十八代イヌルダ女皇に即位されます」 
 静まり返った大広間に、コンスタンティノ・ルーシュの厳なる声が響いた。 
 大広間の中央、深紅の敷布の上にかしづき、あさとはその瞬間を待っていた。 
 背後には諸侯と、法王庁の枢機卿たち、そして皇族が一堂に会している。 
 ヴェルツ公爵夫妻もいる。サランナもいる。ダンロビンの姿も見える。潦州久世家の当主久世ガイルの姿も見える。が、薫州公松園フォード、青州公になったはずの鷹宮ダーシー、二名の顔は見つけることはできなかった。 
 当然、甲州公ハシェミの姿はない。 
             そして    アシュラルの姿もない。 
             アシュラルは、この後に続く法王の即位式に備え、別室で準備をしているのだろう。養父であるコンスタンティノ大僧正から、法王の地位を引き継ぐために。 
 大僧正様は……。 
 あさとは自分に被さる影を感じながら、考えていた。 
                 今日、法王職を退かれることをどうお考えになっているのだろう。そもそも生前交代のことは合意しておられるのだろうか……。 
 ジュールは、コンスタンティノ・ルーシュがそれを得心したのは、あさとを護るためだと言った。だとしたら、私は……この人に、どう詫びても償いきれない罪を負ったのではないだろうか。 
 その時、ふわり、と頭に宝冠が乗せられた。 
 その感触で、あさとははっとして我に返る。 
「第二十八代女皇、即位」 
 コンスタンティノ大僧正が、天に向って一声あげた。 
 その場にいた全員が、作法どおりに頭を下げた。 
 あさとは、後戻りできない運命に自ら足を踏み入れたことを、改めて理解した。 
            "    ねーちゃん、とってもとってもキレイだねぇ" 
 何故か、シリュウの言葉が、雨粒のように胸に落ちた。 
              
