「こちらを、お持ちくださいませ」
 走り出した馬車の中、二人になったのを見計らうように、ジュールが懐から、緋色の包みを取り出した。
 開かれた包みの中には、大きなジュールの手に収まるほどの、小さな短剣が収められていた。
 碧の宝玉とパールがちりばめられた、みるからに美しい、高価な代物である。
「飾り用の剣にございます。なれど、束の下に、それと判らぬよう仕掛けが施してあります」
 太い指が、器用に束の下をくるりと回した。ぱちんと音がして鞘部分が割れ、中から、鋭い刃が飛び出した。
「私が、作りました」
 元通りに鞘を被せながら、ジュールは続けた。「これならば、式に携帯することも叶いましょう。法王軍とコシラはすでに一触即発、今日は、何が起こるやしれませんゆえ」
「こんなもので、どうしろと言うの」
 ユーリを殺された。
 その、冷えた……どうにもならない怒りが、自然、あさとの口調を刺々しいものにしている。
 本当は、泣き伏せてしまいたかった。ユーリの名を叫び、憤りを、慟哭を、誰かにぶつけてしまいたかった。
 ぽっかりと穴が開いたような喪失感。
 自分が、今まで、いかにユーリという存在に頼っていたか。口にした誓いが偽りであっても、ユーリがいつか    奇蹟みたいに自分を迎えにきてくれるのが、人生のただひとつの希望であったことを思い知らされずにはいられない。
「身を護れと? こんなものを持たせて、今度は私に、ダンロビン様か法王様への暗殺の咎でも着せるつもり?」
「いざという時に」
 表情を変えずに、ジュールは続けた。「あなた様自身を護る必要があり、なおかつ、それが最後の望みとなる場合にのみ、お使いくださいませ。むろん、迂闊に開いてはなりません」
「………」
「さぁ」
 黙る膝の上に、元通り包みなおしたそれを置き、ジュールはわずかに嘆息した。
「ダンロビンを殺せってこと?」
 皮肉な気持で、あさとは言った。
「生憎ね、この剣は、あなたの主人の頭上に下ろされるかもしれないわよ」
 ジュールは何も言わずに黙っている。
「今日、私はあの男に戴冠するのよ? あの男が黙って頭を垂れたその首に、この剣を叩きこんでやるわ」
 その刹那、ジュールは確かに怒りを目色に現わしていたし、あさともまた、怒りをこめてジュールを見上げた。
「ご随意になさいませ」
 感情を噛み殺したような声で、ジュールは視線を横に逸らした。
「あなた様が、女皇として、あの方の死を望むなら、それもまた致し方ないこと」
「彼の理想の、賛同者になれってこと?」
 あさとは鋭く遮った。「そのために、誰かを騙したり、謀殺したり、そんなことまで理解するなんて、私にはとうてい出来ないわ」
 アデラを暗殺した真犯人が捕縛されたと聞いたのは、昨夜のことだ。
 アデラに付いていた女官の一人が自白した。叱責されたのを恨んでの犯行だったという    その女官は、即日ヴェルツらによって処刑された。嘘だ、と、あさとはすぐに思った。
 おそらく、都合よく用意された「犯人」なのだ。それが、アシュラルの言うところの駆け引きの成果であるならば、吐き気がするほど汚らしい。
「これだけはお忘れにならないでいただきたい」
 厳しい口調で、前を見たままのジュールが口を開いた。
「今もハシェミ公は、ヴェルツ一派に囚われている。アシュラル様は、あなたのお父上を救おうとしているのです」
「………」
 なんのために? と聞こうとしてあさとはやめた。
 何を問っても、どうせあの男に都合のいい返事しか返されないに決まっている。
 アシュラルが、ハシェミを取り戻したい理由は、おそらく同志愛だけではないと、あさとは内心思っている。
 守りたいのは「予言」の秘密だ。
 ハシェミは    終末の書のことを知っている。その詳細まではわからないが、おそらくアシュラルの野心にとって、ひどく重大な秘密を知っているのだ。
 予言書の秘密がヴェルツに漏れる前に、あの男はハシェミを取り戻したいに違いない。
 そうでなければ、 あいつが、お父様を助けようとするはずがない。
 目的のためならどんな非情なことまでしてのける。それが、アシュラルという男なのだ。
     お父様……。 
 あさとは心配でたまらなくなった。
 今夜、自分がダンロビンと結婚すると聞いたら、父はどれだけ悲嘆することだろう。
 この結婚が、純粋に国のための犠牲なのだと、あさとにはどうしても言いきれない。
 結局はアシュラルの立身ために、「クシュリナ」は駒になってしまったのだ……。
 「クシュリナ」が皇位を継承すること。
 そしてダンロビンとクシュリナを結婚させること。
 その二つを条件に、奥洲公ヴェルツ公爵はアシュラルが法王の座に就くことを容認した。
 二十四歳、史上最年少の法王が今夜誕生する。
 午後からの即位式で、あさとは正式にこの国の女王になる。そして、この手で、あの男の額に冠を乗せ、祝福のキスを贈るのだ。
 そして、    夜には、アシュラルの祝福を受けてダンロビンと結婚する。
 
