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丘の上に、柔らかな日差しが満ちていた。
あさとは、摘んできた白い花を、三つに分けてその墓石の前に置いた。
「クシュリナ様」
ジュールの声がする。
これで、二回目の声。もう 行かないと。
「さよなら……」
あさとは立ちあがった。
泣けるだけ泣いた涙はあの夜に枯れてしまったのかもしれない。最後のこの瞬間にも、まるで乾いてひび割れたように、涙は一雫も出てはこなかった。
「ダーラ、ラッセル、……それから、産ませてあげられなかった二人の子供」
さよなら。
あさとはもう一度口に出して呟いた。
「クシュリナ様」
駆けて来る足音が近くなる。あさとは、ゆっくりと振り返った。
「お早く、ヴェルツ公爵様の馬車がお待ちでございます」
ジュールが、静かに膝をついている。
あさとは頷き、馬車の待つ方へ向って歩き出した。
第三章 クインティリスの獅子
1
「お姉様、お早く」
すでに身支度を終えたサランナは、ヴェルツ家の紋章、黒獅子の入った馬車の前で手を振っていた。
パールで縁取ったハート型のヘッドドレス、淡いクリーム色のシルクのボディスが、妹の豊かな胸を際立たせている。
「お姉様、本当にお綺麗……」
サランナは近寄ってきたあさとを見つめてそう言ったが、本当に綺麗なのは、自分ではなくサランナの方だとあさとは思った。
妹はここ数日、恋の輝きのためか潤うように美しくなっている。
「クシュリナ様が乗られる馬車には、私が同行いたしますので」
険しい口調でそう言って、コシラ騎士の間に割って入ったのは、あさとの背後からついてきたジュールである。
ヴェルツが遣した迎えの馬車。その、それぞれに、クシュリナとサランナは別れて乗ることになっていた。
詳しい事情は知らされてはいないが、アシュラル率いる法王軍がその後を追走し、金波宮まで同行する取り決めになっているらしい。
法王軍の追走 その名目は皇女姉妹の護衛だが、要はアシュラルがヴェルツを少しも信用していないということなのだろう。
バスティーユ城の前には、ヴェルツ家の私兵コシラとアシュラル率いる法王軍が、互いにけん制するような隊列でにらみ合いを続けている。
法王旗をつけた騎馬の群れ、その中で一際見事な黒馬が、朝の陽射しをあざやかに鬣で弾かせていた。
アシュラル……。
彼は、ひしめく騎士たちの先頭に陣取り、黒斗の背に肩を寄せるようにして立っていた。
稀代の名馬よりもさらに濃い闇色の髪と、焔をはらんだ漆黒の瞳を持つ男。
キルトの襟とカフスをつけた裾広がりのダブルのコート。長い足を包む革靴。姿勢の良い長身の立ち姿は、くやしいほど優雅でさまになっていた。実際、アシュラルは数年前の彼より数段凛々しく、そして美しくなっている。
「アシュラル」
華やいだ声をあげ、桃色の裾を翻して彼に駆け寄っていったのはサランナだった。
何かを思索していたのか、顔を上げたアシュラルの眼に、わずかな戸惑いが透けて見える。
あさとは少し意外な気持になった。
サランナはアシュラルの腰に手を回して抱きしめると、愛しげに顔を上げて恋人を見つめた。
「おめでとう、いよいよ今日から、あなたが法王様ね」
「人前だ、よせ」
アシュラルの制止も聞かず、サランナはその口元に軽くキスをした。
こいつでも、こんな顔するんだ。
あさとは冷たい気持を抱いたまま、見つめ合う二人から視線を逸らした。
こんな場面が以前もあった。数年前、金波宮で行われた舞踏会でのことだ。アシュラルにふいに抱きついた幼い妹。そして、初めて戸惑いの目を見せたアシュラル。
驚いたような、羞恥したような、 さしもの冷血漢も、サランナには形無しということなのだろうか。
何故かむしょうに腹立たしい、形容できない気分である。
「クシュリナ」
その時いきなり、耳の後ろから声が掛けられた。あさとは 今度は本当に吃驚した。振り返るとすぐ間近に、先ほどまで妹を見つめていたはずの眼差しがある。
「何、よ」
「何をそんなに怖い顔をしている」
綺麗な眉をわずかにしかめ、アシュラルはそっと口元を近づけた。驚いて咄嗟に背を逸らしていた。
「な、何よ」
「 お前とは密談もできないのか」
その唇から、あきれたような嘆息が漏れる。
密談……?
