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4
夜明けの空に、月の輪郭が溶け出している。
大丈夫……。
疾走する馬上で、あさとは小さく溜息をついた。
想像以上に、森の中は暗かった。けれど月が出ている限り「忌獣」は決して現れない。今夜は、安全な夜のはずだった。
忌獣……か。
瀬名あさととして冷静に考えてみれば、それは奇妙な話だった。「忌獣」とは そもそも、どういう存在なのだろう。
むろん、あさとのいた世界に、実在する獣ではない。
生き物じゃない……あれは、もう、魔物だった。
一度襲われた時の、禍々しい記憶が蘇る。
金波宮の中心に現れ、そして忽然と消えた。それはまるで、闇から出でた魔が、再び闇に還っていくような不気味さだった。
あれだけ巨大な……質量があった獣が、目が覚めた時には、影も形もなくなっていた。亡骸を運ぶにしてもすぐに始末できる大きさではなかったし、そもそも、人が剣で退治できるような相手ではなかったはずだ。
あれは動物とは違う。間違いなく、生態系上の生物とは異なるものだ。
闇から現れ、闇に還る。月光をおそれ、死ぬと泥状になって塵と消える。
今にして、理解できた事実がある。
ずっと夢だと思っていた現実の世界で、「須藤悠里」を殺したのは、おそらく「忌獣」だったのだ。「レオナ」が言っていたのはそのことだったのだ。
あさとがこの世界に来てしまったきっかけとなるものが それが何かはまだよくわからないけれど、きっとあの刹那、悠里の身にも起きてしまったのだ。
それは、多分……。
雅が……。
苦く重い感情を振り切るようにして、あさとはさらに馬のスピードを速めた。
深い木々の間を抜けると、ようやくカタリナ修道院のシルエットが視界に飛び込んでくる。
と、突然、ものすごい勢いで疾走する馬車が前方の薄闇から現れた。
あさとは咄嗟に手綱を引いて馬を止めると、素早く木陰に身を隠した。そのすぐ脇を、二頭立ての馬車が猛然と通りすぎていく。
何……?
静けさを取り戻した道の向こうに、カタリナ修道院の門扉が見えた。
こんな時間なのに、門に煌々と灯りが点っている。開け放たれた門扉の前に、二騎の騎馬の姿があった。乗馬しているのは、黒地に白十字、法王軍の隊服を身にまとった若そうな男たちだ。
歩みを進めたあさとの馬の蹄に気がついていたのだろう。けげんそうな面持ちで、こちらを見つめている。
身を隠すべきか、とも思ったが、いまさら隠れても仕方がない。それに、見つかることは少しも恐ろしくはなかった。 ラッセルに、一目会えさえすれば。
ケープを目深に被り直し、あさとは灯の下に馬を進めた。
「何者だ!」誰かが鋭くけん制した。あさとは落ち着いた態で顔を上げる。
「バスティーユから、参りました」
「バスティーユだと?」
「待て」
男の一人が、いきり立つ皆を鎮めるように一声叫び、驚いたように馬から飛び降りる。
あさとは、その人を見て緊張を解いていた。先日ディアスに付き従っていたセルジエという青年である。
「何か、あったのですか」
あさとは馬上のまま、聞いた。
さすがに戸惑った顔でセルジエは馬上の人を見上げ、それでも自身の動揺を背後のものに知られぬよう、落ち着いた態度で手綱を取る。
「この女はジュール様の使いだ。怪しい者ではない」
「セルジエ、しかし」
「すぐに合流する。急いで探してくれ」