 (    朝起きて、昨日までのことが、全部夢だったらと思うことがある)
 
 その言葉を聞いたのは……いつだったんだろう。確かにあさと自身の過去なのに、まるで夢の中の記憶のようだ。
     小田切さん……。
 眼を閉じて、あさとは心中で呟いた。
     あなたの言うことがやっと判った。人生がこんなに残酷で空しいものだなんて、私、思ってもみなかった。
     失ってから初めてわかる。でも、もう二度とやり直せない……。
 ラッセル。
 ダーラ。
 ユーリ……。
 全ての希望を全て失って、それでも生きていくしかない残酷さ。
     小田切さん、何処にいるの?
 これからの生を、どうやって耐えて、そして何を頼りに生き抜いていけばいいのか、もうあさとには判らなかった。
 その時、突然馬車が止まった。
 
 
               
 
 
 外から男の怒声が聞こえる。
 あさとはひどく嫌な予感がした。行く道中も、同じようなことがあった。それが    あの悪夢の始まりだったから。
「どうした」
 ジュールが、窓から半身を乗り出した。
「いえ、そのあたりの子供が馬の前に飛び出してきたようで」
 困惑した声が聞こえる。事態を知って駆け寄ってきたのか、追走する騎馬の蹄がそれに被さる。
    轢いたのか」
 ジュールは声を高くしてさらに聞いた。
「コシラで起きた騒ぎですので」
「大したことではなさそうです、すぐに、隊列を戻します」複数の返事が返る。
 あさとの耳にも、「小僧、どけ」「邪魔をすると叩き斬るぞ」という乱暴な声が聞えてきた。
「どいて」
 あさとは、ジュールを押しのけるようにして、窓の外に眼を転じた。
 地べたに腰をついて倒れている子供    ひどく薄汚いぼろをまとい、怯えたような眼で頭上の大人たちを見上げている。
「この先に、クロが巣を作ってるだよう」
 泣くような声がした。「クロは赤ん坊を産んだばかりだ、逃げられねえんだ、死んじまうよう」
 痩せた顎、黒く焼けた肌。救いを求めるような視線が、確かに一瞬、あさとと絡んだ。
「……姫様?」
 あさとは立ちあがり、馬車の扉に手をかけた。
「馬鹿な、何をなさるおつもりです!」
「ジュール、進路を変更するように手配して、今すぐよ」
 子供のすがりつくような目。どうしていいか判らないまま、あさとは外に飛び出していた。
 わっと、取り巻く騎馬兵たちが    コシラも、法王軍もだが、同時に色めきたっている。
 皇女が取るべき行動ではないことは自覚している。でも今は、今だけは、自分の道徳感や常識を優先させてもいいような気がした。
 地面は昨夜の雨のせいかひどくぬかるんでいる。左右をリボンでとめた、たっぷりとしたスカートに泥がみるみる沁みていく。騎馬の騎士たちは    多分、背後のジュールもだが、呆然とそんな皇女を見下ろしている。
「大丈夫? 怪我をしたの?」
 あさとは自分を見上げる子供の傍に駆け寄った。見たところ七つか八つ程度、蓬髪で判断に苦しむが、どうやら男の子のようだった。
 黒ずんだ肌に、つぎはぎだらけの服。色が黒いのは日焼けなどではなく、垢なのだろう。全身から強烈な異臭を放っている。
 子供は    何か、信じられないものを見るような眼で、呆然とあさとを見上げている。黒目勝ちの大きな瞳がくるくると小気味よく動いている。
 あぜ道だった。道は馬車一台がやっと通れる程度の広さで、左右にはぬかるんだ水田のようなものが広がっている。その水田に、半ば半身をひたすようにして、少年と似たようなみずぼらしい姿の男女が、頭を汚泥にすりつけている。
 親だろうか、どうして助けもしないんだろうか。不審に思いながら、あさとは少年に呼びかけた。
「平気? 立てる……? ちょっと立って見ようか、そう」
 足が、奇妙な形にねじくれている。
 眉をひそめたあさとは、少年の脇に手を差し込んで立たせようとした。不思議だった。その一瞬、クシュリナの呪縛が解けて、自我が完全に「瀬名あさと」のものになっている。
     軽い。
 抱き上げてみてどきっとしていた。
 これくらいの男の子って、こんなに軽いものだったっけ。
 少年は、ひどく顔を歪めて嫌がった。
「痛い、痛いよ」
「あ、ゴメン」
     脚、折れてるのかも。
 左の足首が不自然に曲がっている。まるで力が入っていないのがはっきりと判る。それでも泣きもしないこの子供の反応が、あさとには信じられなかった。
「何か、棒のようなものは」