              
                           7 
              
              
「お疲れになられたようですな」 
 髪飾りを取っていたあさとは、驚いて顔を上げた。 
 入室してきた男の姿を鏡越しに認め、眉をひそめる。 
 入ってきたのはダンロビンだった。濃い緑の金刺繍の上着、レースをふんだんに使ったボウ、ビロウドのチェニックを身に着けている。奥州公好みの、豪華な衣装だ。 
             あさとは表情を強張らせる。ここは    緋薔薇オルド。元義母の居住区であり、元来女皇しか入室が許されない私室である。しかも法王即位式に向けて、衣装を着替えている最中だった。無作法と言えば、これほど無作法な振る舞いはない。 
             ダンロビンの背後で、支度を手伝ってくれていた女官たちが申し訳なさそうに頭を下げている。元々緋薔薇オルドに仕えていた女官たちは、アデラの死によって全員が解雇され、ここにいるのは、全て    ヴェルツ公爵が入れ替えた新たなカーディナルマーラたちである。 
 あさとは嘆息し、それでも立ち上がって未来の夫を迎え入れた。 
「……ダンロビン様」 
 ノックすらされなかったことを咎めたかったが、茫洋とした色白の顔を見るだけで、ものを言う気力も失っていた。 
「ご機嫌伺いに参りました。お顔の色がお悪いようで」 
 あさとの背後に立つと、抑揚の欠けた声でダンロビンはゆっくりと言った。 
「不便な城で長逗留されていたとお聞きしました……お疲れのようですな」 
 確かに物を言う気力もないほど疲れてはいた。 
             金波宮に到着後は、すぐに沐浴と化粧が待っていた。うんざりするほど沢山の衣装を重ねて着せられ    くどくどと段取りを教え込まれた戴冠式では、極度の緊張を強いられた。 
 このうえ、厭わしい男と何か話そうという気にはなれない。 
 気づけば、ヴェルツ邸と同じく、女官たちは無駄に気を使って退室している。 
                 大丈夫……。 
 あさとは自分に言い聞かせた。表には法王軍がいる。ジュールだって待機しているはずだ。いくら恥知らずのダンロビンでも、国を挙げての式典を前にした今、無粋な振る舞いは出来ないに違いない。 
 曇る表情と嫌悪をこらえ、あさとは丁寧に儀礼どおりの礼をした。 
「お気使いありがとうございます、ダンロビン様。けれど私、午後からの式に備えて、まだ準備がございますので」 
「まぁ、いいではないか」 
 ふいに馴れ馴れしい言い方になる。そして肩に触れる指。あさとは思わす後ずさった。背中がそそけだつようだった。 
             この男との結婚式は今夜だ。今夜    新法王、コンスタンティノ・アシュラルの手によって、婚姻の祝福を受けることになる。数時間後に夫となるその男は、まったりと微笑した。 
「私はお前と祝杯をあげたくて来たんだ。一杯でいいから、つきあってもらいたいね」 
「ありがたいお言葉ですけれど、今は」 
             あさとは冷めた眼で男を見た。即決で断ろうとして    唐突にアシュラルの言葉が胸に広がった。 
(……いいか、少しでも早く、ダンロビンからハシェミ公の居所を聞き出せ) 
 その言葉を意識した途端、自分の表情が変わってしまうのをあさとは感じた。 
「……では、一杯だけ……」 
             苦しい笑みをようやく口の端に貼り付けていた。アシュラルの片棒を担ぐ気は毛頭ない。けれど少なくとも    父の安全を確保できるまでは、ダンロビンの機嫌を損ねたくはない。 
 けれどダンロビンは、いきなり顔を歪めて笑い出した。 
「アシュラルに何か吹き込まれましたか? えらく素直におなりになったものだ」 
 肩をゆすって心底おかしそうに笑う。あさとは怒りと屈辱で唇が震えるのを感じた。 
「魂胆は判っていますよ、行方不明の甲州公のことでしょう」 
「出て行って」 
 これ以上我慢できなかった。けれど目の前に立つ男は動こうとしない。たまらずあさとが背を向けかけた時だった。 
「クシュリナ」 
                 なによ、早くも呼び捨て? 
 きっと、鋭い一瞥をなま白い顔に向ける。その視線をそらそうともせず、ダンロビンはゆっくりと続けた。 
「ハシェミ公に会わせて差し上げようか」 
「………」 
 言葉の意味は即座に理解できていた。あさとは顔をあげ、この男の真意を探ろうとした。 
 ダンロビンは、どこか間伸びした顔でにやにやと笑んでいる。 
「やっぱり、お父様を隠したのはあなたたちなのね」 
 あさとは悔しさから唇を噛んだ。 
「人聞きの悪いことを、仰いますな」 
             男は余裕たっぷりに腕を組む。 
「私たちはハシェミ公を、いや皇室そのものをお救いしたのだ、……まぁ、口で言ってもわからないとは思いますがね」 
「………」 
                 どういうことだろう。 
「クシュリナ、愛しいお前が望むなら、一目ハシェミ公に会わせてやってもいい。なにしろお前は」 
 近寄られ、顎をつかまれる。湿り気を帯びた指。 
 あさとは男を睨みつけた。 
「私の可愛い妻なのだから」 
 寄せられた唇を掌で遮って、あさとはきっぱりと言った。 
「お父様に会わせて、それまで、私には指一本触れないで」  
              