困惑したように頷きあい、その場に屯していた騎馬が一斉に走り出す。
何が……あったのだろう。
あさとは、不安にかられながら、馬を降りた。すぐにセルジエが手を貸してくれる。
「何故、このような時間にお一人で」
声は冷静だが、さすがにその目は、困惑している。
「ジュールは知らないわ……でも、逃げるつもりで来たわけじゃないのよ」
あさとは急いで言い訳した。
「ラッセルに会いたいの」
「………」
「彼に会わせて……。少しでいいの。向こうで騒ぎになる前には帰ります。絶対に迷惑はかけないと約束するわ」
「ラッセル様に、ですか」
迷うように言葉を切り、しばらく沈黙していたセルジエは、やがて申し訳なさそうに口を開いた。
「ラッセル様は……もう、こちらにはおられません」
「え?」
「今、皆が行方を探しております……。ラッセル様は、昨夜、ご自身でここを出て行かれたのです」
どういうこと……? それは、どういう意味だろう。
「……昨夕、急に容態が悪くなられて」
男はうつむく。そして耐えかねた様に低い声で呟いた。
「もう、朝までもたないだろうと、ディアス様が。……そのような状態でございました」
………。
足元が揺れた。自分が耳にしている言葉が、まるで意味のない単語に聞こえた。
「つい数刻前、薬を煎じたカヤノ様が様子を見に行かれた折に、お姿が見えないことが判りました。手紙などの身の回りの持ち物は全て焼き捨てられ、……愛馬と共に、夜陰に紛れて出て行かれたようなのでございます」
「………」
「カヤノ様は、急ぎバスティーユに向われました。ジュール様もすでにご一報を受けておられることでしょう。我々も今から、周辺を探してみるつもりです」
死を……。
眩暈をこらえ、あさとは傍らの馬にすがった。
すでに彼は、死を覚悟しているのだろうか。
「……もう、彼に、……望みはないの?」
自分の声が震えている。
「ディアス様は難しいと……傷から悪い菌が入り、体を内から蝕んでいるのだろうと……」
「ラッセルは、それを」
「我々はみな、医術をひととおり学んでおります」
沈痛な声だった。「……当然、ご承知であったと存じます」
あさとは目を閉じ、唇を噛みしめた。
ラッセルが覚悟を決めて、出奔したことを、今、はっきりと理解した。
彼は死に場所を求めている。生きるためでなく、安らかに一人逝くために。
どこだろう、最後に、彼が行きたいところ。バスティーユなどではない、私の所に彼が来るはずがない。そうだ 。
「クシュリナ様?」
あさとは馬に飛び乗った。セルジエが慌てて手を伸ばす。
「お待ちを!」
ラッセルは、あえて愛馬を走らせたのだ。
自身を、馬で逃げたと思わせるために。
場所は、先日、ジュールから聞いて知っていた。
この修道院の裏手の丘に ダーラが眠る墓石がある。
5
目的の場所にたどり着くと、あさとは手綱を引いて、馬上から飛び降りた。
周囲を見まわす。朝の柔らかな日差しが、いくつも並んだ墓石の影をやさしく地面に落としていた。
規則正しく並んだ石影は、どれも膝までの高さしかない。見回しても、それ以外の影は何処にもないように見えた。
肩から力が抜けていく。あさとは大きく嘆息した。
違った……。
ここだと思った。間違いないと思ったのに。それは、一人勝手な思い込みだったのだろうか。
どこなの、ラッセル。
一人で、何処に行こうとしているの?