 いきなり隣で声がした。あさとの傍らで腰を落としているのは、いつのまに馬車を降りて来たのか、ジュールだった。
 慌てて法王軍の一人が枝を折って駆け付ける。ジュールは慣れた手つきで、それを添え木にし、少年の脚に巻きつけた。
 多分、自分の首から外したボゥで。
「このまま動かすなよ。いいか、坊主、すぐに医術師に診てもらえ」
 少年はきょとん、としている。
 自分の身に何がおきたのか、何をされたのか、よく判っていないような目をしている。
「おれのことはいいんだ」
 あっけらかんとした口調で少年は言った。
「それよか、クロを助けてくれよ、ねーちゃんとおじさん。クロは子供を産んだばかりなんだ」
「御許しください、御許しください」
 初めて、土下座している男女から声が聞こえた。
「シリュウは少し頭がよええんでございます。どうか、命ばかりはお見逃しください」
 嘆息したジュールは、彼らに手を振って呼び寄せた。
「足首を痛めているようだ。すぐに医術師のところへ行け。金がなければ、少し距離はあるが、皇立の療養院に行ってみろ、場合によっては無料で手当てしてもらえる」
 へえ、へえ、と、農夫姿の男女は抵頭し、額を地面にこすりつけんばかりにして礼を繰り返している。
 ジュールはさっさと子供を抱き上げ、足を庇うようにして母親に手渡した。
「クロってのは、なんだ」
 表情は相変わらず鉄のようだが、声はどこか優しかった。
「クロウサギでごぜえます。この先に……巣を作っていやがるんで」
 へどもどしながら、父親が答える。
「悪いが行軍は引き戻せない。まだ無事なら、すぐにそいつを別の場所に移してやれ」
「へぇっ」
 農夫は飛ぶようにして駆けて行く。
     すごい、ジュール……。
 あさとは少し吃驚していた。処置は素早く的確で、包帯の巻き方も手馴れていて綺麗だった。
「ジュールって……お医、医術師さんなの?」
 思わずそう聞いていた。一瞬小田切の顔が脳裏をよぎったが    まさか、とすぐに打ち消した。医術師なら、この世界にもごまんといる。
 ジュールは横目であさとを見た。ひどく冷たい目の色だった。
     ……何?
 何か、悪いことでも聞いたのだろうか。
「医術の心得なら、ディアス様に習いましたから」
 そっけない返事が返される。
「俺、医術師なんかに診てもらえないよ」
 母親に抱かれた少年が、ふいに言った。
「しッ、シリュウ」
 母親が驚愕の態で、子供の口塞ごうとする。
「金がないんだ、療養院は遠いし、いつも兵隊さんでいっぱいだ。それに今は根付けの最中だよ、おとうもおかあも忙しいんだ、どうしろっていうんだよ」
「黙りなさい! 何を言うとるんかね」
 血相を変えた母親が、泣きそうな目で少年の頬を叩いた。
 そのまま、泥だらけの地べたにはいつくばって、母親は何度も頭を下げた。黒ずんで汚れた服、日焼けして節くれだった腕。 
「僕、……いくつ?」
 あさとは、少年に向き合って聞いた。むしょうに切ない気持ちだった。
「おれ、ボクじゃないよ、シリュウって言うんだ。十二だよ」
 シリュウは、真っ黒な顔をあげて、自慢気に言った。
「そう、なんだ」
 胸が詰まって、言葉を失っていた。十二歳には到底見えない。発育が極端に遅れているとしか   
 何が出来るだろう。あさとは咄嗟に考えた。何が    今の私に、何が。
「これ、あげるから」
 目に入ったのは自分の指に輝く、乳白色の指輪だった。
 考えるより先に、指にはめていたそれを引き抜いていた。ダンロビンからの贈り物のひとつで、もともと身につけるのも忌々しい代物だった。
 支度を手伝った法王庁の侍女が溜息をもらしていたが、装飾品に疎い「クシュリナ」には、どんな価値があるのか、いまひとつ判らない。
「これで、近くの術師に見てもらってね。足りるのかどうか判らないけど……このままだと、折れたまま骨が固まって、上手く歩けなくなるかもしれないから」
「うわぁっ、きれーだ、きれーだ、きれーな石っころだ」
 シリュウは、石を空にかざして嬉しそうな歓声をあげた。
「ありがと、ねーちゃん!」
 シリュウは笑った。くるくると瞳が動く。澄みきった目をしていた。それは出会った時のラッセルを思い出させた。そして……青州で共に過ごした幼馴染の笑顔も。
 あさとは    自分の胸の奥で、何かがしゅっと縮んでいくのを感じた。
 笑顔のままで、シリュウは言った。
「ねーちゃんって、花嫁さん?」
「え……?」
「とっても、とってもキレイだねぇ」
 つられるようにあさとは笑った。
 笑いながら、涙が零れそうになっていた。
 