               
                             8 
              
              
「なに……ここ」 
「ご覧の通り、隠し通路というやつですよ」 
 室内の外に出れば、ジュールに合図できるだろうという目論見は見事に外れた。 
 ダンロビンがいざなったのは、居室の奥にあるアデラの寝室である。 
 いつでも逃げられるように、あさとはドレスの裾の下に、件の短剣を忍ばせていた。 
 悔しいが、結局あさとはジュールを頼り、今でも心のどこかで信頼している。だから、ダンロビンのあからさまな罠にも、乗ってみようと決めたのだ。 
 が、今のあさとは、自身の決断を激しく悔いていた。 
             奇妙な扉は、アデラの寝室の壁    分厚いカーテンに覆われたその下に隠されていた。 
 ダンロビンが壁の何処かをいじった途端に、何もなかった壁は音をたてて軋み、彼が軽く押すと、ぼっかりとした空洞を見せた。 
 真っ暗な通路には、照明の類は何一つなく、細い石畳が、階下のほうに続いている。 
「さぁ、中に」 
 ダンロビンは、蜀台を手にしてあさとの背を押しやった。 
 迷う間に、背後で扉は閉ざされ、蝋燭だけが頼りの闇の中、ダンロビンと二人で取り残される。 
「こんなところに、お父様がいるの?」 
 警戒しつつ、あさとは訊いた。 
「妻に嘘を言ってなんとします」ダンロビンは笑った。 
            「今の私は、初恋の人のご機嫌を取るのに夢中なのですよ」 
「……時間までには、戻らなければいけないわ」 
「むろん、判っておりますとも」 
                 まさか……お父様は、ずっと金波宮の中にいたのだろうか。 
 ダンロビンの凹凸のない背中を追いながら、あさとは疑念に囚われはじめていた。 
                 考えたこともなかった。お母様の寝室にこんな抜け道があったなんて……いったい、何のための場所だろう、ここは。 
「アデラ様は用心深いお方でしたゆえ」 
 先を行くダンロビンが、どこか楽しそうな口調で言った。 
「こうして地下に、秘密の居室を設けておられたのです。あの方の楽しみを、他人に決して邪魔されぬように」 
「……どういう意味なの」 
 おぞましい予感がした。できるものなら、一人で来た道を引き返してしまいたかった。 
 すでに、ジュールの助けを期待することが難しいというのは判っている。時間がきて……仮にジュールらが異変を察して女皇の私室に飛び込んだとしても、そこはもぬけの空である。 
             ここで、ダンロビンに無作法な振る舞いをされたとしても見咎める者はいないだろう。声を上げても、誰も    助けに来てくれそうもない。 
             あさとは、短剣をしっかりと握りしめた。 
             こんなに早く、使う時が来ようとは思ってもみなかった。が、もしこれがダンロビンの卑怯な罠で、父の所在を知らされないまま、暴挙に出ようと言うなら、あさとは、決死の覚悟で反撃しようと決めている。 
             ダンロビンが手にしている蜀台の灯りが、二人の影を揺らしながら石畳を照らし出している。 
「さぞかし今、私をお疑いでしょうね」 
 余裕に満ちた、ダンロビンの声が響いた。 
「けれど、ハシェミ公は本当にこの地下にいるのです。わかりませぬか。ここがどれだけ……我々にとって、安全な隠れ場所なのか」 
 確かに、言われるとおりだった。 
 アシュラルたちも、ヴェルツ邸や彼の息のかかった場所なら、存分に探索していたはずだ。 
             もし、ハシェミが金波宮に留め置かれていたとしたなら    確かに上手い発想ではある。 
 ダンロビンの足取りは軽い。足元の悪い通路を、まるで我が城のように躊躇なく進んでいく。 
                 どこまで行くの……? 
 奥へ進めば進むほど、不安はますます膨らんでいく。 
 即位したばかりの女皇がいなくなれば、法王軍が騒ぎ出すのは時間の問題だ。アシュラルの即位式までに戻らなければ大変な騒ぎになる。 
「こちらです」 
 ダンロビンがようやく足を止めて振り返った。蝋燭の灯りの下、色白の顔に赤い唇が艶めいて見える。 
 母親のエレオノラと良く似ている。女性にしたら、きっと色気があると……賞される程度の容姿ではあるのだろう。 
 けれど、今のあさとには、ただ厭わしいだけの顔だった。 
             突き当たりの扉を、ダンロビンは指差していた。 
                 こんな……ところに? 
「さぁ、ご自分の目で、存分に確かめられるといい」 
 蜀台が手渡され、あさとはゆっくりとそれをかざす。 
 銀製の重たい扉に、光と闇が揺れている。 
 取っ手を押した。重い、けれど鍵はかかっていない。それも予想外だった。 
 扉はきしんだ音をたてながらゆっくりと開いた。薄ぐらい部屋。通常使う寝室の半分程度の広さしかない。中央には天蓋つきの緋色の寝台。厚い帳の中で、淡い蝋燭の焔が揺れている。 
            「    …お父様……?」 