あさとは戸惑いながら、横目で妹の所在を確認した。サランナは ジュールら法王軍に囲まれたまま、悠然と立って、出立の時を待っている。
そのサランナの眼が、一瞬ちら、とあさとを見やる。
「いいか、少しでも早く、ダンロビンからハシェミ公の居所を聞き出せ」
アシュラルの声で、あさとははっと我にかえった。
「え?」
「一秒でも早く、だ。せいぜいダンロビンの機嫌を取って、いい妻を演じてみせろ」
「……どういう、意味?」
それはひどい侮辱に聞えた。
まるで 自分の身体を使って、ダンロビンをろう絡しろとでも言われているようだ。
「今夜、お前はダンロビンと結婚するんだぞ」
「わかってるわよ」
「それでお前は、永遠に奴の妻でいるつもりなのか」
アシュラルの声があきれている。
「さっさとあの腰抜けを利用できるだけ利用しろ。用が済んだら俺が離婚させてやる、そう言っているんだ」
あさとは、自分の頬に燃え立つように血が昇るのを感じた。
「 汚いことを言わないで」
迸った声が、震えている。
「結婚は、そんな汚い取引のための道具じゃないわ、 みんながあなたみたいに、卑怯な真似が平気で出来るとは思わないで!」
ジュールが振り返る気配がする。多分、サランナも聞き耳を立てている。
「言っておくけど、あなたよりダンロビンの方が何倍もましだから」
声を殺しながらあさとはそう言い、見上げるほど長身の男を睨みつけた。
「私は国の平穏のために結婚するのよ、あなたの野心のためなんかじゃないわ」
何か言いたげに微かに唇を動かして、アシュラルは苛立ったように眼を逸らした。
「ああ、そうか、それは悪かった、じゃあ、好きにするさ」
「するわよ、いちいち言われなくても」
「いちいち むかつく女だ」
男は怒りも露にさっさと背を向ける。そして、今にも走り出しそうな愛馬の傍に歩みを進めた。
あさともきびすを返していた。
2
「懐かしいわ、ようやく金羽宮に戻れるのね、私たち」
クシュリナが近づくと、サランナは楽しそうに口を開いた。
法王軍が、念入りに馬車を点検し、ジュールは行軍の予定をコシラ軍の代表らと詰めている。出発の時は迫っていた。
「たった半月余りだったけれど、こういう暮らしも悪くはなかったわよね、お姉様」
「………」
あさとには何と答えて言いかわからなかった。まだ、さきほどアシュラルと交わした会話の余韻で、心がささくれだっている。
「お姉さま?」
「え、ああ、そうね」
曖昧にうなずきながら、ただ、この妹だけでも愛する人と添い遂げられる幸運を喜ぼうと、そう自分に言い聞かせる。
皇室に生まれた者としての悲劇は、自分ひとりが受け止めれば十分だ。
「今日のアシュラル、本当に素敵だったと思わない?」
あさとの杞憂など一顧だにせず、サランナはうきうきと晴れ渡る空を仰ぎ見た。幸福だと、他人の痛みは感じられなくなるのかもしれない。
「今日、彼は正式に法王に就任するのよね。お姉様が女皇に即位されて、彼に戴冠なさるんでしょう? その場面だけでも私がお姉様に代わりたいくらいよ」
「そうは言うけれど」
あさとはふと、妹の喜びに水を注してやりたくなった。
「……あの人が法王になれば、在任中は結婚できないのよ。サランナはそれでもいいの?」
すでに妻帯しているならともかく、法王は在職中「結婚」という形で妻帯することはできないらしい。あさともそれは初めて知った。
コンスタンティノ大僧正も独身だった。だからアシュラルという養子を迎えたのだろう。
「結婚は無理でも一緒に暮らせるもの。子供だって作れるわ、私、立場がなんであろうと構わないの」
サランナは無邪気だった。
アシュラルのことは千語万語を尽くして語るこの妹が、一言も父の安否を気遣うことがないのが、不思議だった。ハシェミのことだけではない、金波宮で、あれほど案じていた ユーリのことも、だ。
「……お姉様」
不意に、その妹が声をひそませた。何かトラブルでもあったのか。ジュールが声を荒げて隊列の先頭に向かったその時だった。
「ユーリ様の件、お聞きになっているかしら」