気ばかりが急く。あさとは再び馬に飛び乗ろうとした。その時だった。
あっ……。
ようやく、わずかに膨らんだ募影に気づく。転ぶように墓石の中に飛び込み、ひとつだけ不自然な曲線を描くその前に駆け寄った。
「ラッセル……」
あさとは呟いた。
彼は、ひとつの墓標に背を預け、寄り添ったまま、静かに眼を閉じていた。
考えるまでもなかった。それがダーラと そして、彼らの子供の墓石だった。
動かないラッセルは、まるで眠っているようにも見えた。
青白い頬に、零れ落ちた髪が一房、撫でるほどの風に揺れている。長い睫が影を落とし、静謐が彼を包んでいた。
その空間に あさとは近寄ることも、触れることもできなかった。
それは、彼の神聖な場所を冒すような気がした。
ただ、膝をついて溢れる涙を両手で覆った。ラッセル ラッセル、ラッセル。
「…クシュリナ……様ですか」
はっとして顔を上げる。風が運んできたような声だった。
彼は、まだ息をしていた。薄く眼を開き、ゆっくりと視線を向けようとしてくれている。
「ラッセル……」
あさとはその名を呼び、初めて急きあげる激情に負けて、嗚咽した。子供の頃から今までの 彼と過ごした思い出の全てが、いちどきに胸に蘇った。
初めて騎士見習として出会った時。彼のまっすぐな澄んだ眼差し。優しい笑み。物静かで、必要なこと以外口にしなくて それでも、傍にいてくれるだけで安心できた。
発作が起きた時、抱き締めてくれる暖かな腕と胸。いつでも傍にいてくれて、どんな時でも守ってくれた。
好きだった。大好きだった。たとえ彼が他の誰かのものになっても、この純粋な愛情は決して色褪せるものではない。
「……お泣きになって、おられるのですか」
「………」
「そのように、悲しまれる必要はございません、私は……」
「ラッセル」
あさとは叫びかけた口元を抑え、うつむいた。
涙が、後から後から頬を伝い、それでも止まらなかった。
ごめんなさい、ごめんなさい どれだけ繰り返しても、心は収まらない。でも、その謝罪さえも きっと、今の彼は拒んでいる。それが判っているから何も言えない。
ラッセルの様子は、昨日見たそのままだった。やせて、蝋のように透き通った肌、生気を失くし、今は静寂に包まれた眼差し。
はだけた胸から、すこし緩んだ包帯が見える。
「……私は、今、とても幸福な気持ちなのです。……これで、彼女のところへ帰ることができるのですから……」
かすれた声は、それでもひどく穏やかだった。
「夫婦でいられたのは、ごくわずかでございました。けれど、その数日で、私たちは本当の至福を知ることができた。……いつか、姫さまにもお判りになる。愛するということの真実と、そして」
「………」
「それを失うことの怖さ……けれど、それでも」
辛い……。
「私たちは幸せでした。きっとダーラも、悔いてはおりません。彼女の人生は幸せだったと、私がはっきり言えるのですから」
「………」
苦しい、苦しくて 息ができない。
こうやって、最後まで彼は私を許し、慰めたまま、天へ召されようとしているのだ。
本当の気持を伝えられないまま、何も分かり合えないまま、このまま彼は永久に私の傍から去ってしまう。 。
「本当は……、先日、あなたに会うために、バスティーユへ行くつもりでした」
え……。
あさとは思わず顔を上げた。
視線があうと、わずかにうつむき、ラッセルは目を伏せた。
「ずっと、後悔していました。……一瞬でも、あなた様をお守りできなかったことを」
「………」
「傷つけてしまったことを……死ぬほど悔いておりました」
ゆっくりと開かれる優しい眼。慈しみと情愛のこもった眼差し。どうして今、死に際になって、そんな目で私を見ることができるのだろうか。
「私のこと……」
どうして怒らないの? どうして、そんな顔ができるの?
「怒ってないの……?」
何故?
ラッセルの瞳が、そう問っている。あさとはこみ上げる慟哭をぐっと堪えた。
「私が……馬鹿なことをしたから、だからダーラは死んだのよ。私が最初から、あなたの言うとおりにしていれば」
「クシュリナ様は私を助けようとなされた。姫様のお口添えがなければ、私はあの場で命を落としていたでしょう」
「でも、」
あさとは溜まらず拳を握った。 でも、あなたのダーラと子供は見捨てたわ!
言いかけて 口をつぐんだ。言葉が……それ以上出てこない。
「でも……」
自分の声が震えている。それを認めて、口にして、ラッセルの目が、再び自分をあの夜のように見たら ?
「クシュリナ様……?」
怖い。
自分でそれを口にしてしまうのが怖い。
馬鹿な私、謝りたくて来たはずなのに、これが最期の別れになるかもしれないのに。こんなに恐れて 怖くて……後悔している。
「どうして、そのようなお顔をなさるのです」
ラッルは抑えた口調で言った。静かな眼差しに、深い悲しみが抱かれている。
琥珀?