 
               
 
 
「私は、ああいうことは好きではありません」
 シリュウが去った後、あさとをぬかるみの中から引き起こしながら、ジュールは眉を顰めてそう言った。
 美しい長い黒髪が風になぶられ踊っている。
 何を    怒っているんだろう?
 あさとには男の不機嫌の理由がわからなかった。
「貧しき者に戯れに手を差し伸べ、ご自分の虚栄心を満足させるおつもりなら、そういうことは以後、やめていただきたい」
 戸惑うあさとを見下ろし、厳しい眼をした男はそう言い放つ。
     ……え?
 言葉の意味よりもまず、その言われように吃驚した。    何を、言ってるの?この人。
 虚栄心を満足させる? どういう発想をしたら、そんな結論に行きつくのだろうか。
「戯れも何も、こっちが怪我させたんだから」
 困惑しながら反論してみる。ジュールはますます不機嫌をあらわにして顔を背けた。
「あの子供一人を救ったところで、この地方の貧困は一向に改善されません。恵むことは簡単です。けれど、恵まれれば、それにいつか心が慣れて、麻痺してしまう」
 感情を殺しているのだろう、普段冷静な男の横顔が引きつっている。
「憐れみで彼らに施しをなさるならお止め下さい、彼らには彼らの世界があるのです」
「あの……、でも」
「金銭なら私の方でなんとでも出来ました。あなたが……指輪などこれ見よがしに渡されることはない」
 あさとはさすがにむっとしていた。
 自分がそんな    特別なことをしたとでもいうのだろうか。
「よく判らないけど、こっちがあの子を怪我させたわけだから。私……、憐れみとか施しとか、そんなつもりじゃないし」
「………」
「こっちが悪いんだから……そんなに深く考えなくてもいいじゃない」
 何か言いかける素振りを見せて、そのままジュールは口をつぐんだ。
「参りましょう。お時間が迫っております」
 ジュールは背を向けて歩き出し、それから金波宮につくまで、ずっと無言のままだった。
 
 
 
 
 

BACK    NEXT    TOP
Copyright2009- Rui Ishida all rights reserved.