「……え?」
心を読まれたような薄気味悪さを感じながら、驚いてあさとは顔を上げている。
「あの方が犯された罪……金波宮を一人で出て行かれたのはご存知よね」
「グレシャム様のことなら、知っているわ。でもあれは、ユーリの仕業なんかじゃないわ」
妹は、ゆっくりと首を横に振った。そんなことではない、と、気の毒なものでも見るような目が訴えている。
「何があったの?」
暗い予感がした。ユーリが無事に皇都を脱出するなど、そもそも奇蹟のような可能性だと、内心思っていたからだ。
「ご存知でないなら、驚かないでお聞きになられて」
サランナはますます声をひそめた。
「……もう青州では、お葬式も済んでいるのよ」
全身から、血の気が引いて行くのがわかった。
「どういう、こと?」
「ユーリ様は……ご逃亡されたのよ。お姉様もご存知の罪だわ。私も、もちろん信じられはしなかったけれど……でも、ご逃亡なさる際、ユーリ様は、……沢山のパシクを、その手にかけていかれたのだそうよ」
「………」
ユーリの背後で蠢いていた暗い影 あさとは、眩暈を感じ、拳を握りしめた。
「ユーリじゃないわ」
祈るような声が出た。「ユーリに、そんな真似は絶対にできないわ!」
「もちろん、私も、お姉様と考えは同じだわ」
言葉とは裏腹に、サランナは、憐れむような眼差しであさとを見上げた。
「ただ、そうやって逃げたユーリ様を、ジュールたちが放っておくはずがないと思わない? 皇都中の関所にバートル隊がはりつき、三日間、徹底的にユーリ様の居所を探したのだそうよ」
「ユーリは」
思わず、妹の腕を握りしめている。「じゃあ、もう、捕まってしまったのね」
わずかに黙り、サランナは憂いを秘めた目を伏せた。
「……私が、知っているのは、藍河でジュールたちに追い詰められて……」
「………」
「ご自害なさったと……いう話だけよ。……遺体は青州に送られ、内々に荼毘に附されたそうよ」
そんな 。
「お姉様、しっかりなさって」
よろめいた背を、サランナに支えられる。
「そうするしかなかったのよ。ユーリ様が生きていらしても、その潔白を証明なさるのは不可能だったわ。青州に、ダーシー様がお戻りなったのは、ご存知でいらして?」
ダーシーが。
殺されたグレシャムの弟、鷹宮ダーシー。
兄によってゼウスに追放され、そのゼウスには、ヴェルツ家が放った討伐隊が向かったという話だった。そうだ、グレシャムの死は、表向きダーシーが計画し、ユーリが実行したことになっていたのではなかったか。
「ユーリ様は、自らのお命を絶つことで、ダーシー様を御救いになられたの。ダーシー様は、アシュラルの庇護のもと、無事に家督を継承されたそうよ」
その意味が……ようやく、あさとの胸に落ちてきた。
つまり、ユーリは、全ての罪をその身ひとつに負わされ、殺されたのだ。自害とはいえ、追い詰められたのだから、殺されたも同然だ。
それも……もしかして、アシュラルが企んだことなのだろうか。青州は蒙真への砦となる大切な拠点だ。その要所を、アシュラルもヴェルツもまた、我が物にしようと狙っていたに違いない。
「そんな大切な話を、お姉様に伝えていないなんて……」
サランナは、独り言のように呟いた。
「ジュールはどういうつもりなのかしら。自分を信用させるために、都合の悪い話は隠しているのかもしれないわね」
「………」
ユーリが、死んだ。
嘘だと思いたかった。いや、実際、全てが伝聞なのだから、生きている可能性はある。が……それが、一粒の砂程度の可能性であることもまた、確かだった。
ユーリが……死んだ。
「出発いたししましょう」
事務的な声と共に、ジュールが、戻ってきた。
「申し訳ございません。行路について、わが軍とコシラ軍に、多少の行き違いがあったようで」
あさとは黙って視線を伏せた。
その刹那、自分がどんな目でジュールを見たか、ジュールの訝しむ目を見る必要さえなかった。
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