 差し込む明かりは全くない。ただ寝台の横にある蝋燭の灯りだけが、かろうじて部屋の輪郭を浮き立たせている。 
             あさとは、背後のダンロビンの位置を確認してから、寝台に近づいた。 
 天蓋の覆いの向こうから、微かに人が咳き込む気配がする。 
 それだけで、あさとには判った。ダンロビンは嘘を言ったわけではないのだ。 
            「    お父様!」 
 転ぶようにして駆け寄った。更に激しく咳き込む声。たまらなくなって、思いきり帳を払いのけた。 
                 あ……! 
             そこに、    ベッドの上に仰臥しているのは。 
「……あ…」 
 かすかな呻き声をあげ、あさとは、よろめいて足を引いた。 
 落ち窪んだ眼窩。半開きの口。無反応に天を仰ぐ虚ろななまざし。 
 半分白に転じた髪……。 
             が、それは紛れもなく、かつてイヌルダ一の美丈夫と呼ばれた父    甲州公ハシェミの顔だった。 
「……お父様…」 
 あさとは震える手で、一どきに何十年も年をとったような、父の頬を抱いた。 
 焦点すら合わない眼は、娘を見ようともしなかった。ただ乾ききった唇だけがぱくぱくと動く。人ではない、動物じみた形相で。 
            「……お父様、どうして」 
             信じられない、誰よりも優雅で、詩人のように美しかった、あの    父が。 
             あさとはよろめく身体をかろうじて起こした。眩暈がして、天蓋の柱に手をついて支えた。 
「ダンロビン!」 
             呼び捨てになっていたが、それに気づく余裕さえない。 
「これはどういうことなの、どうしてこんなことになってしまったの!」 
「ハシェミ公は、蛇薬を愛用しておられたのですよ」 
 薄い笑いを浮かべ、ダンロビンは手にゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。 
 蝋燭が翳り、部屋の光度が、さらに落ちる。 
「馬鹿なことを言わないで!」 
「馬鹿なこと? ここまで禁断症状が顕著にでていて?」 
 あさとは、わなわなと唇を震わせた。 
「まさか……あなたたちは……」 
 お父様に……無理に、蛇薬を……。 
「だから我々は、誰にも見つからないよう、ハシェミ公をお隠ししていたのですよ。あなたのお部屋で見つかった件の薬、あれは……そう、ハシェミ公の持ち物だったのでしょうな」 
 全てが悪夢のようだった。あさとはただ、唇を震わせながら立ち続けている。 
「おかわいそうに」 
 心底憐れむように、ダンロビンは、すでに人としての尊厳を失った人を見下ろした。 
「薬が切れると、ひどい禁断症状に陥る。だから、常に薬を与えておかなければならない。でないと……」 
 にっと笑った顔をあげる。ぞっとするような胸騒ぎを感じ、あさとは、咄嗟に後ずさる。 
「ハシェミ公は、死ぬ」 
「近寄らないで」 
 すでにダンロビンの瞳には、嗜虐的な色が浮かんでいる。あさとは後ずさりながら蜀台を投げ捨て、素早く腰の短剣を握りしめた。 
             束の下の仕掛け    最後の望みがある時に使うのなら、まだ、まだその時には早すぎる。 
 ダンロビンはゆるやかに距離を詰めてくる。口元には相変わらずの笑みが張りついている。 
「無駄ですよ。この部屋はコシラに見張らせている。もう、あなたに逃げ場はありません」 
「言いなさい、お父様に何をしたの!」 
 怒りで舌がもつれている。唇に笑いを貼り付けた男は、わざとらしく肩をすくめた。 
            「何もしない。ハシェミ公は重篤の蛇薬中毒だ。その意味がお分かりか? 皇室に蛇薬が蔓延っているとなると    これは大変なことになる」 
「………」 
            「だから我々は、ハシェミ公をこうして、金波宮奥深くに匿ってさしあげたのだ。決して我らが軟禁しているわけではない」 
「………」 
「なれど………このまま放っておけば、ハシェミ公は確実に死ぬ」 
 あざ笑うような声だった。 
「ハシェミ公を生かすも殺すも、私しだいなんだ、クシュリナ」 
 その言葉で、あさとの足は凍りついたように動かなくなった。 
 ダンロビンの影が更に近くなる。もう後ずさることも出来なかった。 
            「そうだ……意味はわかったな。お前が逆らえば、ハシェミ公は死ぬぞ。症状を緩和する薬は、私しか持っていないのだから」 
 間近に迫るひそやかな足音。柔らかく掴まれる腕。 
             動けない。昔からそうだった。父のことになると、私は    。 
 あさとの手が、短剣から離れた。 
「いい子だ、……やっと、私のものになってくれた……」 
 顎を掴まれ、唇に、冷たくて柔らかなものが押し当てられる。 
 あさとは無反応のまま、その、おぞましいくちづけを受けた。 
                 これが、運命……? 
 こんな嫌悪の感情も全て、私は受け入れなければならないの? 
            「ああ……どれだけ、この日を夢にみたか!」 