あさとは、はっとして目を見開いた。
一瞬確かに、その面差しに琥珀の面影が重なって見えた。
錯覚 ? でも、まさか。
間近でラッセルを見れば見るほど、琥珀の印象とはほど遠いような気がするのに。
「私が……あなたを、苦しめているのでしょうか」
寂しげに背けられる横顔。
今、死に際した彼を苦しめているのが、他ならぬ自分であることを、あさとは知った。
「……そうじゃないの 」
困らせたくて来たのではない。謝りたいのに、ただ、それだけなのに。
あの夜のように、例えそれが憎しみであっても、もう一度生の感情をぶつけて、言いたいこと全てを吐き出してほしいのに。なのに 怖くて、何も言い出せないなんて。
「私のこと……」
あさとは、自分の顔を両手で覆った。新しい涙が指の隙間から溢れ出た。
怒って、恨んで、……絶対に許さないって言って。
言葉にならない。喉の奥で嗚咽が漏れる。
ラッセルは黙っている。
でないと私、……どうやってダーラに償っていいか、わからない……。
「……クシュリナ様」
肩に優しい手がそっと置かれた。掌は冷たく、指先は硬く強張っていた。
「よい女皇に、おなりなさいませ」
「………」
「民を……あなたの民を、まず見てください。この世界には表裏がある。……見難いものからも、決して逃げずに、目を逸らさずに……高貴なるものの義務を、お果たしください」
あさとは顔をあげることができなかった。
ラッセル、ラッセル……。
涙で彼の顔が滲んでいる。
「それがダーラの、そして私の願いなのですから」
静かだった呼吸が、わずかに乱れ始めている。それでもラッセルは言葉を繋ぐことを止めようとはしなかった。
「クシュリナ様、ひとつ、申し上げたいことがございます」
わずかに顔をあげたラッセルの眉が、険しく歪んだ。それがこみ上げた苦痛からくるものだと、すぐに判った。
「あなたに……どうしてもお話しなければならないことが」
「もう、喋らないで」
あさとは焦燥に駆られ、冷えたラッセルの手を握りしめる。多分「その時」は、もう間近に迫っている。が、ラッセルは微笑して首を横に振り、不思議に静かな眼差しであさとを見下ろした。
「忌獣に……襲われた時のことを、ご記憶ですか」
「………」
「あの夜、あなたを救ったのは、私ではございません」
「え……?」
ラッセルの目が、穏やかに見下ろしている。
視線が合うと、ラッセルは静かに微笑した。いつもの 彼の、澄みきった眼差しだった。
「……私の身体に刻まれたこの傷と同じものが、ある方の背中にも刻まれています」
…何の……こと?
「その方も、命がけであなた様をお守りになられた。いつか、その方の背中を見られたとき、きっと、あなたにもお判りになる」
「どういう、意味?」
「これから先、あなたを守るべき男は、私ではないということです」
「ラッセル……?」
「私が……手を離した時から」
言葉が途切れた。
夜明けの光が、ようやく丘の上を眩しく照らし出した。
朝日に見える彼の顔は、すでに目を開けてはいなかった。肌は透き通り、白蝋のように蒼ざめていた。
「……ラッセル?」
反応がない。
嫌 。
「ラッセル、ラッセル、目を覚まして」
あさとは夢中で、彼の身体を抱きしめた。
緩やかに腕が落ちる。力を無くした肩が、重くのしかかる。
「死なないで、ラッセル、死なないで、お願いだから死なないで」
それを無理に引き起こして肩を揺さぶった。反応のない手を握る。涙が溢れた。後悔で胸が詰まった。
「私を一人にしないで……」
本当に……?
クシュリナは呟いた。
本当に。
ラッセルは、わずかな微笑を浮かべて頷いた。
一生よ、私が、死ぬまで、
私が、先に死ぬことにならなければ。
「一人にしないで、ラッセル!」
どこかから、蹄の音が近づいている。
私、まだ、まだあなたに、何も言っていない……!
蹄の音が背で止まる。あさとはただ慟哭していた。
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