             感きわまった声がした。煩いくらいの    荒い息遣い。そしてふいに、あさとはダンロビンに抱きすくめられた。 
「……?」 
 抗う間もなく床に押し倒される。 
 そこは、ハシェミが横たわる寝台の下で、柔らかな絨毯が敷かれている。 
            「    何するの」 
「夫婦のすることは決っているだろう?」 
「いやよっ……冗談はやめて!」 
             激しく腕を振り解いて抵抗した。その手はあっけなく捕らえられて組み伏せられる。懸命にあさとは抗った。    死んでも嫌だ、こんな所で、    お父様のいる前で。 
「逆らうつもりか? どうなるか判っているのか?」 
 が、今の状況に、ダンロビンはむしろ嗜虐的な興奮を得ているようだった。 
 胸元を開こうとする腕を、あさとはかろうじて掴んで止めた。 
「どうせ今夜には、私はあなたの妻になるのよ」 
 必死だった。 
 けれど、抵抗はあえなく抑え込まれる。すでに理性を失った腕が、ドレスの胸元を乱暴に引き裂く。はじめてあさとは、身がすくむような恐怖を感じた。 
「いやっ」 
             なおも抗って逃げようとしたため、掴まれた袖が破れ、結い上げた髪が乱れて解ける。 
 迫る唇を首を振って避け、あさとは叫んだ。 
「法王の戴冠式まで時間がないわ、お願いだから行かせて!」 
「行く必要はないんだ、クシュリナ」 
                 え? 
 見下ろす男の厚い唇に、憎々しげな笑みが浮かんだ。 
「あのいまいましいアシュラルが法王になるだって? 冗談ではない、私も父も、最初からそんなつもりは毛頭なかった」 
                 どういう意味? 
「わからないか? 法王になるには、女皇のサインが絶対に必要だ。新女皇クシュリナの宣下がな」 
 あさとは抵抗をやめ、自分を見下ろす男を見つめた。 
             もしかしたらそうかもしれない、そのために、ダンロビンは自分を連れ出したのかもしれない。それは道すがら、ふっと思っていたことでもあった。 
「アシュラルも、上手く立ちまわったつもりで詰めが甘い。お前の女皇就任を先に了承せざるを得なかったところがあいつの運のつきだ。お前さえ表に出なければ、いくら枢機卿どもが賛成しようと、アシュラルが法王につくことは絶対にない」 
「……私は」 
            「お前にはしばらくこの地下で暮らしてもらう。女皇はご病気で臥せっておられると    みなにはそう言っておこう」 
「ふざけないで、私は」 
             あなたの、言いなりになんか    あさとは言いかけて、口をつぐんだ。 
 ダンロビンが薄く笑む気配がした。 
「お前は、ハシェミがいる限り、私には逆らえない」 
「………」 
「形成は逆転だな。アシュラル一派はすぐに全員捕縛して処刑してやる」 
                 これが……運命? 
 あさとは忘我したまま空を見つめた。目の前の男の存在を頭から消し去りたかった。 
「私の子を産め、何人でも、絶えることなく」 
 耳元で、ダンロビンが荒く息を吐きながら囁いた。 
「アシュラルは、お前と私をいずれ離婚させようとするだろう。が、それは決して叶わない。お前はいつも、私の子を腹に宿しているからだ」 
 乱暴に肩から引き下ろされるドレス。冷たい床がじかに肌を刺す。 
「こんな格好では、もう、広間には戻れないな」 
 興奮気味にコルセットを外す指。 
「ここで、私のものになれ、クシュリナ。お前はもう、この地下から出られない。私の子を確実に妊娠していると判るまでは」 
 夢であれば、一秒でも早く覚めてほしかった。 
 が、全てのおぞましい感覚が、これが夢ではなく、覚めない現実であることを示している。 
                 これが……「クシュリナ」の運命なの……? 
 胸元を開かれた時、閉じることさえ忘れた目から、無感動な涙が流れた。 
 唇が落ちてくる。すでに抵抗する意思は残っていない。それでも、本能が身をすくませた時だった。 
 闇のどこかで、かすかな、呆れたような溜息がした。 
            「    やれやれ、また、この組み合わせか」 
            「    ?」 
 あさとは弾かれたように顔を上げた。 
 闇から、滲むようにして浮き出す人影。 
             信じられない    どうして。 
             紫紺の法王衣、黒いチェニック、金刺繍の上着。目が覚めるほど美しい衣装で    。 
「よほど俺たちは縁があるとみえるな、ダンロビン」 
「貴様……」 
             ダンロビンがうめいた。 
 あさとは何も言えなかった。 
             どうしてアシュラルが、ここにいるの   ? 
              
              
              
              
              
              
       | 
           
        
       
       
       |